三話
鼓膜を僅かに震わす低音が響く。次第に音は大きくなり、俺はその音を現実のものだと認識する。大袈裟に言ったが、要は軽く寝ぼけていただけだ。
俺を目覚めさせた音は鳴り止む気配がない。この段階にてようやく玄関の扉をノックする音だったのだと気づく。
「はい……」
扉を開けると、いたのは中林だった。
「……」
「おはよう!」
「……おやすみ」
閉めた。が、施錠する前に開放されてしまった。
「ちょっと話聞こうか~」
「嫌だな」
両側からドアノブを掴んで外開きのドアを引き合う。
「とりあえず開けてくれないかな……!」
今この状況は無駄に体力を浪費するだけだ。望み通り開けさせてやる。
「ぎゃあ!」
引っ張っていた力を止める逆向きの力が無くなったせいで中林の体は廊下の手すりと扉にサンドイッチされる。
「あーすまんすまん」
「こ……心を込めてほしいな……」
立ち上がった中林はスカートの裾を手で払い、再び俺の正面にたった。
「行こう!」
……どこに行くつもりなのだろうか。
「とりあえず中林、デートに誘うのは上秋にしたほうがいいと……」
「違うよ!断じてそういう意味で言ったんじゃないんだよ!」
そこまで必死に否定するのか。
「昨日話したでしょ? 海外に行くってさ」
俺の脳は早朝から冴え渡っているようだ。こいつの言わんとすることが分かってしまう。
「今日なのか?」
「……あれ? 知らなかった?」
聞いた覚えがない。しかし、これなら中断する絶好のチャンスだ。パスポートなど持っていないのだから仕方がない。
「まあでも大丈夫だよ!」
「何がだ。俺は海外に行くのにパスポートを持っていないんだ」
これで諦めるかと思いきや、中林はポケットから赤い手帳のような物を取り出した。
「それなら私が預かってるよ」
「……」
どうしてそれがこの世に存在しているんだ……?
「頭の上に疑問符が見えるんだけど……さなみん、今年の秋に修学旅行に行ったの忘れてたの?」
「オーストラリアだったか? その日は休んだな」
「それに、これ受け取った日の帰りには学校の机の上に置き忘れてたしね。私も今朝まで忘れてたよ」
「そのまま思い出さなければ良かったのにな」
パスポートを押し付けるように渡されて、いよいよ観念するしかないようだ。
「少し待ってろ」
旅立つ前に余計な体力を使ってしまった。さっさと着替えて適当に終わらせよう。そんな決意を固めるのは早いようだ。
最寄りの駅から電車で東京都の空港にできるだけ近づいてから駅前でタクシーに乗り、目的地に着いた。
「おい、舞はどこにいるんだ?」
「ん~、空港の中には入ってないって連絡は来てるけど……あ、いた」
何でもっと近くで落ち合わなかったのかが疑問だ。
「おはよー」
中林の挨拶に舞は軽く会釈を返す。
「あの先輩は?」
言い出しっぺの姿がどこにもない。嫌な考えが頭に浮かぶ。
「熱でたって」
「後でぶん殴ってやる」
空港集合の理由がなんとなく解った。ここまで来れば今更帰れないからな。
「まあまあ、落ち着いて。病気じゃ仕方ないじゃない」
あの人が昨日の今日で病気になんてなるわけない。いや、もしかしたら今までなったことがないんじゃないかと勘ぐってしまうほどだ。
女二人に男一人という通常なら喜ぶべきなのであろう旅が始まる。
「ところで俺達はどこに行くんだ?」
「それも知らなかったの!?」
昨日初めて話されたことで、さらに説明もろくにされていないのだから驚かれても困る。
「ロンドンだよ。そこで作曲家のバレイル……なんとかさんと会うという流れ」
「イギリスか……向こうも異国の高校生の相手をさせられるのだから、ある意味俺達より大変かもな」
外国語が苦手な俺がその立場なら御免だ。
「それじゃ、行こうか」
中林が先導して俺達は飛行機へと向かう。まだ消化不良な疑問はあるが、気分転換の旅行とでも考えれば気にはならない。