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Again  作者: 桜葉
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第一章―色褪せない過去

この物語はイギリスが舞台ですが、作者の経験上イギリスには程遠いイギリスになっています。ご了承下さい。

また、探偵事務所が登場しますが、これも作者の経験上本格的な捜査部分まで記すことが出来ません。ご了承下さい。

以上を「許せる!」という方のみ、物語へお進み下さい。

 空を見ては、希望を持とうと闇を押し込んだ。

 自分は何もなくしていない、と呟いた。

 むしろ、大切なものを手に入れた。

 それだというのに、彼女の心は不安定に、天秤にかけられたように絶え間なく揺れていた。



Again

第一章―色褪せない過去―



 春が近いというのに、太陽の日差しは変わらず弱い。冬は疲れたように、イギリスに停滞し続けている。

 分厚く重ったるい灰色の雲が、今日も空には垂れ込めていた。

 それでも街を行く人々たちの足取りは忙しなく、外下に見える車道には自動車が急げ急げと声を掛け合い走っていく。

「…晴れないなぁ……」

 窓から顔を離し、彼女はすぐ後ろの頑丈な造りをした机に置かれた卓上カレンダーを横目で見た。

 三月のページが開けている。

 晴れ渡った雲ひとつない空のような色の彼女の髪とは打って変わって、本物の空はいつまでたっても機嫌が悪い。

 着ていた長袖の黒いワンピースの裾を整えて、少女は少し離れた場所にある木製の椅子にかかっている赤いカーディガンを手に取った。

 事務所の時計は午前七時を指している。

 ここ、八階建ての賃貸ビルの五階にあるアール探偵事務所で、彼女、ティアラ・ミルキー十七歳は働いている。

 もちろん、ティアラはこの事務所の主ではない。

 話せば長くなるのだが、この事務所の人間は全員十九世紀から現在である二十一世紀にやってきた。

 ティアラがまだ十六歳の頃、公爵家のメイドとして雇われていた彼女は突然妖怪扱いされ、解雇されてしまった。

 そのわけは、ティアラが太古から受け継がれた魔力を持つ魔法使いだったからだ。普通の人間には不気味がられるのが関の山。

 元々、魔法使いたるものは魔法界という魔力を持つ者ばかりが集まる場所で最低二十年間は修行を積み重ねるのだが、ティアラはそれを放棄した。

 いや、放棄せざるを得なかった。

 ティアラの祖父、クラウン・ミルキーは魔法界一の魔力を持つ魔法使いであり、同時にその魔力を狙う不届き者はあちこちから現れていた。

 そのため、ティアラの母サティは片時もクラウンの傍を離れたりする事はなかった。サティも魔力が強いので狙われる確率があった。

 例え魔力を狙い襲いかかったとしても、大抵の魔法使いはこの二人に打ち負かされていただろう。

 けれど、その均衡が打ち破られたのは、ティアラの父ロシエが突然失踪してからだ。ロシエの行方は未だ分かっていない。

 その時六歳だった彼女は、父のことをうっすらとしか思い出せない。

 それでもあの日のロシエが失踪した夜のことは忘れない。

 飛び起きて外へ飛び出し、父のコートの袖をつかんだ。

でも、ロシエは振り返って「ごめん、ティアラ」とだけ彼女に告げると、そのまま走って行ってしまったのだ。

 幼かったティアラはなすすべもなく、わけも分からずその場に立ち尽くしていた。

 後々、事故で死んだと、母から聞かされた。

 事件が起こったのは、それから数ヶ月経った六月の上旬。梅雨時に入る季節で、雨の降る日が増えていた。

 その日は本当に大雨で地を叩くように雨粒が降り注いでいた。

 クラウンは出かけていて、家にはサティとティアラ二人だけだった。

 そして突然、家の一階の窓ガラスが割れた。

 割れた窓の破片を踏むことも気にせずに、そこから舞うように入り込んできた金髪の少女。

 また十四、五歳だと思われるその少女は、サティがティアラを守ろうとしている隙にその首に噛み付いた。

 後々知ったのだが、その少女は魔法界とは正反対に存在する魔界の女帝で、「プラシナ」という名前の吸血鬼だった。

 魔界にはそんな者たちばかりが溢れている。もちろん、それぞれが魔法使いとは違う邪悪な魔力を持っている。

 一瞬で母親を食い殺され、ティアラはその場に座り込んだ。床に飛び散った鮮血が、今も脳裏に浮かぶ。

 きっとまだ浅く息をしていたサティを軽々抱え、プラシナは赤く染まった唇を袖で拭いながら茫然としているティアラを振り返った。

 そして彼女はサティと共に消えた。本当に一瞬だった。

 ティアラはすぐに外へ出た、まだそこにいるのではないかと思った。

 魔力の強い人間は自分が思った場所へワープできるということを知らなかったからだ。

 彼女は泣いた。声をあげて大雨の中、泣いた。

 帰ってきたクラウンはひどく心を痛めたように、しばらく立ち尽くした。ティアラは泣くしか出来なかった。

『おじいちゃん……ティアラが…お母さんまもれなかった…ごめんね……』

 そう泣きじゃくる彼女の小さな肩に手を置き、クラウンは寂しげな目を向けた。

『ティアラのせいじゃない。…これはどうしようもならないことだったんだ』

 それから季節はめぐった。彼女が七歳になった頃、クラウンは人間界に行こうと言った。

 当時通っていた魔法学校を辞め、ティアラとクラウンは二人して人間界へ出た。

 学校の先生は嘆いた。「どんな生徒よりも伸びる」とティアラのことを絶賛されていたからだ。

 辿り着いたロンドンの郊外にある小さな町でアパートを借り、新しい生活を始めた。

 クラウンは働き通し、ティアラは学校へ通わず、幼いながらも家事に専念した。

 それでも、心の中ではまだ、母親を守れなかった事を後悔し続けていた。

 そんな彼女に、ある日祖父は大きな四角いビンを渡した。中には紫の液体に浸かっている白い生き物がその黄金の瞳でティアラを見ていた。

『ティアラが生まれる前に創った妖精だが、まだ一度も外に出した事がない。今までずっと家族を見てきたし、こいつは見る限りしっかりしてるから、ティアラの役に立ってくれると思うよ』

 ティアラは「開けてごらん」とクラウンに言われ、固く閉まっていたビンの栓を思いきり引っ張って抜いた。

 と同時に紫の液体とその白い生き物が、小さい出口から一気に外に飛び出、空中に浮かんだ。

 やがて液体は消え去り、その生き物は濡れた毛をふるわせながら毛づくろいを始めた。

 背に黒い翼を持った雌のオコジョは、クラウンによりウェンディと名づけられていた。

 小さく名前を呼べば、オコジョは顔をあげて「よろしく」と口を利いたのだった。

 ティアラが十一歳になった年の秋、急に地元の小さい病院に呼び出された。

 彼女とウェンディは一室の病室に案内され、そのベッドに横たわっているクラウンの姿に、ティアラは足が震えた。

『ティアラ…強い子になりなさい……お母さんもきっとそう思ってる』

 それだけの言葉を彼女に与え、祖父はそっとその青い瞳にまぶたを下ろした。

 過労だった。ティアラを育てるために休まず働きすぎた。

 魔力の価値など無関係な人間界で、今まで頂点にいたおじいちゃんはどれだけ頑張ったのだろう――?

 結局、私は何もしてあげられなかった。

 張り裂けそうな胸の痛みを押さえ込み、ティアラはウェンディを抱きしめた。

『…私がいるわ』

 そう呟いたウェンディの声は、とても遠くに聞こえた。

 それからしばらくして、ティアラは魔法を使って民家に住みつき不幸をもたらす悪い妖怪を退治する仕事を始めた。

 悪霊払い、と言えば大抵の人間は信じた。

 収入は安定せず、ひどい時には水しか口に出来なかった。

 それに、ティアラの魔力は不安定だった。

 大抵の魔法使いはしっかり魔法学校で修行をし、経験を積んでようやく一人前になる。

 しかしティアラはろくに魔法学校にも通わず、人生の約半分を人間界で過ごしている。

 それでも自分流に魔法を使いながら、孤独に耐え、十一歳の体を張って彼女は生きた。

 その日は大雪だった。

 ティアラの体の半分まで雪が積もっていたが、待っている依頼者のために、自分の生活のために彼女は歩き出した。

 ウェンディの魔法で雪を溶かしながら、目的地の半分まで来ただろうか。

 ティアラの頬は赤くなり、呼吸が乱れ始めていた。

 熱と不安定な魔力を使いすぎたせいで、体力の限界がきていたのだ。

 雪の上に倒れてしまった彼女を助けようと、ウェンディが右往左往としているのを、傍にあった中流階級の民家の二階の出窓から見ている少年がいた。

 綺麗な金髪の少年はウェンディが動き喋ることに動揺もせず、ティアラを介抱してくれた。

 聞けば、いつも一人で留守番しているのだという。

 父と二人暮らしらしいが、少年は寂しそうな様子をみせなかった。

 それから数時間して目を覚ましたティアラに、彼は安心したように笑った。

 その燃えるような赤い瞳が印象的だった。

 きわめて珍しい特徴の少年と、ティアラはすぐに仲良くなった。

 彼、ゼブラは彼女よりひとつ年上で、とても無邪気で溌剌としていた。

 そしてそれから半年、春が近づいた日の夜。ティアラはゼブラの家を訪れた。

 珍しい花を見つけたから、見せてあげようという思いだった。

 時刻は夜の十時をまわっていたけれど、彼はいつでも起きてきていたので問題なかった。

 けれど、その日は様子が違った。

 一階の部屋の窓には灯りがついていて、普段ゼブラがいる二階の部屋は真っ暗だった。

 不思議に思い、家を囲う塀によじのぼって彼女は中を覗き込んだ。

 白いカーテンを透かして、一階の部屋の中の様子が見えた。

 よく聞こえなかったけれど、ゼブラの父らしき男性が何か言っている。激しく荒々しい声だ。

 ティアラの心臓はどくどくと速く動き出す。

 と、ゼブラの声が聞こえた気がした。でも息をつく間もなく、その男性が傍にあった物を彼に向かって投げた。

 そして、苛立ったようにそのまま彼を蹴ったり殴ったりし始める。

 無意識のうちに、ティアラはゼブラの名前を叫んでいた。

 虐待だった。彼の父親は、妻が病気に犯されるのと同時に不倫しだしたそうだ。

 やがて母親は病死。父は昼は仕事、夜は夜遊びをするようになった。

 最近では仕事も休む事が増えたそうだ。暴力が始まったのは、ティアラと会う数ヶ月前からだったらしい。

 それでもゼブラは何も言わなかった。弱音を吐かなかった。

 でもそれが逆に心配になった。

 やがて一年が過ぎ、彼はよく街で低流階級の労働者相手に喧嘩した。父親と接触するたびに暴力は続いていたらしい。

 ティアラは相変わらず仕事に精を出す毎日で、お互い顔を合わせることは前より少なくなった。

 異変が起きたのはまた雪が積もった冬の日。

 雪がやみ、綺麗な満月が顔を出した夜だった。

 二週間ぶりに会いに行ってみようと、ちょうど彼女はゼブラの家に向かっていた。

 家が見えてくる。どこの部屋にも灯りはついていなかった。いつもならゼブラの部屋には灯りがついているというのに。

 不審に思い、彼女は塀をよじのぼった。

 月明かりに一階の白いカーテンが浮かび上がる。赤い何かがついている。

 べっとりとカーテンに付着していたのは、明らかに人の血だった。

 驚いてティアラは敷地の中へ飛び降りた。

 狭い中庭に降りると、一階の窓に手をかける。鍵が開いている。

 部屋の中には机の上に蝋燭が一本立てられていた。弱い灯りで外からは確認できなかったようだ。

 床に倒れている人が見え、思わずティアラは声をあげそうになった。ゼブラの父親が、血を流して死んでいる。

『俺が殺したんだ』

 ゼブラだった。蝋燭の灯りが届かない部屋の隅の壁にもたれかかり、死んだような声で呟いた。

 彼は言った。自分は人間じゃなくなったと。

 吸血鬼になってしまった、と言った。

 ティアラの視界は真っ白になった。信じられなかった。

 そんなことが出来るのは、プラシナ以外にいないと思ったからだ。

 人を殺したことに動揺さえみせないゼブラに、彼女は胸が苦しくなった。

『ごめん。もう会えない』

 そう言って、ティアラは部屋を後にした。

 何もかもなくなってしまったと思った。

 季節は流れた。十四歳になったティアラは、二年間正体を隠してロンドンの公爵家で働いた。

 正体が見つかり追い出されてからは、このアール探偵事務所に出逢った。

 色々とあり時間の妖精の悪戯で母親が死んだ日に戻り、運命を変える。プラシナを封印した。

 クラウンもサティも死なずに済んだ。後悔を清算した彼女だったが、未だにゼブラのことが少し気がかりでいる。時々思い出す。 

 そして、クラウンが二十一世紀で事務所を運営しないかと事務所の主にもちかけ、現在に至る。

 そんなこんなで、ティアラはようやく荷を下ろせたのだ。

 過去を振り返り、彼女は小さくため息をついた。

 本当は、今だって時々不安になる時がある。自分が平穏と幸せを掴んでもよかったのか。

 そろそろ朝食の支度をしなくてはと思い、事務所の隅にある小さな台所に向かう。

 この事務所の窓側の隅に存在している黒い扉の向こうに、彼女は住んでいる。いわゆる事務員の私室がある裏だ。

 奥にはリビングや個室もあるのだが、ティアラはここで朝食を作っている。それも、起きてきた事務員は早く仕事をするため大抵ここで食事をするからだ。

 まあ、依頼がない今のところは仕事が少ない。あえてそれは言わない事にしておく。

 と、がちゃりと音を立てて裏へ続く扉が開いた。

「あ、おはようございます」

 ティアラは視線を動かし、微笑んだ。

 扉の向こうから出てきたのは、黒髪のカッターシャツを着た男性だ。ネクタイを締めている。

 彼がこの事務所の事務長、グレイス・アルフォード。十九歳だ。

「起きてたのか、仕事もないのに」

 気付いたようにグレイスは黒い瞳をティアラに移す。

 淡々とした喋り方は、生真面目で冷静沈着な彼の特徴でもある。

「仕事はなくても、私にはやることがいくらでもありますから」

 フライパンに油をひきながら、彼女はそう言った。

 十九歳にしてグレイスが事務所を受け持っているのは、十三歳の時に両親を船の事故で亡くしたからだ。

 それ以来施設に預けられ、唯一の家族だった弟にも心を閉ざしてしまい、笑うことも少なくなったらしい。

 十六になって事務所を再開させ、弟とは一度別れたが、また二年後に再会して今は一緒に事務所で働いている。

 ティアラは彼とは十八の時に出逢ったためまだ一年しか一緒にいないけれど、グレイスのことを本当はとても心優しい人間だと思った。

 遠い先祖が魔法使いだったグレイスは自然にティアラのことを受け入れてくれたし、彼女のことをいつでも助けてくれたからだ。

 去年の夏、初めてグレイスの笑顔を見たときから、そう思うようになった。

 とりあえず、生真面目すぎて頑固と言われることも少なくない彼だが、実はただの仕事好きとも言える。

 両親を救えなかった自分を責めていたグレイスは、ティアラにとって自分と重なって見えた。

 でも彼は、もう後悔が薄れたと言う。それは心のどこかでふっきれて、前向きに生きる気持ちになったということなのだろう。

 だからこそ今回クラウンに持ちかけられて、未来で事務所を営業することを決意したのだと思う。

 その想いを感じるたびに、ティアラは何かを迷う自分に苛立つ。何がふっきれないのだろう。

「ちょっとティアラ!」

 突然の怒鳴り声に、名を呼ばれた彼女はベーコンをフライパンに入れようとして飛び上がりかけた。

 事務所の扉が猛烈な勢いで開き、真っ白なものが宙を舞いながら飛び出してくる。

 グレイスは「またか」というように呆れ顔だ。

「何なのよこのベーコン臭は!」

 ティアラより少し高い目線まで舞い上がり、文句を言うのは真っ白で背に黒い翼を持ったオコジョだ。

 鼻の頭にしわを寄せて、ひげをぴくぴく動かしている。

「な、何って…」

 戸惑い、しどろもどろに呟きを洩らすティアラにウェンディは更に問い詰めた。

「私は昨日スクランブルエッグがいいって言ったのに!」

 そういえばそんなことを言っていたような。

「悪いけど卵なんて買えません! ただえさえ高いのに」

 反論したティアラに、ウェンディは足をばたつかせてグレイスの元へ飛んでいく。

「どうなのよ! あんた、朝ご飯がスクランブルエッグじゃなくてベーコンでもいいの?」

 迷惑そうに眉をあげたグレイスは、目の前ですばやく飛び回るウェンディを睨む。

「別に何でもいい」

 それだけ言うと、彼はあっさり顔を背けた。

 ウェンディは信じられないというように、わなわなと震えている。妖精の考える事はよく分からない。

 クラウンは何を思って、この妖精をティアラに授けたのだろうか。

「何事だよ」

 再び事務所の扉が開く。

 寝起きのぼさぼさの銀髪を押さえつけながら、歯ブラシを口につっこんだ少年が顔を出す。

 幸い今日は長袖の黒いシャツに着替えているが、ひどい時はパジャマで出てくるのだ。

「ちょっと聞いてよ!」

 ウェンディがすかさず少年に飛びついた。

 彼、ジーラス・アルフォード十八歳はその名の通りグレイスの弟だ。

 明るく能天気でお気楽主義で、いざとなると急に度胸がなくなるのがジーラスで、兄とはまったく正反対の性格である。

 それでも本人はグレイスが大好きで、シスターコンプレックスと言われがちだ。

 今思えばグレイスが弟に心を開くも何も、能天気すぎて何を言っても役立たずだったのかもしれないが。

 派手な銀髪は、昔は黒だったらしい。瞳だけは兄と同じ面影がある。

 つい最近まで全世界を船を密航して渡り歩いていたが、ここ一年で事務所に専念するつもりになったらしく、今はグレイスを手伝っている。

 とはいえ、役立つ度合いは時として一%にも満たない。

「俺も朝はスクランブルエッグのほうがいい!」

 ティアラに抗議する人間が二人、いや一人と一匹に増え、彼女はため息を交えながら料理をするしかなくなった。

「じゃあ依頼を増やすこと。そうすればお金も入るから、朝はスクランブルエッグに出来るよ」

 彼女がそういうと、ウェンディもジーラスも深いため息をついた。

 そう、実は二十一世紀にきてから依頼が一度もない。

 十九世紀にいたときも依頼は少なかったが、やはりそれとなくやってくるときもあった。

 だが、科学技術や警察の操作技術が発達してしまった現在、探偵が役に立つ事は少ないのかもしれない。それかもしくは知名度が無さ過ぎるのだ。

「グレイス、いい加減何か行動を起こしたほうがいいわよ。もうこっちに来て一ヶ月なのに、何もやれてないじゃない」

 ウェンディが前足を組み、宙に浮いたままグレイスを振り返る。ジーラスが激しく首が千切れるのではないかと思うほど頷いた。

 グレイスは椅子の背にもたれ、ため息をついた。

「何を起こせと?」

 顔をしかめた彼に、すかさずジーラスが挙手し口を開いた。

「やることと言えばもちろんビラ配りに、街頭演説! 決めの言葉は「清き一票をお願いします!」」

「それは選挙でしょ」

 そう言いティアラは、トーストに食パンを押し込んだ。

 一体どこでそんなものを覚えてきたのか。

 でも、本当そろそろ行動を起こさなくてはまずいのかもしれない。

「やっぱり自分達から事件を探すことよ」

 ウェンディが意気込んだように声を強くする。

「自分から事件探しをする探偵なんて聞いたことがないけどな」

 グレイスが分厚い本を開きつつ、ぼそりと言う。

 ウェンディは顔が真っ赤になるのではないかと思うほど息を止めて、何かを押さえ込んだがすぐに破裂した。

「もう知らないわよ! 勝手にすれば!」

 言い出したのは自分でしょ、と心の中でつっこみを入れつつ、ティアラは焼き上げたベーコンを皿に移した。

「ウェンディ、もう怒るのはやめて。それより準備を手伝ってくれる?」

「はいはい!」

 乱暴に言葉を放り投げ、彼女は苛立ちを隠さないままふわふわとこちらへやってきた。

 ジーラスはまだ案を考えている様子で、眉根を寄せている。

 相変わらず何も言わないグレイスに、ティアラはどうすればいいものかと頭を悩ませた。



 午前十時を過ぎても、一向に太陽は顔を出さない。

 ティアラは一人、騒音の溢れる街を歩いていた。

 すれ違う人々は皆、足早に過ぎ去っていく。

 彼女が着ていたダッフルのコートについているフードの中から、ウェンディが問いかけた。

「何しに行くのよ」

 ティアラの肩に手を置き、彼女は尋ねる。その声も騒がしさに飲み込まれて、ティアラ以外の誰かに聞こえたりはしない。

「何って…事件を探してるの」

 周囲から見れば一人でぶつぶつ喋っている少女に見られるだろう。

 でもティアラはあまり気にせずに言った。

「本当に探してるの?」

「探そうって言ったのはウェンディじゃない」

 不満そうに口をとがらせたティアラに、ウェンディは少し頬をゆるめた。

 そうして彼女の肩に小さい両前足を置く。

「でもやっぱり探そうと思って見つかるものじゃないわね、事件って」

 今更そんなこと言われても。

 口元を引きつらせつつ、ティアラは息を吸い込んだ。

 電線が飛び交う空と、大きな車が走る車道、二百年前とは全く違う人々、街並み。

 おじいちゃんがグレイスさんに、二十一世紀で仕事をしないかともちかけたのは、去年の大晦日が近づいた日だった。

 もちろん反対した。だって、急に未来に行って事務所なんて、デメリットのほうが多いと思ったから。

 だけど、普段何も言わなくてもグレイスさんがどれだけ仕事に対する熱意を持っているか、知っていたからそう簡単に反対できなかった。

 それに、未来に行くなんて自分の中でも、自分から逃げたような気がして嫌だった。

 だって、私は違う時代へいくと魔力が弱まることを知っていた。もちろんそれはティアラだけ。

 案の定予想通りの結果になってしまったけど、どうすることも出来ない。ここで、もう一度自分を好きになれるといい。

 魔法なんかなくても。クラウンの孫だって、私には何もない。

「…ウェンディ。あの時学校を辞めなかったら、私はおじいちゃんくらいの魔法使いになれてたのかな」

 唐突なティアラの呟きに、ウェンディは黄金の瞳を一瞬見開いた。

 そして、目を伏せる。

「私はあなたの魔力をどうとか言うつもりはないわ。…でも、ティアラの言うとおり学校に通っていたら、また違う未来があったんでしょうね」

 静かに呟いたウェンディの声は穏やかで、ティアラの気持ちを少し落ち着かせてくれた。 

「ねえちょっと。さっきからつけられてる気がするんだけど」

 急に声を落としたウェンディは、ちらりと後方に視線をやる。

 ティアラは眉根を寄せつつ、そっと振り返ってみた。

 人波がごったがえしていて、何が何なのか分からない。

「あいつよ、サングラスした坊主の男」

 髪を刈って坊主にした黒いサングラスの男性の姿が、ティアラの目には人波から浮き出るように映った。

 伸びた黒いジャケットを着て、擦り切れたジーパンを穿いている。耳には数個のピアスがついていて、明らかにガラが悪い。

 距離は二、三メートルほど離れているだろうか。 再び前方に視線を戻し、ティアラは跳ね上がる心臓を押さえ込む。

「も、もしかしたら同じ方向に行くのかもしれないでしょ」

 ひそひそ声で口を開く、自分の声が少しうわずっているように感じる。

「まさか、事務所を出たときからいるわよ。私見てたもの」

 確かに、ウェンディはフードの隙間から背後を簡単に覗く事が出来る。

 前しか見ていないティアラにとっては、充分に信じられる情報だった。

「走るよ」

 小さく彼女は呟き、ウェンディが頷くやいなや走り出す。

 これで男が追いかけてこれば、尾行されているに違いない。

 嫌な予感は的中、サングラスをした男は気付いたように走り出した。

「ど、どうしようウェンディ。私、つけられるようなことした?」

 舌を噛まないように注意しつつ、ティアラは肩のウェンディに対して尋ねる。

「分からないわよ! とにかく逃げ切らなきゃ!」

 こういうとき、人を尾行していて逃がすまいとする人間は、大抵その人間に対して恨みか何かを持っているのだ。

 とは言っても、ティアラは二十一世紀に来てまだ一ヶ月だし、こっちで知り合った人間などいない。

 もしかして魔界の一味?

 つねに魔力の強い魔法使いを餌としている魔界の吸血鬼たちを思い浮かべ、彼女は身震いした。

 今自分の魔力が弱まっているとはいえ、本来の力を失ったわけではないのだ。

 更に速度をあげながら、ウェンディがフードの中を抜け出るのを見た。

 宙に浮かび上がった彼女は、ティアラと同じスピードで飛んでいる。

「早くフードの中に入って! 見られたらどうするの!」

 焦るティアラに、ウェンディは口を開く。細い牙が顔を覗かせる。

「あのバスに乗るわよ! そうしたら逃げ切れるわ」

「バス?」

 前方を見たティアラは、バス停にバスが停まっているのを発見する。

 バスの目的地がどこだとか、この際もうどうでもよかった。

 閉まりかけたバスの扉にくらいつくようにしてティアラは飛びつく。

 驚いたらしい若い運転手は、慌てて扉を開けてくれた。

「お客様、危ないですので駆け込み乗車は…」

「早く発車してください!」

 運転手の注意に叫んだティアラの迫力は相当だったのだろう。

 まだ三十代と思われる運転手は、すごすごと扉を閉めようとした。

 が、あっさりあのサングラスの男が、まだ閉まっていなかった扉から乗り込んでくる。

「待て」

 どすの利いた声で、男はティアラを見た。

 そして続いて赤い髪の同じようにガラの悪そうな男が乗り込んできた。坊主より背が高い。

「お、お客様何事ですか!」

 既に乗っていた乗客たちのざわめきに、運転手は騒動は困りますというようにティアラ達の間に割り込む。

「黙れ。怪我したくなかったら俺らの言う事を聞けよ」

 脅迫にも似た方言言葉で赤髪の男が運転手を脅す。その隙をついて坊主がティアラの腕を掴んだ。

 慌てて振り払おうとしたティアラの肩で、ウェンディが牙を剥いた。

「あんたが「ティアラ」やな。その目立つ髪のお陰で、よう分かったわ」

 どうして私の名前を。

 どこかの方言で喋る坊主の男に、ティアラは顔をしかめた。ウェンディが今にも飛び掛りそうな勢いで、背中の毛を逆立てる。

「…誰、ですか。人の名前を聞くときは、自分から名乗ってください」

 あくまでも強気な姿勢に出る彼女に、男はにやりと不敵に笑った。

「威勢のいいお譲ちゃんやな。でも俺の名前を聞く必要はない。お前を指定された場所まで連れてこいって言われとるだけやでな」

「指定された場所……?」

 やはり魔界が関係しているのか。

 だが、この二人からは魔力を感じ取れなかった。元々人間として暴力関係をやっている人物に思える。

 そうこうしているうちに、バスの扉が閉まった。赤い髪の男が運転手を脅したらしい。

「いいか、高速を使ってウェールズまで俺達を連れて行け」

 運転席に座っている運転手に、男は相手を睨みつけながらそう言った。

「で、でもこのバスは高速バスじゃないん…」

「うるせぇ。言うこと聞かねーと、このバスを爆破して皆殺しにすんぞ」

 爆破?

 乗客たちが息を飲むのが分かった。

 両腕をとられ、ティアラは完全に拘束される形になってしまう。

「発車しろ」

 赤い髪の男は冷酷にどこから出したのか銃を向けたまま言い放ち、震えながらも頷いた運転手を見届けた。

 バスが動き出す。

 ティアラの心臓は速くなり、耳元で心拍が聞こえた。

 完全にハイジャックされたと言えるだろう。

 ともかく、爆破が本当かどうかは不明だ。第一バスに爆弾が仕掛けられているのかもどうか分からない。

 彼女は深い青の瞳で乗客を見回した。

 中年の男女が多い、これから遅い出勤という人間もいるだろう。皆小さくだが震えている。

 子供は一人だけ。一番後ろの座席の隅で、十二、三歳くらいの少女がちぢこまっている。

 どうしよう……―――。

 と、足元を動くウェンディに気がつく。

 彼女は何やら言いたげだ。

 とにかく外部と連絡を取らなければ。

 魔法が使えたら、と心から強く思った。

 二十一世紀のロンドンに来た時に調べたけれど、高速はあのバス停からほんの数分でいける場所にある。

 高速に乗れば外部との連絡が取りづらくなるのは確かだ。

 ティアラは何か口パクを喋るウェンディの言葉を読み取った。

 ―私が赤い髪の男に噛み付いて銃を奪い取るから、あなたはそいつの足を蹴って―

 彼女は小さく気付かれないように頷く代わりに、ゆっくりまばたきした。

 とりあえずこの坊主が銃を持っているかどうかが問題だ。

 ウェンディが動いた。

 窓の外をちらりと見れば、丁度高速に入るところだった。

 突然飛び出してきたオコジョに手首を噛み付かれ、赤い髪の男が叫び声をあげる。

「なんだ?」

 一瞬だけ視線をティアラから動かした坊主の足の脛を、ティアラは思いきり蹴り上げた。

 悲鳴を上げて床に倒れた坊主に、銃を奪ったウェンディが噛み付く。

「ティアラ!」

 銃を放り投げた彼女に、慌ててティアラは飛んできたそれを掴んだ。

 乗客の数人は頭を下げて、震え上がっている。

 赤い髪の男が苛立ったように、坊主の上着からはみ出していた銃を抜き取った。

 やはりもう一人も持っていたのだ。

「馬鹿にすんなよ、小娘」

 すごい迫力で睨まれれば、さすがにティアラも一歩後ずさる。

 こちらに向けられた銃口から、いつ弾丸が発砲されるのかと思えば緊迫感が高まる。

「…ここで撃ったってどうにもならないですよ。どのみちバスが爆破されれば、あなた達も死ぬんですから」

「分かったような口を利くな。乗客が死ぬ前に、お前を殺してやってもいいんだぜ」

 そんなことは出来ないはずだ。なぜなら、この二人はティアラを呼び出した犯人と約束したのだから。彼女を連れて行くと。

 それには金銭が絡んでくる。

 莫大な金でなきゃ動くはずも無い暴力団の組合の男達だ、その犯人を裏切る事は出来ないだろう。

 ティアラはとっさに引き金に指をかけた。もちろん脅しだ。

 一瞬たじろいだように見えた赤い髪の男に向けて、彼女は履いていたショートブーツを投げつける。

 靴は男の顎にヒットし、床に倒れさせた。その際、掴まるために作られていた棒に思いきり後頭部をぶつけ、意識を失ったようだ。

 あっさり床に落ちた銃をウェンディは拾い上げる。

 起き上がった坊主の男は、銃を向けたティアラに顔を引きつらせた。

「ティアラ、早く今のうちに縛るのよ」

 そう言い、ウェンディは魔法で長いロープを二本出した。

 誰もが錯乱していて、その様子には気付いていない。

 わずかに躊躇したティアラだったが、心を強くし二人をどうにか縛り上げた。

 その二人を開いていた前の座席に座らせ、彼女は運転手を覗き込む。

「運転手さん、携帯電話持ってますか?」

「け、携帯?」

 外部と連絡を取るには、これが一番だと思ったのだ。

 既に高速道路を七十キロ近くで走行しているこのバスに、いきなり引き返せといってもそんなのは無理だろう。

「そ、そこにある」

 まだ動揺している彼は、顎で自分の座っている運転席のすぐ脇にある黒いカバンをしゃくった。

 失礼します、と呟き、彼女はカバンのファスナーを開けて中に入っている青い携帯電話を取り出す。簡単に見つかった。

「もう遅い」

 突然、縛られていた坊主の男が言った。

 不気味なくらいの笑みを浮かべている彼を、ティアラは電話を持ったまま振り返る。

「…どういうこと」

 視線をきつくし、彼女は呟いた。

「今起爆スイッチを入れたんや。お前を連れてこれないなら殺せと命じられていたでな」

 そう言った男の足元には、黒いリモコンのようなものが落ちている。

 警戒しつつも、それをどうにか拾い上げたティアラはそれを見た

 リモコンには丸い大きなボタンと、デジタル時計のような時間が表示されている。

「それが爆発までの残り時間…お譲ちゃん、あんたに出来ることはない。ここで死ぬのを待つだけや」

「それまでにバスを停めて下りればいいんでしょう」

 男は馬鹿にしたように鼻で笑った。

「無駄や。こいつに仕掛けられた爆弾は、時速四十キロ以下で運転すると残り時間があろうがなかろうが爆発する」

 乗客もティアラもウェンディも、そして運転手も全員が息を飲んだ。

 男は勝ち誇ったように高笑いしている。

 その声が怖いくらい耳に響く。

「…ティアラ……どうするのよ」

 肩に乗っているウェンディが、不安な声で呟いた。

 ティアラは起爆スイッチのあるリモコンの残り時間を見る。

 四時間五十六分。 結構時間はある、もちろんこれはウェールズへ辿り着くまでに準備した設定時刻だろう。

 彼女は右手に持っていた運転手の折りたたみ式携帯電話を開いた。

「とにかくグレイスさんに連絡しなきゃ」

 不安げなウェンディに、ティアラの足も少し震えだす。

 走っているバスから全員が飛び降りて逃げるのが一番助かる道が大きい方法だが、子供やお年よりは無理だろう。怪我を覚悟しなくてはならないうえに、リスクが高すぎる。

 そうなれば自分達が生きていられるかどうか。

 誰もが不安に刈られている、自分がしっかりしなくては。

 事の始まりはティアラがバスに飛び込んだことなのだから。

 彼女は、こういうときこそ滅多に使わなくともグレイスが携帯を持っていてよかったと思う。

 こっちに来て、必要になるかもしれないと買ったのだ。もちろんティアラも。

 けれど彼女は、今日に限って携帯電話を事務所に忘れてきた。

 でも、グレイスなら非通知の電話にも出るはすだ。

 彼の携帯番号のボタンを慎重に押してから、ダイヤルすると耳に電話を当てる。

 そして、閉まっている出入り口にあった窓に近づき、外を見た。

「無理よ。あいつが電話に出るわけないじゃない」

 ウェンディがひそひそと、ティアラの電話でふさがっていない反対側の耳元で囁く。

 ティアラは返事を返さず、じっと外を見ていた。

 三車線の高速道路には、セダンやワンボックスの普通乗用車がみるみるバスを追い越して走っていく。

 空は相変わらず、どんよりとして重ったるい雲がバスを眺め下ろしていた。

 グレイスさん、電話に出て……!

 ティアラがきつく目を閉じて、携帯を握る手に力を入れたときだった。

『もしもし』

 聞き慣れた声が、電話の向こうから聞こえてくる。

「も、もしもし。ティアラです!」

 思わず声が大きくなった彼女に、ウェンディは人差し指を立てるように前足を口の前に持ってきた。

『ティアラ?』

 不可解そうな声のグレイスは、首をひねっているに違いない。

「あの、バスが…ハイジャックされて…その……」

『は?』

 電話をかけたものの、どう話そうか順序を決めていなかったために、しどろもどろになる。

 どうにか息をつき、ティアラはもう一度話し出した。

「ロンドンのバス通りで二人組みの男の人にあとをつけられて、逃げてバスに逃げ込んだら二人も乗ってきちゃって……私をウェールズまで連れて行くって、バスに爆弾を仕掛けたって言ってハイジャックされて…」

 一気に話し、ちらりと坊主の男を見れば「無駄なことを」と言っている目と視線が合う。

 慌てて目を離すと彼女は運転手の隣に立ち、フロントガラスから外を見る。

『バスがハイジャックされた? でも後々お前達が乗ったバスに爆弾を仕掛けることは無理だろう。それも計算されていたと?』

 さすが、冷静だ。

「多分そうです。私が未来に来た事を知っている魔界の一味がいたのかもしれないんです。そいつらがミルキー家の末裔である私の魔力を狙って、ウェールズまでこの二人に運ばせようとしたのなら、つじつまが合います。バスを時間通りにバス停へ行かせることだって、魔法さえあれば……」

 その言葉の内容に、怪訝そうな目を向けた者は何人もいただろう。 

 でもそれどころではない。

『だけどティアラ、ハイジャックされているのになぜ電話できるんだ?』

 一番気にしていたらしい。

「い、いえあの…まあそれは気にしないで下さい。問題は爆弾のみです、男二人は手出しできないようにしてありますので。あっあと、時速四十キロ以下でバスを運転すれば、自動的に爆弾が爆破されるらしくて……どうすればいいですか」

 大の男二人を少女とオコジョが倒した事は、とりあえずグレイスには知られたくなかった。

 十七にもなってどこまでお転婆なんだと呆れられそうだ。

『…車爆弾の可能性が高いな。車両の下を確認してみろ、そこに爆弾があったら間違いない。単なる脅しだったら今すぐバスを停めて車から離れてくれ』

「分かりました」

 ティアラは電話をつないだまま、肩のウェンディを見る。

「ウェンディ、今すぐ車両の下を調べて」

「な、私に下に潜れっていうの? 嫌よ!」

 こんな時までわがままな妖精に、彼女は小さく息を吐いて言い直す。

「お願い。ウェンディしか無理なの、乗客の命を助けると思って」

 いつになく真剣なティアラの瞳と言葉に、彼女は一瞬だけ黄金の瞳を泳がせた後「仕方ないわね」と小さく呟いた。

 ティアラは急いで空いていた座席の隣にある小さい窓の鍵を開け、固く閉まっている窓を引き開けた。キキキ、と嫌な金属音が響く。

 ウェンディは開いた窓の隙間から外へ飛び出し、黒い翼を広げた。

「あ、あの…大丈夫? こんなに速く走ってるけど」

 オコジョが下へ潜ったことに、スピードを保つのを躊躇する運転手が不安そうに言う。

 ゆっくり落ち始めるメーターに、ティアラは慌てて飛びついた。

「大丈夫です、ちゃんと踏んでください」

 スピードを取り戻したバスに、ウェンディが再び窓から中へ入ってくる。

 ティアラはそれに気付き、急いで駆け寄った。

「どうだった?」

「あったわ。大きさは私くらいの、そのリモコンと同じ時間を刻んでる灰色の四角い爆発物」

 乗客が悲鳴をあげる。もうオコジョが喋るとかはどうでもいいらしい。

 その様子を、気がついた赤い髪の男ともう一人が無表情に見ている。

 ティアラは急いで携帯に耳を押し付けた。

「もしもし、ありました!」

『あったのか? …まずいな…爆発すれば相当な威力だぞ。今どこを走ってる? どんなバスだ?』

 現実味を帯びてきた爆弾に、ティアラの手はわずかに冷たくなった。

 けれど、それ以上に乗客は怯えていて、女性では泣き出す者もいる。

「今は…ウェールズに向かう高速道路です。七○四番線で、白に青い線が入った市バスです」

『分かった、今からジーラスとそっちに向かう。いいか、絶対スピードを落さないように。警察への連絡はまだするな』

 唐突なグレイスの台詞に、ティアラは目を丸くした。

「えっ…向かうって…そんなこと出来るんですか!? だって免許ないじゃないですか!」

 そうなのだ、一応取れる年齢だが彼はまだ免許を持っていない。

『大丈夫だ、何とかする。何かあったらすぐ連絡してくれ。お前はバスを頼む』

「大丈夫って…」

 ティアラがそこまで言った時、電話はぶつりと切られてしまった。

「どうだった?」

 ウェンディに、ティアラは茫然としたまま窓の外を見た。

「こっち来るって」



「ハイジャック!?」

 大きな声で叫びをあげたのは、もちろんジーラスだ。

「ああ。とにかく現場に向かうぞ」

 平然と返事を返し、コートを羽織うグレイスに彼は目をしばたく。

「ど、どうやって行くんだよ。兄ちゃん車運転できねーだろ」

 ティアラと同じことを言いながら、ジーラスもダウンジャケットを羽織った。

「いいから来い」

 事務所の鍵を取り、彼はそれだけ言うとジーラスを引っ張り出して事務所を出た。

 賃貸ビルをエレベーターで一階まで下りると、グレイス達は通りにでる。

 目を泳がせて、動揺しているジーラスはしどろもどろに言った。

「まさかバスで追いかけるとか言うんじゃ…」

「そんなまどろっこしいことやってられるか」

 あっさり否定して、グレイスは通りを見回すと足早に止まっていた一台の白いジープ、グランドチェロキーに近づいた。

 ジーラスは、まさかと呟いてから走ってそれを追いかける。

 車外で何やら空を見つめていた車の主と思われる金髪の少年に、彼は声をかけた。

「昨日からここをうろついてるだろう、暇ならちょっと手伝ってくれないか」

 そうだったのか、とジーラスが知ったのは今に違いない。

 グレイスは気付いていたのだ。

 昨日の午前からずっと、この白いジープがここを行ったり来たりしているのを。

 薄い青い色のついたサングラスをかけていた少年は、数秒黙り込んでいたがやがて口元をあげた。

「さすが探偵だね」

 落ち着いた、よく通るような声だ。年齢は十八、九だろうか。

 サングラスをしていても、顔立ちが普通の人間より整っている事がよく分かる。 こちらの正体を見抜いている。

「白い車は目立つからな」

 グレイスの言葉に確かに、と返事をして、彼は口を開いた。

「何を手伝えと?」

 サングラスの下の瞳は、青で隠されて色が分からない。

 グレイスは躊躇なく言った。

「私とこいつを乗せて七○四線を走っている市バスに追いついてくれないか」

 ジーラスはやっぱり、というように顔を引きつらせる。

「兄ちゃん、何言って……!」

「いいよ」

 今度は、その少年も躊躇なく返事を返した。

「それなりの報酬をくれるなら」

 それだけ付け加えて、どうする? というように彼はグレイスを見る。

 グレイスはそれに頷いた。応じるという事だ。

「交渉成立だ、乗って」

 運転席に回った少年に、グレイスもすかさず助手席の扉を開けた。

 ジーラスも戸惑いながら、後部座席に乗り込む。

 シートベルトを閉めながら、金髪の少年は隣のグレイスを見た。

「名前は?」

「グレイス・アルフォード、十九だ。後ろが弟のジーラス」

 警戒もしないのかよ、という目つきのジーラスを無視し、グレイスはあっさりそう言った。

「へえ。…俺はオールド、十八。グレイスよりひとつ年下だね」

 そう言って、オールドと名乗った少年は意味ありげに微笑むと、エンジンをかけるためキーをひねった。

 車を動かしつつ、彼はグレイスに問いかける。

「仕事をするなら免許を持っていたほうがいいよ、探偵さん」

 問題のバス停の傍を通り過ぎていく。

「……事情があって取っていないだけだ」

 グレイスはそれだけ言う。

 ジーラスは、もうどうでもいいよというように、シートにもたれかかった。

「よかったら教えてくれないか? 何のために七○四線に乗りバスに追いつくのか」

 企業秘密だが、協力してもらっているのに教えないというのもどうかとグレイスは思う。

 出会ったばかりのオールドというこの少年に、内容を話すのは正直気が引けたが、重々しく口を開いた。

「そのバスには爆弾が仕掛けられている。速度を落としたら爆破する、それを防ぐために追いつく。そういう理由だ」

 グレイスは携帯を開きつつ、そう呟いた。

 少年は、わずかに視線を彼に投げる。が、すぐに前方に戻した。

「何でそのバスに爆弾が仕掛けられていると知っているんだ?」

「事務所の見習いがそのバスに乗っているからだ。一度はハイジャックされたらしいが、犯人達を取り押さえたらしい」

 ティアラが言わなくとも、グレイスは分かっていた。

 まあ、一年も一緒にいれば分かるだろう。

「まあ任せといてよ」

 そう言って、高速の入り口を過ぎた車は、一気に加速した。



 残り時間は四時間十分になっていた。

 気が気じゃないまま、乗客たちと運転手、そしてティアラとウェンディはバスを進めていた。

 ティアラは、いざとなればウェールズでその犯人と掛け合ってやると心の中で思った。

 かかってこない携帯電話を握り締め、彼女は一番前の運転手の隣に立っていた。

 ウェンディは空いている座席に丸くなっている。

 車内には、既に全員が死を覚悟したようにうなだれていた。誰も口を利かない。

 空気が重くなっていたそんな時、突如あの一番後ろの席に座ってちぢこまっていた少女が口を開いた。

「…ねえ、あたし達本当に助かるの?」

 黒い肩までの髪がさらりと揺れる。

 その言葉に、誰もが静かに顔をあげた。ティアラもそっと振り向く。

「…分からない。でも助けるよ」

 ティアラはそれだけ言った。「助かるよ」なんて、分かりもしない事を無責任に言えない。

 少女はそっと立ち上がる、ティアラより背は低い。

 そうして前まで歩いてくる。

「あたし、あなたのこと知ってる」

「え?」

 唐突な台詞に、ティアラは目をしばたいた。ウェンディも顔をあげる。

 黒い髪に黒いセーター、白いスカートに黒いタイツ。白黒の少女は、真っ黒な瞳でティアラを見上げた。

「ミルキー家の末裔、ティアラでしょう? 私もあなたと同じなの」

 同じ、ということは魔法使い?

 ウェンディが何やら口を開こうとするが、ティアラが視線で阻止する。

「え、と…あなたの名前は?」

 戸惑いながらティアラは尋ねる。

「あたしはサン・ヴォラー、十五歳。有名な家系じゃないわ。でも、あなたが未来へ行ったことは噂よ」

 サンと名乗った少女は、年齢より見た目が幼いようだ。

 そうして、サンは背伸びをしてティアラの耳元で囁く。

「魔法を使えば爆弾をとめられるんじゃない?」

 魔法を。

 ティアラはしばらく黙り、離れたサンの表情を見て寂しげに微笑んだ。

「出来ないの」

 馬鹿みたいだろう。

 クラウンの孫が未来に行けば魔法も使えないなんて。

 でも、クラウンと血がつながっていても私は落ちこぼれ。

 だからもどかしい。

 サンは不思議そうに首を傾げただけだった。

 と、急に今まで大人しく座っていた坊主の男が動いた。

 唯一自由に動く足で立ち上がり、サンに向かって足を振り上げる。

「サン!」

 そう叫んだティアラに、彼女ははっとしたように顔をあげる。

 ティアラは無意識のうちに、サンを守るように二人の間に割って入っていた。

 誰かが止める間もなく、蹴りはティアラの背中にまともに当たった。

 よろめいて床に膝をつき、彼女は咳き込む。

 ウェンディが牙を剥いて舞い上がる。

 他の男性の乗客たちも、初めてそれをとめようと立ち上がった。

 咳き込んでいるティアラに駆け寄ったサンが男を睨む。

 他の人間が止めようとする前に、サンの視線に坊主の男は突然その場に倒れて眠りこけた。

 その場にいた全員が、驚いて目をしばたき、サンと男を交互に見る。

 乗客の男性の一人が、坊主を再び椅子に座らせながら、口を開く。

「君、一体……」

 ティアラの息がようやく楽になってきたとき、ウェンディはサンに飛びついた。

「あなた…人間の前でそんなもの使っちゃ駄目! これは掟よ!」

 小声でそう叱りつけたウェンディの台詞に、サンは我に返ったように呟く。

「…あたし……無意識のうちに魔法を発動させるときがあって…まただわ…」

「何それ、魔力を制御できないってこと?」

 顔をしかめたウェンディと動揺するサンの会話を切り上げたのは、突然鳴り出した運転手の携帯だった。

 もちろん、今はティアラの手にある。慌てて彼女は携帯に出た。

「もしもし!」

 背中に走る痛みを堪えつつ、ティアラは立ち上がる。

『私だ。グレイスだ』

 聞き慣れた声に、彼女はほっと胸をなでおろした。

「今どこですか?」

 ティアラは、ウェンディがサンを落ち着けて座席に座らせるのを見ながら、出入り口に近づいた。

 外を見れば、空中を走る高速道路の下には街が少なくなってきている。高い建物があまり見当たらない。

『バスと同じ七○四号線を百二十キロで走ってる。建物が少なくなってきたか?』

「そんなに早く? あ、高い建物は少ないです。街もあまりなくて」

 窓に張り付きながら、ティアラは走っている乗用車に乗っている人間を目で追う。グレイスがいないかどうか。

『今、それらしき青と白の市バスが百メートル離れたところに見えるんだが。こっちを探してくれ、白いジープだ』

「はい!」

 ティアラは走って一番後ろの座席に乗り、窓から後ろを見る。

 白いジープ……。

 希望を胸に抱きながら、目でその車を探す。何せ白と黒の車が多いため、分かりづらい。

 と、少し離れた場所に白いジープらしき車を見つける。セダンに交じっている。

「それっぽい車は見えますが…どうしましょう?」

『とにかく、バスの横に並ぶようにするから出入り口の扉を開けてくれ』

「出入り口を開ける!?」

 ティアラが大声を出したので、乗客たちは顔をあげた。

『いいからそうしろ』

 電話をしたまま、ティアラは再び出入り口付近まで舞い戻った。

 ウェンディが飛んでくる。

「どうなの?」

「このバスみたいなバスを見つけたって…出入り口を開けてくれって言ってる」

 必死で外を見ながら、ティアラはウェンディに言った。「は!?」

 驚いて声をあげたウェンディは、彼女がとめる間もなく電話を奪い取る。

「もしもしグレイス? 出入り口を開けろって、何考えてるのよ!」

 電話の向こうに向かって怒鳴るウェンディの声はすさまじい。

 サンがうつろな目で顔をあげた。乗客達の緊張が、空気を通じて伝わってくる。

『とにかく言うとおりにしてくれ。方法を考えた』

「方法って…あっちょっと!」

 電話を切られたらしく、苛立ちに息を荒くしながらウェンディは携帯を乱暴に閉じた。

 と、急にバスの隣に入ってきた白いジープに気付く。

 ほぼ同じ速度で並んでいる。

 その助手席には、グレイスがいた。後ろにはジーラスが張り付いている。

 彼がシートベルトを外し、出入り口を開けろと指で指示したのが、彼女にははっきり伝わった。分かったと頷く。

「運転手さん、出入り口を開けてください!」

 唐突なティアラの言葉に、運転手は「ええ?」とうわずった声をあげる。

「大丈夫です、開けてください。速度は落とさないでください!」

 難しい注文に運転手は口元を引きつらせつつ、扉を開けるボタンを恐る恐る押す。

 同時に扉が全開し、ティアラは出入り口に近づき外に顔を出した。

 強烈な風が吹きつける。何せこのバスは時速八十で走っているのだ。

 どうやって移るのかと、乗客たちが窓に集まる。

 ウェンディは鼻を押しつぶすくらいの勢いで窓に張りついている。

 それを確認したらしく、グレイスは躊躇うことなくドアを開けた。

「グ、グレイスさん! 落ちちゃいますよ!」

 焦って叫んだティアラに、グレイスは言葉を返す。

「免許証を持った人間をこっちに呼んでくれ!」

「え?」

 ティアラは目をしばたかせて、理解に苦しむように眉根をよせた。

 けれど、それを吹っ飛ばしてしまうくらい軽く、彼は車の天井に捕まって立ち上がる。

 彼女が何かを言う間もなく、あっさりグレイスはこちらに飛び移った。

「誰か、この中で免許証を持っている男性の方は?」

 挙手したのは一人のスーツを着た若い二十代と思われる男性だ。

 グレイスはその人を招き寄せ、外のジープを指差した。

「このジープに乗ってロンドンの警察署に行ってください。このことを伝言して欲しいんです」

「無理だよ!」

 度胸なく、茶髪の男性は間髪いれず否定した。

 グレイスはその態度に、目線をきつくした。

「いいから、乗客の未来がかかってるんだ。うちの助手もついていく、だから行ってくれ。このバスから出たいだろう?」

 その台詞で本気にさせるのもどうかと思う。

 男性は仕方なさそうに出入り口に立った。

 グレイスが声を張り上げる。

「ジーラス! ハンドルを取れ!」

 ティアラも出入り口に近づいて外を眺めた。

 後部座席からハンドルを掴むジーラスが見える。

「兄ちゃん、これ無理がある……」

 ハンドルを操作したままのジーラスに対し、違う声が聞こえた。

「大丈夫、コンピュータで設定してあるから次の人間が座るまで速度は落ちないよ。後はお前の腕にかかってるから」

「だって俺無免許…」

 助手って、ジーラスのことですか。

 ティアラは無理があるんじゃ、と顔を引きつらせる。

 そのジーラスの声も遮られ、突然ジープから影が飛んだ。

 こちらに移ってきた金髪の少年は、あっさり中へ飛び込む。

 彼女は驚いてわずかに後ずさった。

「さ、行ってくれ」

 それを確認したグレイスが、男の背中を押した。

 男は震えながらも、どうにか車に手を伸ばしゆっくりジープへ移る。

 ジーラスが、限界というように顔をしかめる。

 男性がハンドルをジーラスから代わったとき、突然車の速度が落ちた。

 みるみるうちに後方へ引き離されていくジープに、ティアラは開いている出入り口から身を乗り出す。

「ジーラス、気をつけてね!」

 張り上げた彼女の声は、ジーラスに届いたのか届かないのか、離れていく車の窓から彼が手を出して振った。

  心配と不安が募る気持ちを押さえ込み、ジーラスとあの人なら大丈夫だと自分に言い聞かせた。

「ウェールズまで行ってくれ」

 耳に入ってきたグレイスの言葉に、彼女は振り返る。

 運転手の隣に立ち、彼は行き先について話しかけている。

「な、何言って…ウェールズには犯人がいるんだぞ!」

 震える運転手の声に、ティアラは驚いてグレイスに駆け寄った。

「どうしてウェールズに? どうせなら途中の出口で降りたほうが……」

 不安げな彼女に、彼はその黒い瞳を向ける。

「ジーラスたちが警察庁に辿り着けば、マスコミが押し寄せるのは間違いない。このバスに仕掛けられている爆弾は、遠距離からでも爆破を指示することが出来る。たとえ上空からイギリス全体にこのバスが中継されたとしても、ウェールズのほうが街も少ないだろうからもし爆破したとしても被害が少なくて済む」

 ティアラがしどろもどろに口をぱくぱくさせている横から、いつの間にか現れたウェンディが二人の間に突っ込んだ。

「グレイス、遠距離から爆破できるなんて聞いてないわよ! そもそも、爆破させても被害が少なくて済むって…あんた乗客を殺すつもり!?」

 ものすごい剣幕のウェンディに、彼は呆れたように息をつく。

「車爆弾は遠距離から指示できるようになっている可能性が高い、実際このバスはどうか分からないが。だから乗客を逃がしてから爆破しても安全なようにウェールズに向かうんだ。とにかく、この爆弾の威力は近くの建物に影響を与えるほど強い」

 ウェンディだけではない、乗客全員が息を飲んだだろう。

 ティアラは手に持っていたリモコンの残り時間をそっと見た。

 三時間五十九分。

「…だけど、もう三時間しか残り時間がありません。これじゃあ……」

 が、ティアラの言葉は、急に遮られた。

「三時間あれば充分だよ。この爆弾を仕掛けた犯人の家にバスごと突っ込んでやろう」

 あのサングラスをかけた金髪の少年が、いつの間にかティアラの後ろにいた。

「…はあ!?」

 声をあげたのはティアラではない、ウェンディだ。

 グレイスが眉根を寄せた。

「駄目だ、それは殺人事件になる。いくらこっちが被害者だとしても…」

 少年は再び遮った。

「グレイス。頭が固いよ、魔界の奴らはそれくらいやってやらないと懲りない」

 ティアラや事情を知るもの全員が顔をしかめただろう。

 彼女は不審そうに少年を見上げ、無意識に呟く。

「どうして魔界のことを……」

 そのティアラに対して、彼は不敵に微笑んだ。

 ウェンディが警戒し、背中の毛を逆立てる。

 乗客の間に緊迫が走る。サンがゆっくり顔をあげた。

 少年はそっと、かけていたサングラスを外す。

 それに対して、彼女が息を飲んだのは言うまでもなかった。

「…え……」

 青色のサングラスの下から顔を出したのは、燃えるように赤い瞳。

 ティアラの脳裏には、もちろん彼の名前がよぎった。

「ゼブラ……?」

 一年だけ一緒にいた、プラシナに侵食されてしまった吸血鬼のゼブラ。

 あの後、父親を殺した罪で刑務所に入れられたと聞いていたのに。

「久しぶり、ティアラ」

 間違いなく彼だった。

 グレイスは事態が飲み込めず、ウェンディはしばらく考え込んでいたが突如として声をあげた。

「あ―――! あの時の……なんで此処にいるのよ! 本当なら刑務所のなか……」

 その口をふさいだのは、もちろんゼブラだ。

「ウェンディ、そいつは偽者だ。本物の俺はこっち」

   不穏な会話に、グレイスは眉をあげる。

 ティアラも分けが分からず、顔をしかめていた。

「…お前はオールドじゃないのか?」

「それは姓だよ、名はゼブラ。ゼブラ・オールド、十八歳」

 あっさり言い切ったゼブラに、車内に沈黙が流れる。坊主の男達二人までもが目をしばたいている。

 ちょっと待って。

 突然の再会に、ティアラは混乱していた。

 ウェンディは口をふさがれ、もがきながらも何かを喋ろうとしている。

「二人は知り合い?」

 グレイスが懸命に事態を飲み込もうとしているのに対し、ゼブラはふざけ半分のように見える。ティアラは慌てて口を開いた。

「えーと、おじいちゃんが亡くなってすぐの時に会って…十一、二歳の頃に一年友達でしたけど……」

「けど?」

 事情はここでは言えない、犯罪者が乗り込んでいると思えば更に事態が悪化する。

 言葉を詰まらせるティアラに、ゼブラが口元をあげた。

「俺はティアラに会うために未来へ来たんだ」

 疑問を呼ぶような台詞に、彼女は顔をあげる。赤い瞳と目が合う。

 もちろん、グレイスは顔をしかめた。ウェンディもだ。

「な、何で…会うためってゼブラは……」

 プラシナと手を組んだのに。

 ティアラが言葉を濁したのに対し、ウェンディが割り込んだ。

「何言ってるのよ、あんたは裏切ったじゃない! 私は心底見損なったんだから!」

 急に時が過去に戻りだす思いに、ティアラは視線を落とす。

「裏切ってなかったら、俺が死んでたよ」

 父親を殺さなかったら、自分が死んでいたと言うのだろう。

 だけど。

「……何がどうだったって、ゼブラは逃げたんだよ。だから、私もウェンディも失望したんだよ。プラシナと手を取るなんて…」

 ティアラが押し殺すようにそこまで口にした。

 あれが、どれだけ自分にとってひどい裏切りだったか。

 何もかも無くして、彼だけは信じれると思った。なのに、まさかプラシナにあっさり断ち切られていくなんて。

 でも心配だった、会いたいと思った。でも、ゼブラはもうあの時のゼブラとは違う。

「私がどれだけ…どれだけ苦しんでいたか知ってたでしょう?」

 ティアラは張り詰めたように彼を見上げる。

 誰もが重い空気に口を出せないでいた。

「知ってたよ」

 ゼブラが動揺する様子もなく言った。

「でもティアラ、生きるためならどんなことでもしてのけるのが人間だ。…魔法使いとは違う」

 ティアラが唇を噛む、と、突然サンが口を開いた。

「でもあなたはもう、人間じゃないでしょ」

 全員の視線が集中する。一応人間の乗客もそれを見るが、話の内容はさっぱりに違いない。

 サンはわずかによろめきながら、黒い髪を揺らして立ち上がる。

「あなたは魔界の……」

「待てよ、ここでそんな話していいの? お前も一応、ティアラと同じだろ」

 ゼブラの遮りに、サンは彼をわずかに睨んだ。

「同じ? それは魔法使いという…」

「グレイス!」

 ウェンディの怒鳴り声に、グレイスは口をつぐんだ。

「い、今はそれどころじゃないですよ! とにかく、これからの作戦を考えないと……」

 ティアラが必死に話を戻そうとするのに対し、グレイスは神妙に頷いた。

 ウェンディは一瞬ゼブラにガンを飛ばした後、同じように頷く。

「…この爆弾の犯人に関してお前は「魔界の奴ら」と言ったな。それは犯人が魔界の人間だと?」

 グレイスの視線がゼブラに移る。

 彼は坊主の男達を顎でしゃくった。

「そいつらを使ってティアラをおびき寄せた犯人は魔界人だ。もちろん、ティアラの魔力を目当てに」

 ゼブラは、どうやら事件の真相を知っているようだ。

 ウェンディが小さく舌打ちした。

「ここのところ落ち着いていたと思ったのに」

「それって、魔力を狙う吸血鬼の仕業ってこと?」

 サンが尋ねる、と同時にゼブラは頷いた。

「…人間の私には出番がないということか」

 グレイスが残念そうに呟いた。

 ティアラはフォローしたいがなんと言えばいいのか分からない。

 そんな様子を気にもせず、ゼブラがあっさり割り切る。

「そんなことないよ。グレイスは乗客を逃がした後、バスを運転して犯人の家に突っ込んでくれればいい」

「お前……言っておくが絶対そんなことしないからな。そもそも免許を持っていない」

 グレイスがゼブラを睨む、ゼブラはそれに対して胡散臭く微笑み返した。

 そして、サンがはっとしたように呟く。

「あたし、乗客を助けられるかもしれない」

 その台詞に、ティアラ達は驚きの声をあげた。

「魔力を制御できないから、乗客を助けたいと願うことしか出来ないと思ってたけど、その気持ちを犯人の家の前で強く願って全員を安全な場所に移すことが出来るかも」

 それはいいアイディアだ。

 ティアラは大きく頷き賛成の意をみせる。

 だが、グレイスは腕を組んだ。

「もしそれが成功しなかったら? バスが突っ込んでからでは遅い。リスクの少ない方法にしたいんだ」

 確かにそうだ、成功しなかったら爆発する。そうなれば乗客の生存率は無に等しい。

「そういう時は俺が協力する」

 ゼブラが自分を親指で指しながら言った。

 そういえばゼブラにも魔力があるのだ。

「だが犯人を死なせてしまってはこの事件に対する戒めにならないんじゃないか」

「なら犯人の家のぎりぎりを擦るぐらいで突っ込むのはどうでしょう?」

 ティアラの提案に、そんな難しいと運転手が呟いた。

 ウェンディが顔をしかめる。

「ていうかそもそも、犯人の家に突っ込むっていう方法自体が間違ってるのよ!」

「どうして。あんな馬鹿共を放っておいたら、また大事なティアラに悪戯されるよ」

 ゼブラがウェンディに向かって言う。彼は彼女がどれだけティアラを大切にしているか知っている。

 が、当の本人は気付いていないので首をかしげた。

「うるさいわよゼブラ! あんた本当性格悪くなったわね!」

 顔を赤くして怒鳴るウェンディに気付かず、ティアラは分けが分からず不可解そうな表情をしている。

 そのウェンディの騒ぎを中断させたのはティアラの、いや、運転手の携帯が鳴ったせいだった。

 振動しつつ着信音を鳴らす電話を、ティアラが慌てて開き出ようとする。

 それをグレイスが止めた。

「待て、誰からの電話か分からない。貸せ」

「で、でも…」

 言葉を詰まらせる彼女はしぶしぶ携帯を渡す。

 彼が代わりに出ると携帯を開いて電話に出た。

「もしもし」

 緊張感漂う空気が張り詰める。

 グレイスの耳に入ってきたのは、聞いたこともない声だった。

『もしもし?』

 透き通るような女性の声だ。一瞬、間違い電話だろうかと思う。

「…どちら様ですか」

 少し間を置き、彼は吐き出すように尋ねた。

『隣にいる水色の髪の女の子に代わってもらえる?』

 どうして分かるのだろう。

 質問に答えなかった女性の声は、落ち着き払っている。

 代われない理由も言えない。そもそも相手が誰だか分からないのだ。

 仕方なく、グレイスは何かあったらすぐに代われとだけティアラに伝え、電話を手渡した。

「…ちゃんと通話料、支払ってくださいよ」

 運転手が遠巻きに言う。

「そう小さいことを気にするなよ、運転手さん。犯人さえ捕まえれば謝礼金が貰える、些細な通話料なんかどうでもよくなるさ」

 ゼブラがそんな風に慰めにもならないような台詞を運転手に投げかけるのを聞きながら、ティアラは恐る恐る耳に電話を当てた。

「も、もしもし?」

 ノイズが入り、向こうの音が聞こえづらい。

 どうにか聞き取ろうと意味もなく息を殺していると、突然向こうの人間が声を飛ばした。

『久しぶりね、ティアラ』

「プ……」

 ティアラは叫びかけて口をつぐむ。声の主は、ティアラが封印したはずのプラシナだった。

 ゼブラが居る前でその名を口にするのは、個人的に色んな意味でまずい。

 けれど、その怪しげなティアラの態度は早々、その場に居た三人と一匹に伝わってしまったようだ。

 ウェンディ達は言うまでもなく顔をしかめた。

「どうして……」

『あなたみたいな落ちこぼれが、私を何百年も封印しておくなんて無理よ。せいぜい数ヶ月が限度だわ。そんなことも知らなかったの?』

 馬鹿にされたような気がして、ティアラは顔をしかめた。

『まあいいわ、もう終わったことだもの。今は全員で知恵をしぼっているみたいだけど、どう? いいアイディアは浮かんだ?』

 何もかもを知っているような口調に、彼女は見られている? とバスの中を見回した。

 この中にはいないだろう、きっと魔法でどこかから見ているに違いない。

「じゃああなたがこれを仕掛けたのね? …私達をどうするつもりなの」

『私じゃないわよ。ゼブラが言ったとおり、魔界の雑魚共が仕掛けたの』

 ゼブラの名を語る声に、ティアラの胸にはわずかだが激しい憎悪が湧き上がる。

「ゼブラをどうしたの……彼は人間よ! なのに…っ」

 物言いたげな彼女の声は痛烈だった。

 クラウン達の過去は清算できたものの、ゼブラのことは未だ変わっていないからかもしれない。

 ゼブラが不審げに首を傾げる。そこできっと、電話の相手に気付いただろう。

『それは本人から聞けばいいわ。それより…今はそんな心配している場合じゃないんじゃない?』

 意味深な発言だった。

「……どういうこと……」

 何も知らないティアラを、プラシナの息が嘲笑う。

『始まったのよ』

 冷たい声に、彼女の背筋には冷ややかな何かが走った。

 ティアラの心臓は、徐々に速く脈打ち始める。

「始まった……?」

 自分の声が遠い。

『ティアラは知らないでしょうね、あなたが生まれる前のことだから。……だけどね、時代は続いているのよ』

「どういう意味なの…知らないって…」

 プラシナが面白がっているのには違いなかった、でもティアラは問い詰める。

『クラウンの祖父が犯した罪に、魔界人は逆襲を始めようとしている。気をつけなさい、じゃないと魔力と命、両方を狙われることになるわ。…殺さなければ殺される、殺せば殺されない。ティアラ、もう善人として生きていくのは無理なのよ』

「……罪…? 狙われるって…どうして? 何が?」

 ティアラにはさっぱり分からなかった、それでもプラシナは続ける。

『その罪に関しては、自分の口でクラウンか誰かに尋ねることね。私が忠告すべきことはここまでよ。…言っとくけど、あなたの味方じゃないわ。でも敵でもない。……それだけは覚えておいて。今回の事件が、その始まりよ』

 息を吐き、消えそうな声でプラシナがそこまで言うと、すぐに電話は切れた。

 ティアラはしばらく茫然としていた。

 何が何なのか分からない。罪を犯した? 魔力と命を狙われる? 殺さなければ殺される……?

 この事件が不吉な予兆?

 冷たくなる手の感覚をおぼえつつ、彼女はゆっくりと携帯電話を閉じた。

「…誰だったの?」

 ウェンディが尋ねる。

 車内は静まり返り、その場にいる人間の耳には車が走る音だけが聞こえていた。

 グレイスやゼブラ、サンの視線に、ティアラはきつく携帯を胸に押し付けて押さえ込む。

「…なにが……?」

 小さく見えない何かに問いかけるように、ティアラがそう呟いた。

 何が何なのか分からない。だけど、自分が何かから狙われていることは絶対的のようだ。

 もしかしたら、私はまだ少しも過去を振り切れていないのかもしれない。

 残り時間は二時間五十分までに迫っていた。

「ティアラ、今の電話の相手…」

 ゼブラが口を開きかけたとき、今度はグレイスのコートのポケットに入っていた彼の携帯が鳴った。

 その音量がやけに大きく感じる。

 彼は一瞬車内を見回し、静かに携帯を開き電話に出た。

「もしもし」

 警戒したような口調だったが、向こうから聞こえてきた声によってそれはすぐに解かれた。

『あっ兄ちゃん? 俺だよ、ジーラスだ! 今どこ走ってんの?』

「ジーラスか? 今は…」

 そう言い、グレイスは外を見る。

 ティアラはウェンディと顔を見合わせた。 ウェールズの郊外の地名を記す看板を、丁度通り過ぎたところだった。

「ウェールズの郊外に入ったところだ。お前今どこにいる?」

『あれから最初の出口で降りたんだ、ロンドン郊外の町の小さい警察署に駆け込んで…で、今市内の警察庁に連絡してもらった。そしたらウェールズの警察署に伝えてくれるって! 俺も今からそっち向かうから、兄ちゃん達はそのまま走り続けてくれ! 向こうで刑事さんが待ってくれてる!』

 ジーラスが一気に説明した内容に、グレイスは口を開いた。

「待ってるって…バスを止めるのは無理だ。なのにどうやって…」

『ウェールズ郊外に、閉鎖された河を渡っている二千メートルの古い橋があるんだ。そこを走りながら乗客を河に飛び込ませて、最後運転手が飛び降りてバスから離れる。そしたら爆発しても被害はないし、水だから飛び降りても怪我しないし、安全だろ?』

 確かに、それは名案だ。

 犯人への捜索は後からでも遅くない。グレイスは、乗客の安全を最優先したい気持ちが強かった。 

 しばし黙り込み頷くと、彼は口を開く。

「郊外の…どういう地名だ?」

『えーと、ゲイアっつーとこ!』

「ゲイア?」

 グレイスははっとして、フロントガラスの向こうに現れた先ほどと同じ看板を凝視した。

 間違いなく「ゲイア」と書かれている。出口は五百メートル先だ。

「ゲイアの出口で降りてくれ」

 彼は横で運転していた運転手に話しかけた。

「降りるって…目的地はウェールズじゃ……?」

「いいから頼む」

 グレイスはそれだけ言うと、電話に耳を押し付ける。

 運転手は不満そうな表情でちらりと彼を見つつ、見えてきた出口にウィンカーを出す。

「ジーラス? 丁度今、そのゲイアの出口に入るところだ。橋の場所は?」

『心配すんな。出口にパトカーが停まってる、バスを見つけたら誘導するように頼んどいた。ついてけばいいだけさ』

 珍しく頼もしいジーラスに、グレイスは言葉を失いつつ、とりあえず礼を言った。

「ありがとう、また連絡する」

『無事に帰って来てくれよな、じゃないと俺一人になるし! じゃな!』

 グレイスより早く、ジーラスは照れくさそうな声を残したまま電話を切った。

 もしかしたら、両親が死んだ時、ジーラスは踏ん張っていたのかもしれない。兄を支えられるように、死に負けないように。

 出口のゲートを通り過ぎ、やがて見えてきた二台のパトカーにグレイスは口を開く。

「あのパトカーについていってくれ」

「は、はあ……」

 不可解そうな声を洩らす運転手だったが、ハンドルを回しパトカーについていく。

 ティアラは不安げにグレイスを見上げる。

「大丈夫なんですか?」

 四十キロぎりぎりで走るバスの速度計を見ながら、彼は答えを返す。

「大丈夫だ」

 そうして、グレイスはゼブラに振り返る。

 ゼブラも様子に気付いたように、顔をあげた。

「ゼブラ、悪い。犯人の家に突っ込みたい気持ちは山々だが、もっと安全な救出方法を見つけたんだ。そっちを実行させてほしい」

「…そんなものあるの?」

 ウェンディが口を挟む。ゼブラやサンも頷いた。

 グレイスは深く頷き、車内を見回した。乗客一人一人の表情が、彼の瞳に映る。

 彼は、決意したように息を吸い込んだ。

「この先にある閉鎖された橋で四十キロぎりぎりの速度でバスを走らせながら、乗客が河に飛び降りる。乗客全員が飛び降りたら運転手が速度を百まであげる。そこでハンドルを離して速度が四十キロ以下に落ちる前に河に飛び降りる。そうすれば怪我をする可能性も低いし、爆発しても水の中なら被害が少ない…その作戦を実行させてほしい」

 誰もがざわめいた。

 ティアラが見たその黒い瞳は、すべてを決めたと物語っている。

「まあいいけど…泳げない乗客はどうすんの?」

 ゼブラはあっさり同意する、さっきの電話で彼も何かを予測したのか。

「泳げない乗客は泳げる人間がサポートする、子供はそいつくらいしかいないがな…ゼブラ、その子を頼む」

 そう言いグレイスはサンを見た。サンは戸惑いつつも頷く。

 ウェンディが仕方ないわねと呟いて、同意する意を見せた。

 乗客たちもざわめいていたが、やがて次々に浅くも頷いていく。

「グレイスさん、橋ですよ!」

 ティアラが正面を指差す。

 本当にゲイアの出口からすぐだった。

 辺り一面には枯れ果てた田が広がり、その向こうに作られた堤防と今走っている田の間を行く道が交差する先に、閉鎖された鎖のかかっている巨大な赤い橋が見える。

「ほ、本当にその作戦でやるんですか?」

 弱弱しい声の運転手が言う。グレイスはもちろん、というように頷く。

「大丈夫だ、お前が先に出てくれ。その後私が出る」

 要するに一番最後に降りるとグレイスはいうのだろう。

 ティアラはふと、枯れ果てた田の中心に立っている人影に目を奪われた。

 出入り口の窓に張り付き、彼女はその人影を見つめる。

 古びたかかしのように思えた、でもちゃんとした人間だ。

 黒い肩より下までの長髪の男性が、黒いマントを着て立っていた。

 その男性が何かを嘲るように小さく笑っている。

 自分と同じ青い瞳と真っ向に目が合う。

 ティアラの背に冷たいものが走った。

 身震いして過ぎていこうとするその田を見る、もう誰もいない。

 幻……?

 とても嫌な予感がする。

「グレイスさん、最初に降りてください」

 無意識のうちにティアラは口走っていた。

 グレイスが目をしばたかせる。

「駄目だ。乗客の安全を見届けてからしか……」

「なら私も最後に降ります!」

 すがるようにグレイスの腕を掴んだティアラに、彼は驚いたようだった。

 不安。少しだけ離したら、すべて消えてしまいそう。

 ―殺さなければ殺される―

 脳裏に言葉がよぎる。突然の頭痛に彼女は顔をしかめた。

「…分かった。その代わり危ないと思ったら必ず先に行け」

 グレイスは何を言っても聞かないと分かったようにそこまで呟くように言った。

 ティアラは小さく胸をなでおろす。そして、気付いたように慌てて彼の腕を掴んでいた手を離した。

 橋に差し掛かる、先に着ていた刑事が既に鎖を外して待っていた。

 橋に飛び込んだバスは四十キロぎりぎりまで速度を落とす。それでも乗客たちには速いくらいだ。

 運転手が出入り口を開閉するボタンを押した。

 結構高い、橋から河まで五十メートル以上はあるのではないだろうか。 扉が開くと同時に、ゼブラが出入り口に立ち乗客を見送る。

「行ってください」

 乗客たちも出入り口に詰め掛ける。

 不安そうな顔をした者、勇ましく飛び降りていく者、人の腕を掴む者、橋の欄干に足をぶつける者。

 坊主の男達二人も縄を切られ、半ばゼブラに蹴り落とされた。

 次々に起こる水音を聞きながら、千メートル地点まで来た事を外の看板が報せる。

 最後の乗客が飛び降りて行くのを見送り、ゼブラがサンの手を掴んだ。ウェンディがサンの肩に飛び乗る。

「じゃ、俺らは先に行くから」

 ゼブラがティアラを見て言った、赤い瞳と目が合う。

「ティアラ、気をつけるのよ。グレイス、ティアラになんかあったら死になさいよ!」

「信用しろ」

 呆れ顔のグレイスに、ウェンディは強気だった。

 サンは頷くだけで口を利かない。

「大丈夫だよウェンディ。…ウェンディ達も、気をつけて」

 ティアラは静かにそれだけ呟いた。

 ゼブラが不意に視線をきつくする。

「ティアラ。あんまり翻弄されるなよ」

「え……」

 答えを返す間もなく、三人はゼブラに引かれて飛び降りていった。

 残り八百メートル。

「速度を百まであげてくれ」

 グレイスが運転手の席に手をつく。運転手は怖々頷いた。

 バスが加速する、ティアラの鼓動も速くなる。

 速度メーターが百を指した時、運転手は今だというようにハンドルから離れる。

 戸惑う間もなく飛び降りていった運転手に、グレイスはティアラの手を掴んだ。

「行くぞ」

 ティアラは頷く。それを合図としたようにバスの速度が一気に落ちる。

 グレイスは彼女を引っ張り、躊躇わずバスから飛び降りた。

 無重力に酔う、足元が浮いているような感覚にティアラははっとした。

 強い風が髪を流す。

 ―ティアラ―

 聞き覚えのない深く低い声に、ティアラは一瞬堤防を見る。あの黒いマントの男性が立っている。

 急に迫ってくる冷たい何かが、彼女の腕を掴みあげた。

 見まいと思い目をつむる、何かがまぶたの裏に映る。沢山の人が争っている…?

 と同時に激しいバスの爆発音が起き、ティアラは水の中に飲み込まれた。



 熱い。

 彼女は座ったまま目を開けた、辺りが炎に覆われている。

 建物の中のような長い廊下の白い壁を火が焦がす。

 絨毯の床が燃え上がっているのを見ながら、視界に入ってきた黒い布に勢いよくティアラは顔をあげた。

 黒く長い髪の、あの男性だった。顔が見えない。

『君が点けた火だよ』

 私がつけた火……?

 眉根を寄せたティアラに、男性は小さく笑ったようだった。

『どうして人間と一緒にいるんだい? 君のような立派な魔法使いが人間界にいるなんておかしい』

 ティアラはうつむく。

 私は立派な魔法使いじゃないもの。

『魔法界へ行こう、そのために邪魔な人間を焼き払ったんだ』

 邪魔な人間?

 ティアラは立ち上がる。異常に身体が重い。

『人間などに縛られるのはやめなさい』

 縛られてなんかいない、私に命令しないで。あなたは誰なの?

 男は彼女に手を伸ばす。

 手首をつかまれたその先から、信じられないくらいの熱さが伝わる。

 声をあげてティアラは慌てて手を振り払う。

 逃げようときびすを返して走り出す。

 もつれる足を動かしながら、炎につつまれる廊下を走る。

 が、何かにつまづいて地面に倒れこむ。

 何?

 起き上がり転んだ者を見る。

 足だけの人間だった。

 悲鳴をあげそうになり、彼女ははっとする。ウェンディがその傍に倒れている。

 息をしていない。

 ばらまかれた人体の部位と大量の血に、言わなくともこれが「皆」だと悟った。

 ティアラの手が震える。無意識のうちに涙が落ちる。

 私が皆を殺してしまう。いつも…いつも誰も助けられない。

 絶望に火が燃え上がる。

『ティアラ』

 さっきの男が現れる、死体を踏みつけながらやってくる。

 来ないで………!

 立ち上がる力もなく動けないままのティアラに、男は笑っている。

 殺さなければ殺される。殺さなければ……―――。

 どんどん呼吸が荒くなる。

 彼女の耳には、もはや呼吸と鼓動の音しか届いていない。

 自分の首に手をかけた男に、ティアラは無意識のうちに落ちていたナイフを拾い上げ、思いきり振り下ろした。

  ドスッと鈍い音がし、彼女は我に返る。自分の右手についた赤い液体を見る。

 私…今…………。

 血のせいでべとべとする手を握り締め、彼女は震えながら悲鳴をあげた。



 冷汗をかいて少女は目を開ける。青い瞳がまぶたの下から顔を覗かせる。

 最初に視界に入ってきたのは真っ白な天井だった。

 まだ荒い自分の呼吸を整えながら、ティアラは自分の右手を見た。何もついていない、綺麗なままだった。

「……夢……」

 どくどくと速く脈打つ鼓動に深呼吸し、額の汗を拭いながら彼女は身を起こす。

 白い布団に白いベッド。白いカーテン、白い棚。窓の外に見えるのはところ狭しと立ち並んだ高層ビルたちだ。

 どうやら、様子からすると病院のようだ。他の入院患者はいなく、ティアラだけの個室と思われる。

 誰もいないために部屋を見回しつつ、いつの間にやら着替えていた白い長袖のシャツと白いズボンに気付きながら、しばらく呆然としていた。

 夢の中の出来事が、頭の中で繰り返される。

 私が、人を刺した。殺した。

 手のひらを見つめて、それをそっと握ると彼女は瞳を閉じる。

 皆が、死んでいた。

 あの人が殺したに違いない。それと…私のことを知っていた…?

 立派な魔法使いだと、ティアラのことを言った。大抵そういう台詞を使うのは、クラウンの孫だと知っている人間のみだ。魔法使いの間でわけもなく人を褒める者など滅多にいない。

 そっと目を開けて、彼女は小さく呟いた。

「殺さなければ殺される……か」

 人を殺したくない。そんなこと、生きるうえでのルール違反だ。

 でも、あの夢は…。

 夢は夢だと言い切りたい。でも未来を予知する予知夢を見たことがあるティアラにとっては、そうは言えないのだった。

 と、がらりと音を立てて出入り口の引き戸が開く。

 入ってきたのはグレイスとウェンディだった。珍しい組み合わせだ。

「グレイスさん、ウェンディ」

 生きてた、心の中でほっとする。

「気がついたのね。もうあれから丸一日経ってるわよ」

 そんなに? とティアラは目を丸くした。

「河に入った瞬間気を失うものだから…普通に驚いたぞ。外傷もないのに意識が戻らないから病院に運ばれたんだ」

 グレイスも心配していたようだったが、彼らしい。それだけ言った。

「ご心配おかけしました。…もう大丈夫です」

 ティアラは微笑んでみせる。頭で夢のことをウェンディに話すべきだろうか。

 迷っていると、再び病室の扉が開いた。

 ゼブラが入ってくる、起きた? と明るく尋ねる。

「起きたばっかりで悪いけど、話がしたいんだ。…来てくれる?」

 ゼブラは悪いと思っているのか、と逆に問い返したいほど遠慮した様子もない。

 だが、ティアラもプラシナの電話のことを話さなければと考えていたため、とりあえず頷く。

 ベッドから降りて裸足の足をスリッパに突っ込んだティアラは、グレイスに一礼してゼブラの後に続いた。

 翻弄されるな、という言葉に、自分はまたあの夢に翻弄されているのだろうかと思いながら。

 出て行った二人を見つつ、ウェンディはティアラがさっきまで寝ていたベッドの上に寝転がる。

「グレイス、言いたいことはちゃんと今のうちに言っておきなさいよね」

 見舞いの人間が座るベッドの傍にあるソファに座っていたグレイスは、手帳を開いていたところだった。

「…言いたいこと?」

 怪訝そうに首を傾げた彼に、ウェンディは天井を仰いだ。

「じゃないと、もう取り返しがつかないわよ」


 強い風が吹く正午を過ぎたばかりの空は、ようやく雲が切れてきていた。

 人気がない病院の屋上に彼女を連れてきたゼブラは、ティアラのほうを振り返る。

 灰色のコンクリートの地面は冷たく、風が古びた薄黒い欄干の間を通り過ぎていく。

「…話って、あの電話のこと?」

 ティアラから話し始める。

 ゼブラは何も言わず、ただ頷いた。

「……プラシナだったよ、私に忠告しに電話したって」

 視線を足元に落としながら、ティアラは自分の髪を押さえつけた。梳かしていないために少しぼさぼさだ。

 彼は着ていたパーカーのポケットに手を突っ込んだまま、静かに口を開く。

「俺が吸血鬼になったとき、プラシナとひとつの取引をしたんだ」

「取引…?」

 ティアラが不可解そうに眉根を寄せた。

 ゼブラは彼女に背を向け、錆び付いた欄干にもたれかかった。

「父親のことで目の前が真っ暗だった俺はとにかくここから逃げ出したくてたまらなかった。そこへプラシナが現れて、俺を吸血鬼にして自由にしてやると言った。人間じゃなくなれば、窮屈な人の倫理からも逃れられると…上手い口調にのせられて俺は自ら吸血鬼にしてくれと頼んだ。そしたら、プラシナは交換条件として俺に自分の弟になるように言ったんだ」

 ティアラは目を丸くする。

 人間を見下す魔界人、しかも女帝がわざわざごく普通の少年を弟にしたがることは、実に奇妙だ。

「俺は取引に応じた。プラシナの血をもらって、血縁上では実の弟になって…今思えばあいつは俺を利用したがっていただけだったよ。だからって恨んだりはしない。どんな形でも、一応俺を自由にしてくれた。でもまさか、ティアラの家族を殺した人物だとは知らなかった。……ごめん」

 曇るゼブラの口調に、彼女は奥歯を噛みしめる。

 そっと、服の裾を握る。

「……今更謝らないで」

 心の中では彼を謝らせている良心が痛むのに、どうしても裏腹の言葉が出てしまう。

「うん」

 けれどゼブラは、かすかに笑い声を洩らして頷いただけだった。

 自分よりひとつ年上だった彼の背は、昔とは全く違って広い。

「…プラシナは、私の命を狙ってる人間がいるって言ってた。殺さなければ殺されるって……」

 話題を戻しながら、ティアラは静かにゼブラに向かって足を踏み出す。

「知ってるよ。俺はそのことをプラシナに知らされて、人間界へ行くよう言われた。だからティアラの前に現れたんだ。……本当は、もう二度と会うつもりなんかなかったけど」

 彼女は彼の隣に立ち、錆びた欄干を握る。手のひらにざらざらとした感触が伝わる。

 ゼブラが淋しげに赤い瞳をこちらに向けるものだから、ティアラは緊張して顔を背けた。

「だって、あんなに傷つけたのに」

 彼は彼女のその様子に、外下に見える街並みに視線を移した。

 ティアラは不意にゼブラの横顔を見る。

「………」

 何か言いたいのに言葉が出ない。

 私は会いたくないわけじゃなかった、でも会うのは怖かった。裏切られたくなかった。

 だけど、本当はもう一度話したいと思っていた。

 ティアラは心の中でそう呟く。でもそんなことを言えば、変な意味に誤解されそうなので口にしないでおく。

「クラウンの祖父はあまり有名な魔法使いじゃなかったらしい。俺も名前は知らないけど、あまりいい噂は聞かないよ。そいつが犯した罪のせいで苦しんでいる人間が、ミルキー家の力を奪おうとしてるんだ。……ティアラが未来へ来たことを知った魔界の人間は、その魔力が弱まっている隙に末裔から殺そうとしてる。そういう輩からティアラを守るために俺はここへ来た。そういうわけだよ」

 一気に説明されて、ティアラは不審げに顔をしかめる。

「プラシナにそう言われたの? おかしいじゃない。……プラシナはミルキー家の魔力を奪おうとしているのに」

「俺にも理由は分からない。けど、サティを殺そうとしたことを後悔してるんじゃないかな。ああ見えても、結構考え深い人だから」

 後悔?

 意味が理解できないまま、ティアラが黙り込んで足元に視線を落としていると、ゼブラが神妙に彼女に向き直る。

 その様子に、緊張でティアラの心拍数があがる。

「狙われてるのはティアラだけじゃない、一緒にいるグレイス達だってこれからどうなるか分からない。……今回の事件みたいに」

 どうなるか、分からない。

 それは、大事な人が私のせいで巻き込まれてしまうということ?

「魔法界へ帰って真剣に魔法の修行する方法もある。そうすればティアラ一人でも自分の身を守れる。…ただ今は…ティアラ一人の力じゃ誰も守れないよ。自分だって」

 魔法界に帰る?

 ティアラは顔をあげ、ゼブラを見た。冗談で言っているような表情ではない。

 本気だと思えば、彼女は心が重たくなった。

 私がここにいれば、皆を危険に晒してしまうのだろうか。

「…今更魔法界に帰るなんて……前だって魔力が弱すぎるからって、おじいちゃんがくれた杖を使ってしか魔法を使えなかったのに……修行したって、私の魔法がこれ以上強くなることなんてない」

 投げ出すように吐き捨てたティアラに、ゼブラは顔をしかめる。

「違う、ちゃんと修行していないから魔力が眠ったままなんだ。ティアラは物凄い力の魔力を持ってる、そうでなければ君の魔力を目当てにやってくる魔界人はいないはずだよ」

「嘘! 私には何もない、おじいちゃんと比べられて今まで散々だったのに……私はクラウンの孫でも魔力なんかない。魔法も使えないただの落ちこぼれなの!」

 全力で否定するティアラに、彼はため息をつく。

 それがなぜか心に食い込む。

「今まではそれで皆が納得していたかもしれない。だけどティアラ、もうそんなのは無理だよ。その魔力を狙っている人間は山ほどいる、魔法を使って自分で自分の身を守るしか生きる方法はないんだ。……殺したくない相手でも、殺さなければならない日がくる」

 どういう意味なの。

 彼女の頭には、夢の内容がよぎっていた。

「もし俺がティアラを殺そうとして、どうやって対抗するの? 魔法を使わずに吸血鬼を防げる?」

「………どうにかなるよ、だって今回の事件だって魔法を使わずに……」

「ティアラ」

 きつく名前を呼ばれ、ティアラはだんだんその場にいるのが辛くなってきた。

 どうして皆、「魔法魔法」って言うの?

 魔法なんかなくたって、私はティアラなのに。

「どんな人だって心から悪人のわけない。それならちゃんと話せば……」

「考えが甘いよ、魂からどす黒いような極悪人が世の中には溢れてるというのに。ティアラ、生きたいなら誰かを犠牲にしなければならない。それは自然界の法則だ」

 ティアラの言葉を遮ったゼブラに、彼女は唇を噛む。

 本当にそう?

「……生きるために他人を犠牲にするなんて…そんなのおかしい。確かに生き物を殺して食べ物を食べたりはするけど、その他で人を殺めることなんて何もないのに」

 彼女の青い瞳は淋しげだった。

 どうして憎み合うのか分からない。

 ゼブラの視線が重くて、思わずうつむく。

「ゼブラは馬鹿って思うかもしれないけど、どんな人だって罪を犯せば後悔するでしょう? プラシナが過去を悔やんでいるように……過ちを犯して何も思わない人間なんていないよ。私はその心を信じたいの」

 だって、信じること以外にどうすればいいの?

 彼は息を吐くのと同時に静かに呟く。

「本当、馬鹿だよ」

 その言葉は小さかったけれど、ティアラの耳にしっかりと届いた。

 彼女はゆっくり顔をあげる。

 ゼブラが空を見上げている姿が目に入る。

「ティアラはそれでいいかもしれない。でも、ティアラを大事に思ってる人たちはどうなる? クラウンやサティにウェンディ……皆ティアラに何かあったら悲しむよ。ティアラがよくても、周りの人間はよくない」

 彼が彼女の左手首を掴む。びっくりして一瞬だけ心臓が跳ねる。

「自分だけの命じゃないんだ」

  間近で赤い瞳と目が合い、ティアラは離れようと腕に力を入れる。

 ならどうすればいいの。

「ゼブラはいいよ。魔力だって強いし、失って怖いものもない……でも私は違うの。魔力はないし、前に進むのが怖くて…進んだとしても幸せになってもいいのか不安なの……! ゼブラには何もわかんないよ!」

 魔力を狙われるからって、命を狙われるからって、どうすればいいの。

 喉の奥が熱くなり、目に涙が浮かんでくる。

「だって信じなきゃ、全部壊れそうなんだもん!」

 そう叫び、ティアラはゼブラの手を振り切って走り出す。

 院内へ続く扉を必要以上の力で掴みこじ開け、彼女は中へと姿を消した。

 その背を見ていた彼は、ティアラを追いかけようとはしなかった。

 ただ苦しげに息を吐き出した。

 院内の廊下を走り抜けていくティアラとすれ違う看護婦は、不快そうに眉根を寄せる。

 でも、今の彼女には気にならない。

 本当に馬鹿みたい。

 あんなこと、ゼブラに言うなんて。人に言うべきことじゃなかったのに。

 涙を堪えきれなくなり、ティアラは人影のない病棟の出入り口で足をとめる。息があがり、心音が耳元で脈打っている。

 自動ドアの透明なガラスの両扉の向こうは薄暗く、明るいここから中は見えない。

 すぐ後ろの壁沿いに置かれていた黒い長椅子に、彼女は腰を下ろす。

 流れ出す涙を止めようと両手でまぶたを押さえつける、それでも涙はとまらない。

 怖い。幸せになったら、大事なものを本当に手に入れたら、今度こそなくなってしまいそう。

 それなら、今みたいに不安定なままでいいの。

 幸せにならなければ、何も失わないの。

 ようやく雲が切れてきた空から筋をつくり白い光があふれだす。

 その光が窓から院内に差し込む。

 ティアラは涙を服の袖口で拭うと、顔をあげた。

 そうしてそっと、自分の白い右手の平を見る。

 それとも、幸せになる前に自分で手放してしまうの?

 夢の自分が脳裏に浮かぶ。

 私のせいで、皆死んでしまうのかもしれない。



 それから数日して、バス爆弾事件の犯人がウェールズの郊外にある小屋で首を吊って自殺しているところが発見されました。

 警察は「自殺」と言っていたけど、本当のところは分からない。もしかしたら爆弾設置を指示した黒幕に殺されたのかもしれないから……。

 そして乗客全員を無事救出したとして、なんとグレイスさんは警察庁から表彰状をもらいました。

これには私もウェンディもジーラスもびっくり。当の本人も言葉を失っていて、その後しばらくは茫然としていました。

 一番感情を表にして喜んだのはジーラス。表彰される中で感動して泣きそうになってたんですよ、やっぱり大事な「兄ちゃん」だからかな。

 それと、ゼブラとサンがうちの事務所で働くことになりました。

 サンは魔法界を追い出された、と言っていて仕方ないものの、何でゼブラが、と今一納得がいかないままグレイスさんはあっさり雇ってしまいました。

 不安なメンバーですが、それでも前より賑やかで楽しいです。


 先はまったくと言っていいほど見えない。

 それでも、歩みをとめることは出来ない。

 皆が命の危機に晒されたら、私は自分の命を捨ててでも絶対に助けるからね。

 例えそれが明日だとしても。

 夢は不確かなもの、気まぐれなもの。

 だけど、あれはただの夢じゃない。理由を聞かれても分からないけど、強くそう思うから。

 私はいつか、あの人と会うときがくるのかもしれない。

 そして、その人をこの手で刺してしまうときがくる。


one fin.

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