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Again  作者: 桜葉
6/6

最終章―願いはひとつだけ

この物語はイギリスが舞台ですが、作者の経験上イギリスには程遠いイギリスになっています。ご了承下さい。

また、探偵事務所が登場しますが、これも作者の経験上本格的な捜査部分まで記すことが出来ません。ご了承下さい。

以上を「許せる!」という方のみ、物語へお進み下さい。


 魔法が使えないと言うあなたは、そんなこと気にもしないようにいつも明るかった。

 魔力を暴走させてしまうと言ったあたしにも笑いかけてくれた。

 その裏に、沢山の苦しみを抱えていることを隠し輝こうとしていることを、知らずにいたけれど。

 でも、もう我慢しなくていいの。あたしが、あなたの力になるから。


 まだ、同じ迷路を彷徨っている。

 燃える炎の道を駆け抜けて。

 だけど、私はもう大丈夫。何にも替えられない、大切なものを見つけたから。

 見えないものだけど、大切なもの。

 皆が、私と一緒に頑張ってくれるなら、きっと此処から踏み出せるようになる。

 再び陽が昇るように。



Again

最終章―願いはひとつだけ―



 秋風は冬の寒風に姿を変え、ロンドンの街並みをからかうように通り抜けていく。

 地面には落葉もなくなり、街路樹は裸の枝に雪を積もらせながらも寒さに耐えている。

 道行く人々はマフラーや手袋が必需品になっていて、それを見ればもうすぐここへ来て一年なんだと知らされた。

 事務所の主の机の上に置かれたカレンダーは十二月のページを開いている。

「王手!」

 唐突に声を張り上げた真っ白なオコジョは、向かいに座っている眼鏡の白い髪の少年を見てにやりと笑った。

 ビリーが頭を抱える様子を眺めつつ、ティアラは二人に紅茶を出す。

「またウェンディの勝ち?」

「ち、違いますよ! まだ終わってないんですから…」

 そう言いつつ、チェス盤の上の黒の駒を動かしたビリーは、負けたというようにうなだれた。

 ウェンディは勝ち誇ったように後ろ足を組み、人間のように前足で紅茶を持ち上げて口へ運ぶ。

「オコジョのくせにチェスなんて出来るのかよ」

 ジーラスがその戦いを見ていたように、依頼の手紙をめくりつつ息をついた。

「オコジョだから何も出来ないっていうのは偏見よ」

 チェスの駒を元の位置に戻しながら、ウェンディはむっとしたようにひげを動かす。

「偏見って……普通は喋ったり飛んだりするオコジョなんていませんよ」

 ジーラスと同じように手紙を広げていたサンが、無表情のまま突っ込んだ。

 ビリーは負けたからか不機嫌そうに黙り込んだままだ。

 確かに、もう四、五回対戦しているというのに、一度も彼は勝っていない。

「よし、ビリー代われよ。俺がウェンディを倒してやる」

 依頼の手紙を放り出し、ジーラスがなぜかやる気になった様子でビリーの隣に座った。

「チェス出来るんですか?」

 目を輝かせたビリーに、ジーラスは引きつらせた笑いを浮かべつつ黙り込んだ。

「出来ないんじゃない」

 ウェンディが冷めた黄金の瞳で彼を見る。

「う、うるせぇよ! 細かいことは分かんねーけど、要するにキングを先にチェックメイトすればいいんだろ!」

 わずかに顔を赤くして、むきになった様子のジーラスが大きな声で言った。

 それを見てビリーがため息をつく。

「また負けですか…」

「ま、まだ始まってないって!」

「いいわよジーラス、あんたが先手ね」

 面白そうに笑ったウェンディに、ジーラスは本気らしく唯一兄に似ている黒い瞳に闘志を燃やしている。

 ティアラはその様子に眉根を寄せて顔をしかめた。

「ちょっと、グレイスさんがいないからって仕事放り出してチェスなんて……」

 だが、既に勝負を始めた三人の耳に、ティアラの台詞は届いていない。

 わずかに口をとがらせ、彼女は黙々と頑張っているサンの背中を見た後、そっと窓に近づいた。

 ここのところ、ビリーはスクールが終わった後にしょっちゅう事務所へ遊びに来ている。

 彼の故郷はヴァラーイン村だが、全寮制のスクールへ通っているので普段はロンドンにいる。

 そうしてグレイスは今日も小規模な依頼に飛び回っている、が正反対に待機組は遊んでばかりだ。もちろん、サンを除いて。

 ゼブラは、まだ帰ってこない。

 あれからもう二週間以上経っているというのにさっぱりだ。

 グレイスとティアラはともかく、他の皆はもう彼のことを諦めているような気がしてならない。

 時々、本当に死んでしまったのだろうかと思う。それなら、あの時もっとちゃんと言ってればよかった。まあ、何を言えばいいのかも分からないけれど。

 グレイスさんも諦めていないんだから、私もゼブラを信じる。信じたい。


 薄暗い場所だった。

 埃と黴が混ざったような臭いが漂う大きな洋館の中、一人の少年が頭から黒に近い茶のマントをかぶりその玄関ホールの巨大な階段を布の下から見つめた。

 聞けば、此処はヴィクトリア朝時代に公爵の館だったらしい。

 黒い天鵞絨の絨毯を踏み、彼は階段の上に立っている黒いマントの男を見つける。

「最終決戦は此処?」

 少年の台詞に、シャトーは血の気のない唇に笑みを浮かべる。

「何をしにきた。その余命を仲間のために使ってやればいいものを」

 深く低い冷淡な声がホールに響き渡る。

「俺はお前を封印するまでは死なないよ。かといって、今封印するわけじゃないけれど」

 マントの帽子を取り、満月と同じ色の金の髪をあらわにした少年は何がおかしいのか冷たく微笑した。

「どっちが先に死ぬか、賭けるか?」

 埃が積もっている階段の手摺に、男は体をもたれさせた。

 それが、ひどく疲れた様子にも見える。

「それには及ばない、この戦いの結果はもう見えている。俺がつけたその心臓の呪いはもうすぐお前を殺す。…ティアラの魔力を狙ったからだよ、彼女の命を狙う人間は誰であろうと俺が許さない」

 ゼブラは赤い瞳を細めた。

 ひどく残酷な色を真正面に見たらしいシャトーは、静かに彼をせせら笑った。

「……そこまでするのはどうしてか、聞いても構わないか?」

 そうして神妙にその笑いをおさめた男に、金の髪の少年は戸惑いもなく声を落とした。

「彼女を愛してる」

 睨むようにシャトーを見つめた彼の瞳に、迷いはなかった。

 しばし黙っていた男は、やがて相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべてまっすぐに立った。

「哀れな吸血鬼だ」



「行きましょう!」

 ティアラの鼻先にカラフルなチラシを突きつけたビリーは、いかにも深刻な様子でこちらを見た。

 ソファに挟まれた机の上に正座している彼に、座り込んでいた彼女はわずかに顔をしかめる。

 チラシを見ようとしたとき、それを横から帰宅していたグレイスが奪い取った。

 そうして眉根を寄せ、チラシを見たかと思えば口を開く。

「ビリー、机から下りろ」

 きびきびとした動作でビリーは机から飛び降りた。

 チラシを手に持っているグレイスの肩に飛び乗ったウェンディは、それを覗き込んで声をあげた。

「遊園地ぃ?」

 どうやら、その紙は遊園地の広告だったようだ。

 遊園地、は二十一世紀では当たり前のレジャースポットらしく、土日は若者で溢れかえるという。

 そもそも、十九世紀の人間であるティアラ達にとってはよく分からない場所な上に、その「遊園地」とやらがどういうものなのかも知らない。

 ティアラだって街中で見かける巨大な画面の中で、遊園地が中継されているのを見たことがあるくらいだ。

「遊園地って何だよ」

 ジーラスがビリーの頭の上にひょいと顔を出す。

「何だよって……魔法使いは遊園地も知らないんですか? 色んなマシーンがある場所ですよ、お金さえあればいっぱい遊べます」

 不審そうに顔をしかめた彼は眼鏡を押し上げる。

「でも、どうしていきなり遊園地?」

 ティアラはチラシとビリーを見比べながら口を開いた。

「どうしてって……皆学校のハイキングで遊園地に行くのに、僕はお金がなくていけないから……師匠達に頼めば連れてってもらえるかなと思いまして…」

 グレイスのことを師匠とかなんとか呼ぶのはビリーだけだ。せめて事務長、くらいにとどめておけばいいのに。

「お金がかかるなら無理ですよ、事務所の経営だけでも大変なのに」

 自分用にブレンドコーヒーを入れたサンが、湯気の立つカップを手にティアラの隣に腰掛けた。

 そうそう、と言うようにウェンディも頷く。グレイスは何も言わないが、どうやらその通りらしい。

 ジーラスだけがちょっと興味を持っている。

 ビリーは、そうくると思っていたのか引きつった笑顔を浮かべた。

「この遊園地、最近問題が起きてるみたいなんですよ。知らないうちに機械の部品が取れてたりとか…一部では妖精の仕業だとかいう噂もあるとかないとか。僕達が解決したら普段儲けまくってる遊園地の経営者は、お金をいっぱい送ってくるかもしれませんよね」

「マジかよ?」

「妖精問題なら私に任せなさい!」

 目を輝かせるジーラスとウェンディに、ティアラは嫌な予感をおぼえる。

 どうやら、ビリーはここひと月でこの事務所の住人達が折れるつぼを完全に攻略したらしい。

 恐るべし十四歳、と口元を引きつらせたティアラなどお構いなしに、ウェンディとジーラスは予想通りグレイスに飛びついた。

「行きましょうよ、遊園地! 遊んで金儲けして一石二鳥よ!」

「兄ちゃん、やっぱ仕事ばっかしてちゃ駄目だって! 俺らまだ十代だし!」

「私はもう二十だ」

 サンはコーヒーを飲みつつ呆れ顔で三人を見、床に落ちたチラシを拾い上げた。

「今なら入場料無料」

 赤い文字で大きくチラシに書かれたゴシック体を読み上げた彼女に、ビリーも蹴られたように立ち上がる。

「師匠、困ってる人を助けるのは探偵の仕事ですよ! たとえ頼まれていなくとも!」

「で、でもそれとこれとはわけが違うんじゃ……」

 ティアラが困り顔でグレイスとビリーを交互に見る。全く、本当に手に追えない。

「分かった、分かったから離れろ!」

 くっついているウェンディとジーラスを半ば強引に振り払い、グレイスは疲れたように仕事机に手をついた。

「その言葉、しかと聞いたわよ」

 ウェンディがにやりと笑う、ジーラスもぱっと笑顔を浮かべる。

 ティアラが何か言おうとする前に、ビリーがソファの上で拳を宙に向かって振り上げた。

「早速出発です!」



 茂みの間に隠れたライトが白い光の筋をつくり、鮮やかに遊園地のアトラクションを照らし出している。

 いつもならよく見える満月も、明るすぎる此処からははっきりと確認する事が出来ず、少々寂しい気もした。

 グレイスが全力で溜まっていた仕事を片付けていたら、来るのが夜になってしまったのだ。

 ナイター営業だから大丈夫だとか何とかビリーは言っていた、そういうところだけは異常に詳しい。というより、こんな時間に外出できるなんて、寮を抜け出してきたのだろうか?

 煉瓦の地面を踏んで木々が並んでいる遊園地内の通りのベンチに座り、ティアラは寒い空気に手袋をしたまま手を擦った。

 ビリーはジーラスを引っ張り、ウェンディがそれにくっついて何処かへ遊びに行ってしまった。

 サンは寒いから近くの店の中で待ってるとか何とかいい、出入り口付近の飲食店へ。グレイスも同じように引っ張りまわされているらしく、ティアラは一人ベンチの背にもたれかかった。

 漆黒の夜空が、今日は薄紫っぽい。地上のライトが天まで届いているらしく、明るいのだ。

 白いファーがついたコートの前をかきあわせつつ、彼女は下ろしたままの水色の髪が夜風に流されるのを感じた。

 時折目の前を通り過ぎていく人影に、ティアラは深い青の瞳でそれを追っていた。

 と、不意に視界に入ってきたフサフサしたものに、足元を見る。

 乳白色の毛皮をまとい、大きな耳をピンと立てて濃い茶の瞳でこちらを見ているフェネックギツネだった。

 普通はロンドンにはいないような生き物だ。どうしてこんなところに、とティアラは目を見張る。

 細い足のフェネックは小さく、四十センチほどしかない。それでもウェンディよりは充分大きいが。

 北アフリカに生息しているはずのキツネだというのに、何処かの動物園から脱走してきたのだろうか。

 自分のズボンの上から履いた茶のブーツにすり寄ってくるフェネックに、彼女は手を差し伸べてそっとそのふわふわの体を抱き上げた。

「迷子になったの?」

 自分の目線より少し高いところまで抱き上げれば、その濃い茶の瞳と目が合う。

 わずかに光が透ければ、その瞳の色が一瞬炎のように揺らめき、どきっとする。

 何処かで見た色だったからだ。

 「寒いか?」

 唐突にかかった声に、フェネックを膝の上に下ろしたティアラは顔をあげた。

 いつの間にか、黒いコートを羽織ったグレイスがすぐ前に立っていた。

「いえ、大丈夫です」

 返事を返し、ジーラスたちを振り切ってきたらしいと思う。

 隣に腰を下ろした彼は、疲れ気味だ。あれだけ仕事を片付けた後にこんなところまで連れてこられれば、当然だろう。

「…キツネ?」

 ティアラの膝の上のフェネックを見つけたらしいグレイスは、首を傾げた。

「ええ、フェネックですよ。迷子になったみたいで…動物園の子かなと思ってるんですが」

 背の毛を撫でてやりながら、彼女はキツネの大きな耳がぴくぴく動くのを見て穏やかに微笑んだ。

 そういえば、グレイスと二人きりになるのはあの雨の日以来かもしれない。

 ゼブラが死にけていたあの時のことを思い出し、ティアラは不意に頬が熱くなるのを感じた。

 薄暗くてよかった、と思う。

「……そ、そういえば妖精の問題っていうのは?」

 何となく気まずくて、彼女はしどろもどろに話題を切り出した。

「ああ、あれは嘘だったそうだ。全く、ビリーも色々とやってくれる」

 怒っているというよりは呆れた様子で、グレイスはため息をついた。

 まあ、そういうものだとは思っていたけれど。

「ご迷惑おかけして、すみません。ウェンディのことも」

「いや、気にしてない。…あいつはいつもああだろ」

 そうですね、と苦笑しつつ言ったティアラに、グレイスもわずかに笑った。

 フェネックがふさふさした尻尾を動かす。

 辺りの雑音が妙に心地いい。

 道行く人々の姿を見つつ、彼女は膝の上でキツネが丸くなるのを眺めた。

「……ティアラ」

 不意に名前を呼ばれ、その声が鼓膜を震わしたような気がしてティアラは視線を動かす。

 目線の先、すぐ隣でこちらを見ていたグレイスの真っ黒な目と目が合い、どきりと心臓が跳ねた。

 フェネックがその茶の瞳を動かし、耳を張って二人を見る。

 何も言う言葉が見つからず、口閉したままでいると、代わりに彼が言葉を紡いだ。

「私は……」

「ティアラ!」

 突然飛んできた怒鳴り声に、彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。いや、一センチくらいは飛び上がったかもしれない。

 聞き慣れたウェンディがこちらに向かって飛んできたのを見て、ティアラは姿の見える彼女に慌てて口を開いた。

「ちょっと、何してるの。早く姿消して!」

「大丈夫よ、この時間なら人も少ないし」

「そういう問題じゃない!」

 仕方なさそうに姿を消したウェンディは、自分が何処にいるのかを周りに知らせるためか地面に落ちていた枯れ枝を拾い上げた。

 一見、枝だけが宙を舞っている奇妙な光景だが、細いそれは目立たないために最適だ。

 遠くからこちらへ駆けてくるジーラスに気付いたらしい彼は立ち上がったが、ティアラは足に力が入らなかった。

 ゼブラとは違って、グレイスと目を合わすなんて事は少ない。特に、雨の日以来に見つめ合ってしまったのは今日が初めてではないだろうか。

 どくどくと早く脈打つ鼓動を押さえ込みつつ、ティアラはフェネックが膝の上で立ち上がり伸びるのを見ていた。

 グレイスさん、何が言いたかったんだろ。

「兄ちゃん、言った? 言った?」

 小声でこそこそとジーラスが兄に尋ねる。何を、と言いたげにグレイスは弟を見返した。

「だから、ティアラに言った?」

「……言ってない」

 不機嫌そうに答えた彼に、ジーラスは明らかに残念そうに肩をすくめた。

「何で言わないんだよ、せっかく俺が兄ちゃんを放り出して…チャンスだったのに!」

「放り出すとは何だ」

 小声で喋るその会話は、噂の本人には聞こえていない。

「ティアラ、魔の気配がするの」

 ウェンディは枝を振り回しつつ、彼女の隣の宙に立つ。

 ティアラは顔をしかめフェネックをベンチに下ろすと、立ち上がり辺りを見回した。

「魔の気配って……シャトーが動いてるってこと?」

「分からないわ。でも邪悪な気よ」

 おそらく背筋を震わしただろうウェンディに、彼女は道行く人々を見つつその背景にある少し離れた場所のジェットコースターの線路を見た。

  錆びた赤色の線路は、地上何十メートルもある上を走っている。

 そこに、うっすらとした白い何かが立っているように見え、ティアラは目を凝らそうとした。

 が、突然フェネックがベンチから飛び降りて駆け出す。

「あ!」

 ティアラが思わず声をあげ、グレイス達も気付いたように振り返った。

「あのキツネ、何?」

 ぱっと姿を現したウェンディが顔をしかめる。

 フェネックが走っていった先にサンとビリーが立っていた、が、キツネはその横を通り過ぎる。

 人混みに紛れていくその姿に、ティアラは無意識のうちに駆け出していた。

「ちょ、ちょっとティアラ!」

 ウェンディの呼び声を振り切り、彼女は人混みの中へ紛れ込む。

 人影に見え隠れする水色の髪が遠のいていくのに対し、グレイスも急いで駆け出した。

「兄ちゃん!」

「何事ですか?」

 二人のところへ駆け寄ってきたサンとビリーに、ジーラスは首を傾げてもどかしそうに兄が走っていった先と二人を見た。

「わ、わかんねぇ。何か追いかけてったような…」

「キツネよ、ちっちゃい薄黄色のが走っていったもの。とにかく早く追いかけないと……嫌な気配が動いてるわ。急いで!」

 目の前を見え隠れしながら走っていくフェネックを追いながら、ティアラは顔をあげた。

 頭上にジェットコースターの線路がかかっている。そして、その上にぼんやりとした白い影が浮かんでいる。

 幽霊、ではない。茶色い耳の生えた青い髪の……妖怪、ディオンだった。

 どうして。ディオンは死んだはずじゃ…。

 そう思ったとき、視界をフェネックが飛ぶ。

 目の前を横切り、ジェットコースターの乗り場までの階段を駆け上がっていくフェネックに、ティアラは慌てて立ち止まった。

 ディオンのところへ向かっている。

 こちらを見て冷えた笑みを浮かべている狼の妖怪をちらりと見た後、彼女も急いで乗り場への鉄製の階段を駆け上がった。

「グレイス、あいつよ! あの妖怪だわ!」

 ティアラの後を追い走っていた彼は、彼女が目の前のジェットコースターの乗り場へと入っていったのを丁度見たところだった。

 ウェンディが人目も気にせず、グレイスの肩に飛び乗りそう言う。

「死んでなかったのか?」

「…シャトーの従者だもの、只者じゃないのよ!」

 睨むようにディオンを見、ウェンディは舞い上がる。

「あの子、キツネを追いかけて何処までも行く気よ。このままじゃあいつに殺されちゃう!」

「どうすればいいんだ?」

「んなもん、戦うしかないでしょうが!」

 乗り物の前を通り過ぎ、線路自体を身軽な動きで駆けていくフェネックに、ティアラは乗り場まで来て立ち止まった。

 幸い、係員はいない。

 彼女はどうしようと線路を見た後、どんどん離れていくフェネックに焦った。

 線路の隙間は人の足が入ってしまうくらいある。歩くのは難しいかもしれない。

 でも、無関係な動物を殺させるわけにもいかない。

 それにディオンを放っておけば、遊園地自体を無茶苦茶にされかねないのだ。

 ティアラは決心し、コースターの一番後部分にはみ出している線路に足を下ろした。

 ズボンでよかった、と思いつつふらついた足取りで慎重に歩き出す。少し上っている線路に手をつきつつ、彼女はフェネックがディオンの元へ辿り着いてしまったのを目にしていた。

 その長い爪をキツネに向かい振り上げようとした彼に、ティアラは思わず叫んでいた。

「だ、駄目! その子に手を出さないで!」

 視界の隅でウェンディとグレイスが動いている。

 平らなディオンが数メートル先に立っている場所までくると、ティアラは恐る恐る手を放し線路の上に立ち上がった。

 下を向けばバランスが崩れ、恐ろしさに落下してしまいそうだ。

『……しぶといなぁ。僕に立ち向かおうなんて、あの吸血鬼も無理だったのにあんたが出来るわけないだろ』

 やはりそこら辺は動物の妖怪だ、ディオンのバランス感覚は見事で余裕のままこちらへ向き直り、白い耳をぴくつかせる。

 赤い十字架が、以前より色濃くなったような気がする。

「ゼブラはゼブラでしょ、私は私よ。何が目的なの?」

 ディオンに近づこうとしていたフェネックは、踵を返しティアラの前に舞い戻って狼を見てうなった。

 その光景に、彼は何がおかしいのか声をあげて笑う。

  下の通りの人々が振り返りこちらを見ているらしい、視線を感じる。

『別に目的もなにもない。僕はシャトー様に命令されたことをするだけだ。…あんたがどうしても魔力を渡さないっていうなら、こっちにだって考えがある』

 にやりと笑い牙をみせるディオンに、彼女は震える拳を握り締めた。

「結局、私の魔力がなきゃ…シャトーは魔法界を手に入れられないのね」

 冷たい風が二人の間を吹きぬける。

 聞き流す、というように彼は一瞬目元をぴくりと動かした後、右手を下の通りへ向けた。

 その長い刃の先で、ビリビリと音が立ち白い電気が走る。

『どうするの、渡すの渡さないの?』

「……わ、渡さないって言ったら?」

 恐る恐るディオンを睨み返した彼女の台詞が終わるか終わらないかのうちに、突然彼は刃を大通りへと向けた。

 途端に、そこから真っ白で厖大な魔力を持った光が飛び出し、通りに穴を開けるように一気に通り抜ける。

 地響きのような激しい音と同時に、白い光に包まれた人々が次々に消え去り、ティアラはその揺れに足がふらついて線路の上にしゃがみ手をついた。

 ようやく揺れがおさまったと顔をあげれば、さっきまで整っていた通りは煉瓦の地面が抉られ、歩いていたはずの人間達の姿はもう何処にもなかった。

「………」

 言葉を失い、絶句したまま彼女は線路を掴む手に力を入れる。

『渡さないならあんたの大事なものが消えていくだけさ』

 冷酷な色をしたその瞳で、ディオンは平然とティアラを見た。

 ぎりぎりで、茂みに倒れこみ攻撃を交わしたグレイスは身を起こす。彼は少し離れた街路樹の隙間に隠れて攻撃を乗り切ったジーラス達をちらりと見た。

 先に舞い上がっていたウェンディが、神妙な表情で眉間にしわを寄せる。

 彼女の黄金の瞳には、ディオンと向かい合うティアラの姿が映っていた。

「……それなら、私があなたを封印する。これ以上、シャトー達に好き勝手な真似はさせない!」

 ティアラは使えるかどうかも分からない魔力を思い、右腕をあげて手のひらをディオンに向けた。

『あんた、魔法使えるの? シャトー様の血を牽いていても、ちっとも役に立たない落ちこぼれのくせに』

 にやにやと馬鹿にしたように笑っている彼は、彼女が魔法を使えないと知っているのだ。

 どうにか立ち上がりつつ、ティアラはディオンを睨みつけた。

『やらないなら終わりだ』

 途端に狼が跳ぶ。

 本当に突然だったので、彼女は交わそうとしてバランスを崩す。

 しまった、と思ったときは遅かった。既に片手で線路を掴み、どうにかぶら下がっている状態でティアラの身体は今にも落ちそうだ。

 自分の手のすぐ横に立っているフェネックが、無表情のままディオンを見ている。

 無情にも、こちらに向かって刃を振り上げ止めを誘うとする彼に、彼女はきつく目を閉じた。

 下にいたウェンディ達も息を飲む。

 だが、刃が振り下ろされようとした瞬間、フェネックが牙を剥きディオンが吹っ飛んだ。

 唐突にそんなことが起きたものだから、ティアラは自分が危機になって魔法を使ったと思い、空中に浮いているディオンに目を見張った。

『魔法…?』

 不思議そうに眉をひそめる彼は、フェネックに気付いたように睨み付ける。

 そうしてティアラではなくキツネに飛びかかろうとするものだから、彼女は思わず動物相手に叫んでいた。

「逃げて!」

 軽々とその攻撃を避けたフェネックに、ティアラが呆気に取られた瞬間、不意に彼女は力が抜けて手を放す。

 乱暴に宙に放り出され、奇妙な無重力に酔いながら一気に落下するのを感じる。

 自分がアスファルトに頭を打ちつけて死ぬ姿をまぶたの裏に想像し気分が悪くなりかけたとき、突然背に衝撃を感じて彼女は地面に倒れこんだ。

 直にアスファルトにぶつかるのは避けられたが、打ち付けた肩の痛みを堪えつつティアラは起き上がろうとするが自分の身体に回っている腕に気がつく。

「大丈夫か?」

 すぐ耳元で声が聞こえて、彼女はその腕の主に顔が一気に熱くなるのを感じた。

 どうやら、グレイスがぎりぎりで受け止めてくれたらしかった。

 彼も少々アスファルトに身体を打ちつけたらしく、腕が痛む様子だったがティアラを放して起き上がる。

「あ、あの……ありがとうございます」

 自分もどうにか身を起こしつつ、助かった安堵感より気恥ずかしさにうつむいたまま礼を言った。

「待ちなさいよ、そこのキツネ!」

 ウェンディの怒鳴り声で無理矢理にでも顔をあげる羽目になってしまったが、どうやって下りたのかいつの間にか抉られた地面に立っているフェネックは、遠くへ駆け出していくところだった。

 オコジョの声に、足をとめたフェネックにティアラは少々驚きつつ立ち上がる。

 既に立ち上がっていたグレイスにジーラス達が駆け寄って行くのを視界の隅に見つつ、立ち止まったフェネックの目が自分を見ていることに気がついた。

「あんた何者なの、ただのキツネじゃないわよね。妖精? 今、魔法を使ったでしょ!」

 魔法? とティアラは驚いてフェネックを凝視する。

 しばし立ち止まっていたが、キツネはすぐに線路の向こうへ駆け出して行ってしまい、暗闇の中に姿を消した。

 何なのよ、と呟くウェンディに、彼女はディオンの存在が消えているのに気がつく。

「……なあ」

「何だ?」

 不安げに声を洩らしたジーラスに、グレイスは首を傾げた。

 彼は背後を振り返り、青ざめた顔をしている。

 それにつられ、ティアラ達も背後を振り返った。

 ビリーが、顔を引きつらせる。いつも無表情のサンまでも、生唾を飲み込んだ。

「………馬?」

 ティアラが呟く。グレイスはその言葉に頷いた。

「ち、違うわよ。あれは本物の馬じゃないわ。メリーゴーラウンドの……」

 抉られた通りの十メートルほど先に、数十頭の白い馬のレプリカが立っていた。

 立体感のない鞍を乗せ、固そうなプラスチックの身体、色のない瞳がこちらを見ている。

「…逃げたほうがいいでしょうか?」

 ビリーがやっとのことで絞り出したような声を出す。

 誰かが判断を下す前に、突然先頭にいたピンクのゼッケンを乗せている馬が前足をあげて嘶いた。

 それを合図にしたように、いっせいに馬達がこちらへ向かって突進してくる。

「走るわよ!」

 ウェンディがキイキイ声で怒鳴るのとほぼ同時に、ティアラ達も駆け出す。

 先ほどフェネックが姿を消した方向へ走りながら、猛スピードで横を飛んでいるウェンディに向かって舌を噛まないよう注意しながら口を開いた。

「これも魔法なの!?」

「ええ、きっとね! さっきあの狼が遊園地の客を消し去ったから、シャトーはやりたい放題よ! このままじゃまともに殺されるわ!」

 確かに、あの馬達に踏まれれば生きていられるかどうか。

 背後を振り返りつつ、ティアラは馬の激しい足の動きを見て血の気が引いた。

「ていうか、これって魔法による陰謀かなんかですか? そのシャトーとかいうのは何処にいるんです!」

 ビリーが大声で怒鳴るように聞く。相変わらず発想がおかしい。

「んなもん、分かったら苦労しねーよ!」

 ジーラスも同じように怒鳴って返事を投げつける、すると不意に横を走っていたサンが立ち止まり右手のひらを背後へ向けた。

 そこから空気が波打つように透明な白い光が飛び出し、自分と馬の間に見えない巨大な結界をつくりあげる。

 それに気がつき足をとめたティアラ達は、猛スピードで突っ込んできた馬達が結界にぶち当たりバラバラになって地面へ放り出されるを見た。

 ひび割れた馬の首や足、胴体が辺りに散らばり、静けさが戻る。

 サンが右手を引っ込めるのと同時に結界が消え、彼女は疲れたように地面に膝をついた。

「サン!」

 ティアラは驚いて彼女の肩を両手で支える。

 脂汗を浮かべて顔色が悪いサンは、どうやら強い力を使いすぎたようだ。

「大丈夫、魔力を消費しただけ……」

 荒い息で言葉を吐き出す彼女は、ひどく苦しそうだ。

「お、おい。しっかりしろよ!」

 ジーラスも心配そうに屈んで、サンを覗き込む。

 空中で平然と腕を組んだウェンディは、ため息をついた。

「魔力の使いすぎよ、シャトーの魔法を普通の防御術で止めるなんて容易な力じゃ出来ないわ。体力を消耗するのも当たり前。まあ、あんたのお陰で助かったけど」

 素直にお礼が言えないの、とティアラは宙のウェンディをわずかに睨む。その迫力に、彼女は少々身を引いた。

「シャトーは近くにいるのか?」

 グレイスは遠くに見えるジェットコースターの線路を見やり、顔をしかめつつ尋ねた。

「…分からない。魔法が終わったから気配もつかめなくなったもの、あいつは自分の気配を消すのが上手いから厄介よ」

 ウェンディがまだ煉瓦が張り付いている地面に視線を落とした。

 ビリーが、不意に眉根を寄せて目を凝らすように細める。

「あれ、建物ですか?」

「どれ?」

 ティアラはジーラスがサンを近くのベンチに連れて行くのを見送り、ビリーの視線の先へ振り返る。

 五十メートルほど先に、煉瓦の壁と黒い門があり、生い茂る木々の間から見え隠れして顔を覗かせている白亜の屋敷が見えた。

 随分古そうな建物だ、十九世紀頃のものだろうか。

「…あれって、十九世紀の公爵家じゃない? あの頃随分有名だった……名前は忘れたけど、女王陛下とも面識があった貴族の屋敷よ。噂を聞いたことがあるもの」

 ウェンディが、分かったというように前足を叩いて言った。

 まったく、そういうことには詳しいんだから。

 そんな風に思いティアラは眉をあげつつ、どうしてそんな建物がこんな場所にあるのかと思う。

「あれはリトル公爵家の館ですよ。歴史ある建物だから残してあると、クラスの先生が言ってました」

 ビリーはウェンディの言動に疑問を持つことなく、眼鏡を押し上げる。

 妖精だから知っていても不思議ではないと思っているのだろうか。

 と、突然ティアラは横に立っていたグレイスに引っぱられた。

 何かと思えば、今まで彼女が居た場所を刃が舞い空を切る。

 舌打ちが聞こえ、身軽に着地した茶色い耳を生やした少年がこちらを見たまますっくと立った。

 ディオンだ。

『あとちょっとだったのに』

 縁起でもないことを口にし、その赤い十字架の描かれた頬をぴくりと動かす。

 裸足の足が寒そうに思えるが、妖怪はそんなものは感じないのだろう。

「あんたがシャトーの従者? 話すのは初めてね」

 ウェンディが、ティアラをかばうように前へ出て宙に浮いたまま偉そうに前足を組む。

 そういえば、以前森の中で会ったときにこの二人が会話することはなかった。

 思い返しつつも、どことなく張り詰めた空気にティアラは息を吸い込んだ。

『……オコジョが喋ってる?』

 目を丸くしてウェンディを見ているディオンは、彼女をただのオコジョだと思っているらしい。

 これにはさすがのウェンディもぶちぎれた。

「オコジョじゃないわよ! このヘボ妖怪、私が妖精かどうかの区別もつかないの!? どこからどう見たって妖精でしょうが!」

 いや、どこからどう見てもオコジョだ。翼さえなければ。

『ああ、クラウンが創造したっていう……もっと強そうなのかと思ってた』

「その口、喋れないようにしてあげましょうか?」

 頭にきたらしい彼女は顔を引きつらせつつ、ディオンを睨みつけた。

『オコジョ相手に本気で戦えとは命令されてない。僕の狙いはそいつだけだ』

 しかしディオンはあっさりウェンディを無視し、その向こうにいるティアラに視線を動かす。

 獣のように一瞬うごめいた碧眼に、ビリーが背筋を震わせた。

 と、ティアラの視界で乳白色の何かが動く。そちらを見れば、丁度屋敷の門の間をくぐり抜けてあのフェネックが敷地内へ入っていくところだった。

 気を取られた隙に、突然動いたディオンにティアラは慌てて身を引く。

 こうなったら人間は手出しのしようがない。

 彼女は容赦なく向かってくるディオンをこれ以上グレイス達に近づけまいと、すぐ傍にあった観覧車へ向かって駆け出した。

「ティアラ!」

 ウェンディが不安げにティアラを呼ぶ、が振り返っている暇はない。

「どうすればいいんだ? 妖怪には銃弾も効かないだろう?」

 グレイスが顔をしかめてオコジョを見る。

「……効くか効かないかは…試してみないと分からないわよ。でも失敗したら、今度はあんたが殺されるわ。ティアラは魔法使いだから、まだ助かる余地はあるけど…」

 背の翼を羽ばたかせ、ウェンディは観覧車の乗り場への階段を駆け上がっていくティアラを見ている。

「でもあいつは魔法が使えないんだ。使えるとしてもまぐれでしかない。………そっちのほうが、助かる確率が低いと思わないか?」

 彼女の返事を待たずに、グレイスはティアラを追って駆け出した。

 乗り場まで来たものの、眠りこけている従業員を横目にとめどなく動き続けている観覧車を彼女は目で追う。

 背後から跳んで迫ってくる狼を避けるには、進むしかないだろう。

 迷っている間にも風が起こり、ティアラは慌てて攻撃を交わす。刃が空気を裂く。

 ディオンが体勢を立て直し、再び鋭い刃をティアラに向ける。

 彼女は、一か八かという思いで観覧車に向かって駆け出した。

 追いついたグレイスが乗り場へやってきたときには、ティアラは観覧車の上によじ登りすぐ前を動いている背に飛び移った。

  ディオンがそれを素早く追う。

 追いつかれないように動こうとしつつも、地上何十メートルかというところで先に登れなくなる。観覧車の向きが円を描くために変わっているからだ。

 どうしよう、と乗り物をぶらさげている白く細い棒に捕まりながら不意に肩を掴まれた。

 無理矢理仰向けにさせられたかと思えば、自分の顔のすぐ横に刃が突き立つ。

『もう逃げられないよ』

 人を惑わせるくらいの妖艶な笑みを浮かべたディオンが、間近でティアラの目を見ている。

 幸い、彼が自分の右肩を押さえつけているから問題ないが、放されれば確実に落ちるだろう。

 深い青の髪が額に当たるくらいの至近距離で見つめ合う羽目になり、妖怪と言えどもティアラは身体を硬直させた。

 ディオンの黒いマントが自分の上に落ちるのを見ながら、彼女は唯一自由が利く左手を恐る恐る動かし、狼の肩を掴み返す。

 暗い青の瞳で、彼を睨む。

 一瞬、自分の内で何かが燃えたような気がして、どくんと心臓が重たく脈打った。

 魔法が発動するような気がしたが、それは狼の十字架が一瞬光ったことに対して燃焼する。

 力が抜けるような感覚に陥った時、突然銃声が鳴り響き彼の肩を掠めた。

「そいつに触るな」

 二つほど下の観覧車の上に立っていたグレイスが、銃をディオンに向けてこちらを睨んでいる。

 ティアラは起き上がろうと左手で棒を握りつつ、ディオンは怪訝そうに振り返った。

『…僕相手に戦う気? あんた、一応人間だろ』

「人間でも妖怪を殺すことくらい出来る」

 迷いもなくグレイスは言う。それはちょっと違うんじゃ、と思う。

 というより、ディオンの注意が彼に移ってしまった。このままじゃ本当にまずい。

「グレイスさん、無理です! 逃げてください!」

 それでも躊躇なく、観覧車を上ってディオンに近づくグレイスに、ティアラは慌てて叫んだ。

「お前を守ると、ゼブラと約束した」

 ゼブラと?

 彼女は眉根を寄せて首を傾げる。が、我に返る。

「で、でも今は無効ですよ、そういう場合じゃないです!」

 だが、止める間もなく狼のマントを彼は掴む。

 ティアラは血の気が引いた。

 単なる人間が、妖怪を殺せるはずない。魔法使いでさえも、これほどまでに力の強い妖怪を倒すのは難しいのだ。

 動いていた観覧車ががくんと揺れ、とまる。どうやら下でビリーが操作したらしい。

「グレイス! そいつの耳よ!」

 ウェンディがこちらへ向かって、下から大声で叫んだ。

 耳? と顔をしかめ、彼と彼女はディオンの茶色い耳を見る。そこには今まで気付かなかったが、小さな薄青い宝石がついている。

「それが弱点よ、シャトーが魔力を操作してる源だわ!」

 どうやらそれは本当らしい。

 狼はグレイスの手を振り払い、高々と跳ね上がる。そうして距離を取るように観覧車の上へと移動する。

 ティアラのいるすぐ下のゴンドラに飛び移ったグレイスに、彼女は冷汗を握り締めた。

「グレイスさん、駄目です。早く戻って、私なら平気ですから!」

「怪我は?」

 彼女の心配を無視し、彼はティアラを見る。

「な、ないです」

 一応答え、不意に視界を横切った乳白色の生き物にはっとした。

 グレイスも気付いたらしく顔をあげる。

 小さいフェネックは素早い動きで、観覧車の一番上でティアラ達を見下ろしていたディオンに向かいゴンドラを飛び移っていく。

「大丈夫!?」

 ウェンディが彼女の傍まで猛スピードで飛んでくる。

 異常な心配のしように苦笑しつつ、ティアラはディオンの元へ辿り着いたフェネックを見上げた。

 ウェンディが苦々しげに顔をしかめる。

 ディオンがフェネックに向かって刃を構えるのが、ライトの集まりから少し離れた此処では届く月光に照らし出される。

「ど、どうしよう。殺されちゃうよ!」

 ティアラは焦ってゴンドラの上に立ち上がる。

 危ない、というようにウェンディが彼女を座らせようとするが、それを超える異変が起きたものだから下にいたジーラスと、彼に支えられていたサンが声をあげた。

「あのキツネ……!」

 ジーラスの声に、ビリーも乗り場から上を見上げた。

 ディオンの刃が空を切るのを避わし、フェネックが宙を舞う。と同時にキツネは茶色いマントをまとった細身の少年へと姿を変えた。

 本当に一瞬で、ティアラは目を見張る。他の者もそうしていたことだろう。

『…………!』

 警戒したように耳を動かしたディオンと少年の間を、冷たい夜風が通り過ぎる。その風が、彼の月にも似た乳白色の髪を揺らした。

「妖怪の分際で気安くティアラに触って、俺を怒らせたね」

 聞き覚えのある一ヶ月ぶりの声。

『…あんたに僕は殺せなかった』

 ディオンは彼を睨みつける。

 間違いない、茶色い足首までのマントをまとい黒い服を着たゼブラだった。

「あいつ生きてたの?」

 ウェンディがぼそりと呟く。

 彼は腰から短剣を抜いた。鋭い刃が月光を帯びる。

 ディオンがわずかに後ずさる。

「お前が死ななかったのは、シャトー様とやらが床に落ちた灰に再生魔法を使ったからだ」

 赤い瞳でまっすぐに狼を捉え、ゼブラは刃先を相手に向ける。

 ディオンも戦う気満々らしく、彼に向かって刃を構えた。

「…取引しないか? それだけの力があれば、魔界では相当な地位が得られる。俺の仲間になるなら生かしてやるよ」

 本気なのか冗談なのか分からないような言葉を吐いたゼブラに、ディオンは困惑したようだった。

 だが、すぐに迷いを断ち切るように瞳の色を変える。

『……僕はシャトー様の従者だ。あんたの仲間にはならないよ。妖怪でも従者でも、プライドを捨てたわけじゃない』

「殺すのは惜しいね。じゃあ、その力だけいただくことにするよ」

 殺気を感じて、ティアラは白い棒をきつく握り締めた。

『僕の血を飲む気? 下には人間がいるっていうのに』

 不可解そうにディオンは目元を細める。

 ゼブラは何も言わず、ただ口の端をあげる。

 次の瞬間、狼が跳んだ。

 地上何十メートルという場所で、恐れと言うものがないのかと問いたいほど大胆だ。

「まずいわね」

「何がまずいんだ」

 ウェンディの呟きに、グレイスが問い返す。ティアラも彼女を見た。

「あの妖怪はこのままじゃおさまらないわ、だからゼブラが姿を現したんだと思うの。だけど…あいつはあの妖怪の血を食う気よ。妖怪の血なんか飲んだら魔力は得られても、寿命が縮みかねないわ」

「どういうこと?」

 ティアラは驚いてウェンディをすがるように見つめる。

「だから、暴走をとめるためにゼブラは自ら命を削る気なのよ! 妖怪の血は邪悪なの、人の命を枯れさせるわ!」

 ディオンを交わし、ゴンドラを飛び移りながら彼は短剣を持った腕を振る。

 飛びかかってこようとした狼の髪を刃先が梳き、その頬に傷をつける。十字架からわずかに血が滲み出る。

「そんなの駄目だよ! 何とかならないの!?」 

 それでも直、その爪を振ってゼブラを狙う狼は止まるところをしらない。

 攻撃を交わすふりをしながら、その肩を狙う。こいつの利き手は右だ。

 力いっぱいその右肩に短剣を突き刺す。

 鈍い音がして、ディオンが動きをとめた。

 ティアラ達の口論もそこまでだった。

 ふらつく狼の体を引き寄せた金髪の悪魔は、その首を片手で掴む。

『…僕の血を飲んでも、あんたが死ぬだけだよ…』

 荒い息を吐き出し、ディオンがゼブラを睨みつける。

 それに対し、彼は残酷に赤い瞳を細めて微笑んだ。

「出来れば狼の血は欲しくないけどね、こっちは一ヶ月以上何も食べてないからこの際なんでもいい」

 ティアラは意を決してすぐ頭上にあるゴンドラの扉のもち手に手をかけ、よじ登る。

「ちょ、何してるのよ!」

 ウェンディが顔を引きつらせて言う。

「誰も助けないなら私が行く! ゼブラだって仲間だよ、暴走なら私がとめる!」

 あの人を、これ以上傷つけてはいけない。

 これ以上、汚してはいけない。ゼブラは誰よりも戦おうとしてきたんだから。

 馬鹿なことを、と言うようにウェンディがひげを動かす。グレイスはただ見守る事しか出来ないと思い、閉口した。

 一歩一歩確実に登りきる。

「殺してやるよ」

 冷たい声だった。

 私が救うことができなかった、あの声。

 喉の奥が熱くなるのを飲み込み、ティアラはゼブラがディオンの首に口を近づけようとするのを見て、とっさに声をあげて割り込んでいた。

「駄目!」

 自分から避けていたゼブラに、これほど近づくなんて有り得なかっただろう。

 けれども二人の間に割り込み、ティアラはゼブラにしがみついた。

 少し下のゴンドラへ落下しうずくまった狼を見下ろした後、ティアラはほっとしたのと同時に悲しさがこみ上げてきていた。

「駄目だよ…妖怪の血なんて! 飲んだら命が縮んじゃうんだよ!」

 うつむきつつ、彼女は怒鳴るように言った。

 ゼブラがどんな顔をしているのかも分からない。

 そうして、思いがけない高さに彼女は少々腰がひけていた。

「……いいよ、それでも」

 投げやりには聞こえないが、本気かどうかも分からないような物言いの返事に、ティアラは顔をあげる。

 赤い瞳と目が合ったとき、あのフェネックを抱き上げた時に揺らめいた色と同じだと気付いた。

「ティアラを守れるなら」

 どうして、そこまでしてくれるの。

 これでチャラだって言われても、まだ苦しい。

 私、あなたを救えなかったのに。あなたがこんな風になってしまうまで、助けることも出来なかったのに。

「っ……もう、いいの!」

 涙が浮かぶのを隠そうとするのも忘れ、ティアラは苦しげに言葉を吐き出した。

 下でディオンが起き上がろうとしているのには気付かない。

「ゼブラ、お願いだから汚れないで。もう、誰も殺さないで。……ちゃんと生きてよ……あったかい心で、また前みたいに」

 彼の瞳にわずかに光が宿ったような気がした。

「ティアラ!」

 だが、突然のウェンディの呼び声に、二人ははっとする。

 ディオンが体勢を立て直し、こちらに向かってゴンドラを蹴ったところだった。

 ティアラが身構えようとするのに対し、ゼブラは彼女の耳元で囁いた。

「俺はティアラの騎士だって言ったはずだよ、お姫様には守られたくないな」

 その言葉を残し、ティアラを宙に押し出す。

 何するの、と思えばウェンディが彼女のコートの帽子を引っつかみ、落下を遅めようと踏ん張っていた。

 グレイスがゴンドラを飛び降りてこちらへ向かってくる。

 と、背後で魔法を使うような音が聞こえたが、彼女は巨大な屋敷の敷地内にある木の中に突っ込んだ。

 そうして、頭に激しい衝撃を感じ、ティアラは意識を手放した。



 馬の足音のようなものが聞こえ、うっすらと彼女はまぶたを持ち上げた。

 ぼんやりと眺めるそこは、灰色の石畳。そうしてその上を、丁度馬車が通り過ぎていく。

 砂埃が立ち、咳き込みながらティアラは重たい体を起こした。頭痛がして、顔をしかめる。

 自分が遊園地の観覧車から見事に落下したのだと思い出しながらも、不意に見たことがない光景に彼女は目を見張った。

 ティアラがいた場所は少し坂になっている狭い通りで、十九世紀頃らしき古い建物が建ち並んでいる。灰色の石畳を踏み、ドレス姿の人々が行き交っていた。

 一瞬で、魔法界だと分かる。彼女も幼い頃はこういう場所で育ったのだ。

 まだ地面に座り込んだままだったと、慌ててティアラは立ち上がった。が、道行く人々は誰一人彼女に気付かない。

 もしかして私、他の人に姿が見えてない?

 薄黄色のフィルターがかかったような視界の中を、不意に通り過ぎていく家族が目に入る。

 黒のエプロンドレスを着た薄い水色の髪の若い女性と、肩までの黒髪を結んだ夫らしき男性、そうして二人の手を掴んで歩いている青い髪の六歳くらいの少年だった。

「今日は何が食べたい?」

 何処にでもありそうな家庭の会話だった、けれどティアラの胸がなぜか痛んだ。

 自分と同じ色の短髪の女性と黒髪の男性、そしてその息子は、幸せそうに微笑んでいる。

 何処かから、声が聞こえてくる。

 幸せだった? 幸せだった。

 坂を登っていく家族の背を、彼女はじっと見つめた。

 あなたといられて、幸せだったわ。

 突然、辺りの景色が変わる。

 人々や物がめまぐるしく動き、再び動きがとまったときにはティアラは講堂のような場所に立っていた。

 古めかしい乳白色の壁に取り付けられている巨大な出窓から、夕暮れの日差しが差し込んでいる。

 窓の外に見える庭園のような場所の木々が風に揺られて、葉を擦り合わせ音を立てていた。

 人気の少ない講堂を出口へ向かっていたあの男性の姿に、ティアラは目を奪われる。

 彼は彼女のすぐ横を足早に通り過ぎていき、すぐ後で二人の男性に呼び止められていた。

「魔法使えないからって課題めいっぱいやってきたんだって?」

 茶髪の二人は、面白がるように彼を見ている。

「……じゃないと単位もらえないから」

 不快そうに男性は答える。ティアラの鼓動が速くなった。

 この人……。

「無理はやめとけよ」

「ミルキー家はどうせ落ちこぼれなんだからさ」

 馬鹿にしたように笑いながら二人は去っていく。

 一人立ち尽くし、彼は拳を握り締めた。

「魔法が使えなきゃ、価値がないなんて……間違ってる」

 小さい呟きだったけれど痛烈に言葉を吐き出す男性に、ティアラは実感していた。

 ああ……そうなんだ。

 自分と同じ、暗い青の瞳を覗きこむ。それでも彼は彼女の姿が見えない。

 あなた、シャトーなのね。


 月が高く昇っていた。

 グレイスは観覧車から飛び降りてきたゼブラに駆け寄る。

 ビリーも乗り場からこちらへ向かって走ってきた。

「ゼブラ、大丈夫か? 戦ってくれて助かった」

「逃げられたけどね」

 左肩を押さえつつ、地面に片膝をついた彼にグレイスも同じように屈む。

「か、顔色が悪いですよ」

 ビリーが心配そうにゼブラに手を伸ばそうとする。

「俺に触らないほうがいい」

 そう言われ、彼は素早く手を引っ込めた。

 焼けるように激しく痛む肩は、呪いが進行しているのだろうか。

 うつむき目を閉じれば、まぶたの裏に間近でこちらを見ていたティアラが浮かぶ。

 幸せに、なれるだろうか。と思う。

「ゼブラ! あんた何てことしてくれたのよ!」

 突然の怒鳴り声に、彼はふらつきつつも立ち上がった。

 肩を押さえていた手を放し、痛みを堪えつつ振り返る。

「ウェンディ!」

 屋敷の敷地内へ入ろうとしていたジーラスとサンが、同時に声をあげた。

 木の枝や葉っぱを体中にくっつけて、真っ白なオコジョが塀をよじ登ってくる。

「何てことって何が」

「あの子の姿が見当たらないのよ!」

 全員の顔色が変わる、ゼブラを除いては。

 「…シャトーに捕まったかな」

 ぼそりと彼は呟いた。ウェンディは焦ったように翼を羽ばたかせつつ宙でうろうろと無駄に動き回る。

「まさか。こんなに早く?」

 ようやく力を取り戻したらしいサンの表情も深刻だ。

「す、すみません……僕が遊園地に行きたいなんて言ったから」

「ビリーのせいじゃねーよ」

 落ち込むビリーの白い髪をくしゃくしゃと撫で、ジーラスは平静を装って彼を覗き込んだ。

「ともかく、屋敷に乗り込むぞ」

 グレイスが塀を睨んだのに対し、全員が大きく頷いた。


 季節は大きく移り変わっていた、緑の生い茂る夏場から秋へ差し掛かり、冬が近づいていた。

 不思議とティアラは雪の積もる街を歩いても寒さを感じなかった、それどころか雪の上に足跡さえ残らない。

 前を行くシャトーは、分厚い本を抱えて足早にあの坂道を上っていく。あまりに速いので、彼女はほとんど走って追いかけなくてはらなかった。

 やがて、人気のない路地へ入った彼は分厚い本を広げ、地面にチョークで何かを描き始めた。魔法陣のようなものだ。

 大抵の魔法使いは、魔法を使うときに足元に魔法陣が浮かぶ。それが魔界人と魔法使いの違いだ。通常の魔界人は魔法陣が浮かばない。

 しかし、普通の魔法陣よりはえらく複雑で、ルーン文字のようなものが無数に入っている。

 どのくらいの時間が経ったのだろう、と考えつつぼんやりしていると、熱心にそれを書いていたシャトーは急に立ち上がった。

 我に返ったティアラは、彼が何やらブツブツと呪文を唱え出すのを耳にする。

 脳裏に夏の踏切で会ったプラシナが言っていた言葉がよぎった。

 ―彼は魔界へ行って、当時の魔界一の権力者だった皇帝に自分が魔法を使えるようになるための最低限の魔力を貸してもらい、強くなったら必ず返すと約束したの―

 まさか、と思うが予感は的中したようだ。魔界への扉を開くつもりらしい彼の腕に、ティアラは思わずしがみついていた。

『シャトー、駄目よ! 魔界に行って魔力を手に入れたりしたら……!』

 自分の声がやけにこもっている。シャトーに彼女の声は届いていない。

 どうしようと迷っている間にも、彼が呪文を唱え終わった瞬間景色が一変した。

 気付けば、ティアラは薄暗い部屋の中に立っていた。ふかふかの絨毯が敷かれていて、見るだけでグロテスクな家具が並んでいるそこに、シャトーと見たこともない中年の男が立っていた。

 どうやらシーンが飛んだらしく、彼が魔界の皇帝に頼みごとをしにきた場面だと分かる。

「どうか私に力をお授け下さい」

 床にひざまずくシャトーに、彼女は何か止める方法はないかと辺りを見回すが、もちろんその行動は無意味だ。

 そうしている間にも暗くて顔がよく見えない男は、立ち上がったシャトーに薄青い光を手渡した。

 その光が魔力だ。

 ゆっくりと光はシャトーの額の中へ入っていき、やがて彼は自分の手のひらを見つめて目を輝かせた。

『それはあなたの魔力じゃないの!』

 ティアラは気付いて、と思いながら声を張り上げた。

 この気持ちを、もどかしいという言葉だけで表すなんて軽すぎる。だけれど、本当にもどかしい。伝わらない。

 そうしている間にも、場面は変わる。

 いい加減、シーンが変わる瞬間の空間のねじれに気分が悪くなってきた頃、彼女は背についたあの講堂の壁に気付き我に返った。

「ゆ、許してくれ!」

 懇願するように声をあげ床に魔法で押し倒されている男達は、いつかシャトーを嘲ったあの二人だった。

 彼は冷たい目で二人を見た後、その指を動かす。と同時に鮮血があたりに飛び散った。

 ティアラは思わず目を閉じる。

 人を裂くような惨い音だけが耳に届き、吐き気を感じた。

 やがて、辺りが静まり返った頃、彼女は恐る恐る目を開ける。

 真っ赤に染まりきった講堂に、ティアラは腰が抜けそうになった。 なんてひどい。

 床に倒れていたはずのあの二人には、もはや人らしい形がなかった。ばらばらになり、時折確認できる腕や足のようなものが辺りに散らばっている。

 シャトーは少々苦々しげな顔をしていたが、さっさと講堂を出て行った。

 またもや景色が移り変わる。

 フラッシュバックのように、彼が人を襲う光景が彼女の目に映っていた。

 とはいっても、それは傍観者のように見ているティアラの前を通り過ぎていくだけ。

 永遠にこんな空間を流れていなくてはならないのか、と思ったとき、突然彼女の足は地に降り立った。

「どうしてそこまで魔法にこだわるの? 魔法が使えても使えなくても、あなたはあなたよ」

 夜なのか月光しか入らない部屋で、彼の妻である女性が言った。その髪の色は暗くてもよく目立つ。

 きみには分からない、とシャトーは呟いた。

 魔法を使える人に、自分の気持ちなんて分かるものか。魔法使いとして生まれてきたのに、魔法が使えないなんてこの世界は息苦しすぎる。

「……知ってるのよ、シャトー。昨日教授から伺ったの。あなたが、他の魔法使いを殺してるって」

 苦々しげに女は言葉を吐き出した。

「お願い、もうそんなことしないで。あなたは欲に目がくらんでるだけよ、魔法なんかなくても………」

 言葉が途切れたのは、彼が彼女の首に手をかけたからだ。

 ティアラはその場に固まった。

 躊躇なく、その細い首を両手で締め付ける。

「ごめん」

 そう謝りながらも、シャトーはその力を緩めようとはしなかった。

『シャトー……駄目、待って。殺しちゃ駄目!』

 ティアラは彼に駆け寄り、その片腕を掴む。

 引き離そうとするが、まるで力が入らない。自分の腕じゃないかのようだ。

「……自分の…ために…家族まで殺すのね……」

 切れ切れに唇を動かし、女が言う。

 その瞳から、一筋の涙が落ちていく。

「ちゃんと…幸せに……なって…」

 ティアラは喉の奥が熱くなった。

 本当に、この人はシャトーを…。

 最後の最後まで、心から愛してたのね。

 彼女は耐え切れなくなり目を閉じる。

 何かが折れるような鈍い音が聞こえ、女性は床に倒れた。その口からわずかに血が滴り落ちている。

 ティアラはそっちを見まいと顔を背け、代わりにシャトーを見上げた。

 彼は無表情ではなかった、悲しげに顔をゆがめていた。今にも泣きそうだった。

 彼女は涙を手の甲で拭いながら、シャトーの肩を右手を拳で目一杯叩いた。

 彼は痛みなど感じないだろう。

『魔力なんかもうどうでもいいじゃない! あなたは、あなたを愛してくれる人を大切にするべきだったのに……っ…! シャトー!』

 空間が歪む、ねじれていく辺りに気分が悪くなりながらティアラは泣きじゃくりながら座り込んだ。

 ねえ、人に対する愛より大切なものってあるの? 命や心なら分かるよ。

 だけど、あなたが手に入れようとしたのは自分の欲、権力だけ。

 そんなの大事じゃないじゃない。

 たとえどんなに過酷な道でも、愛する人と一緒なら乗り越えられるって、信じることが出来たのに。

 魔法なんかなくても。

 気付けば、ティアラは広い大理石の廊下に立っていた。

 見たこともない場所で、美しく装飾されているランプが壁伝いにいくつも並んでいる。

 目の前を黒いマントを着て歩いていくシャトーに気付き、彼女はそれを追って駆け出した。

 いつ現れたのか、廊下の終わりを告げる巨大な両手開きの扉がある。

 彼は躊躇なく、その金の持ち手に手をかけて扉を引き開ける。

 その先は広い部屋で、その中央の椅子に座っていた中年の男が顔をしかめた。

 どこかで見たような、と思う。そうして気付く、今の王より五代くらい前の王の肖像画がこんな顔だった。

 ということは、シャトーは王を殺すところまで来てしまったのだ。

 彼女は急いで彼と王の間に割り込む。

『シャトー、待って! 王様、早く逃げて!』

 もちろん、彼女の声は聞こえない。

 目を閉じる間もなかった、彼は王から数メートル離れた場所で手を広げ、赤い炎を飛ばす。

 それは王を一瞬で燃やし尽くしてしまった。

 激しい悲鳴だけが部屋に残り、ティアラは耳を押さえて目を閉じる。

 突然、閉まったはずの両扉が開いた。

 それも一瞬で、シャトーの体を鋭い矢が貫く。

 彼女は驚いて耳を押さえたまま固まった。

 ゆっくりと時が流れ、彼は床に両膝をついて痛みに顔をゆがめる。

 戸口に警官と衛兵が立っていた。その中の一人が弓を持ってシャトーを睨んでいる。

 何やら怒鳴り、警官が彼を押さえつけて連れて行くのに対し、彼女はそれを追いかけていた。

 衛兵が灰になってしまった王に涙を流しながら祈りを捧げている。

『待って、連れて行かないで! ねえ!』

 その声が届いたのか届かないのか、彼は両腕を縛られながら不意に顔をあげた。

「…誰だ…?」

 今も変わらないあの声が小さく呟く。

 ティアラは涙を飲み込みながら、引きずられていく彼をしっかりと捉えた。

 シャトーと同じ、青い瞳で。

『シャトー、幸せにならなきゃ駄目だよ……奥さんが言ったじゃない。幸せになってって……彼女は、誰よりもあなたを愛してたのに!』

 驚いたように彼が目を見開く、と同時に王室の扉が彼女の目の前で閉まった。

 その扉の前で立ち止まり、ティアラは部屋の中なのに冷たい風が吹くのを感じた。

 おかしい、此処へきてから冷たいとかあたたかいとか、感じることはなかったのに。

 シャトー、幸せになって。

 あの人の声が聞こえた。私と同じ、髪の色の。

 そう思った瞬間、辺りが眩い真っ白な光に包まれていくのを感じ、ティアラはきつく目を閉じた。



 ひんやりとした埃っぽい空気を感じて、彼女はそっとまぶたをあげる。

 黴のような臭いが鼻をつき顔をしかめつつも、異常に重たい身体を持ち上げて起き上がった。

 頭がずきずきと音を立てて痛む。

 額を押さえて顔をあげれば、そこに続いているのは長い長い廊下だった。

 終わりが見えないその廊下には赤い絨毯が敷かれてあり、壁は白くところどころに傷や汚れがついている。

 戻ってきたんだ……。

 ぼんやりとそんなことを思い、ティアラはその光景を改めて見直す。

 此処、どこだろう。見たことのある場所…。

 鼓動が速くなる、座り込んだままの彼女は不意に視界に入ってきた黒いものに一気に頭が目覚めた。

 夢、そう。夢の中で見た。

 寝違いでもしてしまったかのように痛む首を動かし顔をあげれば、そこにはさっきまで傍にいた黒いマントを頭からかぶった青年が立っていた。

「……シャトー…」

 掠れた声で、彼の名を呼ぶ。

 相変わらず目元が見えない、ティアラは無表情のままのシャトーを見たまま壁に手をつき、ふらふらと立ち上がる。

 足も異常に痛い。関節が軋む。

「…最初から、お前をどこかで見たと思っていた」

 口を開いた彼は、淋しげだった。

「死んだ妻と似ている髪の色で、人目で子孫だと分かったが……まさか、過去にきていたなんて知らなかった」

 ティアラは壁からそろそろと手を放し、自分の足に体重を戻す。

 シャトーが顔をあげることはない。

「…私、ずっと見てたよ。あなたがどんなに苦しかったのか、悔しかったのか、悲しかったのか……全部」

 私も、同じだったから。

 あなたみたいに、人を憎んだときもあった。

 でも、魔法がなくても自分を必要としてくれている人がいたから頑張れた。

「……幸せに、なって。じゃなきゃ奥さん、浮かばれないよ」

 シャトーからは敵意を感じられなかった。

 彼が本当に敵なのかどうかは、よく分からない。

 だって、こんな人でも私の先祖だもの。私と血が繋がってるんだもの。

「…幸せ、とは何だ? 私は大いなる罪を犯した。今も、また同じ事を繰り返そうとしてる。こんな悪党が幸せになれるはずないだろう?」

「それは…確かに人を殺したのはいけないことだけど、誰もシャトーに対して幸せになるな、なんて言ってないでしょう? このまま…なんて、そんなの…」

 そんなの、悲しいよ。

「ティアラ、その感情は単なる同情だ。汚れたものは綺麗にはならない、綺麗になるのは難しい。……それならもっと汚れればいいと思うのが人の考えだ」

 あまりにも淡々と言うシャトーに、ティアラは思わず彼に近づきその腕を掴んでいた。

 その勢いに、シャトーはわずかに彼女を見る。

「どうしてそんなこと言うの? 同情かもしれないけど…同情でも何でも、私はあなたの人生を見ちゃったんだもの!」

 何も言わずに、ただうつむく彼にティアラは顔をゆがめる。

「皆、幸せになるために生まれてくるのに。…幸せになるのは難しいよ、平凡に生きてるのが幸せじゃないんだよ。だから皆頑張ってるんじゃない、その中で大事な人を見つけて助け合っていくんじゃない! なのにあなたは大事な人を自分の手で殺したの!」

 怒りと悲しみが溢れている気がした。

 彼女の頬を涙が伝う。

 きつく彼のマントを握り締め、必死に涙をとめようとするがとまらない。

「愛より、命より大事なものなんてないよ…それに気付けたなら、また幸せをめざそうっていう気持ちになる。だけどシャトーは逃げたの、自分の弱さが嫌になって強くなるために魔力だけを手に入れて、結局心は弱いままじゃない! 皆頑張ってるのに!」

 グレイスさんも、ジーラスも、親を亡くしても生きている。大事な人の死を乗り越えて。

 サンも魔法界を追い出されても、それでも魔法を自分で学んで生きている。いつか、また同じ世界へ戻れることを信じて。

 ゼブラだって、あんなに汚れてしまったのにまだ、頑張ってる。あんなに苦しんでる人、他にはいない。知らない。

「私は、あなたより頑張ってる人を何人も知ってるから。皆、辛い思いをしてもまっすぐに生きてる、精一杯生きてる。…そのなかで見つけた優しい心が、幸せの鍵になるんだよ。幸せは…そうやって心から優しくて強くなれたときに手に入るんだよ」

 戦う強さじゃない、人をつつみこんで、時には守ってくれる強さ。

 涙を拭って言い切った彼女に、シャトーが何を感じたのかは分からない。

 ただ、彼はわずかにうつむいた後、ティアラが掴んでいた自分の腕を動かした。

 それが首に伸びてきたものだから、彼女は慌てて後ずさるが引っつかまれる。

 警戒しなさすぎたかもしれない。

「…ごめん」

 あのときと同じだった。

 首をつかまれ壁に押し付けられて、ティアラは顔をしかめる。

「また同じことを繰り返すの? シャトー!」

 しかし、言葉もむなしく首を掴む手に力が入る。絞めつけられて、呼吸がとまる。

 痛みさえも感じる強さに、ティアラは自分の首を絞める腕を掴んだ。

 声が出ない。

 殺される、と身体に力が入る。と同時に辺りが一気に燃え上がった。

 自分の魔法だと気付く、だが燃え上がったところで何の役にも立たない。返って命の危険性を高めただけだ。

 目の前が霞んできたとき、不意に彼女の視界の隅に透明な女性の姿が現れた。

 見た事のある、シャトーの妻だった女だ。

『シャトー、やめて。その子を殺しては駄目よ!』

 反響する声に、彼はわずかに力を緩める。

 どうやら、彼女の声が聞こえたらしい。

 ティアラはシャトーの腕を掴み自分から引き離そうとしながらも、女を見た。

「…ビア……」

 わずかに洩らした呟きは、妻の名だろうか。

 と、不意に女性の姿が揺らめいて消える。同時に目の前にいたはずのシャトーが何かに蹴り倒された。

 ようやく解放され、ティアラは燃え盛る炎の中で数少ない酸素を吸い込む。

 床に倒れた彼が姿を消した途端、ふらついた彼女は誰かの腕に支えられた。

「ティアラ、大丈夫か?」

 聞きなれたグレイスの声だった。

 顔をあげれば、黒髪の少年と目が合う。

 胸を撫で下ろしつつ、ティアラは頷いた。

「遅くなって悪かった」

「いえ、ありがとうございます」

 どうにか返事を返し、首の痛みを堪えながらシャトーを刺さずに済んだとほっとしていた。

「あ、あの此処はどこでしょう?」

 一番尋ねたかった事だ。

「遊園地の中にあった屋敷だ。十九世紀は公爵家だった場所で、歴史ある建物だから残してあったらしい」

 ということは、歴史ある建物を燃やしてしまった?

 ティアラは血の気が引くのを感じつつ、どうにか自分の足でしっかりと立つ。

「ど、どうしよう…私、またわけの分からない魔法使っちゃって建物を……」

 動揺する彼女に、グレイスはそういうわけかというように廊下を見回した。

「とにかく、火が回っていないところに移動しよう。焼け死ぬのはごめんだろ」

「あの、ウェンディ達は……」

「大丈夫、ちゃんと下にいる。お前を待ってる」

 安堵感に肩の力を抜き、まだグレイスの腕に手を置いたままだったと気付く。

 慌てて離れようとした途端、逆に引き寄せられた。

 今までにはありえないことだったため、びっくりする。

 雨の日とは違う、しっかり抱きしめられて彼女は固まった。

「言いたいことがあるんだ」

 家族ともここまで密着した事はないかもしれない。

 グレイスの肩に顔を押し付けるしかなくなり、心臓がどくどくと激しく脈打つ。

「い、言いたいことですか?」

 緊張で震える唇を動かして、ティアラは問い返した。

 普段は遠い彼の黒い髪が、自分の頬に当たる。

 グレイスの背に手を回すなんてことも出来ないまま、硬直した状態の彼女の耳には激しい心音だけが届く。

「ティアラ」

 耳元で名前を呼ばれて、一瞬肩を震わせる。

 ティアラは普段より何倍も固く緊張で感覚がない手で、そっとグレイスのコートを掴んだ。

「…好きだ、ずっと…好きだった」

 炎の熱さなんかじゃない。

 自分の顔のほうが炎より、燃えるんじゃないかと思うほど熱かった。

 自分が地に足をついているかどうか、もはや分からないほど身体がふわふわしていた。

 心臓が破裂しそうに速く脈打っている。

 とにかく、離れなければ死んでしまうと思い、彼女はグレイスの肩を押し退けてどうにかその腕から離れた。

「え……あの……」

 声が震えているのが分かる。

 黒い瞳と目があわせられず、うつむいたままでも一人では立てないほど足が痛かったため、どうしても彼の腕を掴んだままになる。

「わ、私はまだ……」

「今、返事をもらおうなんて思ってない」

 言葉を遮られて、どきりとする。

 十七にもなって、こんなことで真っ赤になるなんて馬鹿みたいだ。

「…急にこんなこと言って、悪かった。だけど、早く言わないと……お前は気まぐれだから、また何処かへ行ってしまうような気がしたんだ」

 気まぐれ。そうかもしれない、自分で一人考えて一人納得して行動するのがティアラだ。

 小さく頷きつつ、彼は彼女の腕を掴んでいた手を反対の手で握った。

「移動するぞ」

 もう返事も出来ないまま、引っ張られて火の回っていない方向へと歩き出す。

 こんなに熱い炎の中でも、その手のぬくもりだけは心地よく感じた。

 まだ燃えていない玄関ホールへの広い階段を駆け下りながら、彼女はその黒い天鵞絨の絨毯の上に立っている見慣れた仲間達にほっとした。

「ティアラ! 無事だったのね!」

 ウェンディが今にも泣きそうに顔をゆがめながらこちらへ飛んでくる。

 階段を下り終わり、グレイスが自分の手を放すのが妙に余所余所しく思えたが、今はそれを気にしている場合ではなかった。

「本当に死んじゃったかと思いましたよ…!」

 ビリーがへなへなと床に座り込む。

 ジーラスとサンがそれを立たせようと、彼の腕を掴んだ。

「とにかく、早くここから出ましょう。まだディオンがそこらへんをうろついてるはずよ、おまけに燃えてるみたいだし…」

 ティアラはシャトーのことを思い出し、少々気がかりだが炎が回って焼け死んだらそれこそ元も子もない。

 頷いた時、不意に風が起きた。

 彼女は風を感じた背後を振り返る、と同時に突然グレイスに引っ張られる。

 空を裂き、狼が彼女から数メートル離れた場所に降り立った。

「ディオン…!」

 グレイスのお陰でぎりぎり助かり、ティアラは少年の名を呟く。

 彼は躊躇なく再び飛びかかってこようとする。

 その俊敏な動きに、避わしきれない、と彼女が思った瞬間、ティアラとディオンの間に人影が割り込む。

 ゼブラだ。

 自分の身体を使って、力任せに狼を階段に押し付ける。

『放せっ…!』

 暴れ牙を剥く妖怪は、今にも彼の喉を切り裂いてしまいそうだ。

 だが、ゼブラは一向にディオンを放そうとしない。

 それどころか、狼の肩に刺さりっぱなしの短剣に手をかける。

「ゼブラ、それを抜いたら……」

 妖怪を自由にするようなものだ、と言いたそうにウェンディが言葉を紡いだ。

 同時に彼は短剣を引き抜く、その傷から真っ赤な妖怪の血があふれ出した。

 無意識の後ずさり、ティアラは口元を押さえる。

 痛みに唸り声を洩らすディオンは、自由の利く左腕を動かした。

 けれどいとも簡単にゼブラはその腕を押さえ込み、抜いた短剣を腰にしまう。

「これは返してもらうよ」

 そうして狼を放す、一気にディオンは跳ね起きた。

 妖怪は傷を負ってもそこまで動くのに害はないようだ。

 体勢を立て直しつつも、床に血がポタポタと音を立てて落ちる。

 気にもせず狼は跳ぶ。ゼブラを狙っている。

 彼はあっさり交わすと、再び短剣を抜いた。一瞬背を向けたディオンの隙をつき、その身体を壁に押し付ける。

 自分より背が低い狼の茶の耳についている青い宝石に剣を当てれば、そこが裂けて宝石が割れる。

 牙を見せたディオンの腕を押さえつけ、彼は躊躇なくその腹に刃先を突きたてた。

 それでも狼を放そうとしないゼブラに、ティアラは苦々しげに顔をゆがめつつ口を開く。

「ゼブラ……?」

 彼は一瞬彼女を振り返った、赤い瞳がこちらを見ている。

 だが、すぐにゼブラはディオンに視線を戻した。

「ちょっと、馬鹿な真似はやめなさい!」

 ウェンディが怒鳴るのも構わずに、彼は息も絶え絶え必死に意識を保っている狼の首筋に唇を近づける。そうして戸惑いもなく自分の牙を差し込んだ。

 ディオンが苦しそうに、残った力でゼブラの肩を押し退けようとする。

「ゼブラ!」

 ティアラは彼の名を呼ぶのと同時に駆け出していた。

 ディオンを押さえている彼の腕に手をかけ、狼から引き離すように引っ張る。

 あまり力を入れていなかったゼブラはあっさり妖怪から離れた。

 力が抜けたように床に膝をついた彼に、ティアラも屈む。ディオンがふらりとその場に倒れこみ、血が飛び散る。

「…やっぱり血はまずいね」

 ひどい顔色だ。

「どうして……!」

 彼の腕を掴んで揺さぶりながら、彼女はその沈んだ赤い瞳を見つめた。

 口元についたディオンの血を手の甲で拭い、ゼブラはそっと左肩を押さえる。

「……痛いの?」

「何が?」

 力なく微笑んだ彼に、ティアラは泣きそうだった。

 どうしてあなたは、命を捨てるような真似をするの。

「血なんか飲まなくてもディオンは死んでたよ! どうしてわざわざ……」

「吸血鬼だからだよ」

 迷いもなく答えた、嘘ばっかり。

 そんなの名前だけ、あなたは今も人間のままなのに。だけど、人として扱われたくないからむやみに邪悪な魔法を使うのよ。

 赤い瞳を睨みつけ、彼女は唇を噛んだ。そうしないとまた泣いてしまいそうだった。

「………ゼブラ、あんたの命がどうなろうと今はそんな場合じゃないわ。ボスの登場よ」

 ウェンディが神妙に言ったことに、二人は顔をあげる。

 広い階段の上に、マントをまとった男が目元を隠して立っていた。

 ティアラ以外の誰もが警戒心を彷彿とさせたに違いない。

 ゆっくりとこちらへ向かって階段を下りてくるシャトーの姿に、ティアラは立ち上がった。ゼブラもふらきつつ立ち上がる。

 彼は、壁際に倒れた狼に視線を投げた後、天鵞絨を踏みグレイスを見た。

 グレイスはシャトーを睨むように見たまま、動こうとはしない。シャトーも同じようにしばらく彼を見つめていたが、不意にふっと血の気のない唇で笑んだ。

「グレイス、だったか。私と勝負しないか?」

「勝負?」

 不審げに眉をひそめたグレイスに、彼は平然と頷く。誰もが目を見張った。

「ちょっと、あんた何考えてるの! そいつは人間よ、グレイス相手に何しようっていうの!」

 ウェンディが横から罵倒を飛ばす。

 ジーラスがサン、そしてビリーと顔を見合わせる。

 ゼブラは相変わらず顔色が悪いが、普通を装っているのかまともに立って無表情のままそれを聞いていた。

 ティアラはどうすることも出来ず、二人を交互に見るしかない。

「……何で勝負しろと?」

 応じるつもりなのか、グレイスは警戒しつつもシャトーをまっすぐに見た。

 すると、それを合図にしたかのよう辺りが揺れ動く。

 何事かと思えば、足元に白黒の地盤が浮き出てきたために、ティアラは慌ててそれから飛び退いた。

 絨毯が消え去り、白い大理石の上に巨大な白黒の床が顔を出す。人一人が一マスに入っても余裕があるくらい大きい。

「チェスで勝負しよう」

 からかっているのか、と思えばシャトーは本気のようだ。

 ティアラはさっき抱きしめられたことも忘れ、慌ててグレイスに駆け寄った。

「駄目です! この人と勝負するなんて……危険が多すぎます!」

 ジーラスが大きく首を縦に振る。

 だが、彼女がとめるのも空しく彼はシャトーから視線を外さなかった。

「ルールは?」

「グレイスさん!」

 ティアラの呼び声に彼女を下がらせつつ、グレイスが相手になる気があると確認したシャトーは、巨大なチェス盤の反対側まで歩き出す。

「ルールは普通のチェスと同じ。先にどちらかのキングをチェックメイトしたほうの勝ちだ」

 反対側のキングのポジションまで歩いていったシャトーは、グレイスを見る。

 彼も向こうを見返した。

「お前は白のキング、私が黒のキングになる。仲間も駒のポジションにつく。私が負ければ、封印するなり何なり好きにすればいい。ただし……そっちが負ければ、お前の命はない」

 ティアラの心臓が重く脈打った。

 それは、シャトーがグレイスに勝ったら彼を殺すということだ。

「人間相手に卑怯よ!」

 ウェンディが怒鳴る。

 ジーラスは、宣告された当の本人とは真逆に青ざめ、ビリーとサンが息を飲み込む。

「グレイスさん……」

 ティアラは不安げに隣のグレイスを見た、彼は顔色ひとつ変えない。

 それが地なのかもしれないけれど、こればかりは不安になった。

「いいだろう。ただ、そっちが条件を出すならこっちにも条件がある。私が勝ったら、全員を無事に帰すと約束してくれ」

 そう言い、白のキングのポジションに足を踏み出したグレイスに、シャトーは悪戯げに微笑んだ。

「分かった」

 勝負に、応じてしまった。

 後戻りは出来ない、勝たなければ全員が殺される。

 ティアラは震える手を握り締めた。

「位置についてくれ。ウェンディとサンがビショップ、ゼブラとビリーがナイト。ティアラがクイーン」

 平静に指示するグレイスに、ウェンディがわなわなと身体を震わせている。

「あんた信じられない! チェスなんか出来るの!? 見たことないわよ!」

「施設にいた頃は毎日やっていた」

 両親を失ってからいたという孤児を保護する施設の事らしい。

 そんなもん、というようにウェンディが顔を引きつらせた。

 彼女の様子を無視し、ゼブラが平然とナイトのポジションに立つ。

「ゼブラ…」

 真っ先に出向いてくれた彼に、グレイスは少々驚いた様子だった。

「やるなら絶対勝利、が法則だよ」

 そう言い、ゼブラは赤い瞳でわずかに微笑む。

 その様子にサンも足早にビショップのマスまで移動する。

「ちゃんと勝ってくださいね」

 サンは黒く長い髪を耳にかけなおし、シャトーを見ながらグレイスに言葉を投げかける。

 怖々だったジーラスも勇気を奮い立たせたのか、ルークのポジションの上に立った。

「俺は兄ちゃんを信じる! っつーか、まだ死にたくないし!」

 弱気な言葉だったが、兄を見た彼の瞳はしっかりとしていた。

 ビリーもゼブラと反対側のナイトのポジションを踏む。

「この弱い僕でも、師匠の役に立つなら駒にでも何でもなりますよ!」

 だから、その呼び方恥ずかしいんだってば。

 皆が呆れた目でビリーを見たけれど、彼自身は本気だった。

 残されたウェンディは、仕方なさそうにひげを動かしてビショップの場所へ飛んでいく。

 マスの上に降りる、というわけではなかったが、その場で空中停止した。

「負けたら噛み千切るわよ」

 ぎろりと黄金の瞳でグレイスを睨みつけたウェンディの言葉は、彼女らしかった。

 そうして、彼はティアラを振り返る。

 彼女はその黒い瞳と目が合い一瞬どきりとする。

 そして、深く深呼吸をすると足を踏み出した。

 グレイスの隣、クイーンのポジションにしっかりと立つ。足はもう痛まない。

 それを確認したようにシャトーがわずかに手を動かした。

 足りない分の駒が現れる、二メートル近くありそうな巨大な駒は少々不気味だ。

 シャトーが黒く丸い石のついた剣を持つ、同じ白い石がついた剣がグレイスの手元に現れた。

 かなり長い刀身のそれを、彼は握りなおす。

「ゲームスタート」

 シャトーの言葉を合図に、グレイスは駒を見る。

 大抵、チェスの試合をするときは白の駒が先手だ。等身大になってもそれは変わらない。

「…Cの二のポーン、Cの四へ」

 いつになく、彼も緊張している様子だ。

 重々しく身体を引きずり、ポーンが自動的に移動する。魔法がかかっているのだろう。

 指定されたマスの上でとまったポーンに、今度は反対側の駒が動く。

 白の斜め前へ移動してきた黒いポーンに、ウェンディが宙で地団太を踏んだ。

「馬鹿、取られちゃうじゃないのよ!」

「馬鹿はどっちですか、こっちが次に動けば向こうを取れますよ」

 ビリーが呆れたようにウェンディを横目で見る。オコジョははっとしたように目をしばたかせた。

 そうしている間にも勝負は進む。

 すっかり駒が散らばり、どれだけの時間が立ったのかも分からないまま火の足音が近づいてくる。

 盤上を移動する駒は、異常に不気味だ。

「Bの一のナイト、ポーンを飛んで……Aの四へ」

 動いていなかったゼブラが、躊躇なく足を踏み出す。

 まだ最初のポジションにいたティアラも、緊張して肩に力を入れる。

 前にあったポーンの横を過ぎ、彼は指定されたマスの上に立った。

 取られた駒は盤上の下に下りる仕組みになっている。盤上から落ちた駒は不思議と小さくなり、床に転がっている。

 それを横目でちらりと見て、ティアラは息を吸い込んだ。

 シャトーがビショップを動かす。魔法で動かしているからか、言葉はいらないらしい。

 一マスだがゼブラに接近したビショップは、彼を取ろうという作戦か。

「俺を狙うと後でひどいよ」

 冷たい赤い瞳をシャトーへ向け、ゼブラは腕を組む。

 グレイスはどうやら、彼でチェックメイトしようという考えらしい。次の手で更にゼブラを黒のキングへと近づける。

「…あいつ、よく立ってるわね」

 ティアラの隣に立っている、いや浮かんでいるウェンディが呟いた。

「妖怪の血を飲んでまだ生きてられるなんて」

「……ゼブラは、そう簡単に死ぬような人間じゃないよ」

 彼女は盤上の彼を見て小声で返事を返した。

 この戦いが終わるまでは、意地でも生きるつもりに違いないだろうから。

 白いポーンの駒をまだ動かないシャトーの前へ移動させていたグレイスは、その斜め左前からゼブラを立たせる。キングの右横にはまだビショップが残っている。

 そうして唯一、シャトーが移動できる場所へふらつきながらナイトのビリーがグレイスの指示で立つ。

 これで完全にキングを詰めた。

 シャトーからは、もう戦う意力を感じなかった。勝負が始まったときから、負けるつもりでいたかのように。

 結局、最終的に動かなくてもよかったクイーンのティアラは、隣の白のキングを見た。

 グレイスは剣の刃先を盤上に突き、黒い瞳で相手の王をしっかりと見つめる。

「チェックメイト」

 その言葉を境に、白黒の駒達が粉々になるように空間に溶け込み消えていった。

 ティアラは安堵感にふらつく。が、我に返る。

 グレイスが剣を握ったまま、シャトーへと足を踏み出した。盤上の上を歩いていく。

 慌ててそれを追いかけながら、マスの上にぺたりと落ちたウェンディをサンが拾い上げるのを視界の隅で見た。

 駒が消え、ビリーが腰を抜かしてジーラスに支えられているのを傍に、ゼブラは立ったままのシャトーから視線を外し近づいてきたグレイスに気がつく。

「お前の勝ちだ」

 投げ出すように、シャトーは言う。

「本気で勝負するつもりなんて、始めからなかっただろう? 私みたいな人間を相手に、魔法使いが勝負を挑むなんておかしい」

 グレイスの言葉に、彼は何がおかしいのか笑う。

 そうして、黒い石のついた剣を床に置いた。

「約束どおり、封印するなり何なり好きにすればいい」

「待って!」

 声が割り込んだ、ティアラだ。

 盤上の誰もが彼女を見る。

 ティアラはグレイスの横からシャトーに近づき、落ちた黒い剣を拾い上げた。

 そうして、それを彼の胸に突きつける。

「…ちゃんと、人を殺した罪を償って牢獄の中で苦しむのよ。封印されれば眠ったままで済むけど、監獄に放り込まれればそうはいかない。その苦しみの中で、地獄を乗り越えて心を洗ってまた始めればいいの。…三百年以上眠ってたんだからまだ身体も年をとってないでしょ、まだ充分に生きられるよ」

 グレイスを始めに、皆が目を見張る。

「ティアラ! そいつを生かしとくつもり? あんたは殺されかけてたっていうのに! お人好しもいいところよ!」

 やはり、というか飛び起きたウェンディが罵声をあげる。

 お人好し、そうかもしれない。だけど、私はこの人にはきっちり罪を償ってもらって幸せになってほしい。

 あの女の人が、それを祈っていたように。

「……シャトー、あの人が…あなたの奥さんが言ってた通り、ちゃんと幸せになって。陽の下で生きて、強くなって。…戦う強さじゃなくて、人を守れる強さよ」

 そう言い、ティアラは自分の手に持っていた剣を彼に渡す。

 呆然としつつも、シャトーは剣を受け取った。

 途端に風が起きる、何かと思い顔をあげれば透けた姿であの妻が立っていた。

 ふわりと妖精のように軽く飛んでこちらへ近づいてくる、そして彼のマントに触れた。

 その帽子がふわりと取れて、ティアラと同じ色の青い瞳が顔を覗かせる。

『幸せに、なって』

 そう囁き、天使のように無垢な笑顔で微笑んだ彼女は星屑のような粉になり消えていく。

 殺されてもあなたを憎めないなんて、馬鹿みたいね。

 でも誰よりも、祈っていた。

 あなたが幸せでいられるように、と。

 ただ、どうか幸せに。

 消えた妻を見送り、ティアラはシャトーを見る。

「……本当は、殺したくなかったんでしょう?」

 暗い青の瞳が宙を見ている、私と同じ。

「…ああ……」

 感情のない声だった。

 けれど、きっと今彼は心の中で自分のしたことを悔いているに違いない。

「手はいくらでも汚れるけど、人を思う心が汚れることはないと思うの。……奥さんが、今でもあなたの幸せを祈っているように」

 ティアラはなぜか自分が泣きそうになりながらも、シャトーに微笑んだ。

 辛かった、憎かった、悲しかった。どんな言葉でも追いつかないくらいの絶望に、この人はつつまれたことがあるのだろう。

 だからこそ人に優しくなれるということを忘れてしまい、真逆へ走ってしまった。

 でも、もう大丈夫。あなたはもう、誰も傷つけない。

 だって、こうして自分を愛してくれる人が傍にいると、知ったのだから。

「よかったねシャトー、ティアラがお人好しで。相手が俺だったらもう死んでたかもしれないよ」

 気が抜けたように頭の後ろで腕を組み、ゼブラはため息と共に言った。

 縁起でもないことを、というように彼女は彼を睨む。

 グレイスが剣を床に置く。

「さあ、早く魔法界の刑務所まで行け。罪を償うところから」

 彼の言葉に、シャトーは皮肉っぽく笑った。

「人間が口出しするな」

 冗談のような物言いに、グレイスも頬をゆるめる。

 そうして、シャトーはうっすらと姿を消していった。

 ありがとう。

 そう、ティアラに残して。

「早く火が回る前に出ようぜ! 忘れてたけど!」

 ジーラスがビリーを引っ張り、サンを手招きしながら言う。

 我に返り、階段のところまで炎が来ていることに気付けば、皆慌てて駆け出した。

「とっともかく、外に出たら魔法でこれを直しましょう! 見つかったら損害賠償を請求されるかもしれないわよ!」

 ウェンディが猛スピードで飛びながら怒鳴る。

 そうして出口の両扉を開けたグレイスに、ティアラは不意に気付く。

 ディオンは?

 振り返ってみれば、倒れていたはずの狼の姿はもうなかった。

 きっと、シャトーが連れて行ったのだろう。

 そう思えばほっとして、彼女は皆が手招きする屋敷の外へ飛び出した。

 さよなら、シャトー。ディオン。

 もう、立ち止まらないでね。



 もうそろそろ明け方の五時だ、だが太陽はまだ遠いらしく空は闇に染まったまま。

 眠気に打ち勝とうとしながら、こんな時間でも頑張って営業を続けている遊園地の職員達に感心する。

「眠いなら寝たほうがいいんじゃないか?」

「いや、あの大丈夫です」

 寝るためにここにいるわけではない。

 そう、あの気恥ずかしい事件の後グレイスと二人で観覧車に乗ったのはわけがあるのだ。

 ちゃんと、お礼を言わなきゃいけない。

「あの、ありがとうございました。グレイスさんがシャトーの勝負を引き受けてくださらなかったら、まだ問題は解決しなかったかもしれないし……あと、何もできなくてごめんなさい」

 彼女を守ろうとしていたらしい彼は、ティアラをクイーンのポジションから一度も動かそうとはしなかったのだ。

 それだというのに、自分は最後だけしゃしゃり出て行って…本当に失礼だったんじゃないかと今頃思う。

「いや、ティアラがシャトーを説得してくれなかったら、誰もが辛い思いをしたままこの勝負は終わってたと思う。…チェスだけじゃなくて。ありがとう」

 逆に礼を言われ、恥ずかしくなった彼女はうつむくしかなくなった。

 そもそも、彼が隣にいるだけでさっきのことを思い出してしまうのに、自分から二人きりになるなんて馬鹿じゃないかと思う。

 告白の返事だって、まだ自分の中ではっきりしないというのに。

「……よかったですよね、シャトーはまだ奥さんが傍に居てくれるってことに気づけて。やっぱり大事な人が傍にいてくれると、希望が湧くんでしょうね」

 窓の外を見つつ、ティアラは静かに呟く。

「ティアラも大事されてるじゃないか」

「え、私がですか?」

 当たり前、というようにグレイスが言ったので彼女は驚いて振り返る。

「ウェンディは死ぬほどお前を心配していたし、ゼブラも体を張ってまで毎回お前を守っていたし、ジーラスもサンもビリーも、皆結構ティアラを大事に思ってるんだからな」

 驚いて何も言えないままでいると、彼は知らなかったのか、と少々おかしそうに笑った。

 大事されてる…私が? 皆に?

「私も皆と同じだ、お前が狙われてるって知ったときはどうするべきかずっと悩んだ。……ティアラは一人じゃない」

 そう言われて、なんだか心があたたかくなってきた。

 私、本当に馬鹿かもしれない。

 今まで、一人で突っ張って頑張って、負けないようにって必死になってた。

 支えてくれる人は、いっぱいいっぱい、すぐ傍にいたのに。

 涙が出そうになり、ティアラは目元をこする。

「馬鹿ですね、私。ほんとは一人なんかじゃないのに、皆傍にいてくれるのに……ずっと一人で頑張ってたかもしれない」

 声が詰まる。

 シャトーと私は似てたのね。

 私達、ずっと一人で頑張ってると思い込んでた。

 支えてくれる人がいるからこそ、頑張れるのに。笑っていられるのに。

 どうして、気付かなかったの。

 堪えきれなくなり、頬を伝う涙を手の甲で拭う。

 そんな彼女の髪を、彼は優しく撫でた。

 ふわりと、外を粉雪が地上に舞い降り始めた。


「まったく。血はどうなったのよ、血は!」

 この時間帯の客はおらず、運転される事のないジェットコースターの隙を見て彼は地上から高い線路に腰掛けていた。

 そこへ姿を現した金髪の少女は、同じ髪の色の義弟を呆れたように見る。

「何でだろうね、妖怪の血を飲んでもあんまり気分が悪くならずに済んだんだ」

 ゼブラは雪を見上げながらも自分でも不思議に思いつつそう言う。

 プラシナは苛立ったように、彼のその左肩を思い切り掴んだ。

 一瞬ゼブラは痛みに顔をゆがめ、自分の肩を掴んでいる彼女の手首を掴み返して引き離す。

「痛いんじゃない」

「傷に触らないでくれる? その前に、俺に触っていいのはティアラだけだよ」

 不快そうに目元を細めた彼に、プラシナは呆れたらしくため息をついた。

「まだあの子なわけ? 一生続くんでしょうね、それ。いい加減見切りつけなさいよ。あの人間とくっついたんだから」

「ティアラが誰のものになろうと、俺は彼女しか愛さない。十四からそう決めてる」

「しつこいのよ、あんたは! そんなだから嫌われるんだってば!」

 大真面目のゼブラに、プラシナは顔を引きつらせて怒鳴った。

 彼は赤い瞳で宙を舞う粉雪を追う。

「明日は積もるかな」

 そう呟けば、彼女は面倒くさそうな表情をしながらも、きっとね、と返した。

 雪の別れも悪くない。

 そうして立ち上がったゼブラに、プラシナは顔をあげる。

「これから、どうするか決めてるの?」

 灰色の瞳が神妙になる。

 彼は傍に降ってきた小さな雪の欠片を掴み、手を開く。自分の体温で消えたそれを見送った後、いつものように口元をあげた。

「決めてるよ」



 昨日貫徹だったこともあり、夕べは早くから寝床についたティアラは夜明けと共に目が覚めていた。

 事務所には誰もいない、まだ六時を回ったところだし、仕方ないかと思う。

 そうして、なんだかひんやりする空気に、彼女は窓に張り付いた。

「雪…!」

 寒さを忘れ、ティアラは窓を開けた。思わず笑顔がこぼれる。

 ロンドンの通りは一面の銀世界で、街路樹や電線までもが雪化粧をしている。車があまり通っていないことから、車道の雪もほとんど綺麗なままだ。

 真っ白な息を吐き出して、彼女は冷たい空気を吸い込んだ。

 なんて綺麗なの。

 この寒さからか人通りは全くない。日曜だし、余計にだろう。

 だが、その中を一人事務所の下まで歩いてくる少年を見つけ、彼女は身を乗り出した。

 上を見上げた金の髪の少年は、何やらこちらを見上げて手招きしている。こんな早くに、と思うがティアラは頷いて玄関先にかけてあったコートを手に取り、ブーツに足を突っ込んで事務所を出た。

 エレベーターを使って下まで降り、通りに出る。外に出れば身を突き刺すような寒さが襲う。

 手袋もマフラーも忘れてきてしまい、してこればよかったと思いながらも砂糖菓子のように軽い雪を踏んで、彼女はゼブラに近づいた。

「どうしたの、朝早くに」

 首を傾げて不思議そうな顔をするティアラに、ゼブラは冗談でもなく真面目に口を開いた。

「お別れを言いにきたんだ、事務所を出ていくよ」

 唐突な言葉に、彼女は頭を殴られたようなショックを受けた。

 事態が飲み込めずに茫然としているティアラを、彼は淋しげだったが瞳に映した。

「出てくって……どこ行くの? ていうか、何で?」

「シャトーの事件はもう終わった、俺が此処にいる理由もない。だから、魔界にでも帰ろうかなと思って」

 確かにゼブラの言うとおりだ、だけど。

「理由なんて…そんなのつくればいいよ。どうして今更…せっかく会えたのに…!」

 引きとめようとコートを着た彼の腕を、無意識のうちに掴む。

 でも、ゼブラは目の色さえ変えなかった。

「……綺麗な銀世界だ」

 ただ、辺りを見回してそう呟く。

 そう言われ彼女も視線を移す、本当に綺麗だった。

「俺達が会ったのは雪の日だったね。…だから別れも雪の日。素敵だと思わない?」

「そ、そういう問題じゃ……」

 ふわりと彼は自分のマフラーを解き、寒そうなティアラの首にゆるく巻く。

 そんなに寒そうに見えただろうか、と思う。

 あたたかさに心を落ち着かせつつ、彼女はゼブラを見た。彼も自分を見ている。

「どうしても……行くの?」

「うん」

 迷いもなく答える。

 ティアラは喉の奥が熱くなってきた。昨日から泣きすぎだと思うがとめられない。

 でも、引きとめても絶対に彼は行ってしまう。

 出逢いがあれば別れがある、それは仕方のないこと。

「グレイス達にも伝えておいてよ。……去り際の見送りはティアラだけでよかったからって」

 何言ってるの、と言いたいが言葉が出ない。

 自分の首に巻いてくれたマフラーを放した彼の手を、ティアラは思わず握った。

「……いつでも、帰ってきてよ。ゼブラの居場所はここだよ……私、ずっと待ってるから」

 涙を拭いつつ、彼女はどうにか声を出した。

「…ありがとう」

 いつになく優しい声だった。

 ゆっくりと解かれるように放した手のぬくもりをおぼえながら、ティアラは顔をあげる。

 今までとは違った。

 ゼブラは本当に幸せそうな微笑みを彼女に向けていた。

 出逢った頃と重なるような笑顔で、赤い瞳には憎しみの色がなかった。純粋な、雪に溶けてしまいそうな宝石のような色だった。

 彼女は涙が次から次に溢れてくるのを必死で拭い取りながら、ぼやけた視界の中で背を向けて銀世界を歩き出す彼の背を見ていた。

 ねえ。

 涙を飲み込み、ティアラは口を開く。

「ゼブラっ……幸せになって……人を愛してね……ゼブラなら愛せるよ…!」

 静かな街中に響くくらい大きな声だった。

 わずかに彼は振り返り、笑って少し手を振った。そしてまた歩き出す。

 力が抜けて、ティアラは雪の上に座り込んでいた。ただ、泣いた。泣きじゃくった。

 どのくらいそうしていたのか分からない、グレイスが自分の声に気がついて下りてくるまでそこにいた。

 ねえ、ゼブラ。

 私も願うわ、あなたが幸せであるように。

 何も与えてあげれなかったからこそ、いつも祈るよ。

 ずっとずっと……――――。



「だから、何でそこでチェックメイトできるんだよ!」

「説明するのもめんどくさいです、ジーラスさんの腕前がないのでは?」

「ビリーてめぇ……ふざけんなよ!」

「ちょっと、紅茶に埃が入るじゃない! 騒がないでよ!」

「ウェンディさん、あの二人をとめても無駄ですよ」

 日常が戻った事務所で、また今日も言い争いが始まっていた。

 ビリーは学校が冬休みに入ったらしく、毎日のように事務所に遊びに、いや邪魔しにきている。

 その光景に苦笑しつつ、ティアラはグレイスにコーヒーを手渡した。

 雪がほとんど溶けてしまった街の光景は、なんだか切ない。

「……気になるのか」

 ぼんやり外を見ていたティアラに、彼は言った。

「えっ別に違いますよ! もう気にしてません!」

 思いっきり声が裏返る、しまった。

「まあ、すぐに遊びにくるだろ。あいつなら」

「…そうですね」

 ため息と共に言葉を吐き出す。

「…それより、お前。あの返事はどうなった?」

 背中を槍か何かでつつかれたような気分になり、彼女ははっとする。

「いっいやあの……まだ……」

 焦るティアラはどうにか微笑みをつくろうとしたが、絶対引きつっていただろう。

 告白の返事を待たせてもう一週間以上経つというのに。

 グレイスは何ともいえない目で彼女を見て、ぼそりと呟く。

「ゼブラがいいなら、ついていけばよかったものを」

「ち、違いますよ! グレイスさん!」

「何、ゼブラが何だって? まさかティアラ、あんたゼブラを…」

 聞きつけたウェンディが飛んでくる。

「違うってば!」

「は? ゼブラが何?」

「ティアラがゼブラさんを好きだそうです」

 早々とサンがジーラスに伝達する。

「だ、だから違うってば! 私は……」

「私は? 何よ!」

「えーと……」

 固まったティアラに、ビリーがはっと馬鹿にしたように笑った。

「続きは決まってます、「グレイスさんが好きなの」でしょうが」

「っ……ビリー!」

 真っ赤になったティアラは、無意識のうちに手に持っていた盆をビリーに向かって投げつけた。




 孤独な迷路には、知らないうちにさよならしてた。

 もう、暗い中で彷徨わなくてもいいよって、あなたが言ってくれたから。

 私は走り出す。出口に向かって。


 幸せになるのは難しいこと。

 誰もが苦しい気持ちを抱えて、悲しい気持ちを抱えて、ひとりぼっちを抱きしめて生きている。

 時には、二度と夜が明けないと思えるほど泣きたくなることがあるよ。

 時には、誰にでも抱きつきたいくらい嬉しくて仕方ないこともあるよ。

 涙も笑顔も全部を握って生きていくことが、幸せへの鍵。それが、幸せの扉をつくる。




 あなたに、大事な人はいますか?

 その人が泣いていたら、優しい言葉をかけてあげれますか?

 その人が笑っていたら、一緒に喜んであげれますか?

 その人が夜の闇に閉じ込められてしまったら、言ってあげられますか?

 あなたが大事です、と。幸せになってください、と。

 私は、何度でも言いましょう。私の周りで絶望している人がいれば、その人のために何度でも。





 時は今も進んでいる、決してとまることのない時間の流れ。

 そのなかで生きていこう、空間を超えるような羽根を羽ばたかせて。

 怖がらないで、逃げないで、強くなれるように。



 さあ。




Again End


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