思い出の一夜・2
お互い瞬きをしなかったような気がする。目をそらしたい気持ちと、ずっとこのままでいたい気持ちがせめぎ合って息苦しい。
それが切なさだと気がついたのと、彼の指がフレイヤの頬に触れるのは同時だった。あたりの硬い無骨な手に頬を寄せたくなるのを、ぐっと堪えた。
「頬になにか、ついていましたか」
頬にパン屑がついているはずはないと知っているけれど、お見苦しいところをお見せしまして、と謝ってみせる。
虚を突かれたようだった彼は二度の瞬きの間に表情を立て直した。爽やかな笑みと共に、ゆっくりと指を引く。
「失礼、見間違えたようです」
フレイヤの手慣れた作り笑いに、レイは自然な笑みで応じた。
階段を上がるのに抱えてもらうのは、何度めになっても慣れないもの。
身を固くしていると露骨に伝わっているだろうことが恥ずかしく、フレイヤは無口になる。
ティナちゃんのいない寝台におろしてもらい、ふと気を抜いた時。
「条件を教えてくれませんか」
いきなりの発言の意味が分からなくて、自分は曖昧な顔をしていたことだろうと思う。
彼は真顔だった。
「教えて欲しい。あなたに愛を囁くことを許される男の条件を」
突然のことに気の利いた言葉ひとつ返せないまま、おやすみなさいと挨拶を交わした。
あの夜にあったのは、それだけ。
条件なんてない。私がレイさんほどの方に愛を囁かれるに値しないだけだ。
その後、重ねて問われることのないまま、今となっては本当にそんな会話をしたかどうかも疑わしい気持ちになっている。
いつも彼の好意の伝え方は軽く、親しい男友達の範囲を超えない程度で、フレイヤを困らせることがない。
「奥様、ご覧になってください。お花でお嬢様が半分隠れてしまって」
窓を拭いていたお手伝いさんが、明るい声を出した。
王城からふたりが帰ってきたらしい。
フレイヤも隣まで行き通りに目を落とす。
前が見えないほどの花束を抱えた女の子は人目を引き、通り過ぎる誰もが口元をほころばせている。
すぐ後ろを歩くレイが肩に手を乗せているのは、進行方向を案内しているのだろう。
レイさんが持つと言うのに、ティナちゃんが「私が持ちたい」と頑張ったのね。
「『なんて素敵な親子なの』って皆さん思っているでしょうね」
「奥様ったら、そんなことをおっしゃって。でも本当にそうですね。可愛いお嬢様にハンサムなお父様」
笑い合う耳に「お姉さん! ただいま!」と元気な声が聞こえた。




