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泳がない熱帯魚とタブロオ

作者: 哀雨 ザラメ



 水族館は好きだ。

 ゆったり静かに歩けるし、気持ちよさそうに水槽を泳ぐ生き物たちは美しいと感じた。


 生き物を飼育するのに厳しい制限がかけられている今、実際に生きて動く彼らを間近に観察できる場所は貴重だった。僕らはまだ、動物園や水族館に気軽に行ける時代に生まれたからいいが、今の子どもたちなんかは、生体展示に出会える機会が極端に少なくなっているのだろう。


 データでしか知らない命たちが泳ぐ水槽を、子どもたちが懸命に覗き込んでいる。

 キラキラと魚群の鱗が光を放って、あどけない頬へ散っていく。丸い瞳は希望に満ちていて、純粋に感動できる彼らが羨ましかった。


 そう。今の僕に、水槽をみて感動できる余裕はなかった。



 〇●〇



 恋人と別れた。7年付き合っていた。

 原因はいわゆる()()()()()というやつだ。


 彼女の話す言葉が好きだった。無駄に煌めいているわけでもなく、激しくがさついているわけでもない。なめらかで、心地よい温度で僕を癒してくれる。まるで熱帯魚のようだった。


「きっと私たちはいつか、手を動かすことも声を出すことも忘れてしまうんだわ」

「そうかもしれないね」

 自動筆記や選択声帯のシステムが普及し始めたとき、彼女は頬杖をつきながら嘆いた。その人の筆跡を完全に再現できる自動筆記。音程、緩急、響きを自由に設定してつけられる選択声帯。


 美術アカデミーで学ぶ彼女にとって、数字の集合体としてただ計算されるだけになってしまった芸術家たちについて、思うところがあったのだろう。

 実のところ僕は芸術系はさっぱりだった。絵を見ても、綺麗な色だなとか、よくこんなに細かく描けるなとか、そういう感想しか持てない。音楽なら多少かじったが、彼女みたいに流派や系図で分類したり、作品の傾向を読み取ったりすることはできない。


 それでも彼女は僕と共に過ごしてくれた。とても幸福なことだったと思う。

 炙られるような暑さから逃れるため、適当に商業ビルに入ったことがきっかけだった。特に目的もなかったので、期間限定で開催されていた絵画展へ潜り込んだ。確か若い絵描きの展示だったと思う。

 ガラスケースに丁寧におさめられた絵画を、まるで食らいつくように睨んでいた女性がいた。それが彼女だった。


 そんなに変な絵なのかと、僕は隣に立ってそれを見た。

 例によって僕にはまったくわからなかった。いわゆる静物画で、描かれているのは果物だったが、何だか現実味がなかった。

 普通美術展といえば静かに鑑賞するものなのだろうが、僕は思わず、

「何だか夢みたいに描くんだなぁ」

 ──と呟いてしまった。

 はっとして、慌てて口を閉じた。恐る恐る彼女の様子を伺うと、彼女もまたこちらを見ていた。きりりと凛々しい眉が印象的だった。


「そうね。きっと夢を描いたんだわ」

 てっきり非難されると思っていたので、彼女が応えたことには本当に驚いた。


 そのまま感想を言い合いながら、僕らは絵画展を後にした。ごく自然にお茶をして、連絡先を交換した。

 それから7年。彼女はアカデミーを卒業し、僕は商業ビルに勤めるようになった。

 お互いに忙しくなって、一緒に美術館を巡る休日は減った。現地へ行けなくても、僕は遠隔観覧すればいいと言ったのだが、彼女はどうしても実物を見たいらしく、頑として譲らなかった。


 そうして、興味関心へのベクトルの大きさが違うと、薄々気づき始めた。

 学生の頃はもう少し取っ付きやすかったような気がする。思えば、彼女は生返事ばかり寄越す相手を前に、延々と喋りかけるような人だっただろうか。彼女の声が好きだったのに、いつの間にかそれはざらざらとした知らない国の言語に変換されてしまって、僕の耳の中を引っかき傷だらけにするくせに、ひとつも心に留まってはくれなかった。



 〇●〇



 この水族館ツアーは、彼女が好きだろうと思って予約した。

 しかし、生体展示には興味がないと、ばっさり断られてしまった。


 小魚の群れを堪能した子どもたちは、軽やかに次の水槽へと移動した。僕も早く行かなくては、ツアーを選んだ意味がなくなる。水族館のスタッフが、水槽や生体の説明をしながら一緒に歩いてくれるツアーなのだ。


 早足で追いかけると、一行は円柱型の水槽が並ぶフロアに留まっていた。ガイドの話はすでに始まっている。

「……ここは当館が特におすすめするエリアです。皆さん、しばらく自由にご覧下さい」

 参加者たちは散開し、それぞれ気になる展示へ集まっていった。ほとんど話を聞いていなかったが、僕も気になる水槽があったので、自由に見ることにした。


 それは床に埋め込まれた水槽だった。

 ぼんやりと明るい光輪の中で、半透明の傘がただくるくるとたゆたう様子を見下ろしていると、何だかここだけ時間の流れが遅いように感じた。


 無心でクラゲたちの遊泳を見守っていると、いつの間にかガイドがそばに立っていた。

 吸い込まれそうですねと僕が呟くと、ガイドはにっこり笑って、高所恐怖症の方は嫌がりますよ、と言った。何だか微妙に合っていない返しだと思った。

「でもね、こうやって上から見ると、クラゲたちの傘の模様がよくわかるでしょう」

「この、白いクローバーみたいなやつですか」

「そう。それはクラゲの胃なんです。だから、赤い餌を食べると、赤いクローバーになるんですよ」

 でも私は、今のままの色が好きです。


 ガイドによれば、ここでは自然なままの様子を見てもらうために、過度な演出をしていないのだという。確かにここの水族館の展示はシンプルだ。

「僕も、この色が一番好きです」

 ガイドは微笑んだ。

 少しだけ、彼女の笑い声を思い出した。


 もうどんなものが好きなのかも、話せていなかった。僕らはいちいち、理由を探しすぎたのかもしれない。もちろん言語化するのも楽しかったのだけれど。

 僕はふと思いついて、ガイドに尋ねた。

「あの、ここは熱帯魚のコーナーはありますか」

「ありますよ。ここの見学が終わったら、次に」

「熱帯魚が一番好きなんです」


 僕は言いたかったことを、やっと言えたような気がした。




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