後編
クレアは母親と一緒に子牛の世話をしていた。最近この牧場に新入りとして仲間入りした赤ちゃん牛だ。クレアと母親は毎日交互に赤ちゃん牛にミルクを与えていた。
「よーしよし、今日もよく飲むねぇ。」
クレアが満足そうに優しく赤ちゃん牛に話し掛けた。
「先に戻ってるよ。」
「はぁい。」
母親が先に母屋へ向かった。クレアも赤ちゃん牛の朝ご飯が終わったら自分の朝ご飯だ。
一通り朝の作業を終えて片付け、牛小屋を後にしたところで見知らぬ人影に気付いた。敷地内に他人が入る事は滅多にないので警戒心が一気に募る。
相手は二人連れだった。背の高い古ぼけたマントを身に着けた男と、黒ずくめの少女だ。
いつでも直ぐに逃げれるように心の準備をしておく。もし暴力を振るう事があれば牧場の小屋にある道具で応戦しても良いだろう。
相手の顔が解るくらいに近付いてきた。クレアの方へ真っ直ぐに歩いて向かって来る。
「クレア・ハーヴィーさん、ですね?」
ここではハーヴィー姓を名乗った事は無い。
私をその名で呼ぶ相手に久しぶりに会った。相手を見極めようと顔に視線を向けると、思いがけない相手がそこに立っているのに気が付いた。
「オル!!」
「クレア、会いたかった。」
2人は駆け寄って、しっかりとお互いを確認し合った。クレアはオルの胸の中に飛び込み声を上げて泣き出した。
「オル、オル!」
クレアの頭を優しく撫でながらオルは彼女を慰めている。
出遅れたリリックが少し離れた場所からその様子を見ていた。
暫く経つとクレアの様子が落ち着いた様だ。
恥ずかしそうにオルを見上げ照れながら笑顔で言った。
「不思議…。何故オルがここに居るの?」
「元の世界にクレアを戻しに来た。」
クレアはきょとんとして聞き返した。
「どういう事?」
「紹介するよ。俺のパートナーの転生司リリックだ。」
リリックは少し距離をとって離れていたので、二人が同時にこちらを向いたのを見て慌てて頭を下げた。
リリックには二人の会話は聞こえない。そのまま距離を保って見守る事にした。下手に邪魔をするのも野暮というものだろう。必要な事はオルが説明しておいてくれるだろうし。
リリックはクレアを見た。想像してたよりも可愛い少女だ。ころころと楽しそうに笑っている。
二人が話しているのを邪魔しない様にそっとその辺りの木陰に移動した。ゆっくり積もる話もあるだろう。
リリックは目を閉じた。うたた寝でもしようかと思ったが都合よく眠りは訪れなかった。
「あいつ…寝ちゃった。疲れてるのかな?」
オルがリリックを見て心配そうに言った。
「大変なの?色々と?」
「いや、忙しい訳でも大変な訳でも無いけど…。ちょっとボスが嫌な奴で…。」
オルはしどろもどろに言い訳している様な口振りになった。何を話してるんだ、俺は。
「えぇっと、クレア?」
「はい?」
「クレアは後7日間で元の世界に帰らなくちゃならない。何ならもっと早く帰っても良いけど。」
「どうしても?私、牧場の手伝いがあるんだけど…」
クレアは此方の世界に投げ出される様に転移した。道端に腰掛けてどうして良いか全く分からず途方に暮れていたところ、通り掛かった牧場の家主に引き取られたという。
「それから3年…。まるでここの娘みたいに家族同様に迎えてくれたの。私の事情は何も聞かずにね。」
急にこの世界にやって来たなんて説明しようが無いけどね、とクレアは笑った。
「幸せなんだな…。良かったよ。」
「うん。元の世界に帰らないといけないのは凄く寂しい。そろそろ子牛の赤ちゃんもまた産まれるし。ねえ、ここにそのまま居たら駄目?その…」
「ん?」
「オルも一緒に、どうかな?」
「俺もここに、留まって住むって事?」
「うん。牧場が苦手ならこの街に住むだけでも。そうしたら心強いし。」
「クレア…。それは無理だ。お互いに帰らないといけない。」
クレアは涙ぐんで訴えた。
「でも、私が帰っても別に皆喜ばないよ。」
「…何故そう思う?」
「お母さんが…もう帰って来なくて良いって言った。」
「え?」
オルは黙ってしまった。初めて聞いた話だった。
「だから…帰りたくないの。」
リリックは肩をとんとんと叩かれて目が覚めた。日が高くなって気持ちの良い陽気になり、つい本当に眠ってしまった様だ。
「リリック。一旦この近くに宿を取ろう。行くぞ。」
「あ、うん。」
母屋の側を通る時に窓から覗くクレアを見た。相手がぺこっと頭を下げたので、リリックも慌ててお辞儀をした。
「クレアはまだ帰らないと言っていたよ。」
「そう…。」
牧場を離れたくないらしく、今の両親に恩を感じている事も去り難い理由らしい。
「7日間あるからな。ゆっくり待っても良いだろう。」
そうだね、とリリックも頷く。
自分とオルが一緒にいられるのも後7日間だ。
リリックは溜め息を呑み込んだ。
「じゃあ、オル。ちゃんと帰る決心が着くように説得に行かないと駄目だよ。明日もクレアに会いに行かなきゃね。」
「ん?ああ。了解。」
オルは呑気に欠伸をした。
「毎日毎日遅くなって!誰と遊んでるの?!ちゃんとした相手なら家に連れてきなさい!」
また母親の小言が始まった。
「うるさいなぁ!放って置いてよ!」
もう知らない!と、捨て台詞を吐いて家を飛び出した。もう日にちは深夜0時を過ぎて翌日になっている。
「待ちなさい、クレア!」
クレアは構わず行ってしまったが後ろからキンキンとした声が響いて来た。
「こんな夜にもう!あんたなんて帰って来なくても知らないから!」
背中で母親の声を聞いたが無視して進み続け大通りまで駆けて来た。
最近、特に母親がクレアの行動に口を出すようになって来た。多分隣の家のダンが告げ口をしたのだろう。同級生だからと言っていちいちクレアのする事を見張っている気がする。兄のオルは素敵な人なのに、弟のダンはいまいち冴えない奴だ。その割にダンはクレアの事をよく見ている。ダンが家族に話した事は仲の良いお互いの母親を経由して噂話として筒抜けになっているのだろう。
たまに帰りが遅くなっても良いじゃない、もう子供でも無いし。私だって友達ともっと一緒に遊びたい。そうだ、今からレイラの家に行って愚痴を聞いて貰う事にしよう。
歩道から向こう側へ渡ろうとした時だった。
眩しいヘッドライトが唸りを上げてクレアの方へ向かって来た。暴走車はそのままの勢いで突っ込んだ。
クレアは激しい衝撃を全身に受けた。
カナル・パレスの中央にある大広間でカレイジャは寛いでいた。
「失礼します。お呼びですか?」
ラースリが静かに御前にやって来た。
「ああ。そろそろリリックの後継者を選ばなくてはな。」
ラースリは片眉を上げた。
「リリックとオルは未だ任務途中ですが…?」
カレイジャがくくっと笑った。
「失敗するとでも?」
「いえ…。やり遂げるでしょうね。」
「リリックは長い間、転生司として働いていた。潮時だろう。」
ナースリが後から現れた。癒し効果のある花弁を散らした水盆を掲げ持ち、広間の飾り台に乗せた。辺りに清々しいロナレティウムの良い香りが漂ってくる。
「カレイジャ様も暫くお休みになられては?お疲れでしょう。」
「見ろ。次の紙綴リンク・パッドだ。休んでなど居られぬ。」
そう言って分厚い紙綴リンク・パッドを見せた。ラースリが手に取ってぱらぱらと捲る。
「何故、こういった事を始められたのですか?」
ラースリの疑問にカレイジャの側使えが答えた。
「カレイジャ様は元はリリックと同じ村の出身。」
「その世代の者共の中でも抜きん出た能力者でした。」
カレイジャはレイ=ミラを手に取って言った。
「俺は転生の道具として手鏡レイ=ミラを創った。」
「里長の家に伝わる転生の忌み鏡になぞらえて」
「鏡に映る転移転生の影を読み取り、御紙に型どる」
「カレイジャ様こそ最も偉大な創成の祖」
ラースリが興の乗った三人の語りをばっさり切り上げさせた。
「それは存じております。」
そこへナースリが険しい表情で続けた。
「でも…罰則はカレイジャ様が御自身で定めたものです。私は闇間の淵は必要無いものと考えています。」
ナースリの言葉を受けてカレイジャが面白がって答えた。
「何故だ?」
「罰が重すぎます。一度淵にて闇を負ったものが我が憩寧の間へ運ばれて来ますが…」
「オルの傷は癒せなかった様だな。」
「そうです。任務に過失や失敗は付き物。罰など与えなくとも転生補になった者には亡くなった大切な者の命を取り戻すという強い動機が有ります。その為に最後まで務めを果たそうとするでしょう。」
「そうだ。今までどの転生補も必死になっていたよ。紙綴リンク・パッドを捲り最後のページの名前を見ると自分が会いたくて仕方ない者の名前が書いてある。途中で投げ出す訳にはいかない、とな。」
「カレイジャ様も人が悪い。」
ラースリが辛辣に言った。
「ふふん。どうした、ラースリ?今まで転生司や転生補の肩を持った事など無かっただろう?リリックと付き合いが長くなって情が湧いたか?」
カレイジャの意地悪い指摘にラースリは無言を貫いた。しかしあながち的外れな事を言われたとも思えない。
ティレイル山へ行った帰りにリリックとオルがラースリに癒しの花弁を分けてくれた。貴重な霊山の花なのだから受け取れないと断ると決まってリリックはラースリにも温かく休まってほしいのだと言った。
転生司に余計な感情の深入りをしてはいけないが、普段氷の様な人物と評される自分に温まれと言った者は初めてだった。
リリックとオルが山へ登る度に二人の間にあったわだかまりが溶けるのもラースリの心を暖めた。行き帰りの転移を何度か手伝っている間に早くお互いに許し合えれば良いのにと幾度となく思ったからだ。
「リリックにも…オルにも…、任の重荷を取り除いてやらねばならないでしょう。出来れば最良の形で。」
カレイジャはふむ、と相槌を打った。そして難しい表情になり自分自身の思索の内側へと沈み込んで行った。
オルがやって来て4日目、子牛の赤ちゃんが無事に産まれた。朝オルが牧場に訪ねていくと徹夜で出産を見守った牧場主の親父さんと女将さんがクレアと一緒に出迎えてくれた。母牛のミルクを飲む赤ちゃん牛を皆で優しく見守っている。
「私達は交替で休ませて貰うよ。順番に仮眠するとしよう。」
親父さんが眠そうな目を擦って言った。
毎日通ってくるオルの事は幼馴染みだと説明してある。今まで家出少女同然だったクレアの元に急にやって来た幼馴染みというのも訝しいに違い無い。そんなオルが自ら牛舎の掃除等を手伝い始めたところ、すっかり気に入られたらしい。今では牧場主の夫婦に客として歓迎されている。
「オルの事、牧場の跡取りだなんて言ってるんだよ。気が早いよねぇ、お父さんもお母さんも。」
クレアがくすくす笑いながら牛の餌やりをしていた。オルはそれには答えずに話し掛けた。
「前の世界に居た時は…大分やんちゃしてたけど、こっちでは親孝行なんだな。」
「そうだね。あの頃は友達と騒いだりするのが楽しかったから。家族の事は面倒くさいと思ってたな。」
オルは黙って牛の餌やりを手伝った。
「元の世界に帰ったら、お父さんとお母さんが待ってて、隣の家には叔父さんと叔母さん、それにオルとダンが居るんだよね?」
「ああ。事故に遭わなかった未来の続きをやり直せる。」
それは少し嘘が混ざっていた。
事故に遭わない様にクレアが行動しなければ戻ってからまた命が失われてしまうかもしれない。だがこれは帰還の直前に説明すれば良い事だ。
「ここでのお父さんお母さんも大事なんだよね…。」
クレアがぽつんと言った。今の彼女は何処からどう見ても牧場の娘として馴染んでいる。 クレアが此処に転生してから3年、大事に育てられたらしい。
オルが今まで帰還させた相手は皆転生後の経過年数がまちまちだった。1年未満、3年、数十年…。それぞれ新しい転生先でそれぞれの生き方をしていた。
オルはクレアを元の世界へ戻す為にここまで必死にやって来た。だが当のクレアは帰還をそれ程望んでいない。ここまで来てオル自身も迷い始めていた。
宿へ帰るとリリックが待っていた。癒しの花弁が用意されている。今日もオルが牧場にいる間に山へ行ってきてくれたのだろう。
「クレアが帰りたくないって?」
「ああ。リリック、彼女を説得してくれないか?」
「え?」
「だって、転生司だろう?」
「…、そうだけど。」
リリックの当惑を他所にオルは断言した。
「じゃあ明日は一緒に行くぞ。よし風呂に入って来る。」
オルは何だか上機嫌になって花弁を手に取り湯へ向かった。
「でもまあ…良いか。」
リリックは明日は久しぶりにオルと一緒に過ごせると思った。そして自分も湯へ行こうと残りの花弁を持って部屋を出た。
クレアを説得しようと思ったけれど、結局リリックは残りの3日間牧場の手伝いに通って過ごしていた様なものだった。
「おい、リリック。これ一緒に運べよ。」
それにオルがやたらと先輩風を吹かせながらリリックに仕事を言い付けて来る。牧場主のお父さんお母さんはにこにこ笑って見ているし、クレアは黙々と働いているから何の為にリリックはやって来たのかと疑問に思えて来た。ひょっとしたら牧場の手伝いだと思われているかも知れない。
「オル。クレアはちゃんと帰る心の準備出来ているの?」
「ああ。大丈夫そうだな。」
「じゃあ、私はこの辺で…」
「おい。帰る前に牛乳飲んでくか?親父さんがくれたぞ。」
「あ、貰う。」
搾りたての牛乳や昼食をご馳走になって、リリックは結局毎日手伝いを続けていた。
7日目、結局昼食までご馳走になるとオルが言った。
「じゃあそろそろ行くか。」
気安い口調だったが今日は帰還の最終日に当たる。元の世界へ戻る時がやって来た。
クレアを伴って初めに会った日に座っていた木陰辺りへ移動する。
「さあ、帰ろう。」
オルに明るく促されてクレアは渋々頷いた。
帰還する前の中間点である繋ぎの渡り場へやって来た。オルとリリック、そしてクレアは天井も地面も無い薄明かりの空間で三人それぞれに浮いている。
オルはクレアに選択を尋ねた。
「クレア。君には選択しなくてはいけない事がある。まず一つ、何時に戻りたい?」
「どういう事?」
「元の世界での君の時間軸の中で好きな時間に帰れるんだ。産まれた瞬間に戻る事も出来るし、転生した瞬間に戻る事も出来るんだよ。」
「じゃあ、オルの17回目の誕生日に帰って渡せなかったプレゼントを渡す事も出来るって事ね?」
オルがえっ?と言葉に詰まると、クレアが冗談だよ、と笑った。
「ちょっと…考えさせて。」
「分かった。他にももう一つ…転生先の記憶を持って帰るかどうかも自由に決める事が出来る。牧場の思い出や親父さん女将さんの事を覚えているかどうか。それを全く覚えてなくても良いし、記憶のあるまま帰っても良い。」
「それは忘れたくない。大切な思い出だもん。」
了解、とオルが言った。
「じゃあ、後はいつの時代に帰るかだな。」
「あと、もう一つ。」
今まで黙っていたリリックが口を開いた。
「オル。貴方もクレアと一緒に帰るんだよ。」
俺も一緒に、帰る?
オルは急にリリックが話した内容が上手く頭に入って来なかった。悪い冗談の様な気がして眉をひそめて聞き直す。
「どういう事だ?」
「決まりだよ。転生司のパートナーは最後の紙綴の相手と一緒に元の世界へ帰れるんだ。」
リリックは俯き加減で言った。
「今までのパートナー達は任務完了の証にそれぞれの世界へ帰って行ったよ。記憶を持っていくかどうかも、選べる。」
オルは急にリリックとの別れを悟った。今すぐ彼女と別れなくてはならない、と初めて気付く。
「リリック。何でこんな大事な事黙ってたんだ?」
オルの静かな怒りにリリックは怯んで黙ってしまう。
「ごめんなさい…。」
リリックは思った。やっぱり最後まで来て失敗してしまった。何時も自分は間違ってしまうみたいだ。オルを傷付けてしまった。
そこへ横からクレアの声がした。
「馬鹿なのはオルだと思う。彼女がなかなか言い出せなかったのは、別れたくなかったからでしょう?鈍感過ぎる…察しなさいよ。」
「クレア…」
オルは目が覚めた様にクレアを見た。
クレアは二人にそれぞれ頷いてから、言った。
「決めた。私はお母さんに酷い事言っちゃったからあの事故に遭う直前に帰る。ずっと喧嘩別れしたみたいで気分悪かったから、夜出掛けたりせずに大人しくベッドで寝てるわ。もちろん、ここで転生していた時の記憶も全部持っていく。」
先にはっと反応したリリックが言った。
「分かりました。じゃあ、オルもその時間軸に戻します。オルの記憶は…」
「俺はやり残した事があるから残る。」
「え?」
「うん。私もそうした方が良いと思う。」
動揺するリリックを置いてクレアとオルの意見が一致した。
「俺の本体は向こうの世界にも居て、ちゃんとクレアと会えるんだろう?」
「まぁ…そうだけど。」
ここからオルの意識が元の身体に戻る事が出来る。そうすればクレアと共にまた同じ時間から過ごしてゆけるのだ。
転生司のパートナー達はそうして元の世界へ帰って行く。最後の紙綴リンク・パッドの相手と共に。
リリックは不安になってオルに告げた。
「大人しく帰らないなんて前代未聞だ。また闇間の淵へ入れられてしまうかもしれないよ。やっぱり、オルも帰るべきだ。」
「大丈夫だ。何とかなるだろ。」
オルは話は決まった、とばかりにクレアの方へ向いた。
「クレア。君が居なくなってから沢山の人が悲しんだ。俺もそうだ。ダンも見ちゃいられないくらい落ち込んでいた。あいつは君の事を好きだったからな。帰ったらちょっとだけ優しくしてやってくれ。」
クレアは苦笑して言った。
「もうちょっと垢抜けたら考えても良いけどね。」
「それから…、君のお母さんは心を壊してしまった。君が亡くなったのは自分のせいだと責め続けて。」
「えっ?」
「君の家族は君を亡くしてから一年経たずに遠くの街へ引っ越して行った。それから直ぐに君のお母さんが亡くなったらしいと便りが来た。」
「どうして…?」
オルはクレアの母親が亡くなった訳を知っていたけれど、伝えるつもりは無かった。彼女が帰ればそれは無かった事として済む話だ。
「だから君は帰らなければいけない。誰も悲しませないように。頼むよ。」
クレアは真剣なオルの告白を聞いて少し考えた後に頷いた。
クレアは自分が残して来た家族や友人の事を考えた。そして考えをまとめる。
帰ってからクレアのやる事など簡単だ。母親の小言を無視してベッドに潜り込んでしまえば良い。
それだけでたくさんの大事な人達を守る事が出来る。
クレアはしっかりと頷いた。
「ありがとう、オル。」
リリックは幾つか不安を残していたけれど、ひとまずクレアを返す事にした。
最後にと前置きしてからクレアがオルに言った。
「オル、ひとつ聞きたい事があるんだけど…。」
「何?」
「私が居なくなってから、貴方は寂しくなって誰とも付き合えずに一生独り身で過ごしたの?」
オルはクレアの問い掛けに直ぐに返事を返せず詰まってしまう。咄嗟に付く嘘が思いつかずに正直に言った。
「ええと…、その後何十年か経って、結婚して…子供も産まれて。最期は孫達にも恵まれて大往生で…結局、80歳過ぎまで生きたよ。」
クレアとリリックは顔を見合わせた。
「本当に…?」
「ああ。ええと…、ごめん。」
「オルがこんな所まで追いかけて来てくれたって思ってたのにそんな結末だったなんて…何だか馬鹿馬鹿しくなっちゃった。私、帰るね。」
クレアに愛想を尽かされてオルが居心地悪そうになった。
リリックはそろそろと手鏡レイ=ミラを出して呪文を唱えた。
「ラス・レニエ・リィンカナル…、元ある命のままに存在の確かな時の枠へ。一つの御魂帰られん。」
手鏡の紋様が光り出した。激しい閃光が点滅し次第に光量を増してゆく。光は眩く点滅して拡がり、辺り一面を白い光の世界で埋め尽くした。
「ありがとう、クレア。どうか向こうの世界で無事に生きてくれ。向こうでも俺に会ったらよろしく言っておいて。」
「クレアさん…、ありがとう。お元気で!」
オルとリリックが急いで別れを告げるとクレアも言った。
「ありがとう。二人とも。本当に感謝してる。じゃあまたね。」
言葉の余韻を残しながらクレアは光に全身が包まれて発光した。そして姿が見えなくなると、後にはまたゆっくりと薄明かりの空間が戻って来た。
「初めてだね…。最後にまたって言ってくれた人。」
「ああ。また会えるさ。」
リリックもオルも笑い合った。
二人は宿へ帰ると改めて話し合った。
「オル。何で帰らなかったの?」
「何で、と言われてもなぁ…」
リリックは軽くオルを睨んでみた。オルは飄々として全く何も考えていなさそうだ。
聞きたい事は色々あるけれど辞めた。だが、それにしてもオルが80歳まで生きた後だったとは人は見かけによらない。
「ねえ、オル…」
リリックが呼び掛けた所で唐突に人影が現れた。今日は使者の正装をして現れたラースリだ。
「お疲れ様でした。カレイジャ様がお待ちかねです。」
ティレイル山へ案内される時は気にならなかったラースリの冷気が今日は寒々しく感じる。
二人の時間の終わりを告げる使者が訪れたのだ。
ラースリに連れられてカナル・パレスへやって来た。カレイジャが広間で片頬に手を付いて長椅子に腰掛けている。
ナースリが部屋に足を踏み入れたオルとリリックに優しく声を掛けた。
「とうとう任務を全て終わられましたね。本当に大変だったと思います。ゆっくりお休み下さいね。」
ナースリは手の平に乗るくらいの小さめの化粧箱を二人に手渡した。
「癒しの花弁の効果を含んだ精油が出来ました。ティレイル山の山頂に咲く癒しの花ロナレティウムから採ったものです。」
リリックが箱を開けると小瓶が一つ入っていた。蓋を開けると馴染みのある癒しの花弁の香りがした。
「ありがとう、ナースリ。」
「気に入ってくださると嬉しいです。お風呂で使ってね。」
「では、皆下がれ。リリックとオルに話がある。」
カレイジャが強い眼差しで二人を見た。
使い魔達は次々と部屋を退出してゆく。カレイジャの前にリリックとオルが残された。
「先ずは、リリック。役目御苦労だった。転生司として最後まで務めあげた以上、私はお前を拘束する権限は無い。今日から自由の身だ。」
「…ありがとうございます。では、こちらはお返しします。」
リリックはカレイジャに転生の手鏡レイ=ミラを差し出した。
「次の転生司に引き継がせよう。」
「里長の孫なのですか?」
リリックの問いにカレイジャは頷いた。
「私が選んだ訳では無い。その任を負うのに相応しい者が選ばれる。ただそれだけだ。」
「彼女が能力者として優れていたと言う事ですね。」
「お前程では無い。リリック。」
意外な事を言われて驚いた。
「お前の能力は歴代の転生司の中でも一番優れていた。」
良くやってくれた、とカレイジャに労われてリリックは深く頭を下げた。
「オル…お前は転移させてやろう。元の世界へ帰る事が出来る。リリックから話があったと思うが、帰還者と同様にお前の一生の中で望む時間軸へ戻ってやり直すと良い。」
オルはリリックをちらりと見た。
リリックは無表情で平然として見えた。特に関心が無さそうに立ち尽くしている。
オルはいきなり声を張って言った。
「おい、リリック。俺と離れてお前は大丈夫なのか?」
「え?」
「俺を元の世界に返して良いのか?もう会えなくなるぞ。」
突然オルが無礼にも内輪の会話を始めたので、慌ててリリックが止めた。
「ちょっと、オル!カレイジャ様の御前だよ?」
「構わぬよ。一興だ。」
リリックの心配を他所に、意外にもカレイジャは成り行きを面白がっている。
「正直に言え、リリック。」
オルはリリックの目線に合わせて膝を折り、迫った。
「また、なんて保証は無い。今別れたらきっと俺達もう二度と会えないんだ。俺はそんなのは嫌だ。」
オルは続けて一息に言った。
「リリック、お前はどうなんだ?」
二人の間に沈黙が流れた。
今までの転生補は皆喜んで元の世界へ帰って行った。その後、リリックは何時も一人残されてまた転生司としてやり直しの人生だった。今度もそうだと諦めていた。
リリックが目をぎゅっと瞑って言った。
「私も…、オルと会えないのは嫌だ」
「よし。決まった。」
オルは満足そうに笑った。
そしてカレイジャの方へ向き直って堂々と頼む。
「カレイジャ。リリックを彼女の望む場所に転移させてくれ。俺もそこに着いていくよ。」
「良いだろう。好きにしろ。」
カレイジャが最後はつまらなそうに言った。
「リリック。お前の終の住処だ。何処へ転移する?」
リリックは少し迷ってから行きたい場所を言った。オルは黙って微笑み、頷く。
ラースリとナースリがゆっくり部屋へ戻って来た。リリックとオルにそれぞれ別れを告げる。
「お二人とも…お元気で。」
並んで頷いた二人に向かってカレイジャが手鏡レイ=ミラを翳した。
「ラン・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」
「ハメル・ロータス」
辺りに閃光が走った。オルとリリックは共に激しい光に包まれ二人の姿は跡形もなくその場から溶けだすように消えて無くなった。
オルとリリックは見知らぬ初めての土地へやって来た。辺りは市街地が広がっており暗闇に街灯が点っている。どうやら転移した先は夜らしい。
「さあ、どっちに行けば良いかな?」
オルがきょろきょろと左右を見回すと数メートル先から背中を丸めた少年が歩いて来た。
オルとリリックが立っている古びた街灯の下を俯きながら通り過ぎていく。
「おい。ハメル。」
素通りしようとしていた少年はいきなり名前を呼ばれぎょっとして顔を上げた。名前を呼んだのはハメルの知らない男の方だ。
「ご、ごめんね。ハメル!いきなり呼び掛けて…。私達、怪しい者じゃ無いよ。多分…」
リリックが精一杯弁解するが、どう説明しても信じて貰えないだろう。転移してやって来たとはとても言えない。
ハメルが胡散臭そうな視線を向けているが、まるで気にせずにオルが話を続けた。
「あのさ、俺達今日は泊まる所が無いんだ。お前の家で泊めてくれる様に頼んでくれないかな?父ちゃん母ちゃんに。」
「…泊まる所が無いのか?」
「ああ。何日もって訳じゃない。頑張って直ぐに何とかするから。とりあえず一晩!頼む!」
オルとリリックは祈る様にじっとハメルを見た。
「一晩だけなら…聞いてみてあげても良い。着いてきて。」
「やった!」
オルとリリックが無邪気に喜び合う。
ハメル少年は怪しい2人を連れて自宅の玄関まで辿り着いた。庭のある一軒家だ。
リリックが庭の木を見上げて言った。
「林檎が成ってるね。まだ青いけど。」
「…ああ。赤くなったら食べさせてあげるよ。あんた達お金無さそうだし…。」
オルとリリックは顔を見合わせた。
「ああ。ハメルも一緒に丸かじりしような。」
オルが笑って言った。
ハメルはどうぞ、と玄関扉を開けて家の中へ入れてくれた。
室内の明かりが三人の足元に柔らかく広がった。