赤の乙女
風に紛れてスクレの花の香りがする。
特定の虫を誘うその匂いは、サンディアにとってなじみ深いものだが嫌う者も多い。
サンディアの従妹たちがそうだ。
死人の匂いと言い、スクレが咲いている期間は屋敷に近づかない徹底ぶりだ。
そのため屋敷の中は、サンディアと数人の侍女しかおらず静まりかえっている。
生命を謳歌する姿のまま、花の首がぽとりと落ちるとヒューロムには染めの季節がやってくる。
スクレの根を三日三晩休まずに煮詰め、凝縮しやっと手に入れる命の色。
それも今年から見ることは叶わないのだと凍える息を吐きながらサンディアは縋っていた墓標から身体を離す。
ヒューロムの土は無慈悲だ。
骨さえ残してはくれない。
だから、墓標の冷たさを確かめないと錯覚してしまうのだ。
父が亡くなったのは夢ではなかったかと。
物陰からあらわれて昔のように助言をくれないかと。
幻でもいい。
もう一度、父に会いたかった。
たった一言でも、いや名を呼んでくれるだけで決心が固まるだろう。
とろりと流れる豊かな赤毛が時に厭わしい。
これはヒューロムの誉そのままの色。
これはヒューロムの地にサンディアを縛りつける鎖だ。
「父上。ヒューロムはもう滅びてしまうのでしょうか」
ヒューロムは痩せた土地にへばりつくように出来た小さな国だ。
大した産業も無く、大国に飲み込まれるのを待つのみの弱い国だった。
だがヒューロムの赤は神性を帯び、いつしか不可侵の国となった。
私利私欲のために攻め込めば災いをうけるといわれた。
ヒューロムには命の湧く泉があり、そこで濯いだ染物はけっして色あせることは無いと言い伝えられた。
不可侵。
それも今や壊れようとしている。
ヒューロムは神の色と称えられた『ヒューロムの赤』を作る事が出来なくなった。
『ヒューロムの赤』は王にだけ伝わる秘儀によって生み出されるのだ。
父は秘儀を残さぬまま亡くなった。
いいや、賢い父のことだ。
きっと次の王となったリディアには伝えたのだろう。
リディアは知らぬとサンディアに染の方法を教えてくれなかった。
リディアの娘たちはヒューロムのすべてに無関心で指先が染まることを嫌い、染の技術も失われつつある。
実際に染を行ったことがある娘はサンディアだけだ。
指先の赤はとうに消えてしまった。
「サンディア様!」
サンディアの思案など消し飛ばすように侍女のユイが廊下を転げるような勢いで走ってきた。
いつも賑やかな娘だが、今日はことさら慌てている。
どこかで髪留めの一つを落としてしまったことにも気がついていないようだ。
荒い息を吐きながら顔を真っ赤に染めている。
「あの、あのですね! えっと、それが」
「落ち着きなさい。一体どうしたの? そんなに慌てて」
サンディアに促されてユイは大きく息をつく。
肺をいっぱいに膨らませて細く長く息を吐けば心持落ち着いたような気がするのだが、心臓は肋骨を折らんばかりに飛び跳ねている。
吐息も凍る季節だというのに、前髪を払われ露になったユイの額にはうっすらと汗が浮いている。
「きっ来たんですよ! 来ちゃったんですよう!」
興奮からなのか恐怖からなのか子どものようにユイが飛び跳ねるものだから、彼女が起こした風でスクレの花が揺れ、一輪ぽとりと落ちた。
白い玉砂利の上におちた赤い花が疎ましい染みのようでサンディアの心が乱れた。
「ぎんっ銀……銀獅子ですっ。ああ、何てことでしょう! 恐ろしいっ」
ユイはアリオスのロード王のあだ名を叫ぶと顔を覆って床へと蹲る。いつも礼儀だ作法だと言っているくせにこれでは形無しだ。
終いにはユイの大きな瞳には堪えきれない涙が湧き、ほろりと頬を滑る。
「隣国ですもの来ることだってあるでしょう」
そう言うサンディアの頬も心なしか青い。
ヒューロムには年間数多の来訪者がくるが、王族となればしかるべき手続きを行ってから訪れるのが慣例だ。
ましてや百戦錬磨の戦王。
血生臭いことの代名詞のようなロードにふらりと立ち寄られては堪らない。
ハーディアが亡くなって後のヒューロムとアリオスは友好というには冷えた関係なのだ。
伏した獅子がついに牙を向くのか。
背に走った緊張を押し隠し、サンディアは表情を引き締めた。
「出迎えの準備を」
「サンディア様? でも、あの……」
「丸腰の女にきりかかるほど愚かではないでしょう。さぁ」
覚悟を決めたサンディアにもはや嫌だというわけにはいかない。
ユイはきゅっと唇を噛んだ。
自分はサンディアに従うまでだ。
「サクレの紅でよろしいですね」
サクレの紅。ヒューロムの赤を湛えた紅は女の戦化粧。
ユイの言葉にサンディアは微笑む。
ヒューロムの意志は女の中に深く根付いている。
「ええ」
―まだ、ヒューロムは死なない
したり顔の父の幻影がチラついた。
「獅子など追い返してやりましょう」
二人が出会う前。