手紙
サイドテーブルに、メモが置いてあるのが見えた。
その上には、一つの貝が置かれている。
それはただそれだけの、いつも通りの光景なのに、なぜだかひどく私の目に残っていた。
「......よろしいんですか? お嬢様」
「これがいいんだ」
ロッキングチェアに座る彼女は、お腹の上で手を組み、穏やかに呟いた。
彼女はまだ二十歳もそこそこだと言うのに、何か感覚が一つ異なるような、妙に落ち着いた空気を纏っている。
それが、彼女という存在の現実感の無さを、強く助長していた。
「窓のことではありませんよ」
私は彼女に向き直した。
「ん? ああ......手紙のほうか」
「宜しければ、私が代読致しますが」
「いや、いいよ。どうせ同じことしか書いていないさ」
「かしこまりました」
私は一礼し、持ってきていた箒で床を掃き始めた。
初夏の昼下がり。
スクリーンのように並ぶ大きな窓から、輪郭の曖昧な日が差し込んでいる。
一つだけ開けられている端の窓からは、心地良いそよ風が吹いていた。
先ほど彼女が“これがいい”と言っていたのは、このことだろう。
彼女は、天気の良い日はたまにこうして窓を開け、静かに風を感じている。
そのときの彼女は、いつも決まってロッキングチェアに腰掛けていた。
木々が擦れる音のさざ波が、私達とこの部屋を埋めている。
その空間の心地良さに、私は思わず掃除の手を止め、窓の外を見た。
風に抱かれる木々の緑と、空に舞い落ちる木の葉の澱が、初夏の庭にひどく美しく輝いていた。
「お嬢様──」
私は、つい彼女に声をかけてしまった。
「なんだい?」
すぐに思い直して口を噤んだが、遅かった。
「いえ......お庭が、綺麗でしたので」
諦めて私がことを伝えると、彼女は少しだけ笑った。
「そうか。それは良いね」
彼女は一言、そう応えた。
私は息を呑んで待っていたが、それきり彼女は何も言わなかった。
黙ったままの私に耐えかねたのか、彼女は静かに口を開いた。
「......そう怯えなくともいい」
「しかし......」
「いいんだ」
彼女は、そっと呟いた。
「──私の分まで、君が見ていてくれればいい」
そう言う彼女の表情は、ひどく穏やかなままだった。
「......はい」
私は、もう一度だけ庭を眺めた。
その緑の美しさは、いつ見てもまるで彼女のようだ。
そして私はその美しさを、彼女の代わりに目に焼き付けなければならない。
あの日、私が貴女の目になると言ったからには。
私は、用を終えた箒を置いて、雑巾を手に取りサイドテーブルへ向かった。
「失礼致します」
そう彼女に一言声をかけると、机に置かれたメモと貝殻を持ち上げ、机を拭き始めた。
そのメモには、何も書かれていない。
「──何か、変わったことは書いてあるかい?」
ロッキングチェアに座る彼女は、見えない瞳を私へ向けた。
「......いえ。身体に気をつけるように、と」
私がそう伝えると、彼女は笑って言った。
「いつも通りだね。全くお母様らしい手紙だよ」
彼女は、少し皮肉を込めてそう言った。
......本当は、なんてことはない。
当たり障りの無い内容が、私にはそれしか浮かばなかったのだ。
「......また、ここに置いておきます」
「ああ」
私は、白紙のメモを机に置いた。
かつて、お母様からの手紙の目印だった貝殻と共に。
そして私は雑巾を袋に捨てると、窓に立てかけておいた箒を手に取った。
横目に見えた彼女は、穏やかに目を閉じ、眠ったように腰掛けている。
その姿を見て、私は心を締め付けられるような気持ちになった。
彼女は、決して私を疑おうとしない。
今でもきっと、大好きだったお母様からの手紙が来ていると信じている。
私は、そんな彼女を欺き続けている。
白紙のメモを読み上げる度、私の罪は、紙を重ねていくように重くなっていく。
このままでは駄目だと分かっているのに。
なのに、私はどうしても、罪を打ち明けることができなかった。
それを口にすることで、この生活を終わらせたくなかった。
私は、持ってきた掃除用具を纏めて持ち、ドアへ向かった。
ここから離れたくない。
そんな思いが私の足を引きずる中、私はドアの目の前に立つと、彼女へ向き直して一礼した。
「......それでは、失礼致します」
「ああ」
目を閉じたまま返事をする彼女は、それだけでひどく美しい。
本当は、少しでも長く彼女の隣に立っていたいのに。
......なんて、そんなことばかり考えてしまう私は──
──私は、貴女の目になれているでしょうか。
私は、帰り際に見た彼女の顔を目に焼き付けると、初夏の香りを彼女に残して、静かに部屋を後にした。