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Again  作者: 桜葉
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第二章―月光の美術館

この物語はイギリスが舞台ですが、作者の経験上イギリスには程遠いイギリスになっています。ご了承下さい。

また、探偵事務所が登場しますが、これも作者の経験上本格的な捜査部分まで記すことが出来ません。ご了承下さい。

以上を「許せる!」という方のみ、物語へお進み下さい。

 今日も隣で言葉を紡ぐ、そんな君の姿が消えてしまわないように。

 そう祈ることしか出来ないまま、もどかしい時間は過ぎていく。

 目の前にいるのに、手の届くところにいるのに。

 それなのに守れないまま、再び僕は君を裏切ってしまうのだろうか。


 まただ。

 真っ赤に染まる視界に、少女はそう思った。

 手のひらから滴る赤い液体と尖った銀色の刃のナイフを、茫然と立ち尽くしたまま眺める。

 目の前に倒れた自分の大切な人達が立ち上がることはない。

 そう思えばなぜか胸が苦しくなって、無表情のまま血だらけの手でナイフをきつく握り締めた。

 失いたくない。



Again

第二章―月光の美術館ミュージアム



 彼女はベッドから跳ね起きた。そのせいで足元にうずくまり眠っていた相棒を蹴飛ばしてしまったとも知らずに。

 額に浮かぶ汗を拭いながら、一人「夢…」と呟く。

 まだ激しく脈打つ鼓動に深呼吸し、ティアラは自分の右手のひらを左手で触る。

「ちょっとティアラ! 人を蹴り飛ばさないでよ!」

 ベッドの下に転がり落ちた真っ白なオコジョが、朝から腹立たしそうに罵声をあげた。

 ティアラは我に返り、自分がウェンディを蹴ったのだとようやく気付く。

「ごめん、大丈夫?」

「見ての通りよ!」

 キイキイ声を出すウェンディは、すぐに立ち上がって背の黒い翼で宙に浮上した。

 見るからに大丈夫そうだ。

 ティアラは一安心し、枕元に置いてあった銀色の懐中時計を手に取った。

 蓋を開けると、秒針の音が耳に届く。時刻は午前六時半だ。

 いつもは六時に起きるため、今日は少々寝坊したといえるだろう。

 時計を置きベッドから裸足で降りると、そのまま木製のクローゼットを開けた。

「最近よく飛び起きるわよね」

「そう?」

 セーラーの襟に水色の線が二本入っている黒いワンピースを引っ張り出し、ティアラは平静を装いながら返事を返した。

 あの夢の事はまだウェンディには言っていない。

 もうあのバス事故から二ヶ月になる今現在、三日に一度はあの夢を見る。

 服を着替えたたんだ寝間着をクローゼットの棚に置くと、ウェンディが黒く長いタイツを持ってきてくれていた。

 礼を言い、ベッドに座りながらタイツを穿こうとする。

「悪い夢でも見てるわけ?」

 意外に鋭い。

 いつもは鈍感というか、自分のことしか考えてないくせにと思いながら、別にとだけ答える。

「あんまり気にしないで。それよりウェンディ、朝食の準備手伝ってよね」

 タイツを穿いて、ベッドの脇に置いてあった茶色の膝下までのブーツに足を突っ込みながら、ティアラは言った。

 一気に嫌そうな表情をしたウェンディは、すごすごと先に部屋から出て行くものだから、彼女はため息をつく。

 そうして、机の上に置いてあった櫛で長い髪を解かし、急いで二つ三つ編みを作った。

 カーテンを開け、自分の部屋を後にする。

 廊下に出てみるが、まだ皆寝ているようだ。

 突き当たりにある事務所への扉へ向かい、ティアラはそっと中へいる。

 ブラインドが閉まり薄暗いままの事務所の電気をつけ、彼女は出理口の扉を閉める。

 と、机に突っ伏して眠りに落ちているらしいグレイスの姿が目に入った。

 灯された蛍光灯の眩しさに、彼はかすかにまぶたをあげて黒い瞳を覗かせる。

「グレイスさん、もしかして徹夜だったんですか?」

 慌ててグレイスの傍に駆け寄ったティアラに、彼は重い頭を持ち上げた。

「ティアラ……? ということはもう朝か」

 椅子から立ち上がろうとするグレイスに、彼女は言った。

「寝ててくださって結構ですよ。まだ六時半ですし……」

「そういうわけにもいかない。今日は市内の美術館の館長から依頼が入ってるんだ」

 前髪をかきあげて彼は立ち上がり、椅子の背にかかっていたスーツの上着を取る。

「あ、何時に出られますか?」

 事務所から裏に入っていこうとしたグレイスに、ティアラは慌てて聞いた。

 彼はしばし空を眺め考えてから、「九時半」とだけ伝えて向こうへ姿を消した。

 バス事件以来、少しだが事務所の名が市民に知れた。そのお陰で、依頼も三日に一度はくるようになったのだ。

 嬉しい事だが、グレイスがあまり睡眠を取れないということに関しては、素直に喜べない。

 手伝いたいと思っても、ティアラには理解できないような難しい書類の山を片付ける仕事を手伝うことは出来ず、せいぜい依頼の手紙を開けて簡単な依頼だったら自ら解決させることくらいだ。

 何か出来ることはないかと考えつつ、彼女はブラインドを上げた。

 朝日が窓から差し込んでくる。思わず眩しさに目を細める。

 明るい日差しに照らし出され始めたロンドンの街並みを見渡しながら、ティアラは息をつく。

 朝の空気を取り入れようと窓を開けたとき、事務所の玄関口がガチャリと音を立てて開いた。

 入ってきたのは、金髪の少年だ。扉を閉めつつ中へあがってくる。

 ゼブラは今現在、事務所から少し離れたマンションの一室に住んでいる。

「おはよう」

 ティアラはあまり視線を合わせないまま挨拶する。

 そうしていたのはもちろん、未だあの病院の屋上で自分が彼に対して言わなくてもいいようなことを言ってしまった事を恥じていたからだ。

 けれど、ゼブラが気にした様子はなく、彼女が必死で窓の外を見ているふりをしているのを分かっていて、その三つ編みを片方優しく持ち上げた。

「おはよ、ティアラ」

 慌ててティアラは自分の髪を取り返す。

 その姿に、彼は苦笑した。

「そんなに慌てなくても」

「か、勝手に触らないで!」

 意味のない怒鳴り声をあげて、彼女はゼブラから離れる。

「グレイスは?」

 事務所の隅にある台所へ向かうティアラに、彼はそう言葉を投げかけた。

「今さっき起きて裏に行ったよ」

 不機嫌な態度の彼女は、背伸びして棚からパンが入っている袋を取り出す。

「…そんなに気にしてるの? 屋上で俺に言ったこと」

 ぎくっとして思わず手を止めた。

 固まったティアラに、ゼブラは静かに近寄る。

「幸せになるのが不安だって」

 背後に感じる真面目な彼の声に、ティアラはしどろもどろに口を開いた。

「…ゼブラには関係ないでしょ。第一…私そんなこと言ってないから!」

「ちゃんと聞いたよ、この耳が覚えてる」

 自分の耳を指差しながらうつむいた彼女を覗き込んだゼブラに、ティアラは顔を背けた。

 それを無視してトーストのスイッチを入れ、取り出したパンを数枚押し込む。

「…そんなこといい加減忘れてよ」

「忘れられない。…何が不安なの?」

 小さな呟きさえ、彼は聞き逃すつもりがないらしい。

 何が不安だなんて、人に言えたら苦労しない。

「今日は美術館の館長さんから依頼を受けてるってグレイスさんが言ってたから、内容でも聞いてきて」

 話題を変えたティアラに、ゼブラはまだ何か言いたげだったが、分かったよと言って頷いた。

 裏へ入っていった彼の姿を見ながら、彼女はミルクをあたためるために鍋に注ぐ。

 私は此処にいたいのに、此処にいたら皆を死なせてしまうのかもしれない。

 そう思えば、また自分の居場所が分からなくなる。

 ネガティブな考えを追い払おうと頭を左右に振ったところで、いつの間にかすぐ横にウェンディが腕を組むようなポーズで不審げな顔をして浮いていた。

「ウ、ウェンディ!」

 あまりに突然彼女が現れたため、ティアラは驚きのあまり思わず声をあげていた。

 そのせいで手に取った卵を落としそうになってしまい、慌てて持ち直す。

「ねえ……いつからゼブラとあんなに親しくなったわけ?」

 まじまじと顔を近づけてくるウェンディに、ティアラは動揺する。

「な、何が? 別に親しくなってなんかいないでしょ! 単に話してただけで! ていうか、いつから此処に居たの?」

 どうにか誤魔化そうとそこまで言うが、彼女が引き下がる様子はない。

「いつからって、ティアラが入ってきてすぐよ。あんたねえ…もうちょっと警戒心を養ったほうがいいわ。あいつはあくまでも魔界の人間なんだから!」

 警戒心を養えなんて、食べ物が絡めば敵のところへでも飛んでいってしまうような妖精に言われたくない。

 わかったよ、と投げやりに返事をしつつ、ティアラはフライパンに数個卵を割った。

「ティアラ、あなた最近変よ」

 ウェンディが彼女の肩に舞い降りながら呟く。

「…変じゃないよ」

 油が音を立てるのを耳に、ティアラはそう返す。

 その横で深いため息をついたウェンディは、黄金の瞳で宙を仰いだ。



「テレーゼ美術館って、ロンドンで二番目に大きな美術館?」

 驚いたように抜けた声を出したジーラスは、もちろん寝起きで跳ねる銀色の髪を撫で付けながらグレイスに問い返す。

「二番目? この間一番大きな美術館の館長が亡くなってそこが閉鎖されたから、今は一番大きな美術館だ」

 美術館について調べたらしいグレイスは、助手席で資料を読み上げる。

「ていうことは結構お金も出るってことよね?」

「……ウェンディさん、そういう考え方はやめたほうがいいですよ」

 後部座席の真ん中に座っていたサンは、呆れたように左隣のティアラの肩に乗っていたウェンディに言った。

 美術館へ向かう事務所の車の中で騒ぎ立てるウェンディを押さえつけながら、ティアラは美術館と聞いて色々なものを思い浮かべていた。

 十九世紀では上流階級の貴族達が、よく美術品を見立てて購入したものだが、今現在はそういうことはないのだろう。

 路上で自分の作品を並べて通行人を呼び止めている売れない画家達しか、二十一世紀に来てからティアラは見ていない。

「美術館ってことは、もしや絵画が盗まれるとかいう事件なんですか?」

 ティアラは、よく美術品が盗まれたという報道を耳にするものだから、ついついグレイスにそう尋ねる。

「いや、依頼の内容はまだ聞いていないんだ。そういうわけでもないらしいが……」

「絵画が盗まれていたらとっくの昔に警察が動いてるよ」

 運転していたゼブラがグレイスの台詞を遮る。

 確かにそれもそうだ。

 とりあえず彼女は頷き、シートにもたれかかった。

「まあとりあえず、どんな難事件でも解決させてやろうぜ! 俺は前回のバス事件の時に意気込んだんだ!」

 一人拳を握り締めて盛り上がるジーラスに、サンは少々引いている。

 ティアラは苦笑いしつつ、無視しているグレイスの代わりにウェンディが呆れたように言った。

「あんたの頭脳が役に立つのならね」


 辿り着いたのはロンドン市内の公園内にある緑に囲まれた白亜の建物だった。

 建物の周りには塀も何もなく、本当にただ建っているという感じだが、かなり大きい。

 屋根付きの出入り口のすぐ横には、銀色のプレートに「テレーゼ美術館」と記されている。

 今時珍しい手動で開閉する両面の扉を開けて、ティアラ達は中へと足を踏み入れる。

 外から見れば一見、本当に営業しているのだろうかと思うような薄暗い建物だったが、館内には思ったよりも人が溢れていた。

 さすがに子供連れの人はいない、女性も男性もいて人数は五分五分くらいだろう。皆、熱心に絵画や銅像を眺めている。

 若い人間をあまり見かけず、ティアラはこの場に居てもいいのだろうかと少々たじろいだ。

 と、人が移動する足音くらいしか聞こえない美術館内に、突然声が響く。

「おじちゃん、絵にさわっちゃだめだよ!」

 人混みの中から聞こえてきたのは、本当に子供っぽい幼い子供の声だった。

 グレイスが声がしたほうへ歩いていく。ティアラも、ゼブラとウェンディを残し、急いで続いた。

「触ってたんじゃないんだ、ちょっと近くで見たかっただけで……」

 幼児相手に言い訳しているらしい男性の声は、まだ若い。おじさんと言うには無理がありそうだ。

 グレイスとティアラは人混みで見えなかった、二人がいる絵画の下までやってきた。

 さっき叫んだ子供は、薄い茶色の髪を二つに結んでいてまだほんの五、六歳と思われる外見の、小さな女の子だった。

 白い作業服のような服を着て、その腹の辺りには赤や青のペンキがついている。

 そしてその少女に言い訳している男性は、普通の背格好をしているが少々痩せている。チェックのポロシャツに黒いズボンを穿いているが、どちらもぶかぶかだ。

「どうかしましたか」

 グレイスがそう男性に話しかけると、驚いたように彼は振り向いた。丸い眼鏡をかけて黒く短い髪をぼさぼさとかきむしれば、ティアラはどこかでこの人を見たような気がすると感じる。

「い、いえ」

「このおじちゃんが、絵をさわろうとしたの! 絵はさわっちゃいけないんだよって、おじいちゃんが言ってるのに」

 事を終わらせようとする男性に対し、少女はまたもや大きな声で言った。

 辺りの人々が振り返ることから、ティアラは慌てて少女と同じ目線に屈んで人差し指を立てる。

「ここでは絵も触っちゃいけないけど、騒いだりするのもいけないんだよ」

 そう言うと、少女は少しむっとしたように口をとがらせた。

「知ってるよ、だってあたしのミュージアムだもん。ここ」

「えっあなたの?」

 ティアラは驚いて目を丸くする。まさか、こんな小さい女の子が館長?

 グレイスもそれを聞いていたようで、その少女に見入っていた。その隙に、男性がこそこそとその場を離れたのを知らずに。

 すると、背後から楽しげな笑い声が聞こえた。

「失礼、その子は私の孫です。おいでトゥア、その方達はおじいちゃんの大切なお客様だよ」

 ティアラ達が振り返った先には、少女と同じ作業着を着ている六十代くらいと思われる白髪の男性がいた。

 トゥアと呼ばれた少女は、その男性に駆け寄っていき、白いズボンを力いっぱい掴んだ。

「探偵事務所の方々ですな? 申し遅れました。テレーゼ美術館の館長を務めています、ジョン・ワーグナーです」

 そう名乗り一礼したワーグナー館長に、グレイスも頭を下げる。ティアラも慌ててお辞儀をする。

「事務長のグレイス・アルフォードです」

「えっとあの、ティアラ・ミルキーです」

 グレイスに続きしどろもどろに名乗ったティアラは、にこやかなワーグナー館長の視線に少し緊張がゆるんだ。

 そうしていると、ゼブラ達が人混みから現れる。

 グレイスがゼブラを紹介している隙に、ウェンディがティアラの肩に飛び乗った。

 立ち話もなんなので、と館長はティアラ達三人と一匹を美術館の職員用の部屋が並ぶ廊下の一室にある応接室に案内してくれた。

 長く背の低いテーブルを挟んだ黒いソファに腰掛け、ティアラは室内を見回す。

 長い間使われていないようにも思える応接室内の壁には、沢山の青い蝶が陽だまりの中河を渡る短い木の橋の上を飛んでいる絵画が飾られている。

 埃をかぶったテーブルを見つめていると、姿を消したウェンディが肩から言った。

「随分寂れてるわね」

 ティアラは小さく頷く。

 向かいのソファに座った館長は、小さな孫を自分の膝の上に乗せる。

「今回の相談は、やはりここ数日続いている絵画に対する悪質な悪戯のことでして…直球に言えば犯人を突き止めていただきたいわけです」

 ワーグナー館長は、さっきまでの穏やかな表情を変えて真剣に話し出す。

「悪戯? それなら警察に届けたほうがよろしいのでは」

 グレイスが言う事はもっともだ、しかし館長はため息をついて首を横に振る。

「絵画自体に悪戯されるわけではなく、額縁、いわば表面のケースをペンキのようなもので汚されるだけなのです。なので額縁を取り替えるか洗うかすれば汚れは落ちます。一度は警察に届けたのですが、実際の美術品に損傷があったわけではないので向こうも相手にしてくれなくて…ですが館長に私のとっては、ケースを汚されるだけでも立派な犯罪です」

 国家から認定されている絵画を直接傷つけることはもちろん犯罪だ。

 けれど、むしろケースだけを汚していくというのもおかしな話で、それこそ警察が取り組まなければならないのではないかとティアラは考える。

「分かりました。犯行が行われると思われる時間帯はお分かりですか?」

 グレイスは手帳を取り出しメモの用意をする。

「警備が怪しい人影を見たという時刻は、大抵夜中の十時から十二時でした」

 夜中の美術館だなんて。

 ティアラが苦々しげな表情をするのを、右隣のゼブラが見ていたらしく、おかしそうにかすかに笑った。

「美術館の全体図など、そのような資料は一般に提供されていますか?」

「パンフレットに書いて提供しています。出入り口付近にパンフレット専用の棚がありますので自由に持ち帰れるようになっています」

 となると、犯人は美術館の全体図を把握している。

「今夜一度張り込んでみます。ですが館内の全体図を把握してから実行させていただきたいので……今夜の七時頃にまたうかがいます。今から館内を調べさせていただいてもよろしいですか?」

 腕時計を見て、グレイスは尋ねた。

 館長は首が千切れるのではないかと思うほど頷く。

 トゥアは大人しくそれを聞いている。

 グレイスが立ち上がるのと同時に、ティアラとゼブラも立ち上がった。

 お辞儀をして応接室を出ると、グレイスはポケットから小さいメモ帳を取り出す。

「ゼブラとウェンディは展示品の位置をメモしてくれ、それぞれの美術品の特徴から色まで細かく書け。私とティアラは館内の見取り図を取る。…外は、ジーラス達に任せてあるから大丈夫だろう」

「なんで私がゼブラと一緒なのよ!」

 不満そうに姿を現したウェンディは、グレイスを睨んだ。

「ウェンディだったら四方から美術品を見れるだろう。姿を見えないようにすれば飛び回れるし。ちょっとは自分の体型を役立たせることも考えろ」

 メモ帳とボールペンをゼブラに渡し、グレイスは言い切った。

 ウェンディが鼻の上にしわを寄せて噛み付きそうな勢いなのを見かね、ゼブラが彼女の翼を掴む。

「じゃ、俺らは行くから」

 そうして、館内に戻れる方向へ歩き出したゼブラの手につかまれて、ウェンディはもはや人語ではない罵声をあげていた。

「見取り図ならパンフレットでいいんじゃないですか?」

 去っていった二人の姿を見送り、ティアラは隣のグレイスに口を開く。

「駄目だ。館内のすべての出入り口や窓の数と構造、目立つもの覚えやすいもの、連絡を取れるようなもの、全部をメモしてあるパンフレットなんてあるか?」

「な、ないですね」

 もうひとつのメモ帳を取り出したグレイスの言葉に、ティアラは苦笑いする。

 思ったより大変そうだ。

 職員が使う私室等の部屋が並ぶ廊下を、ゼブラ達とは反対方向へ歩き出す。

 こうしてグレイスと歩くのは、久しぶりかもしれない。

 と、彼は唐突にメモ帳とボールペンをティアラに差し出した。

「へ?」

「へ、じゃない。お前がメモするんだろうが」

 平然と言ったグレイスに、ティアラは目を丸くした。

「何で…無理ですよそんなに沢山!」

「事務所で働いてもう一年だろ。このくらいは覚えてくれないと困る、まずは自分でこれはと思ったものを書き残して足りないものは私が言う。いいな?」

 立ち止まったティアラに足を止める様子がないグレイスは先へ歩いていく。

「はあ…って、待ってください」

 慌てて追いかけ小走りになりながら、ティアラは廊下を見てまわる。

「その消火器も。それと職員の部屋には入れないから、そこに部屋があるということだけ書いておけばいい」

 通り過ぎようとした消火器をメモし、部屋があるということも書く。

 更につらつらと喋るグレイスに混乱しながら、ティアラは必死にペンを動かした。


「それは人なの、鳥なの?」

「天使ってとこじゃない?」

「どっちかはっきりしなさいよ!」

 壁にかけられた絵画を見ながら、ウェンディとゼブラが言い合っていた。

 姿を消したウェンディは、彼の耳元で小声で怒鳴る。姿は見えなくても、声は人に聞こえてしまうのだ。

「そんな区別、俺にはつかないよ」

「じゃあ「人っぽくて鳥っぽい絵」でいいんじゃないの?」

 ため息をつきつつ、そう書くゼブラの手元を見ながら、彼女は呟いた。

「ゼブラ、あなた今更ティアラに近づいて、一体何なの?」

 彼が手を動かすのをやめる。

「何って? ウェンディは分かってるだろ、ミルキー家の妖精なんだから」

 館内は人が話し合う声が増えているというのに、二人の間は異常に静かだった。

「…あの子を狙ってミルキー家に復讐しようとする人間がいるってことでしょ?」

「このままじゃ、ティアラは連れて行かれてしまうよ」

 赤い瞳に影を落とすゼブラに、ウェンディは彼の肩を握る両前足に力を入れた。

「分かってるわ……」

 息と共に吐き出すような力ない声が聞こえる。

「俺はティアラを守るために戻ってきたんだ」

「…あんたが守らなくても、グレイスが傍にいるじゃないの」

 絵画の特徴をメモし終わり、隣の絵に移ろうとゼブラが動く。

「あいつは人間だよ。これから起きることも、ティアラが今苦しんでいる理由も分かってやれないようなただの人間だ」

 冷たく声色を落とす彼の肩を、ウェンディはそっと離れ舞い上がる。

 ゼブラが人間に好感を持たないのは、母親を裏切り自分を虐待した父のせいなのだろう。

 彼女は飾られた絵画を見ながら、どうしたものかと深いため息をついた。

「まあ、ゼブラのしたいようにすればいいんじゃないの? でも、ティアラに手を出すんじゃないわよ」

 ウェンディから見れば、ティアラは自分の子供のように可愛くて大切な存在なのだ。

 そこいらの吸血鬼には持っていかれたくない。

「俺を信用してよ」

 おかしそうに笑った彼の横顔は、今一信用できない。

「…プラシナは馬鹿よね、あんたみたいなのを弟にするなんて。そのうち天地がひっくり返るわよ」

 今どこかにいるプラシナのことを考え、ウェンディは苦々しげに言う。

「俺が姉さんの立場を持って行くとでも思ってる? 悪いけどそれは有り得ないよ、今のままで充分だから」

「そういうところが人間っぽいのよ、吸血鬼はどこまでも欲深なはずなのに。……ともかく、ティアラに手を出したら噛み殺してやるから」

 子離れ出来ない父親のような台詞を吐き、ウェンディは別の美術品を見るためにゼブラの傍を離れる。

 彼は見えないウェンディが飛んで行っただろうと思う方向を眺めながら、わずかに口元をあげた。

「オコジョに噛み殺されるほどやわじゃないよ」


「あ、あとで入り口ってありましたっけ?」

 裏から美術館内へ戻ったティアラは、隣にいるグレイスに尋ねながらも既に疲れてふらふらしていた。

 十九世紀にいるときは、妖怪妖精の事件が多くて実際のまともな依頼がなかったため、こうして改めて仕事をすると探偵が大変だと分かる。

 メモ帳を持ちながらも虚ろな彼女の手から、彼は息をついてメモ帳を取り返す。

「体力がないな、そこで休んどけ。後は私がやる」

 呆れたように言いグレイスがまだ調べていない方向へ人混みに紛れて姿を消して行くのを見ながら、ティアラは広い通路の真ん中に置かれていた休憩用の茶色いベンチに腰掛けた。

 深呼吸しつつ、本当に体力をつけなくてはと思う。

 そうして、心地よいざわめきを聞きながらそっと正面の壁に展示されている絵画を眺めた。

 丁度彼女の目の前にある絵画が目に入る。とても優しそうな長い栗色の髪の若い女性が、笑顔でこちらを見て白いブーケを持っている絵だった。

 薄緑のノースリーブのワンピースに、白い麦藁帽子をかぶっている女性は、とても幸せそうでやわらかな日差しに負けないくらいの暖かい微笑みをティアラに向けていた。

 見ているだけで心が温かくなってくるような優しい色使いが、その笑顔にとても似合っている。

「どうぞ」

 突然声がかかり、ティアラは顔をあげる。いつの間にか左隣にいたワーグナー館長が、ティアラに缶の暖かいミルクティーを差し出していた。

「ありがとうございます」

 一礼してそれを受け取ると、館長は穏やかな微笑みのまま彼女の隣に腰を下ろした。

「…とても素敵な絵ですね」

 ティアラは再び絵画に目を映し、頬をゆるめて呟いた。

 館長もその絵を見る。

「あの絵は画家だった私の娘の婿が、娘を描いたものです」

「だった……?」

 彼女が隣の館長に目を移した。ワーグナー館長は懐かしさと悲しさを持ち合わせた瞳で、静かに絵を見つめている。

「…二年前、二人とも飛行機事故で死んでしまいました。トゥアだけが奇跡的に助かって……まったくひどいものです。娘を置いて先に逝ってしまうなんて」

 館長は自分の膝に視線を落とす。平静な顔でも、声は今にも泣いてしまうのではないかと思うほど弱弱しい。

「あの……ごめんなさい」

 ティアラは冷えた指先を缶で暖めながら、うつむいて謝った。

 ワーグナー館長は急いで顔をあげ、ティアラに微笑みかけた。

「いいんですよ、ただの思い出話です。……でもこの絵は私の宝物です、これを見ると娘のことを思い出す。あの子の笑顔を忘れずにいられるような気がするんです」

 大事な人を亡くしても、立っていける人は本当にすごい。

 私には、そんな強さがない。大切な人を失うのが怖くて踏み出せないまま。

 とても優しい表情で語る館長に、ティアラはどことなく喉の奥が熱くなった。

「…きっと、天国の娘さん達も館長さんのことは忘れないと思います。家族のことを大切に思っているお父さんのことを、誰も忘れたりはしないですよ」

 私がかける言葉は、ありきたりなものでしかないだろう。

 それでも、今はこれが精一杯だった。

 ワーグナー館長は穏やかに微笑み、ゆっくり立ち上がった。

「薄暗いお話をしてしまって、申し訳ない。また今夜お待ちしていますよ」

 そう言ってティアラの元を去っていく館長の背中は、ひどく小さく見えた。

 その背を見送り、彼女はそっと絵画に視線を移す。

 館長の悲しみを分かち合える人間は、見えるものばかりを大切にしている者の多い世の中では、きっと少ない。

 でも、この人が例え絵の中でも笑っていてくれるのなら、きっと彼は孫と共に悲しみを乗り越え生きていくのだろう。

 いつか、再び空で再会を分かち合うその日まで。



 既に閉館した館内は不気味なほど静まり返っている。

 犯人に見つからないようにと灯りを灯さない真っ暗な館内の壁伝いに造られていて一階が見下ろせる二階のフロアの欄干から、ジーラスは身を乗り出した。

「天候良好、現在時刻午後十時五十九分三十二秒。携帯電話は圏内です」

 ひそひそと、床に屈んでいるティアラ達に情報を告げる。

 ウェンディが細かすぎるわよ、と呟く。

「疑問なんですけど、何で警備の服なんですか」

 ティアラが尋ねる。青い上下の警備専用の服はポケットが多くついていて、かぶっている帽子は警官が被るような者に近い。

「探偵とばれないためのカモフラージュだ」

 同じ服装をしたグレイスが答える。

「人なんかいないのに、なんでカモフラージュ?」

 ゼブラが帽子のつばを持ち上げながら尋ねる。

「もしも犯人に見つかった時でも、これなら警備だと思われて探偵という正体がばれないままでいられるだろ。向こうにこっちの正体を知られると、美術館に来なくなる可能性もある。そうなると捕まえられなくなって更に厄介だ」

「さすが兄ちゃん!」

「ジーラスさん、うるさいですよ」

 グレイスの台詞に対し興奮するジーラスに、髪をひとつに結んだサンが激を飛ばす。

 彼女は一番年下だからか、ティアラ以外の全員に敬語だ。ティアラは自分と同等だからか、いつも普通に話してくる。

 ティアラは髪を帽子の中にしまいこみながら、いつもの変わらないウェンディが自分の肩に飛び乗るのを感じた。

「とりあえず今夜は様子見だからな。あまり派手なことはしないでくれ」

 グレイスに全員が頷く中、ウェンディだけは再びフロアの欄干に飛び乗った。

「何すんのよ!」

「馬鹿っそんなとこに乗ったら目立つでしょ!」

 こそこそ怒鳴るウェンディにティアラが怒鳴り返す。

 と、ゼブラが隣から一階を覗き込む。

「……あそこ、何か動いてるような気がするんだけど」

 どれだよ、とジーラスとサンも覗き込む。グレイスもつられて下を覗いた。

 そこには、黒い人影が確かにあった。

 背格好から見れば背は高めの男性のように思える。

「兄ちゃん、あれ…」

「静かに」

 ジーラスの言葉を遮り、グレイスは目を凝らす。

「どうしましょう、捕まえにいったほうが……」

 ティアラが横のグレイスに声を落として話しかける。

「まだだ、決定的な事件を起こしていない。証拠もないのに捕まえる事はできないだろ」

 なるほど、と頷きながらティアラも目を凝らす。 

 と、その人影は手に盛っていたバケツのようなものを両手で持ち、絵画に向けて中身をかけるように動かした。

 水音のような音が聞こえ、人影はバケツを持ったまま走り出す。

「グレイスさん、やっぱりあの人……」

 ティアラが言い終わるまでに、突如ウェンディが舞い上がった。

「待ちなさいよ!」

 その声が館内にこだまする。

 グレイスを始め皆が、「なんて馬鹿なことを」と言うような表情をする。

 人影が足を止める。窓から入るわずかな月光でしか、その姿を確認できない。

 けれど、確かにこちらを見ている。

 ウェンディが腕を腰に当て、欄干の上に二本足で立つ。

「あんたが最近この美術館の絵を汚していた犯人ね? 額縁を汚すだけでも犯罪よ!」

 そうして、ウェンディはなんと人影のほうへ舞い降りていくものだから、ティアラは無意識のうちに立ち上がっていた。

「ウェンディ!」

 一階へ続いている階段へ向かって走り出したティアラに、グレイスは立ち上がる。

「お前達はここにいろ、全員が姿を見られる必要はない」

 それだけ言い残し、彼女の後を追って駆け出すグレイスに、ゼブラはただ息をついた。

 早くも長い階段を駆け下り、ティアラは美術品の彫刻が並ぶ間を駆け抜け、人影とウェンディがいる絵画の並ぶ廊下まで辿り着こうとしていた。

「ウェンディ、駄目!」

 ティアラは人影から数メートル離れて立ち止まる。

 その人影に向かって床に立ち、牙を剥いているウェンディにティアラは呼びかけた。

 と、二階から突然一筋の灯りが降ってくる。

「お前だけが顔を見せないのは卑怯だよ」

 ゼブラが、懐中電灯で人影を照らし出す。

 弱い光だったが、その人影の姿があらわになる。

 黒い帽子をかぶり、黒いジャケット黒いズボン、黒い手袋と全身を黒に染めた中肉中背の男性が、バケツを持って戸惑ったように立ち尽くしていた。

 昼間、この美術館で見た丸い眼鏡の男性だった。

「あんた昼間の……!」

 ティアラの代わりにウェンディが声をあげる。

 同時に、男性は思い切ったように背を向けて駆け出した。

「待ちなさい!」

「ウェンディ!」

 追いついたグレイスが、ティアラの声を追い越してウェンディを捕まえ持ち上げた。

「勝手な行動はするなと言ったはずだ」

「ちょっと勝手に抱き上げないでよ! そもそも犯人だって丸分かりなのに、どうして見過ごさなきゃいけないわけ!」

 グレイスの手の中で暴れながら、ウェンディはキイキイ声をあげる。

 彼が何か言う前に、ジーラスが欄干に飛びついた。

「兄ちゃん、人!」

 その声と同時に絵画が展示されている一枚壁の向こう側から人影が顔を出す。

 ティアラは顔をあげ、その人影のほうへ振り返る。

 影は気付かれた途端、壁の向こうへ姿を消した。

 とっさにティアラは駆け出す。

「ティアラ!」

 グレイスの声を振り切って走り出した彼女に、ウェンディは呟いた。

「私もティアラも、結局似た者同士よね」

 壁の向こうので入り口づたいの廊下を走っていく人影が、月明かりに照らし出される。

 ティアラは走りながら、立ち止まった人影にはっとした。

 一メートルもない距離で、彼女も足を止める。

 人影がゆっくり振り返る。

 彼女の背筋が凍った。

「ティアラ」

 聞き覚えのある夢の中の低い声に、ティアラは頭痛を感じた。

 黒く長いマントを頭からかぶり、目元が見えない男性は静かに微笑む。血の気のない唇が見える。

 指先が冷水に浸かったように冷たくなるのを振り切ろうと、ティアラは人影に向かってどうにか口を開いた。

「…あなたは誰なの……!」

 男はそっとティアラに向かって足を踏み出す。

 彼女は後ずさろうとするが、急に足が動かなくなる。

 魔法だ。

「私と一緒に行こう」

 言葉が耳にまとわりつく。

 すぐに近づかれてしまい、腕をつかまれる。決して強い力ではなかったけれど、急に不安になった。

「や……離して!」

 振り払おうとするが、腕が思うように動かない。

 身体が麻痺したように痛い。

 魔法を使う男に、ティアラは何かが頭の中でつながるのを感じた。

 この人、もしかして……罪を犯したっていうおじいちゃんの祖父?

 だんだんと遠のく意識に、彼女は無意識のうちに思った。

 男性は何も言わない、どんどんティアラの意識を侵食してくる。

「そいつを離せ」

 唐突に割り込んだ声に、彼女は閉じかけていた目を開けた。

 二人の背後に、グレイスが男に銃を向けて立っていた。

 ティアラは男の腕を振り払おうともがくが、全く抵抗する事が出来ない。だんだんと自分の腕が温かみを失うのを感じる。

「…くだらない人間め」

 男が小さく呟いた。

 途端に夢の中の出来事が脳裏によぎる、死体になった皆の姿が鮮やかに蘇る。

「グレイスさん来ないでください!」 

 とっさに叫んでいたティアラに、グレイスは顔をしかめた。

 巻き込みたくない。そうしたら今度こそ死んでしまうかもしれない。

 彼女は必死に意識を保とうと、不意に眉根を寄せる。

「離して! っ……あなたがクラウンの祖父なのね……!」

 ティアラの言葉に、男の力が一瞬緩んだ。

 と同時に銃声が鳴る。

 ティアラの耳元をかすめ、男の肩をグレイスの放った銃弾が貫いた。

 が、相手が倒れる様子はない。やはり人間ではないのだ。

「無駄だよグレイス、そいつは人間じゃない。せいぜいかすり傷を負わせたくらいだ」

 ゼブラが、天井まで届いていない一枚壁の上にいつの間にか座っていた。

 男が顔をあげる、ティアラもだ。

 グレイスは気付いていたのか、特に驚いた様子もみせないまま銃を下ろす。

 たとえ驚いていたとしても、彼の表情に変化が起きることはとても珍しいため、薄暗い今は分からないだろう。

「ティアラを離せよ、そいつの魔力はお前のものじゃない」

 ゼブラが壁から飛び降りた。軽々と着地し、二人の間に割り込むように腕を入れる。

「…ゼブラ……」

 ティアラの呟きは、男の耳に届いただろう。

 ゼブラが赤い瞳で男を睨む。

 その間に、グレイスはそっと移動したのにはゼブラと上から見ていたウェンディしか気付いていない。

「プラシナの弟か」

 男がそう言う、知っている。

「血を見たくなかったらさっさと立ち去れ」

 すぐ横にいるゼブラの目は、もう人間の目ではない。

 信じられないくらい冷酷な色をしている。

 男は動く様子を見せないまま、辺りは一瞬の静寂につつまれる。

 ティアラの心臓がどくどくと激しく脈打ち始めたとき、突然彼女は背後にゆっくりと飛ばされた。

 それを後ろにいたグレイスが支える。

「大丈夫か?」

 彼によりかかるようになってしまい慌てたが、今は足に力が入らない。

 ゼブラが隙をつきティアラを助けるために魔法を使ったのだろう。

 男が小さく舌打ちする。

「ティアラ、勝手に動かないでよ!」

 心配そうなウェンディも舞い降りてきて、彼女がほっとしたのも束の間だった。

 ゼブラの首を男が掴み、壁に押し付けているのが目に入る。

 どう見てもゼブラのほうが華奢で、へし折られてしまうのではないかと思う。

 ティアラは居ても立ってもいられなくなるが、今はグレイスに捕まえられているので動けない。

「お前に俺は殺せない」

 ゼブラがそう言い、口元をあげた。

 目元が見えない男だが、不可解そうな顔をしたのは言うまでもないだろう。

 一瞬の隙をつき、ゼブラが自分の首を絞めている男の腕を掴み返す。

 そこから湯気が立つのを、ティアラは見た。相当強い彼の魔法だ。

 男が焼けるような熱さに首から腕を離す、と同時に敵わないと思ったのか背景に溶け込むように消えていった。

 再び静まり返った美術館内で、ゼブラがふらつき壁にもたれかかる。

「ゼブラ!」

 ティアラとグレイス、ウェンディも慌てて駆け寄った。

「大丈夫?」

 ティアラが心配して近づく、と、その首が深く切れて血が出ているのに気付く。

「ど、どうしよう。グレイスさん、ゼブラの首が……」

 慌てたティアラに、グレイスはその傷を見た。

「手当てしたほうがいいな、一旦上に戻ろう」

「いや、手当てはいい」

 自分の首を押さえてゼブラは吐き出すように言った。

 でも見るからに痛々しい。

「…ティアラ、言ったよね。あいつが……クラウンの祖父だって」

 ティアラはグレイスの存在を気にしつつも頷いた。

「どうして?」

「…そんな気がしたから。あの人、バスの時から私の傍にいるの」

 足元に視線を落とし、ティアラが小さく言った。

「バスの時から!? 何で言わないのよ!」

 ウェンディが目を丸くして怒鳴る。そこまでは知らなかったようだ。

 ティアラがしどろもどろになっていると、グレイスが口を開いた。

「どういうことだ」

「…………」

 答えられないでいると、ゼブラが割り込んだ。

「あいつと二人だったら、今頃ティアラは死んでたよ……あの男の狙いは、ティアラの魔力だ」

 ティアラはとっさにゼブラを見た。

 どうして私の魔力を。

「もう時間がない」

 赤い瞳がこちらを見ている。と思った瞬間、不意に片手で抱き寄せられた。

 固まったティアラをよそに、ウェンディが後何秒で切れるかというように顔を引きつらせる。

「ティアラ。一緒に、魔法界に戻ろう」



「馬鹿だろ、自分から傷を増やすなんて」

 蝋燭の灯りだけを灯した事務所のソファに座っているゼブラに、グレイスは呆れながらバンドエードを手渡した。

 ティアラに手を出したと、ウェンディに噛み殺されはしなかったものの手の甲を引っかかれたのだ。

「まあ縞馬は馬だしな」

「名前をことを言ってるんじゃない」

 グレイスがとりあえず引き上げようと言い、一旦事務所に戻ってきたのだ。

 既にジーラスは帰ってくるや否や自分の部屋で眠りこけ、サンも起きていると言ったが眠そうだったため部屋へ返した。

 一方ウェンディは相変わらず怒りながらも、ティアラを連れて部屋へこもってしまった。今頃話し合っているのだろう。

 消毒液をテッシュに含ませ、首の傷に押し当てながらゼブラは時計を見た。

 針は夜中の二時半を指している。

 美術館の見取り図を自分の机の椅子に座り見直しているグレイスに、彼は口を開いた。

「言わなくても分かるだろうけど…ティアラは狙われてるよ。今日見たあの黒いマントの男に」

 グレイスは見取り図から視線を外すこともなく、わずかに視線を落とした。

 ゼブラはテッシュをゴミ箱へ投げる。見事中へ入る。

「そいつは人間じゃないんだろう」

 静かに彼は返事を返した。

「…あいつはクラウンの祖父にあたる、ミルキー家の先祖だ」

 グレイスは顔をあげ、驚いたようにゼブラを見た。

 ゼブラは宙を仰ぐ。

「自分の家の先祖がどうして子孫を狙うか。あの男は罪を犯したんだ。多くの人間を殺し、より強い魔力を手に入れようとした。そのせいで今、殺された人間の魂が末裔のティアラを狙っている。はずだけど……まさか本人が生きてるとは思わなかったよ」

「……それなら亡者の魂がティアラを狙っているんじゃなくて、その先祖自信が狙ってるんじゃないのか」

 グレイスの見解に、ゼブラはため息をついて彼を見る。

「そうだよ、想定外だ」

「…知ってたのか? 事のすべてを」

 不審げにグレイスが顔をしかめる。

 ゼブラが小さく息で笑う。

「じゃなかったら俺はお前とは手を組まない。人間にティアラを任してはおけないよ。……ティアラを魔法界へ帰してくれ。魔法もろくに使えないのに、自分の身は自分で守るなんて言い張ってる。だけどそんなの無理だ。………マントの男の邪悪な力は本物だよ、放っておけば必ずここまで辿り着く」

 真夜中の街は静かで騒音ひとつ聞こえてこない。

 そのせいか、ゼブラの声はとてもグレイスの耳に響いた。

「……帰すしか方法はないのか。傍にいることは出来ないと?」

 ゼブラが立ち上がる、首の傷跡が生々しくグレイスの目に映る。

「なら、ちゃんと自分の力で守れよ。お前がしっかりしてれば、俺はティアラを魔法界へ連れて帰ろうとは思わない。本気で守りたいなら、自分の命を捨てる覚悟で、な」

 命を捨てる覚悟で。

 グレイスは心の中で言葉を繰り返した。

 まあグレイスが死んだら、ティアラは悲しむんだろうけど。と、ゼブラは思いながら、事務所の玄関口に手をかけた。

「また朝来るよ」

 そう言って、彼は事務所を出て行った。

 その姿を見ながら、グレイスはため息をついた。

 自分の力で守れ? 自分は人間なのに。

 彼女とは違う、無力な人間なのに。

 それとも、そう思う自分がまた優柔不断でしっかりしていないのだろうか。

 

「ごめんね、ウェンディ。……言わなくて」

 灯りも点けないままティアラはベッドの上に座り、窓辺に置かれた机の上にいるウェンディに彼女は呟いた。

 月光が窓から差込み、ウェンディの白い毛を銀色に輝かせている。

「今更。私は全部知ってたわよ」

 べっと薄ピンクの舌を出し、ウェンディはティアラを睨んだ。

 目をしばたかせ、彼女は動揺する。

「し、知ってたって…何で!」

「私はミルキー家の妖精なんだから、そういう細かい知識までクラウンに詰め込まれてるの。ティアラもまだまだ、ツメが甘いわね」

 腕組みし、ティアラを馬鹿にしたように鼻で笑ったウェンディに、彼女は視線を落とす。

「…じゃあ、本当にあの人が私を狙ってるの?」

 どんな人とでも分かり合えるなんて、やっぱり有り得ないんだろう。

「ええ…そうよ。理由は分からないけど、あいつはティアラの魔力を狙ってる。このままじゃ、本当に命を落としかねないわ」

 そう言われてどきっとした。皆が死んでいる夢の内容を思い出したからだ。

「……魔法界へ戻るべき?」

 心中では嫌だと思いながらも、ウェンディに尋ねる。

 数分、ウェンディは黙り込み、深く長い息を吐いて答えた。

「ティアラが戻りたいなら、そうすればいいんじゃないの。魔法界に居たほうがあなたの魔力も強くなるし。……だけど、何処へ居ても狙われることに変わりはないのよ」

 あっさり言い切り、窓の外に浮かぶ明るい半月を見上げたウェンディの口調は、これっぽっちも人間界に未練がないように聞こえた。

 ティアラは膝の上で拳を力強く握り締めた。

「…ゼブラが言ったの。今の私じゃ、他人どころか自分も守れないって……私の周りにいる人も危険だって。だけど、私は此処にいたい」

 魔法界へ戻ったってどのみち追われる。

 どこへ行ったって、決して逃げることは出来ない。

 そう思えば、すべてが絶望的に思えてティアラの胸は常闇に覆われたように重苦しくなった。

「…いつかは、こういう時がくると思っていたわ……」

 ウェンディが静かに言った。

 ティアラがそっと顔をあげる。その視線の先に、見慣れた白いオコジョの背がある。

 皆を守りたいけど、此処にいたい。

 わがままで、どうしようもない自分が嫌になる。

「すべての決断は、ティアラ自身が下すのよ」

 どうして私は、魔法が使えないのだろう。



「なあ、もうやめたほうがいいって」

 翌日の夜九時半過ぎ。美術館に再び張り込む事になったティアラ達が警備の服に着替え終わり、館長に応接室を貸してもらって集まったところだった。

 早速弱気な声を出したのは、もちろんジーラスだ。

 青い髪を帽子の中に押し込んでいたティアラに、ウェンディがひそひそと耳元で話しかける。

 それをゼブラが横目で見る。

「私は勝手に飛び出さないようにするから、あんたも気をつけてよ」

 うん、と頷くと、グレイスがポケットからメモ帳を取り出して口を開いた。

 サンも緊張したように体を硬くした。

「様子を見たところから、犯人は裏口から出入りしてる可能性が高い。昨日汚された絵画のある位置から一番近い出入り口は裏口で、去っていくときもそこへ向かって走っていったからな。というわけで、出入り口にジーラスとサンとウェンディ。張り込んでくれ」

 グレイスの指示に、しっかりと頷いたサンとは別にジーラスがショックを受けたように顔を引きつらせた。

「何で! そんなん一番危険な場所じゃねーか!」

「だから犠牲が出ても今後の生活に困らないジーラスが行くんだよ」

  笑顔で言うゼブラに、ジーラスはその冗談をまともに受け取ったらしくその場に膝をつく。

 二人の他の全員がそれを呆れて見ていたが、グレイスは平然と話を戻した。

「ゼブラは一階の絵画の壁の上。犯人が下にきても見つかりづらい上に、こっちからは相手を確認しやすい。で、ティアラと私は一階の一番大きな彫刻の裏で待機」

 全員に役を振った後、今から位置につくように言った。

 そして、グレイスはジーラスに自分の携帯を渡す。

「何かあったら連絡してくれ。こっちにはティアラの携帯がある。ゼブラは自分で持ってるから、大丈夫だな」

 ジーラスは相変わらず腰が砕けたようにふらふらしながらも、応接室を出て行く。

 それにサンが続き、ウェンディはティアラに人影に注意するよう忠告して二人を追いかけていった。

 ティアラもグレイスより先に廊下に出る。

 同じくティアラに続こうとしたグレイスに、まだ残っていたゼブラが言った。

「自分の力で守るんだ?」

「……お前に言われる筋合いはない」

 あっさり振り切って、グレイスは部屋を出る。

 ゼブラはその後姿を見送った後、口元をあげた。

「見せてもらうよ、人間様の命がけってやつを」


 彫刻の裏につき、ティアラは静まり返った美術館に不気味さを感じていた。

 昨日のマントの男がまた現れたらどうしようと、どこか不安になった。

 横のグレイスは、壁の上にゼブラがついたことを確認したらしく、彫刻の裏に背をつける。

「今日は勝手に出て行くな」

 しょっぱなから小声で釘を刺され、ティアラは口元を引きつらせつつ頷いた。

「あの、昨日はありがとうございました。助けようとしてくれて」

 視線を足元に落とし、ティアラは囁くほどの声で言い忘れていた礼を言った。

 グレイスは薄暗い館内の高い天井を仰ぎ、しばらくしてから呟く。

「別に……結局は何の役にも立たなかった」

「そんなことないですよ!」

 勢いよく顔をあげ、思わず大きくなった声でティアラはグレイスに言った。

 そのせいで、彼は静かにと人差し指を立てる。

「す、すいません…」

 口を両手でふさぎ、本当自分は役立たずだと彼女は思う。

「でも、私はそれだけでも嬉しかったです…から」

 再び視線を足元に戻し、ティアラは口元を手で押さえた。

 グレイスはその横顔を見て、力なく口を開く。

「魔法界に戻るのか…?」

「………」

 まだ決めていないため、彼女は言葉を詰まらせた。

 戻りたくない、けど戻らなければならなくなるかもしれない。

「まだ…決めてません」

 ティアラの返答に、グレイスは何も言わなかった。

 グレイスさんは、どう思う? 私がいなくなっても、何も変わらないまま?

 それとも、少しは寂しいと思ってくれたりするのかな。

「ティ……」

 彼が何か言おうとした時、突然裏口のほうから叫び声が聞こえた。

「サンの声!」

 ティアラは彫刻から顔を出し、裏口の方向を見つめる。

 と、ゼブラが壁から飛び降りるのが影だけで見えた。

「グレイスさん、どうします!」

 ティアラは彼の方向へ振り返り、指示を仰いだ。

「…行こう!」

 しばし迷った様子だったが、グレイスは彫刻の裏を飛び出し駆け出す。

 ティアラも急いでその後を追う。

 裏口へは、あのワーグナー館長の息子が描いた絵画の前を通り過ぎなくてはいけない。

 絵の前を駆け抜けながら、暗くて見えない絵画の表情に彼女の心が曇った。

 開きっぱなしの職員用の通路に出られる扉を通り抜け、そのすぐ正面にある裏口に接近する。

 そこには、サンが意識を失ったらしく倒れ込んでいて、ジーラスがそれを抱き起こそうとしていた。

 既にゼブラも駆けつけている。

「ジーラス、どうした?」

 グレイスが屈んでサンの上半身をようやく抱え起こしたジーラスに、膝に両手をついて尋ねる。

「わかんないけど急に黒い影がサンを覆って……そしたら悲鳴をあげて倒れたんだよ!」

 黒い影って、もしかしたらあのマントの?

 ティアラはふとして呟く。

「ウェンディがいない…」

 ゼブラが不可解そうに顔をしかめた。グレイスも気付いたように顔をあげる。

 ティアラは辺りを見回し、ふと館内が見える開きっぱなしの扉の向こうで人影が動くのに気がついた。

「ジーラス、とにかくサンを館長のところまで連れて行ってくれ」

 ようやくサンをおぶり立ち上がることが出来たジーラスに、グレイスはそれだけ告げる。ジーラスはめいっぱい頷いた。

 ティアラはその人影に見入る、まだゼブラもグレイスも影に気付いていない。

 影は、館長の息子が描いた絵画の並びの前に立ち、バケツのようなものを持っている。

 そうして、中身をかけるように動こうとするものだから、ティアラは不意に声を出していた。

「その絵はだめー!」

 グレイス達が気付いたように顔をあげる、影も驚いたようにこちらを見る。

 彼女はその叫びと同時に駆け出していた。

「ティアラ!」

 グレイスの声が聞こえる、昨日と似たようなパターンだと思いながら、逃げ出そうとする影に向かってティアラは突進した。

 近づくにつれてあの丸い眼鏡の男性だと分かる。

 背を向けて駆け出す男性の肩を、ティアラは思いきり前に押し倒した。

 うわあっと言う男性の気の抜けた声と同時に、二人は床へ倒れこむ。半ばティアラが男性の背に乗りかかったような体勢になる。

 そうして、手に持っていた赤ペンキのバケツが宙を舞い、床に放り出された。

 赤いペンキがそこら中に零れ、床とティアラ達二人を赤く染めた。

 男性は強く頭を打ち意識を失ったらしく、ぐったりと顔を床に押し付けたまま倒れこんでしまった。

 ティアラは急いで起き上がり、座ったまま顔に飛んだ赤いペンキを腕の服で拭う。

「勝手に出て行くなって言っただろ!」

 急に飛んできたグレイスの怒鳴り声に、彼女は我に返った。

 駆け寄ってきた彼は、すっかり怒っている。

「ご、ごめんなさい。でもあの絵が……」

「絵?」

 事情を知らないグレイスは顔をしかめ首を傾げる。

 グレイスの後ろにある絵を見て、それからティアラはその絵の下に落ちている白いものを見て、慌てて立ち上がりそれに飛びついた。

 赤いペンキでぐちゃぐちゃの白い物体を持ち上げ、自分の手が真っ赤になるのも構わずにティアラはその白いものの赤いペンキを手で取ろうとする。

 すると、それは小さく寝言のようなうなり声をあげた。

 やっぱりそうだ。

「ウェンディ、しっかりして! ウェンディ!」

 ゼブラが背後を通り、倒れた男性に近寄っていく気配を感じながら、ティアラは白い毛をすっかり赤に染めたウェンディを揺さぶった。

「何……」

 赤い毛の中から黄金の瞳が顔を覗かせる。

 そうして、彼女はティアラだと分かったように骨がないんじゃないかと思うほどぐにゃぐにゃだった体を、急にしゃっきっとさせた。

「ティアラ?」

「どうしたの? 何でこんなに真っ赤……」

 そこまで言うと、ペンキで重たくなった羽をティアラの手の上で伸ばしながら、ウェンディは急に不機嫌そうな態度を取った。

「聞いてよ! 突然サンの悲鳴が聞こえたと思ったら、あのペンキバケツの中に放り込まれたの! どいつがやったのか知らないけど、人の毛をぐちゃぐちゃにして…あーもう腹立たしい!」

 館内に響き渡るような声で喚いたウェンディに、ティアラはすっかり大丈夫そうだと思う。

 少し安心したが、不意にゼブラの声が聞こえてきた。

「やっぱりあの男は偽者だ」

 え? とティアラはウェンディを連れたまま振り返る。グレイスもだ。

 ゼブラはペンキで赤く染まり床に落ちていた、紙の人形ひとがたを持ち上げる。

 気付けば、さっきまでそこで倒れていたはずの丸い眼鏡の男性がいなかった。

「あいつはマントの男に作られていた偽者の人間だよ。これが証拠」

 赤ペンキが滴る薄い紙の人形を持ち上げて、ゼブラが言う。

「…裏をかかれた、というわけか」

 グレイスが腕を組んで呟いた。

 となると、やはりマントの男が仕組んだものだったということだ。

 ティアラは辺りを見回す。

「まだ終わってない。この人形がある限りは」

 ゼブラの呟きと同時に、人形が宙に浮かび上がる。

 目にもとまらぬ速さで、ワーグナー館長の息子の絵のところまで飛んでいき、そこで紙は床にひらひらと落ちた。

 その瞬間、紙から湧き出るようにあのマントの男が現れる。

 空気が凍りつく。同じようにティアラの手も再び冷たくなる。

 現れた男は同じように目元をマントで隠していて、顔全体を確認することは出来ない。

 ウェンディがうなり声をあげる、そんな彼女を抱いたままティアラは肩に力を入れた。

「魔法界へ逃げるのか?」

 男がティアラに向き直り、不気味な口元で笑んだ。

「…言っておきますけど、私にはあなたが狙うような魔力はありません」

 今度は絶対隙をつかれない、という強い心で、ティアラは男を睨んだ。

「それはお前が気付いていないだけだ。魔力をもてあましているなら、私にくれないか」

 マントの下から白い手を出し、彼は言った。

 ウェンディが罵声をあげようとするが、ティアラはそれより先に口を開く。

「何が目的なの? 私はあなたの子孫に当たる、その子孫から魔力を得ても何にもならないはずでしょう」

 男は足を一歩前へ、ティアラの方向へと進める。

 その行動にグレイスが身構えるのを、ゼブラは見ていた。

「私は数百年間封印されていた。そのせいですっかり魔力も衰えてしまった。だが気付いたんだ、自分の子孫なら魔力を持っていると」

 ティアラは後ずさる。この人に近づけてはいけない。

 だが男は足をとめず、歩き出す。

「手始めに自分の子孫に手を出そうっていうの?」

「クラウン達は莫大な魔力を持っている、今の私が奴らに敵うことは出来ない。でもお前の魔力さえあれば、ミルキー家の中で頂点に立つ事が出来る」

 私の魔力があれば?

 ティアラは後ずさり続ける。ウェンディが二人を交互に見る。

 ゼブラが手出しをしないのは、グレイスの様子を見ているからなのだろう。

「ど、どういうこと……? 私は一番の落ちこぼれで、魔法もろくに使えないのに………」

「ティアラの魔力はクラウンを上回るほど強い、だから狙われるって。それ故に使いこなせないんだ」

 ゼブラが口を挟む。ティアラは不意に立ち止まった。

 じゃあ、私の力は本当は……。

「ティアラ!」

 ウェンディが怒鳴る、そしてはっとした。

 男との距離がもう一メートルもなくなっていた。

 後ずさろうとするが、歩数が違いすぎる。どんどん迫ってくる黒い影に、彼女は無意識のうちに硬く目を閉じた。

「ここまでだ、これ以上ティアラに近づくな」

 唐突に割り込んだ声に、ティアラは目を開けた。

 そうして顔をあげる。彼女の前に立ち、男に向けて銃を抜いたのはグレイスだ。

 男はグレイスより数センチ背が高い、彼を見下ろし不敵に笑う。

「昨日それで私を殺せなかっただろう」

「グレイス、あんたには無理よ!」

 ウェンディがティアラの腕の中から声をあげる。

 が、彼は銃を持ってる反対の手に持っていた紙の人形を持ち上げた。

「お前はこの人形から現れた。そして今目の前にいるその姿は幻影でしかない、本物の体はこっちだ。…そうだろう?」

 男から笑みが消える。ビンゴだ。

 珍しく、グレイスは口元をあげた。

「一度無理だったことを、もう一度するほど馬鹿じゃない」

 そう言い、彼は人形の紙を真っ二つに破る。

 それを止めようとした男は頭から半分になり、徐々に消えていった。

 館内に静けさが戻る。

 ティアラは腰が抜けたように、その場に座り込んだ。

 ウェンディがティアラの手の中から抜け出る。

「すごいじゃないグレイス! 私でも見破れなかったわよ!」

 ウェンディが嬉しそうに、振り返ったグレイスの肩に飛び乗った。

 彼は少々照れくさそうに銃をしまう。

「やめろ、大げさだ。…最初、あの紙から出てきたときからおかしいと感じたからな。半分言ってみただけだったが、当たってよかった」

 グレイスも自信はなかったらしい。

 ティアラは茫然としながら、グレイスを見上げた。

「あっでも犯人の証言はどうやってするの? まさか魔法使いでした、なんて言えないわよね」

「それには及ばないよ。俺が上手く誤魔化しとくから」

 いつの間にか傍に来ていたゼブラが、真っ二つになり床に落ちていた人形を拾い上げる。

「でも…これであいつを殺せたわけじゃない。どうせ別の場所から俺達に向けて喋ってたんだからな。でも、いい推理だったよグレイス」

 ゼブラはグレイスの肩に「お疲れ様」というように手を置き、そして裏の出入り口の方向へ歩き出す。がすぐに立ち止まり振り返った。

「ウェンディ。その毛、洗ったほうがいい。早くしないと一生落ちなくなるかもしれないよ」

「な…真っ赤なオコジョだなんて冗談じゃないわよ! ティアラ、私は先に行って洗ってるから!」

 ティアラが返事を返す間もなく、ウェンディはゼブラの方向へ飛んで行ってしまった。

 グレイスとティアラは二人残され、まだ座り込んでいた彼女に彼は床に片膝をつく。

「お前もペンキだらけだな」

 呆れたようにグレイスは汚れた彼女の服と手を見た。

「あの…ありがとうございました。助けてくださって」

「…さっきも同じようなことを言ってたろ」

 そういえばそうだった、と思いながらも、ティアラは気が抜けて笑う。

 それを見て、グレイスもわずかに微笑んだ。

 久々に見た彼の笑顔に、一瞬どきっとする。

「さ、行くぞ。その手もそろそろ洗わないと」

 立ち上がったグレイスに、ティアラも正気に戻って頷き、急いで立ち上がった。

 なんだかずっと鼓動が速いままのような気がしてどこか苦しくなり、彼女は息を吸い込んだ。


 その日以来、美術館の絵を汚す人間が現れることはなくなった。

 ワーグナー館長はとても喜び、何度も何度もグレイス達に礼を言った。

 犯人に関しては、ゼブラが上手く誤魔化したようだ。

 美術館にも平穏が戻り、館長は少しずつ娘達のことを忘れつつある。

 胸の傷はきっと一生癒えぬままだろう。

 それでも、いつかは心から微笑んで過ごせるようになる。

 人はそうやって、移り変わっていくのだから。



 季節はだんだんと梅雨の時期に近づいていく。

 太陽と顔を合わせる日も少なくなるのだろう。

 そう思えば、この空気さえじめじめとしているように感じる。

「用があるなら何か言え。そこで人をじろじろ見るな」

 調査の報告書をまとめながらグレイスは、机の隅に座り自分をここ数分眺めているウェンディに言った。

 ティアラがサンと夕食の買出しに行っている今は、事務所にはグレイスとウェンディしかいない。

 今日はゼブラは用事があるといい、欠席している。無論、ジーラスは部屋で漫画でも読んでいるのだろう。

「珍しいこともあったもんだなと思ったの。グレイスが自分から魔法使いに立ち向かってくなんて」

 事件から一週間以上経った今頃、そんなことを言われても。

「だから?」

 彼はふわりと宙に浮上したウェンディに、先を促す。

「ゼブラが「グレイスは自分でティアラを守ると言った。だから自分は手出しをしなかった」って言ってたわよ」

「あいつめ……」

 人に言うようなことじゃないだろ、と顔を引きつらせつつ、グレイスは息をつく。

 が、ウェンディには珍しく馬鹿にした様子がなかった。

「守るのね?」

「は?」

 唐突な言葉に、グレイスはウェンディの黄金の瞳を見る。その目はまっすぐに彼を見返していた。

 冗談ではないらしい。

「守るって……」

 言葉を詰まらせるグレイスに、ウェンディは声を大きくした。

「ティアラを守れるのかって聞いてるのよ!」

 そこは怒るところなのだろうか。

 勢いに押されつつ、彼はしばし黙ってから口を開く。

「…守れないようなものを、自分から守るなんて言わない」

 ウェンディは腕を組み、二本足で机に着地する。

「……これからティアラの傍にいて、何もないとは言い切れないわ。あなた自身にも危険が及ぶかもしれない。あの子はずっとそれを気にしてるのよ」

 ティアラらしい心配の仕方だ。

「なぜだか分からないけどね。別に私はあんたが死んだって痛くもかゆくもないし、どうだっていいんだけどティアラがよくないらしいから」

「…言ってくれるな」

 苦笑したグレイスに、ウェンディはまあねと呟く。

 妖精の彼女にとっては、身内の人間以外がどうなろうとあまり情が湧かないのだろう。

「これからも守れとまでは言わないわ。…グレイスはティアラの傍にいてくれるのね?」

 ティアラをここまで心配する態度を人前に見せたウェンディは、もしかしたら初めてではないだろうか。

 グレイスは静かに頷いた。

 離れるなんて、正直考えたこともなかったからだ。

「そう………なら、言いたいことはさっさと言いなさいよ!」

 また怒鳴ったウェンディに、彼は顔をしかめる。

 そんないちいち大声を出さなくても。

「言いたいこと?」

「そうよ、あんたは赤の他人まで守ろうとするようなお人好しなわけ? そんな人間じゃないでしょ。ぐずぐずしてると、あの吸血鬼にもってかれるわよ!」

 あの吸血鬼、とはゼブラのことだろう。

 だから早く、自分の気持ちを言えと?

「…そうやって口で言うのは簡単だけどな……」

「だーうるさい、言い訳は聞かないわよ!」

 人の話を聞かないウェンディに、さすがのグレイスも彼女をつまみあげる。

 離しなさいよ! と喚き散らすウェンディの首根っこを掴んだまま、彼は言った。

「そう簡単に言えるなら苦労しない」

「このぐず人間!」

「ならお前がまず、自分がどれだけティアラを心配してるか本人に言ってこい。簡単に言えるか?」

 ウェンディはその台詞で暴れるのをやめ、しばし考える。

 そして、すぐにしゅんとひげをたらした。

「…まあ、そうね……やっぱり難しいわね」

 ウェンディも、はっきりティアラにそう言うのは恥ずかしい上に緊張するようだ。

 黙りこんだ彼女を机の上に下ろすと、グレイスはため息をついた。

「それに……どっちも同じ気持ちだとは限らないだろ」




 徐々に、時が流れていく中で人の気持ちも変わる。

 きっと、ウェンディが心配しているのはゼブラのことだけではない。

 いつか、ティアラはどこかへ連れて行かれてしまうのを恐れているのだろうから。



Tow Fin

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