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Again  作者: 桜葉
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第四章―孤独な君に

この物語はイギリスが舞台ですが、作者の経験上イギリスには程遠いイギリスになっています。ご了承下さい。

また、探偵事務所が登場しますが、これも作者の経験上本格的な捜査部分まで記すことが出来ません。ご了承下さい。

以上を「許せる!」という方のみ、物語へお進み下さい。


 誰がどう言おうと、勇気を自分から湧き出させることなど出来ない。

 もどかしい時間の中、いつか消え去るはずの君がまだ、僕の隣にいてくれる。

 それだけで満ち足りた気持ちになるのだから、本当のことなど言わないままのほうがいいのかもしれないと、小さな幸せで満足してしまうんだ。

 でも、早くその手を掴まなければもう二度と逢えなくなるのではないかという不安に、時々襲われる。

 孤独な満月の夜も、淋しい小波の音も、悲鳴をあげて海の水に連れ去られていく貝達も。

 君といれば、素直に美しいと思えるような気がするから。


 少女は走っていた。

 炎の渦の中、息苦しい熱に体を焼かれながら。

 いつもと同じパターン、「皆」につまづいて倒れこむ。

 上半身を起こし、うつむいたまま火の熱さに落ちる汗を手の甲で拭う。

 背後に迫る影に彼女はポケットのナイフを右手で広げ、思い切り振り上げる。

 鈍い音がして赤い液体が床に落ち、炎に混ざっていくのを見ながら少女は血に染まった自分の右手をきつく握り締めた。

 誰か、私を引きとめて。

 この世界にいてもいいって、ちゃんと言って。


 淋しいの。



Again

第四章―孤独な君に―



 秋風が街を吹きぬけていく。

 街路樹は徐々に葉を手放し、枝だけになった者は寒そうに身を縮めている。

 時折枯れ葉達は自由にダンスを始め、通行人の足元を行き交っていた。

 朝から、相変わらずの夢に憂鬱な気分になっていた淡い水色の髪の少女は、ため息混じりに重たい鞄を肩にかけ直す。

「いちいち図書館まで行かなくたっていいのに」

 ティアラの横を、姿を消して飛んでいるらしい真っ白なオコジョの声が聞こえる。

「でもちゃんとした資料があったほうがいいでしょ。動物探しで目的の犬の姿も分からないなんて、どう考えても捜索不可能だもん」

 ここのところ急増する行方不明の動物捜索の依頼に、ティアラは図書館に行って犬鳥猫と言った専門の図鑑を数冊借りてきたのだった。

 木枯らしが吹き始めそうなどんよりとした灰色の空は、肌寒さを増させるような気がして身震いする。

「そうじゃなくて! 動物なんかどうせ見つからないんだから探すだけ無駄って言ってんの!」

 唐突に、街のど真中でティアラの目の前にぱっと姿を現したウェンディは、前足を腰に当てて牙を見せ怒鳴った。

 慌ててティアラはウェンディを空いていた片手で引っつかみ、本の入っている鞄の中に押し込む。

 何すんのよ、と罵声をあげようとするその口をふさぎ、彼女は人差し指を立てた。

「こんなとこで魔法解かないでよ、人に見られたらどうするの!」

 幸い寒さのせいか人通りは少なく、ぎりぎりウェンディは誰の目にも留まっていないだろう。

 というか、「どうせ見つからない」とは。

 その台詞を思い出し、彼女を睨む。

「見つからなくても見つかっても、依頼者は困ってるんだから協力してあげるのが普通でしょうが!」

「べっつに、探偵じゃあるまいし」

「探偵だよ!」

 アホらし、と皮肉な笑みを見せて息を吐くオコジョに、ティアラは呆れながらそこまで言った。

 ようやく見えてくる事務所が入っているビルに、彼女は鞄を再び持ち直しながら足を速めた。

 結局、あの踏切のときから今でも迷い続けてる。

 魔法界へ戻るのか、戻らないのか。

 優柔不断な自分が馬鹿馬鹿しく思えるときもあるけれど、どうしようもないのだから仕方ない。

 でも、そうやって迷いながらでも、心はもう決まっていたのかもしれない。


 昼間だというのに、湿った空気が舞い込み空き箱が転がっている人一人通れるくらいの路地を、彼は歩いていた。

 茶色の長いマントをまとい、つばのついている帽子を深くかぶりなおす。

 狭いこの場所は、時折不気味な音を立てながら風が通り過ぎていく。

 まっすぐにそこを進み、ようやく開けた小さな通りに出ると、少年の目の前に現れた建物があった。

 明らかに古くさいがかなり大きな白亜の家だった。子爵のマナーハウスくらいあるのではないかと思う。

 壁のところどころにひびが入り、その殆どが蔦に覆われている。

 古びた煉瓦の屋根は、ところどころ煉瓦が剥げて地面に落ちている。天候が荒れたときなどに取れたのだろう。

 木の杭にロープが引っ掛けられて、立ち入り禁止を知らせているのも構わずに彼は雑草や荒れて伸びきった木々の間をくぐりぬけ、見え隠れしている家に近づいていく。

 割れた窓ガラスが目に入り、玄関口は両扉で蔦に絡まれている。

 ひんやりとした嫌な空気を吸い込みながら、ゼブラは帽子を取った。

 不意に風が巻き起こり、冬が近づいても葉を落とさない落葉樹が揺さぶられ、ざわざわと声をあげる。

 彼の金の髪を揺らし、風が空へと消え去っていくのと同時に背後で草を踏む足音が聞こえた。

 ゼブラは静かに背後を振り返る。

 その視線の先に、同じ金髪の少女が黒いマントを着て、腕組みをし立っていた。

「ここが次の場所?」

 後ろの家を顎でしゃくりそういう彼に、プラシナは戸惑いもなく頷く。

「中はシャトーに殺された霊がうようよしてるわ。……こんな場所を選ぶなんて、あいつも脳がないとしか言えない」

 呆れたようにため息をつく彼女に、ゼブラは冷たく息で笑った。

「仕掛けがあるんだろ。じゃなきゃ自分に不利な場所に俺達を呼び寄せたりしない」

 ええ、と小さく返すプラシナは、急に真剣な表情をつくる。

「……気をつけなさい。五体満足で帰れないかもしれないわよ」

 その声が異常に静かになったその場に響く。

 人通りのない通りが、やけに遠く感じる。

「分かってるよ、今まで無事で帰れたほうが奇跡だって。…もし俺が死んだら、消してくれればいいから。体が残ると後々面倒だ」

 ゼブラが再び帽子をかぶりながら、微笑を浮かべたまま言い切る。

 プラシナは腕組みをしたまま、灰色の瞳で平然としている義弟を真っ直ぐ見た。

「体だけでも監獄に放り込まれるって? 誰もそんなことしないでしょ。人間だってそこまで悪趣味じゃないわ」

「どうかな」

 誤魔化す彼が土地を出るため自分の横を通り過ぎていく際、彼女は振り返らずに口を開いた。

「ティアラのためなら死ぬつもり?」

 ゼブラは杭の傍まで歩いていき、ようやく足を止めて振り返った。

 いつの間にかこちらに向き直っていたプラシナが、不敏そうに眉を上げる。

「死ぬよ。他に生きてる理由もない」

 迷いもなく答えた彼に、彼女は呆れたようにため息をついた。

「…あんたが投げたボールを、あの子がまた投げ返してくれるとは思えないけど」

 ゼブラは淋しげに微笑んで、落ち着いた声で呟いた。

「いいんだ。見返りはいらないから」

「そういうところが人間っぽいのよ」

 冷淡な彼女の声はその姿と共に、静かに背景に混ざって消えていった。

 よく言われるよ、そういうところがって。

 人間なんて嫌いだ。いつも、俺の大事なものを奪っていく。

 だから、そこで立ち止まる。もう信じれないって、過去の自分が泣いているんだ。

「…人間っぽい…か」

 彼は息をついて、曇った空を見上げた。

 それでも、信じたいと思ってる?



「ジーラス」

 事務所の机に向かいまとめた依頼の報告書を捲りながらグレイスは、先程からずっと自分の机の端に頬杖をついてこちらを見ているジーラスに話しかける。

 が、弟は答えずにまじまじと彼を見ているだけだ。

 ここ数分ずっとそうしているジーラスの視線に耐えてきたが、いい加減我慢の限界だ。

 グレイスがばさりと音を立てて報告書の書類を置くのと同時に、彼は我に返ったように目をしばたかせた。

「人をじろじろ見るな、用があるならちゃんと言え!」

「えっいや、ごめん」

 口元で引きつった笑みをつくり、ジーラスはぱっと机から肘を離す。

 不審げに自分を睨んでいる兄に、彼は銀髪をかきあげて宙を仰いだ。

「あのさ…、ティアラに言わねーの?」

「は?」

「だから! ティアラに好きって言わねーの!?」

 大きな声で言ったジーラスに、危うくグレイスは椅子から落ちるところだった。

 動揺した様子の兄に、彼は「図星だし」と呟く。

「何で……」

「見てりゃ分かるって! 何年一緒にいると思ってんだよ」

 腰に手を当てて、呆れたように口をとがらせたジーラスに、グレイスは唖然とするばかりだった。

 ジーラスにまで知られていたとは。

 鈍感そうで意外な部分で鋭い自分の弟に、彼はため息をついた。

「…簡単に言うな」

 そうして報告書を持ち直すグレイスに、ジーラスは少々何か言いたげな表情で眉根を寄せる。

「兄ちゃんが言わないなら別にいいけど」

「…言わない…わけじゃない」

 ただ、踏み出せばもう今の関係には戻れないだろうから、少し怯えているだけなんだ。

 不満げにジーラスが頭の後ろで手を組んで、事務所の中をうろうろと歩き出す。

 と、がちゃりと音がして事務所の玄関口が開いた。

「た、ただいま戻りました」

 ふらふらと鞄を持ち直しながらティアラが入ってくる。その後ろからついてきたウェンディが呆れ顔で彼女を見下ろしている。

 そういえば図書館へ行って図鑑を借りてくるよう、頼んでおいたのだった。

「重かった…」

 ようやく鞄をソファに下ろし、鞄をかけていた肩を手で押さえて息をついたティアラは、コートのポケットから手紙を一通取り出す。

 そうして、グレイスの机に近寄ると手紙を差し出した。

「依頼の手紙、一通きてましたよ」

 その手紙を受け取ると、彼は封を切ろうとした。

 が、その手紙を一瞬にしてウェンディが奪い、空中で勝手に封を開けた。

「おい」

「まあ待ちなさいよ、私が読んであげるから」

 単なる興味本位らしく、白い便箋を広げて内容に目を通し始めたウェンディに、グレイスは不快そうに眉をあげる。

 取り返そうと立ち上がろうかどうするか迷っていた時、不意に彼女の背後にゼブラが現れる。移動魔法で戻ってきたらしい。

 そしてその流れにのり、便箋をウェンディからもぎ取った。

「ちょっと!」

 突然現れたゼブラに、ウェンディは牙を剥いて怒鳴る。

 ティアラは鞄から図鑑を机の上に出しながら、その様子を横目で見ていた。

 踏切事件の時、ジーラスが「ゼブラはティアラに気がある」と言われて以来、どうにも自分の中だけでゼブラと気まずい。

 もちろん、単なるジーラスの憶測かもしれないのだが、誰だってそういうことを言われれば意識するようになるものだ。

 そのため、会話の時に声がうわずったりなるべく二人にならないように避けている。もちろんそれも一方的に。

 …一人でそんなことして、馬鹿みたいに思えるときもある。

 だいたい私好きな人が誰とか考えた事ないし……それより、今は魔法界への選択を迫られているのだから、考える余裕なんてない。

 どれが、皆や私にとって最善の選択なのか、あれからもう三ヶ月も経つというのにまったく分からない。決められない。

 そんな自分がもどかしくて、だんだん色んなものが嫌いになっていくような気がする。

「じゃあ読むよ。「一ヶ月ほど前から隣の空き家の前で、動物が死んでいたりしています。夜になれば空き家の中でガタガタ物音が聞こえます。不気味で夜も眠れません、こんなこと警察に言っても相手にされなさそうで……よろしければ調べてくださいませんか? こちらはいつでも家におりますので、そちら様の都合でいらしてくださって結構です。ネワン・リチャード」…以上」

 一瞬全員黙り込む。空き家を調べろと?

「ててててていうか、そそそそれって……怪奇現象……とかいう奴?」

 ウェンディがひげをぴくぴくさせ、身を震わせながら掠れた声で呟いた。

「そういうこと」

 ゼブラが頷くのと同時に、ウェンディが「ギャアア」という激しい耳を劈くような悲鳴をあげる。

 ティアラとジーラスが二人して耳をふさぎ、目元をしかめるのと同時にグレイスが「うるさい」と不機嫌そうに言う。

 ウェンディは怖いものが苦手だ。

 特に霊的なものや怪奇現象的なホラーが駄目なのだ。

 もっとも、彼女が怖いもの嫌いになったのは、昔クラウンが無理矢理ウェンディに怖い本を読ませたせいなのだが。

「グレイス、この依頼はなかったことにしましょう?」

 さっきまでの堂々とした態度はどこへいったのか、急に気弱な姿になったオコジョは耳を倒しながらか細い声で言った。

「お前の勝手で依頼を取り下げたりするとでも思ってるのか」

 呆れ半分怒り半分と言ったように、グレイスはため息をついてゼブラがようやく手渡してくれた手紙を手に取った。

 住所を確認しているらしい彼に、ティアラは本棚から分厚い地図帳を引き出す。

「いつ頃伺いますか?」

 既に調べる準備万端の彼女に、ウェンディは驚き、いや今にも倒れそうな表情を作った。それに加えて、幽霊などが苦手なもう一人、銀髪の少年も顔を引きつらせる。

 そうして、これから目一杯戯言をたれるであろうオコジョの口をふさいだゼブラは、手帳を見ているグレイスの台詞を待ったのだった。

「明日の午後」



 後一日ほどで満月だろうか。

 黒い影をほとんど無くした美しい月が、乳白色の光を降らせる姿を見上げながらそう思う。

 外下の街は明るく騒がしく電灯の色付きをみせているが、この場所は不自然な静寂に包まれていた。

 真夜中のビルの屋上は寒風の絶好の通り道になっていて、下手をすれば風邪をひいてしまいそうに寒い。

 そんな中、どうしてこの八階建ての賃貸ビルの屋上にわざわざ来ているのか。理由はひとつ、昼間から自分に視線を突き刺してくる少年のためだ。

 灰色の欄干にもたれていた彼は、背後に気配を感じて口を開いた。

「何の用?」

 その静寂をゼブラ自身が破る。

 屋上の出入り口付近で立ち止まり、どうにもうろちょろと戸惑っている銀髪の少年は、その声にびくりと肩を震わせた後に姿勢を正した。

「な、何で分かったんだよ」

「何となく」

 動き回って空気を揺らしていたジーラスに気付かない吸血鬼がいるはずはない。

 まあ、単なる人間だったら気付きもしないだろうけど。

「俺に言いたいことがあるんだろ? 昼間からずっと視線で追って、はっきりしないとストーカー疑惑が浮上するよ」

 振り返らないまま、ゼブラは面倒くさそうに言う。

 ジーラスは一瞬黒い瞳を泳がせた後、思い切ったようにしどろもどろながらも口を開いた。

「ティ……ティアラに…近づくなよ。あいつは兄ちゃんと一緒にいたんだからな」

「……それで?」

 ゼブラが先を促せば、ジーラスはまたもや困惑したように目を泳がせた。

 結局、兄の好きな人に手を出すなと言いたいのだろうが、分かっていても当ててやるほど彼は優しい人間ではない。

「そ、それだけだよ!」

 話を打ち切ろうとするジーラスは、上手く言えなかったことが少々恥ずかしかったらしくうつむいてがむしゃらに怒鳴った。

 空を流れる灰色の雲が月を隠す。

 静かにゼブラは振り返り、ジーラスを見た。向こうも気付いたように顔をあげる。

「兄想いだな。けど、それを俺に言ってどうするの?」

「だ、だからお前がティアラに気があるみたいだから……――」

 ジーラスの言葉は最後まで続かなかった。

 彼の耳元を白い光が掠めたからだ。

 わずかに銀の髪が地面に落ちるのを見て、ジーラスは自分の左耳を押さえて明らかに驚いたようにゼブラを見た。

「余計なことを喋ると口がなくなるよ」

 こちらに人差し指を向けたまま欄干にもたれかかっている金髪の少年は、いつになく冷たい表情をしている。

「よ、余計なことって……別にお前がティアラに気があることがいけないとは言ってな…」

 が、再び飛んだ白い光がジーラスの足元の地面に小さな穴を開けたことから、彼は息を飲み口をつぐんだ。

 雲が切れ、月光が二人に降り注ぐ。

 その光は、ゼブラの暗い赤の瞳を映し出した。

「……お前、何者なんだよ。魔法使い、じゃねぇだろ? どうみてもティアラとは違って黒いっつーか……」

 ジーラスの辞書には他人に対する無礼という言葉がないらしく、小声で遠慮がちにそこまで言う。また攻撃されたら嫌だと思っているのだろう。

 ゼブラは今頃、というように冷たく息で笑い口元をあげた。

「そう言えばお前には名乗り忘れてた。…俺は魔界の吸血鬼ゼブラ、ほとんど魔法使いとは変わらないよ」

「吸血鬼って…」

 目を見張るジーラスは、人間とはまったく変わらない彼に驚いているらしい。

「ふ、普通の吸血鬼って耳が尖ってたり牙が生えてたりするもんだろ? でもって目が猫っぽくて包帯に巻かれてるんだろ!?」

 何の話をしてるのか。

「…それはどっかのお伽話だと思うけど。俺のいる世界でそういう奴は見ないよ」

 なるほど、と頷くジーラスは本気で納得し、感心しているらしい。純粋なのか単純なのか、よく分からない。

「………も、もしかしてティアラの血を狙ってるとかじゃねーだろうな」

 いや、純粋という発言は撤回するべきだ。ここまでゼブラを疑うのだから。

 どうやらジーラスの目に、彼は黒い人間のように映っているらしい。

 血を狙う、ね。

 ゼブラは目を細めて月を見上げる。自分の髪と同じ色の月が視界に入る。

「無差別に相手を殺すわけじゃない」

 ティアラを殺すときは、死でしか彼女を救えないと思ったときだ。

 まだ疑い深いジーラスは、嘘つけ、とでも言うようにこちらを見ている。

「勝手にグレイスの敵って決め付けて突っかかるのはよせよ。俺は何も言ってない、ティアラをどう思ってるのかも。……まあ、聞かれてもお前に答えるつもりはないけどな」

 意地悪く笑ったゼブラに、ジーラスは顔をしかめる。

「吸血鬼は自分に邪魔な人間を殺す、それだけ」

「…じゃあ俺がゼブラに突っかかりすぎたら邪魔になって殺すってのか?」

 どういう質問だ。

 そう思い、身構えているジーラスに向かって足を一歩ずつ進める。

 次第に向こうの表情が固くなるのを見るのは、悪いものじゃない。

 こいつがいなくなれば、ティアラがひどく悲しむのは目に見えてる。

 単なる知り合いだったら殺してやるところだけど。

 二人の距離が五十センチ足らずになったとき、ジーラスは相変わらず身構えたままこちらを見ている。

 自分より背の低い彼を見下ろしながら、ゼブラは手を動かした。

 一瞬びくりとして目を閉じたジーラスだったが、ゼブラの手がいつまで経っても自分に届かない事に、恐る恐る薄目を開ける。

 自分の額すれすれで手を止めていた彼は、嘲るように笑った。

「敵が目の前に迫った時、立ち止まれば殺されるだけ。そんなんじゃ命がいくつあっても足りないよ」

 そう言い、ジーラスの傍を離れてビル内への入り口の扉に向かい、ゼブラが中へ姿を消したのを確認すると、彼はへなへなとその場に座り込む。

「よ……よかった…」

 ていうか、あの目。

 彼の頭の中には、無事でいられた安心感よりも暗い赤の瞳が浮かんでいた。

 なんでそんなに淋しそうなんだよ。



 今にも無数のカラスがギャアギャアと鳴き声をたてて飛び出してきそうなほど不気味な問題の空き家の前で、ティアラは生唾を飲み込みながら腕の中で青ざめているウェンディを抱く腕に力を入れた。

 依頼人のネワンは空き家の隣にある古びたアパートの二階に一人暮らしをしている十九歳の少女で、栗色の髪を後頭部でひとつに結い上げている端整な顔立ちだった。

 特に明るい青の瞳が印象を引き、ティアラは少々彼女とは正反対の自分の暗い青色が気になってくる。

 ウェンディは「人に怖いもの押し付けて!」とネワンを非難しているが、誰もそんな自己中心的な台詞には耳を貸さない。

 とりあえずネワンがよく事情を知る者として空き家に同行する事になった。彼女は、以前この空き家に住んでいた老婆と知り合いだったという。まあそれも、近所同士の付き合いだけのようだが。

「で、開けるの開けないの」

 玄関の前に立ったゼブラが、背後のグレイスを振り返り尋ねる。

 ウェンディは開けないで、というように弱弱しく首を横に振るが、既に彼女の目は空ろで震えがとまらないと言った様子だ。ここまでになると、さすがのティアラも可哀想になってくる。

 が、そんな彼女の意向をまったく無視し、グレイスはあっさり頷き「開けてくれ」と言いきった。まあそれも当たり前なのだが。

 彼のコートを掴んでいるのはもちろんジーラスで、相変わらずゼブラに視線を突き刺しつつも恐怖で震えがとまらないようだ。当のグレイスも振り払うのが気の毒に思えるらしく、そのことに関しては何も言わない。

 というより、一番恐怖心でいっぱいなのは依頼者のネワンなのではないだろうか。

 気遣う人を間違っているような、とティアラは思いつつも、そこにはあえて触れないようにしておく。

 そうしている間にも扉を手前に引いてゆっくりと開けるゼブラの横顔は、いつもより真剣に見えた。

 ギギ、と軋むような音がして扉が開く。

 中は薄暗く、外からでははっきりと様子を伺うことが出来ない。

  真っ先にグレイスが迷いもなく足を踏み入れるのに対し、ジーラスも仕方なさそうに震えながらついていく。それを呆れたようにゼブラが見る。

 時折、ゼブラとジーラスが同い年だということを忘れてしまいそうだ。

 昨日まで本物の休暇を取っていたサンは、相変わらず無表情のままネワンに何やら話しかけ中へ入っていく。

 彼女が怖がりなのかどうかさえ、無表情すぎて分からない。

 ティアラもそろそろと、ウェンディを落ち着かせるように撫でながら中へと身体を滑り込ませた。

 最後にゼブラが入り出入り口を閉める。

 背後で扉が閉まる音がすると、妙な圧迫感を感じた。

 中は意外に広いが黴の臭いが漂っていて、大人が六十人ほど入っても余裕があるのではないかと思われるような玄関ホールが広がっていた。

 大理石の床は空気を冷やし、不気味さを増させる。天井からぶら下がる豪華なシャンデリアは埃を被り蜘蛛の巣に侵食され、今やその面影を失いつつあった。

 そして数十メートル先にある巨大な階段は埃をかぶった赤い絨毯が敷かれていて、茶色い木製の手摺りがつけられている。

 窓は天井に近いところにひとつしかなく、光が届きづらい。

「……予想通り気味悪いわね……」

 ネワンがグレイス達と少し離れた場所にいることに目を盗み、ウェンディが小声で呟いた。

 人前では喋るなと言われた忠告さえ忘れ、ティアラも気味の悪さに頷きながら身震いする。

 これじゃあ空き家じゃなくてお化け屋敷みたいな………。

 そこまで思ったときだった。

 不意に風が巻き起こった気がした。

 部屋の中に風……?

 風が通り抜けた左側を振り返る、途端に白いものが視界を覆った。

 首元を絞め付ける冷たい何かに押し倒され、その拍子にウェンディを放してしまう。

 半ば投げ飛ばされた形のウェンディは空中で回転した後止まり、目が回るのを押さえ込んだ。

 そうして下を見る、彼女の視界に入ったのはさっきまでの大理石とは違う、誰もいない狭い空間の木目の床だった。

「……どういうことなの?」

  首を絞められたまま、ティアラは床に押し倒され息が出来ない。

 大理石の冷たい床と自分の首に触れる冷たい手は、彼女の恐怖感を煽る。

『殺してやる……!』

 悲痛な女性の叫びが耳に届き、ティアラは今まで閉じていたまぶたをそっと持ち上げた。

 白く透明な女性が涙を流しながら自分を睨んでいる。

 誰なの?

 言葉にしたくても声が出ない。

 一気に辺りが寒くなったような気がすれば、彼女は人の形をした沢山の白い影に囲まれていた。

 誰もが「返せ」と怒鳴っている。女性、男性、子供の声までが入り混じっている。

 苦しくて意識がふらつき、ティアラはどうにか女性の手を自分の首から放させようとするが、白い女性を掴む事が出来ない。

 自分の手は女性の体を通り抜けてしまっている。

 一瞬、脳裏を「幽霊」という名称がよぎった。

 と、不意に自分の首を絞めていた女性が横から飛んできた赤い光に包まれる。

 彼女は叫び声をあげてティアラの首を放し、床に転がったかと思えば燃え尽きるかのように消えてしまった。

 それにつられるように、辺りの白い影達もざわめきつつゆっくり姿を消していった。

 ようやく解放され、空気を吸い込みながら彼女はどうにか上半身を起こす。

 首がひりひりと痛み、熱を持ったかのようだった。

「大丈夫?」

 いつの間にか隣に現れていたゼブラに、ティアラは自分の首を触れながら彼を見る。

 どうやら魔法で助けてくれたらしい。

「ありがと。……今の何…?」

 不安げに眉根を寄せる彼女に、彼は迷いもなく呟いた。

「シャトーに殺された霊達だよ」

 隣に立っているゼブラを見上げ、ティアラはあのマントの男を思い浮かべた。

 またしても、あの人に関わる場所に来てしまったのか。

 永遠の呪縛に囚われているような気がして、彼女は自分の心音が重くなるのを感じた。

 そうして、不意に辺りにグレイス達がいないのに気がつく。

「あれ、グレイスさん達は……?」

「今の幽霊の衝撃で屋敷内に飛ばされたんだ。俺もその階段の上まで知らぬ間に移動してた」

 赤い絨毯が敷かれた階段を見て、ティアラは更に不安になる。

 前、シャトーはティアラの傍に居たサンを狙った。もちろん自分を捕らえるために。

 離れていれば、また誰か襲われてしまうのではないだろうか。

 黙りこんで階段を見たままのティアラに、ゼブラは息をついて片手を差し出す。

「此処にいてもまた霊達に狙われる、皆シャトーに恨みを持っているからその子孫であるティアラも危険だ。とにかく移動しよう」

「………皆を探しに行かなきゃ」

 それも、というように頷いた彼の手を取ろうとし、何となく躊躇する。

 最近ゼブラを避け続けていたが、今はこの広い広間に二人だけだ。なんだか空気が重たい。

 だが、差し出された手を取らないというのも変な気がする。

 迷っているティアラに、ゼブラはそれを終わらせるかのように自分の手から数センチ離れたところで止まっている彼女の手を優しく掴んで引き上げた。

 突然だったので立ち上がった途端、慌ててその手を放したティアラの行動は少々妙だっただろう。

「ご、ごめん!」

「そんなに嫌だった?」

 苦笑したゼブラが寂しげに見えて、彼女は意味のない罪悪感に心が痛む。

 けれど、そんなティアラのことが分かっているのか、彼は話を終わらせるように大きな階段の脇にある狭い通路に視線をやった。

「とにかく、全部を探して回るしかないよ。行こう」

 

 薄暗い茶色の汚れた壁に赤い絨毯を敷いた長い廊下の途中で、彼は異常に重い自分の身体を起こした。

 ふらつきながらも立ち上がり、汚れた壁に手をつく。そうして、足元にうつ伏せで倒れているネワンに気がついた。

「大丈夫ですか?」

 気を失っていたらしい彼女の肩を揺すると、ネワンはまぶたをそっと上げてしばし茫然としていた。

 そうしてようやく、傍に居たグレイスに気がついたように飛び起きる。

「あの……今、何が?」

 とりあえず立ち上がり心配をかけまいとするネワンに、グレイスは何処となく予想がついていた。

 さっき吹いた強烈が風が、ティアラを覆ったところまではこの目でみた。

 だけどその先はもう覚えていない、ただ何かに弾き飛ばされるようにして意識を手放し、気がついたらこの場所にいた。

  予想、あくまでも予想であって欲しいがあのマントの男の罠に思える。

 それとも、この屋敷自体に何かあるのか?

「……とにかく、他の人間を探しましょう」

 グレイスは数十メートル先の廊下の突き当りを見つめつつ、重々しくそう言った。

 ネワンは不安げだったが、神妙に首を縦に振る。

 自分が、ティアラを守ると決めたのだ。こんなところで見失っていてはどうにもならない。

 足を踏み出す彼に続き、ネワンも歩き出したのだった。


「な、なあ……どうしてこんなとこで兄ちゃん達とはぐれる羽目になるんだよ……」

 隣を、何やら怯えながら歩く銀髪の彼はいつになく頼りない。

 サンは自分の肩を掴みながらついてくるジーラスに、少々呆れつつも口を開いた。

「魔法か何かでしょ。もしかしたら、あのマントの男の仕業かもしれない。こんなところで怯えてたら、相手の思うつぼですよ」

 一応年上の彼に敬語を使うサンだが、ここのところ少々それが薄れてきた気もする。

 ジーラスはその台詞に身震いし、薄暗く狭い廊下を普通に歩いていくサンの肩を離そうとはしなかった。

「お前怖くないわけ?」

「……怖くないわけ? って…怖いに決まってるじゃない」

 当たり前だというように、サンは足を進めながらもそう言った。

 だよな、とジーラスは呟く。

 薄暗い廊下は足元が見づらい、時折すぐ傍を蜘蛛の巣が通り過ぎる。

「サン、な…なんかあったら俺に言えよ」

 彼は、いかにも頼りない弱弱しい声だ。

 それでも、彼女にとっては少々励みになり、少し口元をあげる。

「ええ」

 けれど、そう返事をした途端に嫌な風が吹いた。

 今にも雷でも聞こえるのではないか思うくらいの雨風だった。

「な、何だ?」

 サンは前方に目を凝らした。

 先が見えずに埃っぽい廊下の闇から、白い何かが湧き出てくるのが見える。

『して……返して……』

 ジーラスが声にならない叫びをあげる代わりに後ずさるのを感じつつ、彼女は左手の拳を握って胸の前まで持って来る。

 徐々にこちらへ近づいてくる白い影は次第にはっきりとした姿になり、影との間が数メートルになったころには幼い男の子の姿になっていた。

 瞳の中まで真っ白でうっすらとした透明の十歳くらいの少年は、ふらふらとおぼつかない足取りでこちらへ近づいてくる。

『返して……ぼくのパパとママ……』

 不気味に響く声に、サンがわずかに後ずさる。

 それを狙っていたかのように男の子は急に舞い上がり、彼女に飛びかかろうとした。

 ジーラスは何も出来ずに反射的に自分の腕で頭を抱え込んだが、サンは構えていた拳を開き左手のひらを男の子に突き出す。そこから一気に黒い粉が飛び出した。

 少年はそれに覆われ、暴れる間もなく消えていく。

 彼女は自分の手を払った後、すぐ後ろで縮こまっている年上のジーラスを見てあっさり口を開いた。

「さ、行きますよ」

「えっ何で今……」

 まだ事態がよく分かっていないらしい彼は、サンが魔法を使ったのだとようやく気付いた。

 再び歩き出しながら、さっきまでの怯え方はどこへいったのかジーラスがサンを覗き込みながら感心したような表情をしている。

「やっぱお前すげーな! ていうか魔力制御できないとか言ってたのに……大丈夫なわけ?」

「…ちゃんと修行したんですよ。ここのところ休暇をもらって、人間界にいる魔法使いの伯母に魔法を習いに行ってたんです」

 照れくさそうに左手を右手で掴んだまま、サンは横目でジーラスを見て言った。

 ますます感心した様子の彼に、いい加減恥ずかしくなった彼女は冷水を浴びせる事にした。

「このくらいで安心しないで、また幽霊がくるかもしれない。ただし、その時は自分で自分の身を守ってくださいね」


 埃っぽい階段を昇った先は、沢山の扉が並ぶ広い廊下だった。

 その扉はすべて鍵がかかっていて開かず、むやみに開けると危険かもしれないというゼブラの判断にティアラも同意し、廊下を通り抜けようとひたすら歩いていた。

 けれど、この廊下はどこまで歩いても終わりがない。この屋敷はこんなに広かっただろうか。

 何処となく夢の内容を思い出させるような場所で、ぞくりとする。幸い、夢とは違う茶色の壁に安心感を抱きながら。

 前を行くゼブラの背を見ているうちに、何となく心が重くなってくる。

 理由も分からず、胸に重たい何かの塊が落ちて溜まっていくようで、呼吸が苦しくなってきた。

 もし、皆がこの先で死んでいたらどうしよう。

 縁起でもない事を思うのは、夢のせいだろうか。

 それでも、怖くてたまらない。

 だんだんと二人の間が離れていくのにティアラは気付かないまま、立ち止まりそうなほど足取りが遅くなる。

 私……。

『シャトーの血筋め!』

 唐突に、考えを中断させられた彼女は背後からかかった声に振り返る。前方を歩いていたゼブラもだ。

 後ろに立っていた中年の男性の白い影が、こちらに向かって右手の平を広げた。

 不意にそこから真っ白な光線が飛び出す。

 避けられず、まともにその光線を肩に受けると思ったが、急に床に引き倒される。

 ゼブラがティアラを屈ませたらしく、代わりに彼が人差し指を振る。

 そこから赤い火の玉のようなものが飛び、男を貫いた。と同時に男性は悲鳴をあげてその場に倒れこむ。姿が消えない。

 床に座り込んだままどくどくと速く脈打つ心臓をどうにか落ち着かせようとしていたティアラとは正反対に、ゼブラがいたって落ち着いた様子で男を見下ろした。

 どうやら、彼の魔法のせいで消えていないらしい。わざとに違いない。

「ティアラに付きまとうな」

 冷えた視線を白い男性に突き刺すゼブラに、改めて彼女は彼がどれほど冷酷なのかを知ったような気がした。

 敵なら容赦などない、迷いもなく殺す。

『……答えろ…民衆を殺したような魔法使いが……なぜ生きられる…? なぜ家系を繋いでいる、なぜだ…! なんで俺達だけ死ななきゃならないんだ!』

 男は倒れたまま、生きていたら悔し涙を流すのではないかと思うほど悲痛な声で、透明な手を力いっぱい握り締めた。

 その様子に、ティアラの心が痛む。

 自分のせいではないけれど、自分の先祖がしたことだ。シャトーと同じ血の流れる自分を、初めて彼女は憎いと思った。

 どうして、罪のない人達を何百年も経った今も苦しめなくてはならないのだろう。

 そこまで言うと、男は消えるように姿を消した。

「……あの人…生きていたかったんだね……」

   座り込んだまま、床の汚れた絨毯を掴んだティアラに、腕を下ろしたゼブラが彼女に視線を移した。

「ティアラが気にすることじゃない」

「そうかもしれないけど……自分が嫌になる。だって私、同じ血を牽いてるんだよ。なのに……あの人達を助けてあげることも出来ない……」

 泣き出しそうな声で言うティアラに、ゼブラは床に片膝をついた。

「……どんな魔法が使えても、死者を甦らすことは出来ないよ。今は…シャトーを戒めるほうが先だ」

 そうかもしれないけど。

 自分を覗き込む彼の影に慰められたような気がしないでもないまま、それでもティアラは心が痛くて悲鳴をあげているような気がした。

 息が苦しくて、胸が締め付けられるような思いだ。

 私、どうすればいいの?

「………自分が生きてるのが許せなくなる?」

 暗い彼の呟きだった。

 不意に彼女は顔をあげる。間近で赤い瞳と目が合い、少々まずったと思う。

 けれど、ゼブラの瞳には光が見えなかった。

「……何で?」

 どう言えばいいのかも分からず、問い返したティアラに彼は立ち上がった。

「俺はそう思ったから」

 そうして、離れないようにね、と付け加え再び歩き出したゼブラに、彼女は急いで立ち上がり後を追う。

「生きてるのが許せないって…お父さんを殺してしまったから?」

 彼の背に向かって問いかけたティアラの台詞に、ゼブラは振り返らずに答えた。

「それだけじゃないよ」

 歩みを止めない彼に合わせて、彼女も足を止めずに話を続ける。

「それだけじゃないって……」

「ティアラを裏切った時も、自分の命が許せなくなった」

 唐突な言葉に、ティアラは立ち止まる。今度はゼブラも足を止めた。

 奇妙な静寂につつまれながら、振り返った彼と目を合わす。

 その視線の居心地があまりにも悪くて、ティアラは下を向きながらどうにか口を開いた。

「…やだな、私もう気にしてないよ? そりゃウェンディは色々言ってたけど、あんなの口先だけだし…私もそんな風には思ってないもん」

 彼女の台詞はどう考えても嘘とは言いがたかったが、本当だとも言えなかった。

 実際、ティアラはゼブラが気にすると思い、そういう言い方をした部分もあったからだ。

「……優しいね。だけど俺は犯罪者だよ。ティアラに優しくしてもらうような立場じゃない」

 わずかに微笑した彼があまりにも儚げに見えて、ティアラの胸が痛んだ。

「…そんなの過去でしょう?」

「でも罪は消えない」

 じゃあ一生、その中でもがき続けるの?

「変だよ。…だって、ゼブラのお父さんのほうが犯罪に近いことしてたのに………」

「喧嘩は手を出したほうが負けって言うだろ? だから俺の負け、簡単なことだよ」

 何も言えず、自分のことを犯罪者という彼に対する言葉も見つからず、ティアラは視線を落とした。

 本当、私ってば誰も救ってあげれない。

 彼の心を冷やしてしまった出来事を見ていたのに、今だって、一人苦しんでるゼブラを分かってあげれない。

 思いつめたように唇を噛む彼女に、ゼブラは息をついた。

「…もう、自分の勝手で人は殺さないよ。「皆」の敵以外はね」

 それが本当かどうかは分からないけど、ティアラはただ頷くしか出来なくて、またもや自己嫌悪に陥ってしまうのだった。


 閉まった扉から外へ出られず、オコジョは一人木の扉を叩き割ろうとしていた。

 だが、この屋敷内にいると不思議と魔力が弱まる気がして、自分の小さな身体に徐々に力が入らなくなるのを感じていた。

 暗く狭いと思っていた部屋には狭い窓があり、閉まっていたカーテンを開ければかなりそこが広い場所だと確信できた。

 木目の床と木目の壁、そうして木の扉とすべてが木材で出来ている部屋の壁には、無数の武器が飾られていて少々気味が悪い。

 鋭い刀や槍、短剣が目に入れば、何もされていないのに突かれたように身体が痛む。

 ため息をついて、開かない扉の前にへなへなと座り込んだウェンディは、床に積もった塵や埃のせいですっかり白い毛を汚してしまっていた。

「何で開かないのよ……」

 ノブが回らないおかしな部屋の扉に、ただただ疲れてひげを垂らす。

 人の姿に変じてみれば開くかもしれないが、既に彼女にはそんな力は残っていなかった。

 そうして、時折部屋の中をうごめく白い影に、そろそろ気を失うのではないかと思うくらいの恐怖感がさっきからつきまとっている。

 特に、武器の合間に飾られている骸骨の絵画も、更に気分を悪くさせる原因だった。

 ともかく、急がなければならない。この屋敷には妙な力が居付いている。

 再び爪を立てて扉を引っかき開けようとするが、鍵がかかったようにびくともしない。

  もう諦めてしまおうか、と弱気になりかけたときだった。

「馬鹿馬鹿しいことに苦労してるわね」

 不意に耳に飛び込んできた透き通るような声に、彼女は勢いよく背後を振り返る。

 そこには、いつ現れたのか長い金髪の少女が呆れたように頭からマントをかぶりこちらを見て、数メートル先に立っていた。

 十一年前の女の子がそのまま大きくなったといえるほど面影のある、間違いなくプラシナだった。

「プラシナ…あんたなんでここに……」

 何度も扉に体当たりして痛む身体を堪えつつ、ウェンディは力を振り絞って声を出す。

「その扉は外からしか開けられないわよ、ティアラ達が見つけてくれるのを待つのね」

 さも事情を知っているかのように近づいてきながら、彼女はマントの帽子を外す。

 ウェンディは警戒し、背中を毛を逆立てた。

 それを見たプラシナは、わずかに口元をあげる。

「この家は幽霊屋敷よ、シャトーに殺された霊がうようよしてる。そいつらの魔力で、扉が開かないのよ。……この部屋は屋敷の一番奥にある、この部屋にティアラ達をおびき寄せようとしてるんじゃない?」

「ゆ、幽霊屋敷ですって? ティアラ達をって……どういうことなのよ!」

 内心幽霊屋敷という文字にありえないほどの恐怖心をおぼえながら、一見平静を装いウェンディはそれより気になったワードにプラシナを睨む。

「まさかあんたが……」

「何でもかんでも人のせいにしないでよ。霊たちの仕業に決まってるでしょ、この部屋にティアラを呼び込んだらシャトーが現れるとでも思ってるのよ。…何せ、ここはシャトーが革命を起こそうと魔法使いらを殺して追われているとき、身を隠した空き家だからよ」

 随分気味の悪い場所に呼び込まれてしまったものだ。

 うんざりした気分になりつつ、部屋の中を改めて見回しながらウェンディは閉口しかけていた口を開いた。

「要するに、ティアラを餌にシャトーを出現させて復讐しようって手なわけ。やってくれるわね」

「このままだと誰が犠牲者になるか分からないわよ。人間の女を一人連れ込んじゃったでしょ、あの子がいる限り魔法で対抗するのは難しいんじゃないの?」

 ネワンを思い出し、更に憂鬱な思いにウェンディは頭を横に振った。

「プラシナ、ここを開けて。外に移動して開けてちょうだい。私にはもう魔力がないのよ。……ティアラ達を此処へ来させないようにしなきゃ……!」

 自分を見上げて頼み込むウェンディに、プラシナはあくまでも冷たい目を向けた。

「私は何もしてないとは言ったけど、味方するなんて言ってないわよ」

「協力くらいしてくれたっていいじゃない!」

 この非情女、と怒鳴ったウェンディは、相手の神経を逆なでしていることになど気付いていない。

「うるさいわね。魔界の女帝が簡単に魔法使いに協力するわけにはいかないのよ。まあせいぜい頑張ることね」

 そこまで言うと、プラシナは彼女が止める間もなく姿を消してしまった。

 一人取り残され、改めて幽霊屋敷と言う台詞を意識しながらも背筋を震わせ、ウェンディは自分の目の前に立ちはだかる扉が、ひどく巨大なものに思えた。


「真面目に走ってよ!」

 薄暗く狭い廊下を駆けながら、サンが声を張り上げる。

 すぐ後ろをついてくるジーラスは、背後を振り返りきょろきょろしているためにしょっちゅう障害物にぶつかっている。

 そうして背後を追ってくる無数の白い影に、彼はもはや泣きそうだ。逃げたくても廊下にわき道などない。

「走ってるけど、後ろが気になるのは当たり前だろ!」

「いいからこの廊下から出なきゃ! 前方から挟み撃ちにされたらどうしようもないですよ!」

 それを想像したらしく、ジーラスがごくりと固唾を呑んだのは間違いなかった。

 サンは走るスピードを上げながら、ジーラスがちゃんとついてきているかを確かめる。

 彼はどうにかついてきているが、これ以上引き離しては危険だ。

 走る速度を調節しつつ、不意に前方に灯りが見えるのに気付く。

「出口ですよ!」

「マジで?」

 二人して思わず安堵し、その出口に向かって走っていこうとしたときだった。

 不意に前から猛烈な白い影が一気に押し寄せてくる。

 魔法を使う間もなく、二人して床に倒れこむ。幸い、霊たちは二人の頭上を通り抜けていき、背後の集団と衝突する。

 サンはその間に立ち上がり、右手を胸の前で広げ横へ引っ張りながら握った後、すぐに何かを放り投げるように手を広げて大勢の幽霊達に向かって腕を伸ばした。

  そこから黒と白が交ざった光が飛び出し、幽霊達との間に透明な壁をつくる。

 それに気付き暴れる影を見ながら、彼女は手を下ろした。

 ジーラスもようやく立ち上がり、気が抜けたように息を吐く。

「早く行きましょう、壁が壊れたらおしまいです」

「え、ずっと続くわけじゃねーの?」

「当たり前でしょ、あたしの魔法がどれだけ不安定だと思ってるんですか」

 そう言い、二人して灯りが見える廊下の終わりに向かって駆け出し、ようやく赤い絨毯が敷かれた広い廊下に出た。

 サン達が出た場所は丁度廊下の突き当たりで、右手と正面にL字型になって廊下が続いていた。

 廊下の壁にくっついたランプには灯りがともっていて、無人のはずなのに、と不気味だ。

 と、右手の廊下にふたつの人影が見え、ジーラスが硬直した。

「だっ誰かくる…!」

 情けないことにサンの背後に隠れるようにして彼が回り込む、彼女は目を凝らしその人影が白くはないことに気が付いた。

「……幽霊じゃない」

 小さかったがその呟きをジーラスは聞きとめたようだ。

 そうして彼も目を凝らす、徐々に姿を現した人影は、黒髪の少年と栗毛の少女であるとすぐに分かった。

「兄ちゃん!」

 ジーラスが歓喜の叫びをあげて駆け寄っていくのに対し、グレイスもようやく弟に気がついたように顔をあげた。

 ネワンも明らかに肩の力を抜いて、サンを見て微笑んだ。

 そうしてサンも微笑み返す、とまではさすがにいかず軽く会釈をする。

 一人再会を喜んでいるジーラスは兄に抱きついたため、グレイスはうっとおしそうに彼を引き離した。

「くっつくな!」

「だって幽霊がめちゃくちゃ怖かったんだよう…」

 泣きそうな声を出すジーラスに呆れ半分同情半分というような目を向けたグレイスだったが、はいはいというように軽くあしらいサンに向き直った。

「ティアラ達は?」

「見ていません、あたし達はここの廊下を通ってきたものですから」

 脇の細い通路を見てそういったサンに、なるほどとグレイスは頷く。

 となれば、ティアラはゼブラかウェンディと一緒だということだ。どっちにしろ無事だといいが。

 そんなことを考えていた時、不意に狭い廊下から白い影があふれ出してくる。

 ネワンが小さな悲鳴をあげるのと同時に、サンは飲み込まれかけどうにか交わした。

 幽霊達を閉じ込めていた壁が壊れたのだ。

『よくも……』

 うっすらとした声を感じ、何十人と言う白い影が四人を取り囲み始める。

「どどど、どうすんだよ!」

「とにかく逃げるしかないな」

 怯えるジーラスに、グレイスが冷静に呟く。

「この通路をまっすぐ行ってください! 早く!」

 ネワンの前で魔法を使うわけにはいかない。

 サンが焦る意味を知ったのか、グレイスは頷いてネワンとジーラスを連れて通路にかけていく。

 が、途中でジーラスが立ち止まる。

「兄ちゃん! サンだけ置いてくなんて…」

「あいつは大丈夫だ」

 魔法使いだから、と言いたいがいえない。

 まあジーラスは分かっているだろうが。

 ネワンは不安げに先ほどの廊下を見ている。

 サンの姿は白い影に埋まっていて分からない。

「だけど……力が暴走したら……!」

 ジーラスの予測は間違ってはいない、魔法を使えるようになってもいつサンの力が暴走するか分からない。

 魔法界を追い出されるほどのすさまじい力なのだ、放っておいては収拾がつかなくなりそうにも思える。

 判断に迷う、ネワン、依頼者を危険な目にあわせることは出来ない。

 だが、判断する直前に爆音のような音がサンがいるはずの廊下から聞こえてきた。

 三人が驚いてそちらへ目を向けると同時に、サンがこの廊下に飛び込んで駆けてくる。

「サン!?」

「早く走って! 幽霊達の目をくらませたけど、また追ってくるかも!」

 全員が頷きあい、走り出す。

 廊下は何も見えないほど長く、迷宮に入り込んでしまったのではないかと思うほどだった。


 広い廊下が突き当たりになる場所には、小さい歪んだ木の扉があった。

 他に道もなく、どうすればいいかとティアラとゼブラはその場で立ち止まる。

「…どうしよう、行き止まりだよ」

 ティアラの呟きに、彼は頷きながら木の扉を睨んだ。

「この扉、妙じゃないか? 床に平行に立ってない」

 確かに、平行に立っていない。少々斜めになっていて、わざとそうしてあるようにも思える。

 本当に開くのかと思わないでもないほどボロボロできしんでいる木の扉は小さい錠前がかかっていて、そう簡単には開かなさそうだった。

「この先に何かあるとか?」

 ティアラが隣のゼブラを見上げて尋ねる。

 彼は腕を組んだまま考え込んでいて、返事を返してくれそうにもない。

 と、どこかから何か声が聞こえたような気がした。

「…今、何か聞こえなかった?」

「私もそう思ったところ」

 ゼブラの呟きに、ティアラも同意する。

 不審に思い、目の前の木の扉にそっと手を置いてみる。

 そうして、耳を押し当てる。ここから何か聞こえたような気がしたのだ。

 ゼブラが警戒したように背後を振り返る。

「ティアラなの?」

 中から聞き慣れた声が聞こえる。

「ウェンディ!?」

 思わずティアラは大きな声で呼びかけた。

 ゼブラも驚いたようにこちらを見る。

「ウェンディ? 中にいるのか?」

 彼は扉に手をついて言葉を投げかける。

「ええ、さっきからずっと…この扉、中からじゃ開かないのよ!」

 ウェンディが声を張り上げて返事をする。

 ティアラはすぐさま彼女に対して口を開いた。

「待ってて、今助けるから!」

「駄目よティアラ! 開けないで、この部屋に入っては駄目!」

 錠前を外そうと手をかけた彼女に、ウェンディが必死に叫んだ。

 ゼブラが不可解そうに顔をしかめる。

「どういうこと?」

「これは罠よ! 幽霊達がシャトーを呼び出すためにこの部屋にティ……」

 突然、中で激しい物音がしてウェンディの言葉が途切れる。

 ティアラの心臓が重くそして速く脈打ち始める。

「ウ…ウェンディ…? 大丈夫? ねえ、返事して!」

 けれど、中はしんとしていて、声が返ってきそうにもなかった。

 ゼブラと顔を見合わせる。

「何かあったのかもしれない」

「どうしよう……!」

 不安げにコートの裾を握り締めたティアラに、ゼブラは考えたように眉根を寄せる。

 が、考えが中断されたのは廊下の向こうで声があがったからだ。

「どうすんだよ!」

「いいから走れ!」

 こちらも聞き覚えのある声で、ティアラとゼブラは顔をあげて廊下の先を見つめる。

 数十メートル先から全力疾走してくるのは、グレイス、ジーラス、サン、そしてネワンの四人と、無数の白い影だった。

「グレイスさん達だよ!」

 思わずティアラは彼に話しかける。

 だが、ゼブラは背後を追う霊達を見ていた。

 そうして、ジーラスがこちらに気付いたように何やら叫ぶ。が、よく聞こえない。

「錠前を開けよう」

 ゼブラが唐突にそう言い、扉の鍵が閉まっている錠前に手をかける。

 驚いて、彼女は慌てた。

「でもウェンディが開けないでって…」

「だけどあれだけの数に追われたら倒すのは無理だよ、逃げ場をつくらないと」

 確かにそれが先決だった。

 少々戸惑ったが、頷いたティアラにゼブラはグレイス達が近づいてくるのを確認すると、錠前の鍵穴に人差し指を当てる。

 そこが一瞬火花をあげて音を立て、がちゃりと音がすれば錠前が外れて床に落ちた。

 ゼブラは扉のノブに手をかけたまま、皆ここまで来るのを待っている。

「ティアラ、周りのことは気にせずに自分の身を守ることを考えるんだ。いいね?」

 不意に赤い瞳がこちらを見て、彼女は不審げに眉をあげて青い目で見つめ返す。

「でも…」

「ちゃんと承諾して」

 そう言って扉に触れていたティアラの冷たい手に彼は自分の手を重ねる。

 普段なら気恥ずかしさに勢いよく振り払っているだろうが、そのときばかりは深刻な表情に躊躇いつつも頷いた。

 ようやくグレイスを先頭に二人の元に四人が辿り着く、と同時に彼はそっと手を離した。

「ゼブラ、どうしてここに…」

 何やら疑問を持っているらしいグレイスだったが、今はそれどころではない。

「とにかく逃げ場がここしかない、あの幽霊達に囲まれたら終わりだ」

 数メートル先に迫る幽霊達に、ゼブラはわずかにティアラを見てからすぐに扉を押し開けた。

 そして彼が中へ飛び込むのに対し、ティアラも急いで足を踏み入れる。背後からグレイス達が続いてくるのを感じながら、入り込んだ部屋が異常に広くグロテスクな場所だと気がついた。

 サンがネワンを中に押し入れた瞬間、ゼブラが扉を閉める。

 そうして誰も気付かないくらい小さく、左手の人差し指を下から上へと振った。そのとき、外に落ちていた錠前が持ち上がり、再び鍵がかかったことなど彼以外は知らないだろう。

「ウェンディ?」

 物が散乱した部屋には、壁にかかっていたらしいナイフや槍も多数落ちていた。

 食器が割れたような破片を踏みながら、ティアラは埃っぽい小さな窓辺に倒れこんでいる真っ白なオコジョに駆け寄った。

「ウェンディ、しっかりして!」

 グレイス達は事態を理解しきれていないようだが、ゼブラは部屋の空気がうごめくのを感じた。

 汚れてぐにゃりとしているウェンディは、もう息をしていないのではないかと不安になる。

 ティアラはそんな彼女を揺さぶった。

「ティアラ……?」

 多分ネワンには聞こえていないくらいの小声で呟くウェンディは、どうやら無事のようだ。

 よかった、と胸をなでおろす。

 彼女はようやくぼんやりと目を開けて、黄金の瞳を覗かせた。

 が、すぐにウェンディはしゃきっと身体を伸ばす。

「な、何で…入るなって言ったのに!」

 ネワンの存在を知らず、大声をあげた彼女をティアラは慌てて押さえ込んだ。

 ネワンが不思議そうに首を傾げる。

「これからどうするんだ?」

 不気味な部屋の中を見回しながら、グレイスがゼブラに尋ねる。

「…とりあえず、逃げるのは無理だね。ここを開けたら俺達が殺されかねない」

 幽霊の存在を意識して彼は平然と言い切った。ジーラスが身震いする。

「でも逃げずに一生ここにいるなんて無理です。ネワンさんもいるし…彼女を危険な目に合わせるわけにはいきません」

 サンが毅然とした態度でゼブラを見た。

「サン、焦ると命取りだよ。…まあ、どこにいても危ないんだろうけど」

「……どういうことだよ?」

 ジーラスが恐る恐るゼブラに尋ねる。

 ティアラはウェンディを抱き上げたまま足早にこちらへ戻ってきた。

 ネワンも不安そうに部屋を見回す。

「外には幽霊が、この部屋にはあいつがいる」

「……それは、此処にあの男がいると言いたいのか?」

 グレイスが直感したように呟いた。

 あいつ、という台詞にウェンディが厳しい表情をしたのは言うまでもなかった。

「早くここから出なきゃ」

 オコジョが呟いたのに、ティアラは慌てる。

 けれど、そんな場合ではなくなった。

 物が散乱した部屋の窓辺に、灰色の影がうっすらと現れる。

 ジーラスがサンに飛びつくのと同時に、ネワンが後ずさる。グレイスが影を睨んだ。

 ティアラは、ウェンディを抱く腕に力を入れる。ゼブラが足元の何かを拾い上げる。

 やがて、影は真っ黒なマントを頭からかぶった男に姿を変えた。

 途端に、出入り口が叩き割られるのではないかと思うほど激しくしなる。幽霊達が外で暴れているのだ。

「気付かれたか」

 外の物音を聞きつけ血の気のない唇で薄く笑ったシャトーに、ティアラは彼から目を離すまいと視線を突き立てる。

 ウェンディが背中の毛を逆立て、牙を剥いている。

「ティアラ、逃げるのよ」

 腕の中のオコジョは、小声で彼女に囁いた。

 でも今は無理だ。

 心を落ち着かせようと、湿っぽい空気を吸い込む。

 とにかく、ネワンさんだけでも逃がさないと。

 こちらを見るシャトーに、ティアラは無意識のうちに後ずさる。

「何を迷っている?」

 深く低い声は、何度聞いても心に浸入してくるようで怖い。

 「……何も迷ってない」

 ティアラは比較的小声で答えた。迷っていない、というのは勿論嘘だが。

 そうしてる間にも、ゼブラが動こうとしていることにグレイスだけが気付いていた。

「白々しい嘘をつくな。魔力を渡すか、お前が死ぬか、選択肢は二つだけだ」

「あんたまさか…ティアラを殺して自分が頂点に立とうとし……!」

  ウェンディの口をふさぎ、ティアラはシャトーを睨んだ。

「私はどっちも選ばない。選択肢は二つだけじゃないもの」

「…強情だな」

 そう言い、マントの下から白い手を出した彼に、突然ジーラスがふらついて床に倒れこむ。

 危うく床に落ちているナイフで怪我をするところだったが、倒れる寸前に頭だけでも支えたサンのお陰でどうにかそれは免れた。

 魔法だ。

「友達を傷つけたくないんだろう?」

「卑怯よ!」

 珍しくサンが声をあげる。

 不意に、その隙をついてゼブラが動く。

 床から拾い上げた長い剣をシャトーに向かって振り上げる。

 ネワンが小さく悲鳴をあげて顔を覆う、ティアラが目を閉じる。しかし鈍い音など聞こえず、恐る恐るまぶたをあげた。

 シャトーの手にいつの間にやらおさまっていた古い木製の杖が、剣を受け止めていた。魔力で鍛えてあるらしい杖に、単なる剣は敵わない。

「まだ拘るのか、私を封印することに」

「……お前が消えてくれないと色々と面倒なんだよ」

 シャトーの青い瞳が、マントの下からわずかに覗いた。ゼブラもそれを見ただろう。

 そういい終わるか終わらないかのうちに、ゼブラは重いはずの剣を軽々と動かし今度は相手の首を狙う。

 わずかに掠め、マントの切れ端が床に落ちるがシャトーには怪我ひとつない。

「待って、ネワンさんは逃がしてあげて!」

 ティアラは不意に声をあげた。

 このままでは、成り行きで誰彼構わず傷つけてしまいそうだからだ。

 驚いた様子のネワンは、シャトーがわずかに自分に視線を向けたことでびくりと肩を震わせた。

「彼女は関係ないの、だから…」

 本当なら自分以外の人を全員逃がしてやりたいくらいだが、さすがにそうはいかないだろう。

 だが、やはりというか、この男に人情だなんていうものはなかった。

 視線だけで魔法を使うシャトーは、床に落ちていた短剣をネワンのすぐ横にある壁に突き刺す。

 悲鳴をあげてその場に座り込むネワンは、手で頭を覆い震えている。

「あんた、ふざけんじゃないわよ!」

 痺れを切らしたウェンディが、自分の口をふさいでいたティアラの手を押し退け、彼女の腕の中から飛び出した。

「敵に情などない。当たり前だろう」

 平然と言うシャトーは、わずかに手を動かす。

 そこから飛び出した赤い光線がサン目がけて飛んでいくのに対し、彼女は身を伏せて交わした。

 ゼブラはネワンがこちらを見ていないことを確認し、左手のひらを広げる。そこから白い光が飛ぶのに対し、シャトーはふっと目の前から消えた。

 壁に穴だけが開く、そして背後に移動したものだから彼は瞬時に身を引いて向こうが飛ばした光線を交わした。

 二つの穴が開いた壁を見、シャトーを睨む。

「お前、また魔法使いを殺した?」

 相手の力が強くなっていることに気付き、ゼブラは呟いた。

 シャトーは返事をする代わりに、分かりづらく五本の指を順番に素早く動かす。

  そうしてサンを狙って赤い光が飛んでいく。

「サン!」

 ティアラが助けようとしたものの、彼女の足に赤い光線が命中し、既に遅かった。

 倒れこんだサンに、グレイスと共に彼女は駆け寄る。

「大丈夫? しっかりして!」

 光線が当たった後に触れるグレイスは、そこが熱を持っていることに気付く。

「火傷だな、この程度なら大丈夫だ」

 痛みに顔をゆがめるサンは、どうにか上半身を起こそうとした。

「知っているはずだ、他人に手を貸してもいいことなどないと」

 剣を置いたゼブラに、シャトーは語りかける。

「なぜ、お前のような強い魔力の持ち主が人助けなどをする」

「……他人に教えるような理由じゃないよ。それに、俺は人を助けた事なんてない」

 緊迫した空気が一瞬二人の間を流れた。

 途端に、シャトーが視線をティアラに動かした。

 グレイスが、彼女を床に引き倒した。

 さっきまで自分がいた場所のすぐ傍にあった壁に巨大な穴が開くのを見て、ティアラは床に倒れこんだまま茫然とする。

 身を起こしたグレイスが、その穴を見て少々顔をしかめた。

 ネワンが気を失ったのを見たウェンディは、我慢ならないと言ったようにシャトーに向かって飛び出した。

 ティアラがそれに気付いて跳ね起き、立ち上がる。

「噛み殺してやる!」

 牙を剥いたウェンディは本気だ。

 ゼブラがとめる間もなく、ウェンディがシャトーの肩に噛み付く。

「ウェンディ、駄目!」

 ティアラは無意識のうちにウェンディを助けようとシャトーに大接近していた。

 オコジョが振り放されたのと同時に、ティアラはゼブラの腕を感じる。

 サンとグレイスがはっとしたように顔をあげるのも、ウェンディが振り飛ばされて壁で頭を打つのも、自分の背に回ったゼブラの腕がわずかに揺れ、鈍い音が聞こえたのも。

 すべての時間の流れが遅くなったかのように、ティアラは物を見ていた。

「ゼブラ……!」

 我に返ったウェンディが驚愕したように声をあげる。

 ティアラは事態が飲み込めずにいたが、木目の床に水が滴るような音を聞いて足元を見る。

 赤い液体が、ゼブラの肩から落ちているのにようやく気付いた。

 ふらついたティアラがその場に座り込みそうになるのを駆けつけたグレイスが支える。

 彼女は茫然としたまま、ゼブラの肩を突き抜けた細い短剣の刃先から血が滴るのを見ていた。

 何が……起こったの……。

「自分の命を捨ててまで守ろうとするなんて、吸血鬼としての欲深さがどこにもないな」

 シャトーが冷たく言い放つのを耳に、ゼブラはかろうじて立ったまま自分の肩に刺さる短剣に手をかける。

「駄目、抜いたら出血が…!」

 サンの言葉を無視し、彼は迷わずに短剣を引き抜いた。

 大量の鮮血が床に飛び散る、ゼブラは無表情なままだったがわずかに呼吸が荒かった。

「…俺は元々吸血鬼じゃない、ただの人間だった。欲深さがなくて当然だ」

 ゼブラが一番嫌っている、自分が人間だったという事実。

 ティアラとウェンディ以外の誰もが、目を見張った。

「お前に俺は殺せない」

 とめどなく流れる血など気にせず、彼は口元をあげた。いつかの美術館が蘇るが、ひどく弱弱しい。

 そうして、ゼブラが短剣を振り上げシャトーに対して投げる。

 それは相手の肩をかすめ、壁に突き刺さった。

 と同時に、ゼブラがその場に倒れこむ。

「ゼブラ!」

 サンは火傷はどこへいったのか、と言うくらいの早さで彼に駆け寄った。グレイスとウェンディもだ。

 傷を止血しようとサンが自分のハンカチを取り出す。グレイスがそれを受け取るのを見ながら、ティアラは茫然としたままだった。

 私を、守ってくれたの?

 私のせいで……死んでしまうの。

 夢の内容が一気に頭の中を駆け巡った。

 息苦しい、喉の奥が熱くなる。

「………どうして……?」

 ティアラは呟いた。それに気付いたようにグレイス達が顔をあげる。

 倒れたゼブラの頬は、いつも以上に白くて血の気がない。

 シャトーがこちらを見る。

「どうしてなの………何で……殺したければ最初から私を狙えばいいじゃない…!」

 吐き出すようにティアラが言う。その目がシャトーを睨みつける。

 あの踏切で、死んでいればよかったのかもしれない。

 誰かを傷つけてばかり、いつも守れない。無力な私。

 すべてが嫌になる、どうすれば出口を見つけられるのか分からなくなる。

「何でゼブラなの……どうして関係ない人を殺そうとするの? 私は一人だけよ、ティアラ・ミルキーは一人しかいない!」

 悲痛な声で叫ぶティアラに、誰もが顔をゆがめた。シャトー以外は。

 彼女は、自分の手のひらに爪が食い込むほどきつく拳を握り締める。

 ティアラは、自分の足元にわずかな風が起こったのに気がついていなかった。

「ティアラ、駄目よ…!」

 ウェンディが恐れるかのように声をあげた。

 辺りの武器となる短剣や槍、巨大な剣などが静かに持ち上がっていることにティアラは気付いていない。

「…それがお前の魔法か」

 シャトーの口元がにやりと笑う。

 魔法?

 ティアラは不審げに顔をゆがめる。

 ただ、許せないだけ。

 人を傷つけて、罪悪感さえ感じないあなたが許せない。

 どうして………!

「私の魔力が狙いなら私を殺しなさいよ!」

 その叫びと同時だった。

 彼女の深い青の瞳が揺らめき、無数の武器がシャトーに向かって一斉に飛ぶ。

 けれど、シャトーは舞うように瞬時に姿を消す。武器の刃先だけが激しい音を立てて、大量に壁に突き刺さった。

 ティアラは我に返る。

 シャトーの気配さえ感じなくなった部屋を見回し、苦々しい表情をしているウェンディに気がついた。

 サンは突き刺さった武器に生唾を飲み、グレイスは無表情のままだ。

「……ティアラ、ゼブラはまだ死んでないわよ」

「とにかく病院へ。一応ジーラス達も」

 肩を止血したゼブラに肩を貸したグレイスが、サンに言った。

 サンは頷き、ジーラスとネワンを見た後、両手を広げて白い光の玉を集める。

「飛ぶわよ」

 ウェンディが妙に重々しいことから、ティアラは自分が魔法を使ったのだと知った。

 だが、それと同時に辺りが真っ白につつまれたことから、彼女は静かに足元の感覚がなくなるのを感じた。


 あの雪の日、僕は大事な父親をこの手で殺してしまった。

 口の中に広がる鉄の味と、真っ赤に染まった手の血を洗って拭き取った時、ようやく自分が犯した罪に我に返った。

 きみが現れた、絶望したようにその青い瞳で僕を見ていた。

 どうして、彼女を裏切ってしまったのか分からなかった。

 僕はただ、平凡な幸せに、親から愛される幸せに憧れていただけなのに。

 時は流れ、僕は何度も罪を犯してしまう。

 自分が人間だという事実を知った者を無差別に殺していった、許せなかった。

 何も知らずに「人間だったんだろ?」と笑う周りが許せなかった。

 誰も、僕の苦しみを癒してはくれなかった。

 弱みなど、決して見せてはいけないのだ。敵には容赦や情けは必要ない。無駄口を利く前に殺してやる。

 何人の吸血鬼を、人間を殺しただろう。数え切れず、覚えていない。

 もう、罪を犯すという意識などなかった。

 僕は何も信じない、誰も、信じたって消えていくだけ。

 いつも、切なくなるたびにきみを想った。あの日に、まだ笑い合っていられた日に戻りたいと願った。

 だけど。

 やっと会えたとき、きみはもう変わっていた。

 きみの傍には、違う誰かがいた。僕は、来るべきではなかったと心のどこかで思っていた。

 人間は、僕の大事なものを奪っていく。

 もう、何が幸せなのかも分からない。

 こんな汚れた命でもいいのなら、きみのために消えていこうと思った。僕の命は、もう報われる事なんてない。

 自分から巻き起こしたのだ、すべてを。

 分かっていた、もう愛なんて手に入らないって。

 それでも、信じていたかった。

 真っ白な世界に僕は立っていた。ああ、あの雪の日のようだ。

 見覚えのある義姉、そして僕の願いを受け入れてくれた金髪の女が立っている。

「どうするのよ」

 彼女は腕を組んで、こちらを呆れたように見ている。

『……いいんだ、もう。死なせてくれ』

 生きていたって、苦しむだけだ。

「…本当にそれでいいの…? ティアラはまた苦しむわよ」

『ずっと…俺のことを考えてくれるかな』

「嫌な意味でね」

 何がおかしいのかも分からず、僕は自嘲するように笑う。

 本当、自分は大馬鹿かもしれない。

 それなら、死ぬのも悪くない。

 どんな感情でも、きみの心を独占できるなら。

「……生きて苦しむのよ、ちゃんと。勝手に死んだら許さないわ」

 女は静かに言って消えていった。

 生きる? 生きるなんて。

 僕はもう、生きていても希望なんてないのに。

 人間は簡単に欺けた、父の死を知られたときもすぐに騙せた。

 でも、自分自身は欺けない。 苦しいんだ、人を信じれない自分が嫌になっていく。

 罪悪感、なんてものを通り越した苦しみ。僕が僕でなくなっていくように。

 希望にしたいと思ったものを奪っていく人間が憎い、でもきみの大切な人達だから手にかけることが出来ない。

 苦い記憶は、僕を凍りにする。もう二度と、溶けることのない心。

 僕の命の時間は、とまったまま。あの雪の日から戻ることも進むこともない。幼い僕が泣いている。

 手を真っ赤に染めて、もう信じれないって。誰か助けて、って叫んでる。

 なぜだろう。

 陽の下で生きることも、黒く染まっても生き抜いてやると思ったのに、今はこんなに揺らいでる。生きていたくない、と。

 もし、再び目覚めなければならなくなったら、僕は生まれたことを後悔するのだろうか。



 小雨が降り始めていた。

 病院内の中庭は広く、芝生の地面のところどころに休むためのベンチが置かれている。

 目の前には巨大なもみの木が立っていて、この病院をずっと見てきたのだろう太くどっしりとした根をそこに下ろしていた。

 空は夜の深い闇に染まっていて、彼女はため息を吐き出す息が白いことを意識する。

 コートを羽織っただけで、マフラーも手袋もしてくるのを忘れてしまった。ジーラスの病室に置いてきたままだ。

 ジーラスは病院についた途端、ふらついていたら意識を取り戻した。ネワンも、もうそろそろ目覚める頃だろう。

 二人とも、医者が「念のために一日入院してください」と言ったため、今は病棟の二人組みの個室にいる。

 ただ、ゼブラは目覚めないまま、集中治療室に運び込まれてしまった。

 担架に乗って運ばれていった彼が、ひどく儚いものに見えた。いつもは隙さえも他人に見せない人なのに。

 ウェンディもサンも表情は暗かった。グレイスも落ち込んでいるだろうが、周りのために普通に振舞っている。

 廊下のソファで待っていたティアラ達に、集中治療室から出てきた白衣の医師がマスク越しに言った。

『非常に危険な状態です、助かるかどうかは……命の保証は出来ません』

 出血多量だ、と。

 どうしてなの。

 いつも、大事なものを守れない。私が怪我をすればよかったのに、どうして私じゃないの?

 使用中、と書かれた看板には赤いランプが灯っている。それをグレイスは、集中治療室の前のソファに座り静かに眺めた。

 ゼブラの台詞が、彼の頭の中に蘇っていた。

 ―本気で守りたいなら、自分の命を捨てる覚悟で―

 なぜ、あいつはそこまで出来るんだ?

 まるで、自分のことなんてどうでもいいかのように…。

  ゼブラには敵うはずもないと、グレイスは心の中で思った。そして重たい腰をあげたのだった。

 寒い。

 小雨の中、外のもみの木の幹にもたれかかったまま、ティアラは立ち尽くしていた。

 涙が零れ落ちるたびに、心が締め付けられそうだ。

 きっと、彼はもう死ぬつもりだったに違いない。

 自分を犯罪者だと言って、何もかもを投げ捨てて……。

「めそめそするんじゃないわよ」

 唐突に声がかかる。

 うつむいていた彼女は我に返り、慌ててコートの袖で涙を拭った後顔をあげた。

 いつか見た金髪の少女が、灰色の瞳でこちらを見ている。プラシナだ。

「プラシナ…! ねえどうしよう、ゼブラが……」

 すがるように自分を見るティアラに、呆れ顔をするプラシナはいつもとまったく変わらない。

「ゼブラなら大丈夫よ。…ちゃんと起きるよう言ってきたわ、目覚めるように魔法もかけてきたし、安心しなさい」

 やわらかい口調、とまではいかなかったが、一応慰めるつもりはあるらしく、彼女は言った。

 ティアラは目をしばたいて口を開く。自分の目が腫れていないかどうかが少々気になった。

「言ってきたって……どうやって?」

「…夢の中に入って。死なせてくれとか言ってたけど、断ってやったわ」

 その台詞に胸を痛める。

「誤解する前に言うけど、ティアラのためじゃないわよ。ゼブラ自身、ここで死んだら死ぬに死にきれないと思って」

   プラシナは、ゼブラが淋しげにティアラの思考を独占できるかどうかまで呟いたことを思い出すが、それは言わないでおく。

 欲深じゃないなんて大嘘だと思う。本当はずっとティアラの心が欲しくてたまらないくせに。

 彼女のために死ぬなんて、それはちょっとかっこよすぎるんじゃないの?

 目の前で視線を落としていたティアラを見て、プラシナは息をついた。

「……プラシナ…私……」

 戸惑いながらも呟くティアラに、プラシナは眉根を寄せて首を傾げる。

 ティアラはもう、どうするかを決めていた。

「…魔法界へ帰る。もう、誰も傷つけたくないの」

 本当は、大分前から決めていたことだった。

 ただきっかけがなくて、踏み出せないままだったけれど。

 プラシナは驚きもせず、「そう」とだけ返事を返す。

 その反応が予想以上に薄かったためか、ティアラは驚いて逆に問い返してしまった。

「驚かないの?」

「…まあ、強情だったあの頃を思えばね。でも、一旦戻ったら何年も皆と会えないわよ」

 覚悟しているつもりだ、と彼女はこくんと頷いた。

「もう、いいの」

「……そんなにゼブラが死にそうなのが応えたの?」

  いつになく力ないティアラに、プラシナは小雨に髪を撫で付けながら尋ねた。

「…だって、私が傷つけたのかもしれないから……あの雪の日、私があの場を去ってなかったら、あんな風になってなかったかもしれない……」

 泣き出しそうな声のティアラは、自分の口元を手の甲で押さえて涙を飲み込んだ。

 プラシナは顔色ひとつ変えない。

「ゼブラはそれくらいで変わらないわよ」

 それに、夢の内容が実現しそうで怖いの。

 自分のためにも、皆のためにも、此処にいるべきではない。

「私は、落ちこぼれでも魔法使いだもの。いつかはこういう時がくるって、分かってたから…自分で決めたの」

 魔法を使う者としてのプライド、とでも言うのだろうか。

 本当はまだ此処にいたいと思っている、けれどそれでは何も変わらないまま。返って状況を悪化させるだけ。

「…出発を決めたらゼブラにもちゃんと言うのよ。ああみえても、ティアラを一番に心配してるんだから」

 そうして、プラシナはうっすらと姿を消していった。

 徐々に雨が強くなってきていた。

 頬を伝う雨粒を拭い、ティアラはもみの木を振り返った。

 言ってしまった……。

 懸命に涙を飲み込む、自分の運命がひどく残酷なものに思えてくる。

 馬鹿みたい、皆を守るなんて心の中で決めておいて、結局実行もできない。

 自分が憎い、弱くて無力で大嫌いな私。

 もみの木に手をつけば、更に激しくなる雨が彼女に降り注ぐ。

 濡れた髪から水が滴る。

 どうすればいいんだろう、どうしたらあの人から逃れることが出来るの?

 その言葉だけが、頭の中をぐるぐると廻っている。

 雨に濡れて寒いとか、そんなことは感じなかった。

「ティアラ?」

 不意に背後から声がかかり、彼女は無意識のうちに振り返った。

 傘を差したグレイスが、いつの間にやら背後に立っている。

「ずぶ濡れじゃないか」

 驚いたように彼は傘を持って近づいてこようとする。

 嫌、なんだか泣きそう。

 涙が落ちる前にと、ティアラはグレイスに背を向ける。

「来ないで下さい。…平気ですから」

「平気って……」

 どうみても平気には見えないだろうが。

 彼女は息を吸い込んだ、顔の雨粒を拭いながら、数メートル後ろで立ち止まっているグレイスに向かって口を開く。

「私……」

 自分の決心が変わる前に、揺らいで崩れてしまう前に。

「魔法界に帰ります」

 雨風が二人の足元を駆け抜けた。


 集中治療室の前にやってきたサンは、姿の消したウェンディを肩に乗せてそこに立ち尽くしていた。

「……助かるでしょうか」

「どうかしら」

 不安げに手を組むサンに、ウェンディは平然と言った。

 病院が閉院し、緊急患者が入ってくるくらいになった院内は消灯され、薄暗い。使用中というランプだけが煌々と灯りを灯している。

 重たい沈黙が流れた後、本当に突然集中治療室の扉が開いた。と同時に使用中のランプが消える。

 驚いてサンがわずかに飛び上がりかける。

 だが、すぐに我に返った。見えないウェンディもさすがに緊張したらしく、サンの肩を掴む前足の爪をわずかに立てる。

 担架が目の前を通り過ぎ、運ばれていくゼブラの顔色は真っ白だ。

 そして、その後に手術が終わったらしい医師がサンの前に立った。

「あの……」

 何か言おうとしたサンの言葉を、医師は遮って話しだす。

「一応出来る限りの処置はしました。…後は目覚めれば問題ありませんが、意識が戻らない場合は……本人の気力次第です」

 書類を見て必要事項だけを告げると、医師はさっさとどこかへ行ってしまった。

 濁された言葉の先は、大体の見当がつく。

 サンは、ゼブラが消えた病棟の出入り口を見た後、重たい足を動かしたのだった。


「……ゼブラが殺されかけたからか」

 重たい空気の中、グレイスがため息混じりに言葉を吐き出した。

 ティアラは、緊張で震えている自分の手を押さえ込む。

「それもですけど…サンが操られた時から、ずっと考えてました」

「…お前が帰ったところで、問題は何も解決しない」

    雨が地面を叩きつける。

「私が此処にいれば、必ず他の誰かの命を奪うことになってしまいます。そうじゃなくても、無関係な人の手を汚してしまう。……こういう時がくるって、分かってました。私は魔法使いですから」

 声がうわずらないよう、震えないよう気をつけながら喋ったつもりだ。

 このまま、納得してくれればいい。

 そうすれば、胸の内を明かさずに、自分が魔法界に帰りたいようにこの生活を終わりにできる。

 だが、ティアラの耳に届いたのはその考えとは間逆の台詞だった。

 「……行くなと言っても?」

 重苦しく心臓が脈打つ。

 行くな、なんて言われたら、素直に此処にいると頷いてしまいそうだ。

「……ごめんなさい…」

 胸が苦しくて、泣きたくなる。雨の寒さが今頃身にしみこんでくる。

 これが正しい選択なのだと、自分に言い聞かせる。

 私が姿を消せば、シャトーはもうグレイスさん達に手出しをすることはない。

 誰も傷つかずに済む、誰も悲しまずに済む、誰も汚れずに済む。

 でも……本当にそうなのだろうか?

「…お前はいつもそうだ。一人で勝手に重要なことを決めて、いつの間にか人の前から消え去る」

 グレイスの声が怒っているように聞こえて、ティアラはそうじゃない、と振り返ろうとした。

 けれど、代わりに影が落ちる。

 唐突に動きをとめた彼女は、地面に彼の傘が落ちるのを見た。

 え……。

 雨の寒さなどもはやどこかへ飛んでいってしまい、しっかりした腕が自分の折れてしまいそうな身体に回る。

 背後からやわらかく抱きしめられて、ティアラは硬直した。

「グレイスさ……」

 自分の声がとても遠くで聞こえ、鼓動が一瞬にして加速する。

「行くな。…此処にいてくれ」

 苦しげなグレイスの呟きがすぐ耳元で聞こえ、ティアラは何も言えなくなった。

 私、どうすればいいの?

 喉の奥が熱くなる。

「不安も迷いも、ちゃんと言ってほしい。必ず守ると、約束するから」

 背に彼の体温を感じた。

「……ずっと同じ夢を見るんです、毎晩。……屋敷みたいな家の廊下が燃えてて、マントの人に追われて逃げた先に…皆が……死んでる…」

 自分がシャトーを刺してしまうとはさすがに言えない。

 けれど、ティアラはもう彼には嘘をつけないと思っていた。

「それで?」

「…怖い。ただの夢かもしれないけど、未来を映す夢だったなら……皆がそうなる前に魔法界へ帰るべきだと思って……もう、誰も傷つけたくないから」

 泣きそうになりながら、彼女はそこまで言い切る。

「……ああ見えても、皆お前のことを大事に思ってるんだ。自分達が死ぬより、ティアラが魔法界へ帰るほうが辛いと思うぞ?」

「でも皆が死ぬほうが私には耐えられないですよ!」

 思わず声をあげたティアラに、グレイスがわずかに微笑んだような気がした。

「死なない。ちゃんと、生きてる。あの男との決着がついた後も」

 ティアラは涙を堪えきれず、雨粒に混ざって自分の頬を伝う涙に唇を噛んだ。

 私、此処にいてもいいの?

 もし、皆が消えてしまったら私はとても後悔するわ。

 何もかもを失うのは、もういやなの。

 でも、あなたがいてくれたらまだ頑張れるかもしれない。

 皆が、いてくれるなら。

 雨粒がさかさまになった傘に溜まっていく。

「…此処にいてもいいんですか?」

 弱弱しいティアラの声に、彼は彼女を抱く腕に少し力を入れた。

「もちろん」



 真っ白な天井と壁の一人専用の病室で、淡い水色の髪を流したまま少女は面会人用の黒いソファに横たわって眠っていた。

 白いタオルを握り締めたまま眠りに落ちていた彼女のすぐ傍にあるベッドで、彼はうっすらと目を開ける。

 カーテンが開いている窓から差し込む白い朝日に、その赤い瞳を細める。

 ゆっくり身を起こそうとすれば、左肩に激痛が走り、顔をしかめながらもゼブラはどうにか起き上がった。

 乱れた金の髪を整えつつ、彼はベッドより少し低いソファで眠り込んでいるティアラに気がつく。

 ……目覚めてしまったのか。

 絶望すると思っていたのに、なぜかあまり苦しくない。そういう定めだと認めてしまえば、何もかもが許せるようになってしまったのだろうか。

 不意に、彼女のまぶたが動く。眩しそうに額に手を置き、うっすらと目を開ける。

 深い青の瞳が顔を覗かせたことに、ゼブラは心のどこかで安堵していた。

「ティアラ」

 肩が痛まない程度にベッドから身を乗り出し、彼は口を開く。

 聞き覚えのある声に、徐々に彼女の頭ははっきりしてきた。

 そうして飛び起き、ティアラは無意識のうちに立ち上がるとゼブラのベッドに手をつく。

「ゼ…ゼブラ…?」

「うん」

 そう言ってわずかに微笑んだ彼に、彼女は泣き出しそうに顔をゆがめる。

 病院着を着たゼブラは、そのティアラを宥めるように青い髪を撫でた。

「もう死んじゃうかと思った…っ…」

「俺はシャトーには殺されるつもりはないよ」

 いや、少々弱気にはなったけども、と彼は思う。

 ティアラは力が抜けかけ、しっかりとベッドを囲う柵を握り締めた。

 そうして、言わなければならないことを思い出す。そのために、此処で彼が起きるのを待っていたのだ。

「…私、もう逃げないから。ゼブラも含めて皆が私を大事に思ってくれてるなら、ちゃんと立ち向かうから。…シャトーを封印する…!」

 ゼブラは少々驚いたように、赤い瞳を動かした。

 そして、肩の力を抜く。

「分かった、俺も手伝うよ」

「でも、次に何があっても……私をかばって怪我をしたりしないでね」

 瞳を見返し、ティアラは伝える。ゼブラはとりあえずそうする、というように頷いた。

 あと、まだ。

「それと…あの雪の日、私、ゼブラを裏切ったよね……ごめんなさい」

 視線を落としたティアラに、彼は今更と呟く。

「い、今更?」

 焦って顔をあげた彼女に、ゼブラは意地悪っぽくだが微笑んだ。

「今更だよ。……もういいんだ、ティアラ。俺はティアラがいてもいなくても、どのみち同じ道をたどっていたと思う。俺がこんな風にしか生きられないだけだよ」

「だけど…それじゃあ私の気が済まないの! やっぱり責任感じるから…何か出来ることない?」

 申し訳なさそうに視線を泳がせるティアラは、彼の心をあたためる。

 きみはとても、あたたかい魔法使いだよ。

 そうしてゼブラは、柵を掴んでいた彼女の手を取る。

 途端に病室の出入り口が開く、それと同時に彼はティアラの指先に唇を寄せた。

「これでチャラ、俺達の間にはわだかまりなんてないよ」

 いつものように口元をあげたゼブラに、ティアラはしばし黙り込んだ後に赤面して手を奪い返した。

 そうして、戸口に立っているグレイスとウェンディに気がつく。

「グレイスさ…ウェンディ……」

 まずい、と思いつつも弁解できないまま、ティアラはわずかに窓辺に後ずさる。

 予想通り、ウェンディがゼブラが目を覚ましたことに感動する前に牙を剥いた。

「あんたなんかやっぱり死んどけばよかったのよ! 油断も隙もないような吸血鬼!」

「それはそれは。残念だけど、俺は当分死なないよ」

 敵意を飛ばすウェンディが自分の手に噛み付かないようにとゼブラも毒を投げた。

 そして、戸口で荷物を持っていたグレイスが顔をしかめ、珍しく怒鳴ったのだった。

「お前は調子に乗りすぎだ!」



 ああ、空が晴れていく。

 夕べの雨が嘘のように晴れ渡った青空を見上げ、ティアラは微笑んだ。

 明日のことなんて何も分からない。

 けれど、皆がいてくれるなら頑張ろうって思えるの。



 魔法使いとして、これから何が待ち受けているのか。

 戦いの本番はまだ、始まったばかり。

 さあ、走り出せ。




 Four fin

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