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前編



地方中核都市とされるバリアンテの目抜き通りに賑わう店舗の一角があった。この辺りでも評判の数軒が連なる店先には華やかに着飾った貴族階級の娘達が入れ代わり立ち代わりに店の扉前を行き来している。彼女らに着いて歩く侍従等はふうふうと息を上げ額に汗を浮かべつつ買い物の大袋を幾つも持たされて付き従っていた。

「もう一軒、最近評判のエルディラを覗いて行く予定。ハリス、そんなに足元がふらついてだらし無い。もっとしっかり運んでくれる?」

「は、はい。マリエッタ様。申し訳ございません。」

ハリスと呼ばれた侍従は両手を荷物に塞がれてバランスを崩しながら主人の後を着いて歩いた。幾つもの紙袋を両手に鈴なりに持たされては老齢の侍従には辛いところだろう。

一方マリエッタは豪商である父親に甘やかされて育ち、その大胆な散財ぶりはこの界隈で知らない者はいない。彼女が買い物に立ち寄った店舗は品々が買い尽くされて、がらがらになった棚のみが後に残されるという有様だ。口が悪く噂高い者などは蝗の大群が畑を食い尽くす様子になぞらえて語る程だ。

マリエッタがこの日最後に向かった先は珍しいデザインの意匠で名高い細工物が評判のジュエリー店エルディラだった。

「マリエッタ様、お待ちしておりました。どうぞ奥までご覧下さい。」

エルディラの店主はにこやかに挨拶を交わし丁寧に頭を垂れた。マリエッタは未だ若い娘であり、店舗によっては親の威光をかさに着た世間知らずと軽んじられてしまう場合もある。彼女自身も勝気な性格の故か、店側に軽くあしらわれたと察すると二度とその店には立ち寄らない事にしている。

だがこのジュエリー店エルディラの店主は礼儀正しく洗練された接客をしてくれる。マリエッタは一日の買い物の仕上げに必ず此処へ立ち寄っている。エルディラで丁重にもてなされて気分よく帰路に着くというのを彼女の日課としていた。

「今日はどの様な品をお求めですか?宜しければあちらの棚に最新の品々が取り揃えてございます。是非ご覧下さい。」

マリエッタが其方に目をやると自慢の品々ですよと店主が誇らしげに声を掛けてくる。指輪やネックレス、ブレスレットがケースに並び眩い光を放っている。見事な品々だ。マリエッタは若い割にファッションやアクセサリーなど国内の最高級品に触れてきたと自分でも自負している。だが此処では今迄に見た事の無い細密な手仕事の技が惜しげも無く披露されていた。

「手に取っても宜しいですか?」

「はい。どうぞお手に取ってご覧下さい。」

マリエッタはネックレスをひとつ手に取った。それ程大ぶりでもなくどちらかと言えば華奢なサイズ感だが、その中に広がる世界観が素晴らしかった。掌に乗るほどの小ささの中に一つの花園が拡がっている。素材は白金の台座で、アクセントに小粒の銀水晶が散りばめられ細かい彫金が施されている。白銀を基調とした単色の素材にも拘わらず、まるで色とりどりの花が一斉に咲き誇る豊かな花園の景色の様だ。

「…綺麗。」

店主は柔らかく頷くと、マリエッタが見飽きる事無く眺めているのを傍らで微笑んで見守っていた。

「今迄こちらで取り扱っていた品々も幾つか見せて頂いています。購ったアクセサリーは私も気に入って良く身につけていますし。でも最近店頭に並ぶ品は今迄の物とは雰囲気が違います。職人の方々の日々の努力の賜物なのでしょうか。」

普段殆どにこやかな表情を崩さない店主が眉をぴくりと動かすのを感じた。殆どの相手は気付かないだろうその表情の変化にマリエッタは気付く。店主は一呼吸置いて語った。

「実は新しく職人を雇いました。此方の新作のシリーズ…指輪、ネックレス、髪留め等はその者の細工です。」

「そうでしたか。素晴らしい技術の持ち主ですね。」

マリエッタは部屋の奥にある工房の扉をちらりと見た。

「今日も作業をして見えますか?」

「はい。奥の作業部屋に職人達は居ります。」

「見学しても良いですか?この作品を手掛けた方に是非直接お会いして、可能なら次の品も注文したいから。」

「パリストン様のお申し出とあらば喜んでご案内致しましょう。しばし此方でお待ち下さいませ。」

マリエッタは家名であるパリストンの名を持ち出されてやや不快になった。マリエッタ個人の願いを聞き届けた訳ではなく、あくまでも彼女の家柄の権威あっての了承なのだと強調された気がした。少し気分を害される。

職人に工房に立ち入っても良いか確認出来た様だ。暫く待たされた後に店主から声を掛けられる。

「お待たせ致しました。此方へどうぞ。」

マリエッタは工房へ通された。職人が4人並んで作業をしている。一番奥から年齢の高い順になっている様子なので職人の勤務年数も関係しているのかも知れない。

「先程の品を仕立てたのは此方の職人です。レオ、この方はパリストン家の令嬢マリエッタ様でいらっしゃる。お前の品を気に入って贔屓にして頂いている方だ。ご挨拶なさい。」

レオと呼ばれた職人は一番手前に座っていた。俯いて作業に集中しマリエッタが室内に入って来ても全く関心が無さそうにしていたが、店主に呼び止められて顔を上げた。低く愛想の無い声で気の無さそうな返事を返す。

「それはどうも。」

マリエッタはその素っ気なさに少しむっとしたけれど職人の手元にある品が気になった。興味の方が勝ち、自ら話し掛ける。

「それは今作っている新作ね。少し見せてくれませんか?」

レオと呼ばれた職人は愛想の無い態度を改めない。不躾にマリエッタの目を見て逸らす事無く冷ややかに見返した。

マリエッタはその視線にたじろいだ。仮にも公爵家の一人娘で、パリストン家と言えば知らない者は無く未だかつて軽々しく扱われた憶えは無い。レオはたかが職人ふぜいでマリエッタの目を見て顔を赤らめるでも無く頭を下げる事も無い。礼儀が身に付いていない世間知らずの職人なのだろうか。それにしてはマリエッタよりもひと回り歳上くらいに見える。若さ故の未熟さと許されるのには無理がある。

「お買い上げ頂けるので?」

職人は嘲笑うかの様に薄く微笑んだ。作業途中と見える品を布張りの作業トレイに載せてマリエッタへ差し出す。

「こら、レオ。失礼を言うな。」

「いいえ、構いません。買います。」

半ば意地になってマリエッタも言い返した。

「ふうん、仕上がりの出来栄えを見もせずに?」

「黙りなさい。私は貴方の客としてこの品を買うと言っています。それ相応の態度と言うものがあるでしょう?あまり失礼な物言いをすれば店主に言って貴方をクビにする事も出来ますけど?」

流石にマリエッタの言葉に店主の顔色が変わった。

「レオ。マリエッタ様に御無礼に対する謝罪をなさい。マリエッタ様、申し訳ございません。」

店主は取りなす様に深く頭を下げた。

「…丁寧に扱え。まだ途中だ。」

店主が恐縮するのを横目に見ながら態度を改めないまま職人は差し出した。

マリエッタはレオの手掛ける細工物を作業トレイごと受け取って覗き込んだ。

見事な意匠だ。白金で象られた表面に流れる紋様は美しく、嵌め込まれた貴石の数々は光を乱反射して眩い輝きを放っている。マリエッタは他の職人の手業も数多く見て来たが、これ程細密な手仕事を未だかつて目にした事は無かった。思わず見惚れてしまう。

ふと顔を上げると満足気なレオの視線がマリエッタに向けられていた。自分がこの品に心を奪われたのが伝わったらしい。何故かこの男に負けた様な気持ちになった。

「必ず最高の品に仕上げて下さい。また来ます。」

「値段は聞かないのか?」

店主がオロオロするのを意に介さずレオが重ねて挑発した。

「いくらですか?」

「5000デルだ。」

マリエッタは眉を顰めた。5000デルは通常の勤め人なら一年間の収入に相当する。

「それは高額過ぎませんか?話にならない。帰ります。」

「気が変わったらどうぞ。仕上がりは一週間後だ。」

マリエッタは職人を睨んでからその場を後にした。職人レオは余裕のある微笑みを浮かべて若い淑女を見送った。


一週間後、マリエッタは迷う気持ちもあったが足がジュエリー店エルディラへ向いていた。あの細工が仕上げられ完成した品を見てみたい。もしも法外な値段が付けられたとしても出来栄え次第でつい買ってしまうかも知れない。あの職人の不遜な微笑みを再度見せられたらまた頭に血が上ってしまうだろうか。職人レオと目を合わすと何故か心を掻き乱される。平静でいられるかマリエッタには自信が無かったが、新作を見てみたい気持ちが勝っていた。

店主の案内した工房には今日はレオしか職人が居なかった。

「他の職人達にはゆったり休日を取らせながら制作させています。今や注文がレオの細工物に集中しているので、それ以外の者には暇を出さざるを得ない状況でして…。」

店主が話すし声を聞いてレオは作業から顔を上げるとマリエッタの姿に気付いた。

「あんたか。出来てるよ。」

そう言うと棚からトレイごと引き出してマリエッタに差し出した。マリエッタはトレイを受け取り品物を眺めた。トレイに載せられた細工物は予想通りの見事な出来栄えのネックレスだった。

「鏡はこっちにある。」

マリエッタを姿見の前に誘うとレオはトレイからネックレスを手に取った。マリエッタの背後に周りネックレスを彼女の首元に掛ける。うなじで留め金を止める時にマリエッタの首筋に冷たい指が一瞬触れた。

レオは姿見を背後から覗き込み、胸元の細工を眺めていた。実際に女性に身に着けて貰うとアクセサリーもモデル本人も美しさが際立つ様だ。出来栄えに満足していた。

レオがふと視線を上に上げると、恥ずかしそうに顔を紅潮させたマリエッタと目が合った。思わずにやりとする。

「気に入った?お嬢さん。」

マリエッタはその言葉を聞くと急にその場に屈みこんだ。レオは慌てる。

「おいおい、どうした?」

マリエッタは両手で顔を覆うと何故か泣き始めた。しゃくり上げながら時折声を詰まらせてえっえっと泣き続ける。まるで幼い子供の泣き方の様だ。

レオは突然の展開に驚いた。困惑しつつマリエッタの隣りで暫く立ち尽くしていたが、すとんと正面に座り込むと彼女の気が済むまで待ち続けた。

泣き続けたマリエッタはやがて落ち着いた様だ。涙に濡れた瞳で訥々と理由を話し始める。

「私はもうすぐ嫁ぎます。後10日経てばこの街から離れなくてはならない。」

聞けば、倍以上年の離れた相手と無理矢理結婚させられるらしい。相手は現王の政権になって急激に勢力を伸ばしてきた新興貴族のランベルク家当主だそうだ。パリストン家の財力を見込んで相手方から申し込まれた政略結婚との事だった。

「お父様はこの結婚に乗り気で…。ランベルク様と血縁関係を結べば政治の世界において磐石な後ろ盾を得る事が出来る、と。」

マリエッタは再び目を潤ませて言った。

「でも!私はあの様な相手の方と結婚するなど考えられません。」

それまで静かに聞いていたレオは口を開いた。

「じゃあ…この品は結婚祝いで届けに行くよ。御祝いって事だからお代は請求しない。俺からの餞別で。」

三日後にパリストンさん家に直接行くから、と言ってレオはネックレスを元の棚へ仕舞った。

マリエッタはレオの顔を見た。今言われた事を頭の中で反芻する。

5000デルのネックレスを結婚祝いでくれると、この男は確かに言ったと思う。でもマリエッタは全く喜べる気分では無くなっていた。自分はこの男に何と言って貰いたくて身の上話を打ち明けたのか。急に気持ちが昂って自分でも泣きたくなってしまったのだ。今更ながら涙を見せた事が恥ずかしくなった。

「分かりました。私は外出中かも知れないのでその時は執事に渡しておいてくれると助かります。」

マリエッタは揺らりと立ち上がって、取り乱してしまった事を静かに詫びた。

「いえ。気を付けてお帰り下さい。」

珍しくレオはいつもの笑みを浮かべなかった。真剣な眼差しでマリエッタを見詰めている。

職人レオに送り出されマリエッタは重い足取りで帰って行った。


マリエッタは三日間ぼんやりと放心して過ごしていた。最近は意に沿わない結婚を嘆いて時折泣いたりしていたのに、ジュエリー職人の元へ行ってからそれもぱったり無くなっていた。胸に穴が空いた様に空虚な気持ちだった。何もかもどうでも良く感じられたし、あれほど好きだった買い物にも出掛ける気力が無くなった。

「全部…あの職人が悪いのだわ。」

独り言を言うとレオの顔を思い浮かべた。他の誰の前でも結婚を嘆いて泣いた事など無かったのに、何故あの時気持ちが昂ってしまったのだろう。

でももうどうでも良かった。高額なネックレスも手に入る事だし、もう結婚してからあのジュエリー店へ立ち寄るのは辞めよう。ネックレスだって妹にあげてしまえば良い。何時までもあの職人レオの事を苦々しく思い出すよりは目の届かないところに置いてしまった方がいっそ良いだろう。

そこまで考えても、今日やって来るレオに会わないという選択肢は無かった。心の中で罵倒する言葉を繰り返しながら彼がやって来るのを待ち侘びていた。

「お嬢様、ジュエリー店エルディラからやって来たと言う者がおりますが…。」

扉を開けて侍女が告げたので、この部屋に通す様に言った。会うのは今日きりだ。

「こんにちは。約束の品をお届けに伺いましたよ。」

相変わらず不遜な笑みを称えて男がやって来た。部屋の扉を閉めてマリエッタの正面に立ち止まった。恭しく腰を屈めて手持ち鞄から化粧箱を取り出す。そっと開けると中から例のネックレスが現れた。

「いつ見ても…美しい品。」

マリエッタが思わず小声で呟いた。

職人レオは頷くと、もう一度着けて差し上げますよ、と言ってネックレスを手に取りマリエッタを椅子に掛けさせて背後へと廻った。そしてうなじの留め金を掛けると彼女の正面から見詰めた。

「どうですか?」

「ありがとう…。大事にします。」

マリエッタはまた涙目になっていた。

「それは良かった。前に言った通りお代は要らない。その代わり君を貰いたい。」

マリエッタの思考が止まった。

今、いったいなんと言ったのだろう?

「意味が分からないです。」

「ああ。俺と一緒に来い。爺さんとの結婚なんか辞めて俺の妻になれば良い。」

マリエッタは今言われた言葉を頭の中で繰り返していた。目の前の男は相変わらず不遜な笑みを見せている。

「パリストンの家は…どうすれば?」

「残った奴で何とかするだろう。」

「私は…職人の奥さんになるの?」

「そうだ。俺は自分の工房を構える。君はそれを手伝ってくれれば良い。」

「…そう。」

レオは自信有り気な表情を崩さない。マリエッタは勢いで頷いてしまいそうな自分を理性で押しとどめた。

このおかしな男の自信は何処からやって来るのだろう?貴族の私が庶民と一緒になれると本気で思っているのだろうか?

ただ、自分はそう望んでいたのだと急に自覚した。前回会った時に彼の前で泣いてしまったのはこの男に何かして欲しい気持ちがあったからでは無かったか。

パリストン家は窮地に追い込まれるだろう。親不孝だと言われるかも知れない。でも…

「一緒に行く。」

マリエッタははっきりと強い口調で告げた。レオはにやけながら頷くと、正面からマリエッタのネックレスを外す様にうなじに手を回した。マリエッタが相手の方へ一歩近付く。

その手がネックレスの留め金に掛かる前にマリエッタの両肩を掴んだ。

そのままレオはマリエッタを引き寄せて、彼女を腕の中に収めた。

「苦労させるかも知れないな。だが後悔はさせない。」

マリエッタの耳元で優しく囁いた。


マリエッタは小間使いの娘ライラに自分と現工房主である職人レオの馴れ初めを聞かれて、照れながら話し終えた所だった。ライラは女主人の出自が隣国の大貴族パリストン家に連なる者だと知ってかなり驚いたけれど、歳を経ても美しく才気溢れるマリエッタの下で働いていると成程と思ってしまう。由緒ある家柄で育ったマリエッタには元々人を使う立場だった者に特有の指導力があり、それは工房の女主人という役割を果たすのに十分な能力を発揮していた。レオの技術と経営力にマリエッタの陰の支えもあってジュエリー工房としてまずまずの成功を遂げている。駆け落ち同然で隣国にやって来た若い二人には様々な試練が待ち受けていたが何とか乗り越えて来れた。

レオは始めの頃は職人として直接腕を振るっていたが工房が大きくなると弟子を育て自身の技術を惜しみなく伝授した。そして自分は工房経営者として事業拡大を計り、着実に成長させて事業主としても有能である事実を証明した。

マリエッタは職人気質だと思っていた夫が商人としても優秀なのは昔そういう仕事に就いたのかと聞いてみた事があった。レオは言葉を濁して笑っていた。過去の事は進んで話したがらない夫だったが、珍しく複雑な表情だったのでマリエッタはそれ以降夫に聞いた事は無かった。

レオは仕入れ先の販路を確認する為に下男一人を連れて街に出掛けていた。そこでレオはふと視線を感じた。視線の先に街中ではやや浮いた古めかしいマントを羽織った長身の男がいた。レオが目を合わせると相手が軽く頭を下げた。見覚えが無いので知り合いでは無さそうだが、ひょっとして仕事上の取引相手などで忘れている可能性もあるので念の為に声を掛けてみる。レオの方から男に近付いて話し掛けた。

「こんにちは。もしかしてお会いするのは初めてではありませんでしたか?」

男は落ち着いてレオに返事をした。

「いえ、初めましてですよ。レオ・ロジャースさん。」

それは久しぶりに聞く名前だった。急速に心臓の鼓動が早くなる。

「その名前を聞くのは…久しぶりです。」

マントの男は大袈裟に頷くと、微笑みを浮かべて少し時間を下さいと丁寧に頭を下げた。


レオは帰宅すると妻に聞いた。

「私達が夫婦になった時に渡したあのネックレスは何処に仕舞ってある?」

マリエッタは夫の唐突な問い掛けに不思議に思いつつ返事をした。

「多分ジュエリーボックスにあると思うけど...。何故急に?」

「また見てみたくなったんだ。久しぶりに。」

妻を階下に置いて2階へ上がり、ジュエリーボックスを開けてみた。宝飾店の妻らしく、幾つかあるボックスの中から最初に開けた一番古い箱にそのネックレスはあった。

レオはそっとネックレスを手に取って眺めてみる。当時の流行はこんな形だったろうか、久しぶりで上手く思い出せない。だがこれを手掛けた時の想いなら忘れる事は無かった。


あの頃、ジュエリー店エルディラへ時々やって来る貴族の小娘がいるのは気になっていた。自分自身の財力でも無いのに軽々しく職人が精魂込めた一点物のジュエリーを買い漁っていく。パリストン家の小娘の噂は工房内では悪評高く有名だった。

エルディラの工房で新入りだったレオは他の先輩職人達が話すそんな噂話に参加せずともちょくちょく耳には入って来ていた。噂の主は時折表のショーケースを覗いており、その姿を工房の扉越しに見る事もあった。噂の先入観もあって折角美人なのに残念なお嬢さんだなと常々思っていた。

レオは店主からある朝受注商品の話を受けた。

「パリストン家から婚礼指輪の注文が入っている。レオに任せようと思うが、どうだ?」

「良いですよ。作ります。パリストン家とはどちらの貴族様でしたっけ?」

店主は不敬で世間知らずなレオの言葉遣いを軽く注意すると、続けて話した。

「時々エルディラにやって来るマリエッタ様の婚礼の品物だそうだ。御当主であるお父君が注文して下さった。指のサイズはm3とr5でデザインを頼む。」

「…r5か?」かなりの太さだ。

「御相手のランベルク家当主はかなり恰幅の良いお方だ。お年の頃は…60歳を越えた辺りだろうか。年齢的にあまり華やかなデザインは好まれないだろうが、マリエッタ様に合わせて仕立てればきらびやかな装飾品にしても良さそうだ。悩ましいな。」

レオは眉間に皺を寄せた。嫌な時代だ。若い娘が孫かと思う様な男との間で貴族同士の政略結婚をさせられるという話か。レオはマリエッタの面影を思い出していた。

その日から結婚指輪を作り始めた。作業してる間に時折表の店舗にマリエッタがやって来る。時々沈んだ表情を見せたり、苛立っている様に見えるのはレオの気にしすぎだろうか。マリエッタ本人に似合う様にと思いながらデザインをするものの、対になる男性用の指輪を作ろうとすると気が進まなくなる。

マリエッタの結婚指輪の仕上げに掛かる頃には、レオは美しい彼女の不運に同情していた。自分の生きていた世界なら彼女を救ってあげる事も出来ただろう。だが今の身分では精々美しい指輪を作る事しか出来ない。彼女の指を飾るリングが結婚生活の慰めになる様にと祈りを込めてレオは出来上がった結婚指輪をパリストン家へ納めた。

直接マリエッタと言葉を交わすひと月前の事だった。


レオはマントの男に会った事をマリエッタにも他の誰にも伝えなかった。この事は相手から口止めされていた。そして、何時もと変わらぬ日々を過ごした数日後にレオは誰にも何も言わず忽然と失踪してしまった。


マリエッタはランベルクの女主人として気ままに過ごしていた。夫ダインは60歳を少し過ぎた辺りで、後妻として嫁いだマリエッタは前妻との間に自分より年若い孫がいると聞いて驚いた。

ダインはマリエッタの家柄にしか関心が無く、結婚後は妻を完全に放置していた。マリエッタの生家パリストンからは潤沢な資金援助が約束されていたので、マリエッタは独身の頃と同様に自由奔放に買い物をする毎日を送っていた。

「今日はジュエリー店エルディラへ行くから、以前買ったあのネックレスを出してくれる?」

侍女のライラに言うと、白金で象られた表面の紋様に嵌め込まれた貴石が光を乱反射して輝いていた。

「いつ見ても綺麗ですね。そのネックレス。」

ライラに褒められて、マリエッタはゆったりと微笑んだ。

「そうね。これ以外は身に付ける気にならない。不思議なくらい…。」

「きっと何時かそのネックレスを越えるほど美しい意匠の品物に出会えますよ。今日もエルディラへ行かれるのですし。」

ライラの含みの無い言葉にマリエッタは何か忘れていた大切な事を思い出せそうになった。ただ、それはふと記憶の片隅で浮かび上がった後にするりと逃げてしまう。

「そう。一流の職人に何時か出会えるかもしれない。待ち遠しい気がするのは何故かしらね。」

マリエッタはそう言うと胸元の辺りで心臓をぎゅっと捕まれる様な痛みを覚えた。言葉では表せない深い寂しさが彼女の心に染み渡っていった。



長閑な田園風景が街道に沿って拡がっていた。古ぼけたマントに身を包んだ長身の男は、街道沿いを脇に逸れた大木の根元で休憩を取っていた。傍らに背の低い黒ずくめの少女が座って水袋を傾けている。

「オル。次はどうするの?」

少女がオルと呼んだ男に水袋を返して聞いた。

「休まないで行けそうだな。次の相手は此奴だ。」

そう言って紐で結ばれた分厚い紙綴をめくった。古くよれよれになって茶色く変色した一枚をめくり、その次に綴じられたページを指して言った。

「それはまだ後回しだね。」

茶色くなった一枚を少女が指差した。

「ああ。相手が手強そうだからな。先ずは初見の方を当たってみよう。」

「でも何時かは行かなくちゃいけない。」

オルは苦笑して言った。

「俺は最後でも良いけどな。ひとまず次の奴から行こう。」

少女は納得して立ち上がり、出発した。

二人は街道を逸れて草深い林間へ進んだ。人目に付かない方がやり易いので辺りに人の気配が無いか見渡す。どうやら大丈夫そうだ。

「さて。リリック、頼む。」

はいよー、と、少女は懐から手の平に納まる大きさの道具を取り出した。平たくて丸い一見すると手鏡の様な物で、レィ=ミラと呼んでいる。ただの手鏡と違うのは表面には紋様に沿って流れ星の様に光の筋がちらちらと走っている。リリックが手の平に集中して力を込めると流れ星は益々数を増やして光った。光の筋が消えては現れ、複雑な紋様を浮き上がらせて激しい点滅を繰り返していく。

「オル、行くよ。」

「ああ。何時でも。」

レィ=ミラをくるっと返して裏面を見ると漆黒の闇が複数の蛇のようにくねっていた。

オルが紙綴を差し出すと先程のページに向かってレィ=ミラの表面で触れた。

「マハ・サヤン・カルラーダ…、我らを導き者。その名を教えよ。」

リリックが唱えた呪文に重ねてオルが1人の人物の名を告げた。

「サラ・ヤーハン」

紙束と手鏡レィ=ミラの触れた箇所から亀裂が走り眩い光が辺りに満ちた。

そして二人の姿は渾然と消え、周辺は元の林の景色に戻っていた。


「初めまして。サラ・ヤーハンさん、ですね。」

オルは帰宅途中の女性の後を追い、後ろから声を掛けた。相手の肩がぴくっと震えてゆっくりと振り返った。

「誰?」

「俺の名前はオルと言います。貴女に話があって来ました。」

お時間をいただけますか?と言い終える前にサラは逃げ出した。

だがオルはあっという間に追い付いてサラの手を掴んだ。そっと離すと穏やかに告げた。

「先ずはお話をしましょう。貴女には七日間の猶予があります。考える時間は長くはないけれど全く無い訳ではない。」

サラは諦めた様にマントの男を見上げた。


マントの男オルから解放され、サラは少し遅い帰宅をした。

「遅くなってごめんね。ただいまー。」

サラは自宅の玄関を開けて部屋へ帰ると、子供達を交互に抱き抱えた。2人の姉弟はお帰りと言って抱き着いた後、あっさりと部屋に散らばって遊び始めた。

「お帰り。遅かったね。」

「ごめんね。ご飯まだでしょう?」

夫のダニエルは妻を労って今日は外で適当に食べようかと気を使ってくれた。今から炊事に取り掛かろうとするサラを優しく留まらせる。

「ありがとう。じゃあそうしようか。」

家族は連れ立って夜の街に出掛ける事にした。家から歩いて行ける場所に気の利いた南国風料理の食堂がある。簡単にご飯を済ませたい時はいつもそこへ出掛けている。

サラはずっとオルという男の会話を思い出していた。サラの前にいきなり現れたあの男によると後7日間で優しい夫ダニエル、幼年学校に入ったばかりの娘アイシャ、言葉足らずで一生懸命話す息子ナージャ、その三人の家族と離れなくてはならない、らしい。しかも家族には何一つ事情を話してはいけないそうだ。秘密を守ったまま過ごさなければ、サラが知っている事を語ってしまったら7日間待たずにその瞬間に別離が訪れるという。

ならば出来るだけ長く一緒にいたい。サラは秘密を抱えたまま家族と最後の時間を過ごし終える覚悟を決めていた。あと、7日間。


オルは近くの宿に宿泊して部屋で考え事に耽っていた。移動して初日の夜は大抵は気分が落ちこんでいる。事情を帰還者当人に話した時、殆どの者が反発し抵抗する。オルも楽しんで自分の役目を果たしているわけでは決して無い。次に生まれ変わったら絶対こんな仕事はしない。いや、自分が生まれ変わるというのも皮肉な話だが。

「リリック。俺はこれからは対象の帰還者に深入りしない様に距離を置こうと思う。」

「ん?どうするの?」

リリックが干し貝をもぐもぐやりながら答えた。少女の様な外見に似合わず酒のツマミを好んで食べている。

「今までは7日間対象の人物の近くで待機して様子を見守っていたが、今回は途中で移動して次の人物に最初の接触をしようと思う。」

「えぇ…。それは駄目だよ…。」

リリックは不安げに反対した。確か帰還者に接触中の転移は絶対的な禁止事項になっていた様な気がする。ただそれがどうしてだったかは思い出せない。

「サラに途中で呼ばれたら察知できる。彼女には俺達に会いたい時に呼び出せる黒鳴石を渡しておこう。もし呼ばれたら直ぐにここへ戻って来れば良いだろう?」

「移動にオルの流転真力=リメンタルを使うから往復するだけで消耗するよ?カレイジャ様も余計な事はするなと反対すると思うけど…」

オルはその名前を聞いて嫌な顔をした。リリックは雇い主の名を出した事が失敗だと気が付いた。もぐもぐしていた貝柱を飲み込む。

「カレイジャにわざわざ報告する事も無い。やるのか?やらないのか?」

「…そんな事して、バテても知らないよ?」

リリックは嫌な予感がしたがオルが乗り気なので強く言い返せない。

オルはふっと笑って言った。

「でも俺は出来るだけ一気に片をつけたいと思ってる。7日間の現地待機は時間の無駄だ。」

オルは無造作に帰還者の名簿になっている紙綴をばさっとテーブルへ放った。

帰還者個々の情報が載っている紙綴をリンク・パッドと呼んでいる。帰還者の人数分が綴じてあるので厚みからも相当な人数だと察せられる。

「こんな厚い紙束の一件一件に付き合っていたら俺の身体が持たない。あと数件消化してカレイジャに任務完了を認めて貰う。」

「紙束呼ばわりしてるけど…リンク・パッドは一枚一枚にそれぞれの人生を背負ってる情報なんだから…。軽々しく考えたら駄目だよ。」

それに…、とリリックは考えながら続けた。

「それはオルに課された試練だから。最後の一枚まで全部終わらせないと駄目なんだよ。」

「駄目って誰が決めたんだ?」

「カレイジャ様だよ。決まってるでしょ。」

オルはベッドに仰向けに倒れ込んでぼやいた。

「何時かあいつの鼻を明かしてやれたらなぁ…」

「そんな怖い事言わない方が良いよ…。カレイジャ様に聞かれたらタダじゃ済まない。」

「分かってるよ。でも俺は決めた。明日は次の奴の所に行くからな。」

「辞めた方がいいと思うけど…。」

リリックは勢いに乗るこのパートナーを未だ扱いかねていた。何となく気が進まないけれど、あまり強く反対して拗れるのも面倒なのでひとまず好きにさせる事にした。


翌日、サラは仕事にとぼとぼ出掛けた。今朝は娘のアイシャと弟ナージャが朝から喧嘩を始めてつかみ合いを始めたので、それを治めるのに2人を怒ってしまった。むくれて黙り込んだアイシャと、わあわあ泣き始めたナージャをシッターに預けて大慌てで飛び出して来た所だ。気分は最悪だった。

前方から見覚えのあるマントの男がやって来た。サラはもっとその場所に馴染む服装をしようと思わないのかしら、と場違いな事を考えた。まあ、相手にとってはどうでも良い話だろうが。

「おはようございます。お仕事ですか?お疲れ様です。」

オルはにこやかに挨拶をした。無視する訳にはいかないので軽く頭を下げる。

「今から数日留守にします。猶予は7日間ですが、もしももっと早く帰りたいと思えばこれに呼び掛けてください。」

そう言って右手を差し出した。

そこに乗っていたのは、丸くて少し平たい黒石の様な物だった。サラの手にすっぽり納まるくらいの大きさだ。表面には流水紋様が描かれて、それに沿って流れ星の様に光の筋がちらちらと走っている。石の上で不自然に発光している光がこの世の物とは思えず、改めてこの男が常識の範囲外で生きている存在なのだとぼんやり思った。

「我々はこの黒鳴石に呼び掛けてくれれば直ぐに貴女の元へ駆けつけます。」

そう言うとオルの背後からひょこっと黒髪の少女が現れた。にこりと笑う表情が愛らしく、お互いの立場を忘れてついこちらも微笑んでしまう。

「では。失礼します。」

そう言うとオルは古めかしいマントを時代がかった仕草で翻して去っていった。


「さあ、行こうか。」

オルは紙綴リンク・パッドの一番上にある茶色くよれた一枚とサラの一枚を捲り、次のページを最表面に出した。

「本当に…行くの?」

リリックが少し不安げに上目遣いで見た。オルは心配させまいと微笑んで答える。

「お前に迷惑はかけないから大丈夫だ。」

「そういう問題じゃないんだよ。」

リリックが呟いた。何時になく目が真剣な光を持って光る。

オルは少し怯んだが気を取り直してリンク・パッドを差し出した。

リリックが渋々と手鏡の表面で用紙に触れ呪文を唱える。

「ラン・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」

「…ベン・マードック」

二人の姿がふっと掻き消え一瞬のうちに転移した。


オルとリリックは次のターゲットであるベンの家の近くに予定通り降り立った。だが、ベンに接触しようと玄関口でオルが一歩踏み出した途端に膝からがくんと力が抜け折れ曲がってしまった。

「…何だ?力が入らん…」

「やっぱり、移動にオルの流転真力=リメンタルを使い過ぎたからだよ。丸一日は動けないはず。」

「くそ、情けないな…。」

「無理しないで休んでよ。ちょっとここで待ってて。宿を取ってくる。」

リリックがそう言うと、玄関扉の中から家人らしい女の人が顔を覗かせて言った。

「どうしましたか?」

リリックとオルは顔を見合わせた。どうやら現れたのはベン・マードックの妻らしい。帰還者の家族には極力接触したくない。オルは小さく首を横に振ってリリックに目配せすると、少女が代わりに答えた。

「ええと、ちょっと兄が調子悪くなってしまって…すみません。直ぐに休める所に行きますので…、」

もごもごと説明すると、ベン・マードックの妻らしき人物が親切に話し掛けてくれた。

「少し家で休んでいかれます?」

人の良さそうな笑顔の優しそうな女性だ。オルはぐったりしていて返事が出来る状態でも無さそうだったので、リリックは妻の申し出に甘える事にした。


室内ではベン・マードックその人がリビングのソファで寛いでいた。

「家のすぐ前で調子の悪そうな方が倒れていたの。部屋で少し休んだ方が良いと思って…。それとも直ぐにお医者さまを呼びした方が良い?」

後半は客人達に質問した。

「いえ、やっぱり直ぐにお暇します。この近くで部屋の空いていそうな宿はありますか?」

「部屋ならこの家でも空いている。良かったら休んでいくといい。」

オルは声の主の方を向こうとしたが、瞼が重く動く事すら億劫だった。眠気に抗う事も出来ずにそのまま寝てしまう。

リリックは相方の様子を見てとてもじゃ無いが移動出来ないと悟った。諦めて夫妻に返事をする。

「ありがとうございます。じゃあ、兄が起きるまでお邪魔します。」

何だか変な展開になったと思いながらリリックは居心地悪くお世話になる事にした。


結局一晩泊まらせて貰い、しっかり睡眠を取ったオルはそれなりに回復していた。夫婦に一夜の宿の礼を言って、仕事に向かうと言うベンと一緒に家を出た。

「身体に気を付けて。お大事にね。」

手を振るベンの妻に別れを告げて、三人並んで家を出る。曲がり角まで来た所でオルがもう一度振り向くとまだ手を振ってくれていた。ぺこっと頭を下げて道を曲がる。

「妻は強引に引き留めていなかったかい?悪かったね。」

「いえ。助かりました。本当に体調悪かったので…感謝しています。」

「こんな住宅街で倒れてしまうなんて、何処かへ行く途中だったのかな?」

オルとリリックは視線を合わせた。

一宿の恩は有るがここで誤魔化してもいずれベンに打ち明けなければならなくなる。恩人に向かって嫌な通告をするのは気が進まないが仕方ない。帰還者へ伝えなければいけない事を順を追って話す。

「貴方に会いに来たんです。」

オルの言葉を聞いて、え?とベンは驚いた。

「ベン・マードックさん。」

オルが名前を呼ぶと、ベンは瞬きをした。

「貴方はこの世界へ突然やって来た。元々居た世界ではベン・マードックという名のエンジニアだった。違いますか?」

ベン・マードックは立ち止まった。目を見開いてオルの顔を見つめている。

「この世界に本来貴方はいるべきではありません。私は貴方を元いた場所へ帰しに来ました。」

「…帰る?」

「はい。幾つか条件があります。」

「待て。急に言われても。今日は会議があるから遅れる訳にはいかない。帰って来てから話を聞いても良いか?」

時間を気にするベンにリリックがそっと伝えた。

「会議も気になると思うけど帰還した後はこっちの世界ごと無くなっちゃうから、無駄だと思うよ。」

「こっちの世界が無くなる?」

ベンは顔から色を無くして言った。

「そうです。正確には貴方を帰したらこちら側の世界は貴方が現れる直前の時間まで戻ります。貴方の残した足跡を全て消し去る様に。」

「…馬鹿な。私はこの世界では幾つかの技術革新を進めて、国家最高と言われる科学技術賞を受賞した事もある。自分で言うのも何だがこの国では代表的な科学者の一人だ。今や老人から子供まで私の発明の恩恵を受けていない者などほぼいないだろう。これほど世界の技術躍進に貢献したというのに、全て投げ打って元通りの世界に戻ると言うのか?」

リリックがきょとんとした。

「え?そんなに凄い人なの?」

「リリック。まともに報告書のリンク・パッドを読まないのは良くないな。ベン・マードックさん、この世界での貴方の功績は素晴らしかった。貴方の帰還後は間違いなくこちらの世界では技術の後退が起こるでしょう。」

ベンは何も言わずオルを見た。心を鎮める様に右手の鞄の持ち手をぐっと握り締める。

「ですが…、貴方も分かっているでしょう?」

静かに諭すオルに視線を向けられたベンは観念して項垂れた。そして力無く呟く。

「ああ。私の発明だと言われているが、元いた場所では末端の現場技術者に過ぎない者でも誰でも知っている基本的な技術だ。それを私は文明の遅れたこの世界で広めたんだ。」

「ええ?!そうだったの?」

オルはリリックをひと睨みした。少女は口元を両手で抑えてあわわと黙る。

「それはどういう事か、解りますね?」

「ああ。数年掛けて技術が進み、ゆっくり世界が廻る筈だったものが急激に文明が豊かになってしまったんだ。中世から現代へタイムリープしたかの様に。」

「それだけじゃ無い。貴方が持ち込んだ技術のせいで、本来この世界で評価されるはずだった幾百人の人物がその機会を奪われました。科学者として新たな発見をする事無く。」

「幾百人?そ、そんなに?」

「ちょっと多過ぎじゃないの?」

「ああ。多過ぎる。」

オルの言葉にリリックが顔を顰めた。

「オル、出鱈目言ってない?」

「…俺は報告書の通りに説明しているだけだ。」

オルにギロリと睨まれて、リリックはまたあわわと口元を塞いだ。

「歪んだ世界は元に戻さねばなりません。ベンさん、分かりますね?」

「理屈は分かりました。でも妻が一人で残されてしまうのが申し訳無いですね。」

リリックが塞いだ口元を解放して言った。

「奥さんもベンと出会う前に戻るから、寂しいけど大丈夫だよ。きっと。」

「大丈夫かどうかは…、いや、それは別の話だろう。」オルが被せる様に否定する。

ベンは溜め息を着いた。

「彼女には彼女の、私と会うことの無い人生が待っていると言う事ですね。出来れば幸せになって欲しいが…」

オルは慰める様に言った。

「ですが貴方には帰るまでに7日間猶予が与えられます。今日は月初めの1日だから、7日にまた私達はやって来ます。それよりも早く帰ると言うならば今すぐ帰る事も出来ますが。」

どうしますか?と聞かれてベンは少し迷って7日間待って欲しいと言った。オルは了承する。

「気が変わって、もっと早く帰りたいと思えばこれに呼び掛けてください。」

オルが差し出したのは丸くて少し平たい黒石の様な物だった。ここに来る前にサラに渡したのと同じ黒鳴石だ。これに呼び掛けられればオルとリリックは直ぐにベンの元へ駆け付けられる。

「それから…」

「?」

「誰にも帰る事を伝えてはいけません。貴方が話してしまったらこの黒鳴石が反応して即座に貴方を強制送還します。もちろん奥様にも秘密にしてください。」

「分かった。妻には黙っている。」

朝出掛けた時とは比べ者にならない程気落ちしたベンを二人は駅ターミナルの改札口で見送った。

「では、7日後に。」

「ああ。」

人の流れに沿ってターミナルの中に消えていくベンの小さく丸まった背中を見て、会議とやらにこんな日も行くんだなとオルはぼんやり考えた。


駅ターミナル前のベンチで座ってオルとリリックは時間を潰していた。辺りは通行人もまばらで風変わりな二人連れをジロジロ見る者もいない。どうやらリリックの魔法で普通の人からは見えていても見えない様な薄らとした存在感に感じられているらしい。古ぼけたマントは周りの人々の服装からは浮いているが、二人が下手に注目を浴びないのはその希薄な存在感のせいだ。

オルは適当な店舗で買ってきた清涼飲料水を飲みながら報告書を捲っていた。リリックは焼き菓子をぽいと口に放ってもぐもぐしながら話し掛けた。

「サラもベンも協力的で良かったよ。もしどちらかがゴネだしたりしたら同時進行で進めるのは難しくなるからね。帰還者に抵抗されたら、追跡したり拘束したりする手間が増えるでしょう?そうしたらミッションの同時進行はまず無理だよね。」

オルは腕組みして答えた。

「リリックの言う事にも一理あるな。それに…。」ふうっと溜め息を付く。

「俺がベンの所へ転移した時に倒れ込んでしまったのも計算外だった。」

「でもさ、泊めてもらった恩人に向かってこの世界から消えて無くなってくださいって言わなきゃならないなんて。酷い話だよ、全く。」

リリックが大袈裟に呟いてまた焼き菓子を口に放り込む。

「ベンに次に会う時は彼は奥さんともこの世界とも、数々の栄誉ともお別れしなくちゃならない。さぞかし気落ちしているだろうし。」

オルが重い溜め息をついた。

「そうだな…。」

焼き菓子を飲み込んだリリックが相方を見ると、疲れ切った顔をしていた。さすがに消耗している様だ。

「オル…、ひとまずサラのいる所へ戻らないといけないんだけど、体調はどうかな?流転真力がちゃんと回復していないと移動出来ないけど…」

「正直、まだ回復したとは言えないな。もう数日待ってても良いか?暫くこの土地で待機したい。」

「ん、分かった。そしたら宿を取って一休みしよう。」

オルの飲料水ボトルを受け取ってごくごく飲むとリリックが立ち上がり先に立って歩き出した。


ベンの世界ではまずまずの宿に泊まれた。風呂は無いが個室は二人分のベッドが用意されて寝心地もまずまずだった。帰還者の元へ飛ぶと時折文明の未発達な場所へいきなり放り出される事もある。そこらじゅうに野生の動物が行き交う大草原に心の準備も無く降り立つ、という事も有り得るのだ。幸か不幸かオルはまだそこまで原始的な世界はお目に掛かっていない。

オルは宿の主人に食事は部屋へ運んでもらう様に頼んだ。そして食べる時以外は延々と眠り続けた。二日間休み続けて髭が伸び放題になり、そろそろ風呂に入りたくなってきた頃だった。

「オル!起きて!」

三日目の昼時にリリックがオルを叩き起した。寝ぼけて首を振るオルに石の欠片を差し出した。

「サラの黒鳴石が光っている。直ぐに行かなくちゃ。」

「何?!」

見ると、サラに渡した石と対になる石が内側からゆらゆらと明るく光っている。帰還者に異常があった時の合図だった。

「オル!早く行こう。」

「ま、待て。風呂に入らないと…」

「じゃあ、髭だけ剃って。サラが話があって呼んでいるだけかもしれないし。大急ぎかどうか分から無いけれど…」

オルも頷いた。

「ああ。約束の7日後まであと2日残っている。それより早く呼ばれたと言う事は早く帰還したくなったか、或いは…」

「誰かに帰還する事を話した時。」

リリックが珍しく険しい顔をするとオルは頷いてみせた。

「サラの旦那にでも話してしまったんだろう。7日間は秘密を守るには長すぎるからな。」

「サラ…」

ぼやきながらオルは手早く髭を剃ると、リリックに手鏡レイ=ミラを渡した。リリックが手早くサラの報告書の紙面に触れて呪文を唱える。

「ラン・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」

「サラ・ヤーハン」

紙綴リンク・パッドと手鏡の触れた箇所から亀裂が走り、眩い光が辺り一帯に光り輝いた。


オルとリリックが辿り着いた先は列車の中だった。走行中の列車から窓の外を見ると荒れ野の景色が流れ去って行く。どうやら街を抜けて山野地帯を進んでいるらしい。

「列車の中?サラはこの列車に乗っているのかな?」

リリックがキョロキョロする。しかし、直ぐにぎょっとなってオルに近寄った。

「オル、オル!しっかりして?!」

オルは列車の通路に倒れて気を失っていた。

「まさか…そんなに消耗が酷いだなんて、どうしよう?」

リリックは自分よりかなり背の高い相方をずるずる持ち上げて列車の座席に座らせた。重労働をした気分だ。

「サラを見つけ出しても自分一人じゃ帰還させる事も出来ないし…。」

そうは言ってもグズグズしている暇は無かった。この列車からサラが下車してしまったらまた追跡し直さなくてはならない。

リリックは決意を固めて列車を移動し始めた。今いる車両は中央辺りの様子なのでひとまず前方へと通路を進んで行く。

客席は空いていてまばらに人が座っているくらいだ。乗客の顔や背格好を確認しながらサラを探した。

一番前の車両まで来たが、サラらしき人物は見当たらない。大急ぎで元いたオルのいる所まで戻る。焦りで冷や汗が滲んできた。

「次の駅まで間もなくです。下車の方はご準備下さい…。」

車掌が通り過ぎる時に声を掛けて行った。

もう次の駅に着いてしまう。ようやくオルのいる席まで戻って来た。

オルの上にかがみ込む男性が居て、リリックは慌てた。

「な、何ですか?貴方?!」

焦りもあって噛み付くような剣幕でリリックが問い詰めた。かがみ込んでいた男性は身体を起こすと声の主である少女に言い含める様に言った。

「この人はかなり重篤な状態の病人だ。今すぐ下車して病院に連れて行かないと手遅れになる。次の駅で降ろそう。君はご家族かな?」

いや、降りている場合では無い。早くサラを見つけないともっとややこしくなって結局オルの負担が酷くなる。それは不味い。リリックは咄嗟に嘘をついた。

「う、後ろの車両に家族が待ってるから…呼びに行かないと。ちょっと、行ってきます!」

「あ、待って!」

男性をオルの元に残して後方の車両に駆け出した。ごめん、オル、と心の中で謝ると大急ぎで次の車両に飛び込んだ。直ぐに勢い余って誰かの胸にぶつかり行く手を阻まれた。

「ご、ごめんなさい!」

リリックが謝ると見上げた先に困った様な顔の男性がいた。そしてその後ろにはサラが泣きそうな表情でリリックを見ていた。


結局次の駅でオルとリリック、サラとその夫ハキムが下車した。娘アイシャと息子ナージャも列車では気付かなかったが後ろに付いてきていた。子供達は落ち着かなさそうにぐったりとした男と黒ずくめの少女をちらちらと見ている。

子供達を駅前の広場で遊ばせて四人は小声で話し出した。

「サラ。ハキムに自分の事話しちゃったんだね?」

サラが項垂れるように頷いた。

「何とか…逃げれないかと思ったんだが。」

ハキムも重い口調で言った。

「サラの居場所は直ぐに分かるから逃げ切る事は出来ないよ。ただね、今はオルが調子悪くて思い通りに帰還させる事は難しいかもしれないね。」

リリックはちらりとオルを見た。眉間に深い皺を寄せている。ベンの場所へ転移した時よりも辛そうだ。

ハキムがリリックをなじる様に言った。

「彼女はこの場所で幸せに暮らしている。二人の子供達にも母親が必要だ。何故君達は私達をそっとしておいてくれないんだ?」

リリックが黙った。決まりだからと言うしか無いのだがそんな言葉が聞きたい訳じゃ無いだろう。

「ちょっと、良いか?」

オルが口を挟んだ。サラがはっと目を見開く。

「本来ならば他人に秘密を明かした瞬間に石が光り、帰還者は逃れる事が出来ずに俺達に捕まる。そして即座に強制送還となる。」

だが…、と続けた。

「今の俺は本来の力が出ない。回復するまで時間を必要だ。」

「じゃあ…まだもう少しだけ一緒に居られるの?」

オルは頷いた。

「ありがとう。」

サラが涙を滲ませて言った。

子供達が追いかけっこをしながら声をあげて笑っていた。


二日後にサラの自宅でまた会う約束をして別れた。次はサラが逃げなければ転移しなくて良いから身体の負担を気に掛けなくて済む。

オルはこの街で宿をとってまた眠り続けた。


十分とは言えなかったが、最低限の休息を取ったオルはきっちり二日後にサラの家へ現れ、夫や子供と離れ難く涙する彼女を元いた世界に帰還させた。

そしてこの世界ではサラが居ない元の形を取り戻した。


オルはあくる朝ベンの元へ転移しようと思ったが、どうしても流転真力・リメンタルが戻らず力が出ない。

「くそっ。どうすれば…もう期限が来る。」

「あのね、オル…?」

リリックが遠慮がちに告げる。

「ベンの帰還は後回しで良いんだって。」

「何?じゃあ、放って置いて良いのか?」

「うん。その代わり…、」

その代わり?と、オルが先を促すとリリックが告げた。

「カレイジャ様の所に報告に行く事になった。」

「本気かよ…」

オルは心底嫌そうな表情で悪態をついた。

その瞬間オルの背後に冷気が降り立った。殺気の様でもあるが、実際に寒気に包まれた部屋の気温はマイナス数度下がった。

「お迎えに参りました。」

外見も冷ややかな銀青髪の長髪を流した女性が現れた。オルは会うのは二度目のこの女性はカレイジャの使い魔ラースリだった。

「ラースリ。オルはまだ本調子じゃ無いから、その…お手柔らかに…ね?」

リリックが遠慮がちに言うのをラースリはまるで気にする素振りも無く無表情に告げた。

「カレイジャ様の元へは私の力で転移します。オルの流転真力・リメンタルを使う必要はありません。」

さあ、貴女も行きますよ、と告げられてリリックは溜め息を付きラースリと移動した。


ラースリに呼ばれると言うのは有無を言わさない拘束を受けるのと同じだ。彼女の凍てつく視線を受けて傍にいるだけで身体だけでなく心も冷ややかに硬直させられてしまう。こちらの抵抗する気持ちは萎えラースリの言う事に逆らえ無くなっていく。

一緒に転移したオルは全身寒気に襲われていた。この女性がリリックの様に四六時中傍にいる相方で無かった事に心底感謝する。

「カレイジャ様に接見する前に療養をしてください。憩寧の間へ案内します。」

オルは消耗していたので何か分からないまま頷いた。そして憩寧の間へ辿り着いた所でまた気を失って倒れてしまった。


高い天蓋に覆われたマーブル珀煌石造りの広間に気だるく長椅子に腰掛けた人物が黒ずくめの少女と向かい合っている。

リリックはカレイジャと接見していた。カレイジャは寛いでいる。リリックはその一段下から主人が声掛けするのを待っていた。

オルがこの主人に敬意を払わないのが信じられない。リリックからすれば万人が平伏す絶対的権威の象徴、それがカレイジャだ。初めてあった日から身に付いた畏怖の念はそう簡単に消えたりしない。それが恐怖を元にしたものであっても。

「リリック。今回のパートナーの転生補はどうだ?」

「恐れながら、少々短絡的で衝動のままに行動する場合がございます。流転真力・リメンタルを使い過ぎて次の場所へ転移する余力が無くなってしまったのも彼の短慮のせいです。」

「ふん、お前は側にいたのだろう?何故そうなる前に留めなかった?」

リリックは居心地が悪くなった。確かに転生補のオルをサポートして管理する立場の自分が諌めるべきだったのだろう。

だがオルはサラと最初の接触をした後、さっさとベンの元へ転移すると決めてしまった。

だがカレイジャの前で言い逃れは出来ない。

「オルの暴走を止めるべきでした。申し訳ありません。」

「そうだな。お前にも非がある。後で罰を与える。」

「…はい。」

カレイジャは横たわって寛いでいた上体を起こして言った。

「オルはお前にとって何代目のパートナーになる?」

「25代目です。」

これ迄に24人の転生補をパートナーとして過ごした。一人一人の名前も順番に思い出せる。リリックにとって懐かしい記憶だ。

「今までの相手とお前は永きに渡って転生者を帰還させ続けた。しかしある一人の帰還者を帰す事が出来なかった。」

「はい。初めての転生補と共に彼に接触しました。それからは毎回パートナーを替えて説得に当たっていますが、何故かいつも逃げられてしまうのです。」

「その相手を帰す事が出来れば…」

「私は転生司を辞める事が出来ます。」

「そうだ。帰還者の一覧であるリンク・パッドを一冊全て消化する事が出来ればお前は自由を得られる。一人でも帰せなければまた次へ繰り越される。」

「そうです。オルもその帰還者を帰せず失敗してしまえば私はまた初めのパートナーとやり直す事になります。」

カレイジャはにやりと面白そうに笑った。リリックは少しむっとするが表情には出さない様に努めた。

「また初めからやり直すとなるとそこから数十年以上転生司として勤めなくてはなりません。今、失敗に終わるのは…厳しいですね。」

「実感が伴っているな。無理もない。」

リリックは厳しい表情で俯いた。

「自由になりたいか?」

カレイジャがリリックに聞いた。

「もう諦めてもかまわないと思う事もあります。」

「何だ。つまらんな。」

それだけがっかりさせられた記憶がたくさんあるからですよ、と心の中で呟く。

リリックは後一歩の所で失敗してしまった今までのパートナー達を思い出す。皆善良で真面目な好人物だった。ただそれだけではこの任務を最後まで終わらせる事は出来ない。

オルは気の良い人物であり、彼の事は好きだ。そうは言っても流転真力=リメンタルが尽きてしまうという初歩的なミスをしてしまったオルを頼りなく思う気持ちがリリックにはある。先行きは不安だ。


オルはぱしゃりと水の跳ねる音を聞いて目が覚めた。見覚えの無い天井と白く霞んだ石造りの広い部屋だ。中央に自分の浸かっている浴槽がありお湯が給水口からこぽこぽと流れている。湯を右手で掬ってみると少しとろんとした白濁色で薄桃色の花弁らしきものがふわふわ浮いている。底には橙や朱色の透明なゼリー状の球が浮き沈みしながら漂っていた。

「何で俺は風呂に入ってるんだ?」

独り言を呟くが答える者もいない。広間は静まり返り、お湯の流れるこぽこぽした音だけが聞こえている。広い部屋に男が1人で風呂に入っているというのは落ち着かない。

確か憩寧の間へ行けと言われたはずなので、此処がそれなのか?と考えていたところに人の気配がした。

足音を立てずに一人の女がやって来た。風呂の近くへ来ると微笑んで言った。

「起きられましたね。よくお休みでした。」

「普通は風呂に入って寝てたら溺れてしまうものだが…。俺をわざわざベッドではなく風呂に入れて置いたのは何故だ?」

「治療にはこのお湯でないと効果が無いのです。流転真力=リメンタルが回復しているでしょう?」

オルは手を握ってみた。リメンタルが回復しているかは分からないが転移を繰り返した後の疲労感は無くなった。

「毎日この湯に浸かれば流転真力=リメンタルは回復するのか?」

「そうですね。このお湯に浮かぶ花弁と底に沈む球体はこのカレイジャ様がいらっしゃるカナル・パレスでしか手に入らないのです。他の亜空間へは持ち出せません。」

「じゃあ、この間みたいに転移する力が無くなったらここへ来れば良いのか?」

女性は苦笑した。

「カレイジャ様のお許しが無ければ憩寧の間へは入れません。貴方は運が良いのですよ。」

オルは女を見た。金橙髪の長髪を流した女性だ。初めて会う人物だが何処かで見たような既視感を感じる。

「私はカレイジャ様の使い魔ナースリと申します。貴方を此処へ案内したラースリと同様カレイジャ様の下僕です。」

そう言われてみれば、青髪のラースリを金髪に置き換えて見ればよく似ていた。

「着替えを置いておきます。身支度の後で御食事をなさって下さい。」

そう言うとまた足音を立てずに去って行った。残されたオルは湯から上がると白布で身体を拭いた。ふと自分は裸で若い女性と顔を合わせ会話していた事に気付く。

「気にする事でも無いか…」

現実離れした場に意識が向いていたせいで、常識的な羞恥心を忘れていたようだ。とは言っても今からナースリに顔を合わせるのが少し気不味く感じられた。


気力も戻り空腹を感じていた処へ供された食事は申し分無く美味しかった。満足したオルは給仕をしてくれたナースリに礼を言った。

「感謝します。生き返った気分だ。」

「憩寧の間では誰でも治療し英気を養って頂けます。罪人でも聖人でも分け隔て無く。」

「俺はそのどちらでも無いが…」

ナースリはオルの顔を見て言った。

「カレイジャ様は貴方に罰をお与えになるでしょう。残念ですが避けようの無い事です。」

「え?ちょっと待て。俺は何か悪い事したのか?」

「そう聞いています。カレイジャ様が直接お話くださるでしょう。」

「そうか…。」

オルは気が重くなった。気を取り直して聞いてみる。

「俺はこの場所にまた戻って来れるのかな?」

ナースリは口元に笑みを乗せて首を振った。

「カレイジャ様との接見が終わったらまた任務に戻られる予定です。」

「そうか。湯は素晴らしかった。ありがとう。」

「身体が弱っている時は心も弱っているものです。この憩寧の間に居らっしゃる方を癒すのは私の務めです。カレイジャ様は厳しいお方ですので、どうぞお気を強く持って下さいね。」

オルはふと罰則を受けなければならない事が気に掛かった。ナースリの警告は大袈裟だろうとは思うが不安になって来た。


天井高い広間の中央で長椅子に腰掛けたカレイジャはオルと向かい合っていた。

「オル失態だったな。」

オルとリリックが話の種にしていた時はカレイジャは単なる嫌味な上司くらいの軽めの扱いをしていたのにいざ目の前にした本人は威圧感がもの凄い。目を合わせるだけで石にでも変えられてしまうのでは無いかと背筋が凍る思いだ。オルは転生補にされた時に一度カレイジャに会っているが、その時からずっと苦手意識が拭えない。出来れば永遠に会わずに避けて通りたい相手だと思っている。

その相手がオルに叱責を与えているのだから、謝るより他に無い。

「申し訳ありません。」

「ベン・マードックは危うく接触から7日過ぎても帰還させる事が出来ず転移不能になる所だった。お前の流転真力・リメンタルが不足して充分に出来なかったせいでな。」

カレイジャはオルを冷ややかに見て続ける。

「我がカナル・パレスの支援が無ければベンの魂は本体を離れて何者からも忘れ去られ、時空の狭間を彷徨う死魂となっていただろう。」

「まさか…。そうとは知りませんでした。」

「お前の知らない事は多い。」

オルは痛い所を突かれたと思った。今回は自分の無知が引き起こした事態だ。

「まあいい。お前が無謀な転移をしようとしたのを阻止しなかったリリックにも責任がある。」

「リリックは止めようとしました。」

「だが止められなかった。よって今は罰則を受けている。」

「え?リリックが罰則を受けている?」

カレイジャは肩頬だけで笑った。

「同じ罰をお前も受けねばならぬ。」

オルは足元の一点を見詰めた。自分はともかく、リリックが罰せられるのは納得がいかない。

「代わりに俺が罰を受けます。リリックは悪くありません。」

「ああ。その通りだ。リリックの身代わりになると良いだろう。」

オルは自分から言い出したはずが、カレイジャがあっさり了承するので肩透かしを食らった。

「話は済んだ。下がれ。」

部屋の隅に控えていた侍女が両脇から現れてオルに退出を促した。長い白髪を流した二人は双子の様だがどことなくナースリにも似ている。カレイジャの趣味なのかもしれないとぼんやり思う。

オルは大人しく部屋を退出した。


侍女二人に前後を挟まれて案内された先は庭園だった。中央に噴水があり涼し気な水が湧き出している。花々が咲き乱れて気持ちの良い風が渡っていた。

「リリック様の元へご案内致します。」

先を行く方の侍女が言った。

「オル様にはリリック様の身代わりになっていただきます。」

後ろからついて来る侍女が同じ声で言った。

「ああ。承知してる。」

オルはリリックがどんな罰則を受けているか聞かなかった事を悔やんだ。心の準備が出来ていない。最悪鞭打ちとか、楽なものなら反省文を書き続けるとか、いろいろ想像を巡らしてみる。

侍女の1人がオルに筒状の物を差し出した。

「これは?」

「中身は水です。リリック様に差し上げて下さい。」

オルが筒を振るとちゃぷんと音を立てた。何故水を渡されたのか不思議に思ったが、とりあえず受け取る事にした。

三人は庭園を抜けて草木の生い茂る遊歩道に進む。両脇を植生に覆われた石畳の道をずんずん進むと行き止まりの塀に辿り着いて止まった。

「此方からどうぞ。」

侍女の示した先は鬱蒼と蔦に覆われた扉だった。かちっと扉の鍵を開けると薄暗い空洞が広がっている。先が見えず薄気味悪い。

「お気を付けて。」

侍女2人に恭しくお辞儀をされて見送られた。オルはこの先どうなるかを聞きたかったのだが、そんな気配を完全に跳ね除ける拒絶感が2人にはあった。

「どうも…」

空洞の先は闇が広がっている。数歩踏み出し進むと後ろの扉が閉められた気配がした。


オルはあてども無く進んで行った。周りは闇で視界を奪われており次第に不安になっていく。何か障害物でもあればつまずいてしまいそうだ。

「誰か…いないのか?」

どちらかと言うと自分は豪胆な性格だと思っていたがさすがに漆黒の闇にずっと放り込まれてしまっては堪らない。大声で叫び出してしまいそうだ。

数十メートル程手探りで進んだ頃だろうか。

「おーぃ…?来たぞぉぉ?」

オルの独り言とも言える呼び掛けに答える声があった。

「…オル?」

「リリックか?!」

微かな声を頼りに恐る恐る進むとゆっくり視界が戻って来た。オルの数歩前辺りでリリックが横たわっている。

「大丈夫か?」

目がほんのり闇に慣れて来たのか辺りの状況が見えてきた。リリックは外傷は無さそうだがぐったりとして動かない。意識はある様だが消耗していそうだ。

「飲めるか?水だ」

ここへ来る前に渡された水を渡す。リリックは受け取ってゆっくり飲み干した。

「あぁ…」

リリックは美味しそうに飲んで溜息をついた。

「喉が渇いていたのか?良かった。」

そこで初めてオルに気付いた様に視線を合わせた。途端にリリックがぽろぽろと泣き出す。

「お、おい?どうした?」

「…遅いよ」

「そうか。すまなかった」

オルに細かい事情が分かっている訳では無かったが自然と謝ってしまった。

「さあ、帰ろう」

リリックが首を振った。

「帰れない。」

「でもこんな暗闇でいつまでもいる訳には行かないだろ?」

リリックがまた涙をこぼし始めた。オルは親指でその涙をそっと拭った。

「ごめんね、オル…」

「大丈夫だ。謝らなくて良い。」

リリックが少し躊躇う素振りを見せてから、ひと息ついて言った。

「この闇間の淵には必ず一人だけ留まらないといけないんだ。一人抜けたら一人が残る。」

「じゃあ、リリックが帰れ。俺が残る。」

代わりに罰を受けるってカレイジャに言ったしな、と軽い調子で言った。

リリックは目に力が戻って来た様子でオルをじっと見た。

「辛いよ。想像以上に。」

「罰なんだろ。仕方ないさ。」

オルが笑った。

本当は大丈夫でも無かった。この暗闇も不安を掻き立てるし、リリックの消耗ぶりを見ると自分にも同じ事が起こるのが怖い。

でも誰かが残らないといけないと言うならまた再度リリックを残して行くなど到底出来なかった。残るなら自分だ。

「次に誰かがやって来るまで…待っていて。」

「ああ。分かった。後でまたな」

リリックがオルの首に抱きついた。小さくまた謝る。

オルがその小さい頭をぽんぽんと軽く叩くとリリックの姿と温もりが去り、離れていった。最後にまた小声でごめんね、と聞こえた気がした。

リリックの気配が無くなると、オルは急に独り取り残された状況が身に迫ってきて呆然となった。そして急にこの状況がカレイジャの与えた罰だった事を改めて思い出した。

「性格悪ぃ、な。カレイジャ!」

聞こえている筈も無いが、カレイジャ本人を呪わずにはいられなかった。


毎日朝が来て夜が来る。そんな当たり前の日常が今は無い。

あるのは闇。そして圧倒的な静寂。

初めのうちは大体の日にちを数える様に自分の時間感覚で数えていたが、5日過ぎたところで辞めた。

「腹は減ってるし、眠気もあるんだよな。」

水分を取らないと人は生きていけない筈だが今のところ大丈夫そうだ。飲まず食わずで餓死するという事は無さそうだ。

眠くなったら寝ている。というか、他に出来る事が無い。だがいつまでも闇の中なので昼夜を感じられない。

「いつまで、もつかな…」

暗闇で過ごしていれば目が退化するだろう。運動せずにいれば筋肉も衰える。

オルは早く誰か来い、と願う。

でなければ早く誰か俺を死なせてくれ、と願ってしまう。

この先は絶望との戦いだ。


リリックは先に戻ったカナル・パレスでじりじりとオルの帰り を待っていた。身代わりにオルを闇間の淵に置き去りにしてしまったことをずっと悔やんでいる。

「だけど…あの時は限界だったんだ…」

唇を噛みながらリリックは呟いた。

そこへ足音も無くナースリがやって来た。暗闇から戻ったリリックを癒すセラピーを毎日行っている。今日で三日目だ。

リリックが寝台に横になるとナースリが薬草を乳鉢に数種類入れてごりごりと擦り始めた。聖水と香液を入れて混ぜ合わすと辺りに爽やかな香りが立ち登った。首筋から肩、腕

、胸部と上半身から順にマッサージしていく。リリックは思わずほぅっと声を付く。

「お加減は如何ですか?」

鈴が鳴る様な声でナースリが尋ねた。その声まで含めてセラピーの様で癒し効果がある。

「…生き返る。」

「取り込み中だろうが、邪魔する。」

「カレイジャ様…どうされました?」

「わ、わわっ!」

前置きなくカレイジャが室内へやって来た。リリックは一糸まとわぬ姿だったので慌てて傍にあるシーツを手繰り寄せた。

カレイジャは侍従を顎で呼ぶと担架に載せられた人物を運び込ませた。長身の男性と見られるその人物は意識が無い様子で微動だにしない。

リリックはもしや、と思った。手繰り寄せたシーツを放り出して担架に駆け寄る。

「オル!」

土気色の顔色をした男性は間違いなくオルだった。まるで死人の様だ。

「カレイジャ様!オルは!」

リリックはカレイジャに向かって仁王立ちで立ち詰め寄るとこの状況の説明を求めた。

そこへ静けさを称えた声が割って入った。

「リリック。控えなさい。」

ラースリが部屋の扉付近で立っていた。

リリックは次に言おうとした言葉を飲み込んだ。ラースリの持つ凍てつく空気のせいで冷水を浴びた様に硬直してしまう。

「次の迎えに寄越す者が居なかった。私も暫くオルの事を忘れておったのでな。思いのほか長期間闇間の淵に放置してしまった。消耗しているのでナースリ治療をしてやれ。」

かしこまりました、とナースリが頭を下げる。

そのまま部屋を出ていこうとしたカレイジャにリリックが食い下がった。

「お待ち下さい、カレイジャ様!オルは…どれほどの時をあの暗闇で過ごしたのですか?」

闇間の淵とこちら側の時間は進み方が違う。カナル・パレスでは数日でもあの暗闇ではどれ程経ったのだろうか。

カレイジャは振り向くと肩頬で笑いながら言った。

「数十年は過ぎている。」

「っ!」

リリックは視界が暗くなった気がした。

「私は…あの闇の中にいたのは10日ほどだったと思いました。でもあの場所では時間は意味を成しません。こちら側に戻った時には闇間の淵に入った時とほぼ同時間に戻った事になっています。髪も伸びず、身体も細らず…」

カレイジャは当然だという風に頷いた。

「ですが…身体は淵に入る前と同じ状態でも心は違います。リリックは10日間の孤独と闇の記憶を忘れる事は出来ない…。」

ナースリがリリックの心象を言い表した。それを聞いてリリックは涙が流れた。

「そうです。私の心は…酷く傷付けられました。この先も決して癒える事が無いと思えたほど…」

でもオルと交代したあの時、これ程まで長い間彼を暗闇に放置する事になるとは想像していなかった。10日間程でも永遠の様に感じられたのだ。オルの苦痛はどれ程だったろう。

「オル…オル…。ごめんなさい。」

オルの担架に寄り添ってリリックは泣いた。

「身体に損傷は無い。ナースリ、こいつが起きたら任務に戻らせろ。」

「かしこまりました。」

リリックはゆっくりと涙に濡れた顔を上げてカレイジャを見た。

カレイジャは表情を変えること無く去って行った。


強い香草の匂いがする。

深い暗闇が瞼の裏に焼き付いている。

だが、久しぶりで感じる光の気配が瞼を閉じていても分かった。どこと無く暖かみがあるからだ。眩しさに慣れる様にゆっくり瞬きを繰り返すと次第に視界が戻って来た。

「ああ、オル。目が覚めた。」

リリックが心配そうに覗き込んでいる。


俺は死んだのだと思っていた。

だが意識はある。どうやらこちら側に戻って来たらしい。

暗闇の中で考えていたのは早く終わりにしたい、ただそれだけだった。始めはいつかは迎えが来るだろうと希望を持っていたが、早々に諦めた。救いが来ると期待するだけ虚しくなっていく。そして俺の傍にあるのは闇だけだ。

途方も無く長い絶望の中で生きてるのか死んでるのかも分からない。いや、もう既に身体も朽ちているのかもしれない。何しろ飲まず食わずでずっと闇の中だ。俺はおかしくなってしまったのだろうか。

時々眠った。しかし疲労が無ければ大して眠りも訪れない。直ぐに目が覚める。しかし闇の中なので自分が何を見ているのかも分からない。

「おぉぉぉぉ────!!!」

時々挙げる獣じみた咆哮も静かに闇間に吸い込まれてゆく。

「あぁ─おおおぉぉぉ─────ぃぃ!!!」

返事は無い。

だが叫ばずにはいられない。

「誰か!俺を!…助けろぉよぉぉぉ!!」

叫びは虚しく消えていった。


どれ程経ったのか。永遠の時が過ぎたと思った。絶望し早く死なせてくれとそればかりぶつぶつ唱えていた頃だった。

ようやくカレイジャが現れた。

「水だ。飲むと良い。」

差し出された水の筒を震える手で受け取った。ゆっくり口に含みつつ、水が喉を通る感触を味わう。

泣きたかった。だが涙は枯れていた。

「代わりの者は来ない。この闇間の淵は閉じる。」

闇の中に贄が居ないと空間が保てないからな、とカレイジャが言う。

オルは自分の耳で聞こえているのかどうか分からないぼんやりとした感覚で聞いていた。カレイジャの声は何処か遠くで響いている様だ。

「来い。ここを出る。」

オルは昏倒した。


それから数日、ナースリは憩寧の間でオルの身体を癒した。湯を満たした浴槽に横たわるオルは始めの頃はぐったりとして死人の様だったが数日経った今は顔色も大分良くなった。

リリックはずっとオルの傍を離れなかった。罪の意識があるからかもしれない。ナースリはリリックの気が済むまで好きなようにさせておいた。


「ナースリ。オルが目が覚めたよ。」

リリックが別室にいたナースリを呼びに来た。二人で連れ立ってオルの様子を見に行く。

「オル様。どうですか?」

「大分、良いと思う。」

リリックは少し後ろから唇を噛みながら様子を見守っている。どう声を掛けたら良いか分からない。

かつてのオルらしい明るい瞳の輝きは今の彼には無い。リリックはこの先二人での任務に戻る事を思い不安を感じていた。


憩寧の間での治療を経てオルとリリックは元いたベンの住む場所へ転移した。先ずはベン・マードックを転生前に帰還させなければならない。

「ベンの時間軸では、俺達と会った日の翌日という事らしい。」

「そう。じゃあ、あと6日間はベンが今の世界に留まる猶予が残っているという事だね。」

リリックが指を折りながら日数を数えた。

「彼の家の近くで宿を取ろう。黒鳴石から呼ばれるまでは何もする事が無い。」

リリックはそっとオルを見た。硬く冷ややかな横顔から感情を読み取る事は出来ない。以前のオルとはやはり何かが違う。

「そうだね…。行こう。」

リリックは小さく返事を返した。踵を返してさっさと先を行くオルの後ろをリリックがついて行った。


ベン・マードックは妻と夕食のテーブルについていた。香草のサラダ、仔羊のソテー、焼き立てのパン、毎日心尽くしの手料理が食卓に並ぶ。妻は料理上手だと思うが彼女の良い所は程よく手を抜いていても美味しい家庭の味をずっと楽しませてくれる事だ。仕事で辛い事があっても食卓に付けば和む事が出来た。

ベンはぼんやり帰還後の事を考えていた。現在は数々の新技術を発明した世界でも指折りの科学者だ。学院では名誉教授として重用され、企業からは技術提供を請われ、母国からは栄誉ある科学賞を授けられた。しかし自分の生み出した発明では無く元いた世界の技術をあたかも自身の発見であるかのように発表した物だ。何処か後ろめたい気持ちは常にあった。

だが一旦享受したこの世界の名誉の数々を全て手放さなくてはならないらしい。そして最愛の妻もだ。私の居なくなった世界では助手のランドが自分に取って代わるかも知れない。彼はベンの研究を完成ともいえる段階まで進めていた。ただ決定的な証明が出来ず公に発表する事が出来なかった。

ベンは転生前の世界でその理論を知っていたので証明は容易く出来た。ランドはあと一歩の所でベンに遅れをとってしまった。だがベンの居なくなった世界では彼が第一人者として表の舞台へ名乗り出るのだろう。悔しいがそれが正しいこの世界の在り方だった。


オルは毎日窓の外を見てぼんやりする事が多くなった。ただ待つだけの7日間を無理せずに過ごしている。


オルは感情を現す事が全く無くなった。そんな相手パートナーにリリックは極力接触しない様にしている。オルが部屋に籠っているので一緒に部屋に居るのも居心地が悪く、用も無いのに朝から街をぶらつく。

「別に避けなくても…良いけどね。」

独り言が口から漏れた。溜め息もだ。

街は活気のある市場が開かれていた。色取り取りの野菜や果物、今朝上がったばかりの鮮魚、加工肉や燻製などは軒先で香ばしい匂いを漂わせている。果実酢や発酵乳、炭酸水など手軽な飲料も多い。

市場の反対側のエリアは雑貨を売る店で、色鮮やかな織物や敷物、鞄や帽子、様々な色形の靴など、身の回りを飾る品が所狭しと並んでいる。女性なら歩いているだけで心が浮き立つだろう。

リリックは毎日この近辺をぶらぶらしているので目に映る品も店舗も新鮮味が無くなっていた。連日現れる黒ずくめの少女は何も買う気が無いらしいと店側も気付いた様で、特にリリックに品物を売り込もうとする店も無い。

市場を端から端までぶらぶら冷やかした。今日も既にひと通り廻ってこれから2周目になる。市場の店舗ももう何処に何が売っているか覚えてしまった。かなり広い敷地で百以上の店舗が並んでいるのにさすがに飽きてしまった。傍から見ればさぞ暇を持て余してそうに見えるだろう。

焼き立ての串肉を売る店で声を掛けられた。

「お嬢さん、買っていかないか?1本500ペリだよ。」

香ばしい匂いが漂ってきた。朝から何も食べていないせいかリリックのお腹が先に反応して鳴った。そろそろお昼の時間になる事だし腹ごしらえしようと決めた。

「1本ください。」

「あいよ!」

代金を払おうとポーチからな1000ペリ貨を渡した。釣り銭を受け取るとやけに少ない。

「ほらよ!」

「ちょ、ちょっと待って。1本だからお釣りは500ペリのはずで…それにこんなに数を買ってないよ…?」

リリックの手に野菜焼きの串を3本と串肉1本が渡された。お釣りは小銭がほんの少しだけだ。明らかに計算がおかしい。

「いや?サービスだよ。黙って貰って帰んな!」

店主はニヤニヤ笑いながらその場を収めようとした。周りの柄が悪い野次馬が面白そうに集まって来る。リリックは余分な串を返そうとした。

「要らないよ。1本しか頼んで無いし。」

「おう?何だと?サービスだって言ってんのに要らねえのか?何様だ!ガキ!」

店主はニヤニヤ笑いを納めて今度は恫喝してきた。野次馬達はますます面白そうにやいやいと囃し立てている。

「俺の店に泥を塗るとはいい度胸だなぁ、あぁ?」

「そんなんじゃ…」

リリックは言葉が告げなくなって来た。見れば野次馬達に囲まれて逃げ出そうにも身動きが取れなくなっていた。ひょっとして嵌められたのかと不安が押し寄せてくる。

「ちょっと向こうで話を付けようか。払うもの払ってくれたらそれで良いんだけどよ。」

なぁ?と周りの男達に相槌を求めると口々にそうだそうだと声が上がった。気付けば両腕を大きく屈強そうな男2人に捕まれ身動きが取れなくなっている。

「奥の天幕に連れて行きな。優しくな。」

店主は男達に指図した。リリックには自身がどうなってしまうのかまるで見当がつかない。所持金を全部取られてしまうのか、何か痛めつけられたりするのか…。

男達に無理矢理引き摺られる様に奥の天幕の入り口へ押し込められた。リリックが床に転がされる様に放り出される。

「おい、商品になるかもしれないんだ。手荒に扱うな。」

右隣の男がニヤニヤして言った。

後ろから入って来た別の男がリリックの上に屈んで顔をあげさせ、頬を撫で上げた。

「綺麗な顔してるな、コイツ…。」

リリックはぞわりとして何とか逃げ出そうと入り口を見たが、男達が立ち塞がっていて隙が無かった。

「逃げられないよ?お嬢ちゃん?」

代わる代わる男達が品定めする様にリリックを見た。腕を後ろに回されて紐で固く結ばれた。こんな状態では一人で逃げるのは無理だ。リリックが望みを捨てそうになった時、入り口から光が指した。

「俺の連れが失礼な振る舞いをしたそうだな。悪かった。」

リリックが光の眩しさに目を細めるとオルが警官達と店主を連れて部屋へ入って来た。

「お巡りさん、この子が商売の邪魔をした様です。食い逃げらしいですよ。早く逮捕して連れて行って下さい。」

オルの説明は明らかにリリックを非難したものだった。

「え?オル、話がおかしいよ!」

「いや、子供だからと言って見逃しては駄目です。連れて行きましょう。」

オルがそう言うと警官達と一緒にリリックも外に出た。

「失礼しました。」

警官の後に付いたオルが深々とお辞儀をする。残された男達は苦々しい顔をして部屋にあった椅子を蹴り上げた。


警察の近くまで行くとオルは警官達に礼を言った。警官達も心得ていたのかリリックをあっさりと釈放する。

「あの者達は頻繁に問題を起こすガラの悪い連中だ。人身売買も請け負っているから、君のようなお嬢さんは気をつけた方が身の為だよ。暫くは近寄らない様にしなさい。」

「はい。ありがとうございました。」

リリックはお礼を言って頭を下げた。オルも一礼をして踵を返し、リリックを伴って宿まで大人しく戻った。歩いて戻るその間ずっと二人に会話は無く、沈黙が続いた。

リリックはオルをちらっと見た。助けてくれたのだ。

宿で落ち着くと二人は向かい合わせで椅子に腰掛けた。オルの方から口を開く。

「この地域は人身売買があるらしい。気を付けろ。」

リリックは言葉に詰まった。辛うじてこくんと頷く。

「お前は見た目は売れそうだからな…。」

何だそれ、と思ったけど口には出さなかった。

オルは元通りの軽口を叩いている様に見えたが、表情が笑っていない。腕組みをして窓の外をぼんやり見ている。

リリックは再度気まずくなった。宿へ来るまでは助けて貰ったお礼を言おうと考えてたが、気持ちが萎んでしまった。はっきりと隙があるリリックの方が悪いと怒ってくれたら反論も出来るのに、これでは黙るしかない。

しばらく沈黙が続くと、オルが口を開いた。

「放っておいて悪かった。」

リリックははっとオルを見た。眉を寄せた表情は苦しそうに歪んで見える。

沈黙の後にのろのろとオルが呟いた。

「まだ、俺は引き摺られている様だ。…闇に。」

リリックもそれを聞いて苦しくなる。

オルはそっと顔を両手の平で覆って深い溜め息を付いた。

「時間をくれ…。すまない。」

絞り出す様にそう言うと、そのまま動かなくなった。泣いているのかと思った。

リリックは慰めようとした言葉を飲み込んだ。オルになんと言って良いのか分からなかった。


ベンを帰還させる7日目が来た。オルとリリックは未だにぎこちない距離感でお互い接していたが、仕事となるとそうも言ってられない。決められた通りの手順を淡々とこなす。

夕刻、ベンの家までやって来ると玄関先で対面した。

「ベンさん。帰還する日になりました。」

「今から貴方を元の世界へお帰しします。」

オルとリリックの静かな声にベンは頷く。

「ただ…妻に話しても 良いか?最後の別れを告げたい。」

オルとリリックは顔を見合わせた。

だが時々このケースもある事だった。帰還の直前に家族に別れを打ち明けると言うのだ。7日間過ごした後に別れを告げてから帰還するにはこのタイミングで打ち明けるしかない。もちろん、何も告げずに帰る事も多い。

直前に帰還する事実を話す事は禁止事項では無い。彼等を二人きりにして暫く待つ事にした。

「どうぞ。我々は庭先で待ちます。」

「ベンさん、頑張ってね。」

ベンはありがとうございます、と頭を下げて部屋へ戻った。


ベンは妻に今までの経緯を話し、今日帰らなくてはならない事を告げた。ただ、彼女の時間が自分と知り合う前に戻る事は告げなかった。自分との思い出を大事に持っていて欲しい。ベンが帰還すれば忘れてしまう記憶だが、わざわざそれを告げるのも情の無い行為だという気がしていた。

「信じ難い話だけど…。冗談で言っているのでは無さそうね。」

ベンの妻は苦笑した。あくまで軽い調子で続けて言った。

「もうお別れなの?こんなに急に…」

「すまない。国際ローウェル賞を取って君をエスコートするのが夢だったんだが。」

ベンが軽く冗談を言うと、妻が涙を堪えて笑った。

「大丈夫。ローウェル賞は取れなくても十分幸せだった。貴方のお蔭で。」

ありがとう、とベンは妻に告げた。


ベンは妻を伴って玄関先に現れた。

「待たせて済まなかった。行くよ。」

オルとリリックは頷いた。

リリックは懐から平たくて丸い手鏡の様な転生の道具レイ=ミラを取り出した。表面には紋様に沿って流れ星の様な光の筋が走り、リリックが手の平に力を集中すると光の筋が増え、激しく点滅を増した。

ベンは妻の手を取った。妻も両手で夫の手を握り返す。ベンがありがとうと言うと妻は笑顔で答えた。


オルとリリックはベンを伴って薄明かりの空間を漂っていた。天井も地面も無い空間の中で浮遊感に身を任せながら三人とも浮いている。帰還する前の中間点とも言える場、繋ぎの渡り場と言われる空間だ。

「ベンさん、貴方はここで選択しなくてはいけません。まず一つ、何時に戻りますか?」

「元の世界では産まれたての赤ちゃんの瞬間に戻る事も出来るし、最後の記憶の時に戻る事も出来るんだよ。」

「それは…驚きました。何時でも良いのか…」

ベンは暫く考えた後で言った。

「私は仕事中の事故に巻き込まれて、その時の衝撃まで覚えているけどそこからは記憶が途絶えています。」

オルが頷いた。

「その事故がきっかけで転生したのでしょう。」

「事故のタイミングに帰還したら…?」

ベンがゴクッと喉を鳴らした。

多分、帰還した瞬間に命を失ってしまうのだろう。

転生した者は大半が何か強い衝撃に見舞われて命の危険に晒された時に、命が本能的に危険から逃れようとしたせいで時間軸の異なった隙間へ移動してしまうのだと言われている。戻るタイミングによって、帰還先では命の危険にすぐさま見舞われるかも知れない。

「それからね」

リリックが続きを話す。

「もう一つの選択は、今の転生先の世界の記憶を持って帰るかどうかだよ。綺麗さっぱり無くしても良いし、記憶のあるまま帰っても良いんだ。」

どうする?と、リリックが聞いた。

ベンは考えながら瞬きを繰り返した。

「…妻との記憶を持ったまま、か。」

オルも頷いた。


少し迷ったベンは返事を返した。

「記憶は、残したまま行く。」

リリックが分かりました、と言った。

「帰る時間、だが…」

オルとリリックの視線を受けながらベンは告げた。

「私が転生したあの事故の瞬間に戻ろうと思う。仮に命がそこで尽きても悔いは無い。もうこちらの世界で充分…私の生を生きたのだから。」

オルとリリックが頷いた。

「死にに戻る様なものだな。」

ベンは苦笑した。

「もっと遡って人生をやり直す事も出来るのですが…良いのですか?」

「ああ。充分だよ。」

承知しました、とオルは言った。


リリックは手鏡レイ=ミラを出して呪文を唱える。

「ラス・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」

「ベン・マードック」

手鏡の紋様が眩い光の渦を描いた。激しい閃光が点滅し次第に光量を増して辺り一体を白い光の世界で埋め尽くす。

「元ある命のままに存在の確かな時の枠へ。一つの御魂帰られん。」

「さよなら、ベン。出来れば…どうか無事でね。」

リリックの言葉は届いたかどうか、光に全身が包まれ発光しながらベンの姿は見えなくなってしまった。

暫く経って光の奔流が治まると辺りに薄明かりの空間がまた戻って来た。

オルとリリックは空間の中で漂いながら、ベンがどうか事故による死を逃れてまた新たな生を繋げる様にと2人別々に同じ事を願っていた。


ベンが目を開けるとそこは久しぶりに見る転生前の職場風景だった。自分も転生前の若き日に身体が戻っていた。久しぶりに見る上司のライリーがベンに指示を出す。

「次は新しく納入したサンプルの試運転だ。手順は頭に入ってるな?」

ベンは頭をフル回転させて記憶を呼び起こす。

ほんの先程までいた転生先ではもっと基礎的な技術だけで充分にやってこられた。元の世界に戻って急にハイテクな最先端技術の真っ只中に放り込まれたようだ。記憶がすぐに戻らず動揺してしまう。

「仕様書をもう一度確認しても良いですか?」

上司は一瞬きょとんとしてから笑った。

「何だ、珍しいな。普段いつも余裕で仕事をやっちまうから確認作業なんて絶対しないのに。」

そら、と仕様書をぽんと渡してくれた。ありがとうございます、と言って素早く目を通す。

ベンはふと違和感を覚えて言った。

「これ、もう一度手順を見直して数人がかりで試運転をした方が良いですね。ここのチェック体制が甘いのでもう一人補助する人員が必要ですよ。」

「おう。そういえば、俺もその方が良いと思っていたんだ。事故を起こしても不味いしな。本部に応援を頼みに行ってくる。ちょっと待っとけ。」

そう言って上司ライリーはその場を離れた。

その間にベンは安全装置に付いているバルブを確認した。心無しかネジが緩んでいる気がする。

「これか…。事故の原因は。」

ベンが機器のチェックをしている所にライリーが戻って来た。

「おっ、どうした?始めるぞ。」

「ちょっと待って下さい。ここのネジが緩んでるみたいです。」

「お、気付かなかったな。これは下手すりゃ事故に繋がるぞ。危ない所だった。」

ありがとなベン、と言ってライリーは点検し直した。

ベンは背中に嫌な汗をかいていた。

この自分の決断がひょっとして事故を防ぐ未来に繋がっているかも知れない。あのまま異常を見逃していたら自分は死亡事故に合っていただろう。

また死ぬ訳にはいかない。もう一度この世界でも生きていたい。ベンは急に生への執着を感じた。

ベンは妻との記憶を失いたくない一心で全て覚えたまま帰還した。今の記憶の一つ一つは転生先での妻との大切な思い出も含まれている。

それが自分を救ったとも言える。記憶を全て消していたら不具合に気付けなかっただろう。朧気に残る記憶が無意識に危険を察知し、この先の未来を変えたのだ。

ライリーがベンを呼んだ。物思いから覚めてベンは作業に集中した。


「良し。今日の作業は無事終了だ。帰っていいぞ。」

夕刻になり、上司ライリーの言葉で皆揃って解散した。口々に帰りの挨拶と労いの言葉を交わす。

今日一日何事も無かった。

事故は起きなかった。

自分は生きている。

ベンはじわじわと幸運を噛み締めていた。そして胸の中で妻に話し掛ける。

僕の生が繋がった様に、君の未来も新しい歩みを始めているだろう。一緒に歩く事は出来なくなったけれど、どうか幸せであって欲しい。

ベンは顔を伏せて目を強く瞑り、涙を堪えた。


オルとリリックは繋ぎの渡り場からベンの元いた世界の宿へ戻り、ひと息付いた。

「ベン…ちゃんと事故を避けられたかなぁ?」

リリックが小声で呟いた。

オルはちらっとリリックを見ただけで返事をしなかった。荷物の中から紙綴リンク・パッドを取り出して椅子に掛け、静かに次の依頼を読み始める。

リリックは手持ち無沙汰で居心地が悪くなった。仕方無くベッドへもそもそと潜り込んで寝てしまう。

まともに会話もしてくれないオルのせいで寂しさが募った。シーツを被ってそっと目を瞑ると、次第に眠りに落ちていった。


それから先、帰還者を返す作業は順調に進んだ。以前のように無理をして同時進行で複数の案件に当たろうとしなければ時間は緩やかに進んでゆく。

オルは相変わらずだった。以前の様に軽口を叩く事が無くなって何時もむっつりと押し黙っている。

リリックは元々こういう相手だと割り切る事にした。時々話し掛けてみるのだが、ああ、とか生返事を返され時には無視をされる。それが何度か続いてさすがにリリックも距離を置かれていると気付いた。

原因は闇間の淵で数年置き去りにされた事を未だ気持ちが引きずっているからだ。

あの時リリックがオルを身代わりにした事をどうやら許せずにいるらしい。仕方の無い事だがリリックとしては何時か元通りの関係に戻れると信じてやっていくしかない。


ある夜中にリリックはオルの呻き声で目が覚めた。時刻は深夜だ。

「うぁ…あぁ…っ。誰か…、誰も…、居ないのか?」

絞り出す様な呻き声は苦しそうだ。リリックは怖くなった。オルのベッドにかがみ込み手を伸ばす。

「出してくれ…誰か…!あぁ…!」

リリックはオルの肩の辺りを揺さぶり起こそうとした。

「オル、オル、しっかりして。夢だよ。」

軽く揺すっても唸り声をあげるだけでオルは目を開けない。

「オル、起きなよ。」

「あぁぁぁっ!ぐぅ!」

「しっかりして!闇は居なくなったよ!」

強めにリリックが揺さぶると、オルがひと声奇声を挙げてガバッと起き上がった。

「はぁぁあーー!!」

リリックは驚いて飛び退いた。

オルが両手を振り回し、思いきり辺りを払う様に暴れ始めた。その片手がリリックの頬を掠めて打った。

「痛っ…」

「あぁぁぁ…!」

リリックが痛みを堪えていてもオルは気付かない。

「しっかりして!オル!」

「うるさい!」

今度は本気でリリックに向けて手を払った。

身体を投げ出される勢いでリリックが跳ね飛ばされる。

「オル…」

「うぅぅ…」

オルはまだ苦悶の表情を浮かべている。

リリックに出来る事は無かった。


翌朝、オルはなかなか起きなかった。無理もないだろう。あれだけうなされていれば眠りも浅かった筈だ。

リリックはそっと部屋を出た。

人気の無い場所へ歩いてたどり着き、誰も周りに居ないのを確認する。ポケットから紺灰色に光る石を取り出し呼び掛けた。

「話がある。来て。」

リリックの目の前に降り立つ者の気配があった。辺りの空気が冷気を纏って急激に冷え込む。

「呼んだか?」

「うん。」

カレイジャの使い魔ラースリが立っていた。銀青髪の長髪も寒々として見えるが、冷ややかな視線も辺りを凍らせる様だ。

「オルの治療をしたいんだ。憩寧の間へ連れていってくれる?」

「相方は何処だ?」

「宿に居る。先ずはオルに内緒でナースリに話をしたい。」

「分かった。」

ラースリの力を借りてリリックはカナル・パレスの憩寧の間へ飛んだ。

ナースリにオルの夜の様子を説明した。黙って最後まで話を聞いていたナースリは難しい顔をして言った。

「闇間の淵の精神的後遺症だと貴女は考えているのね、リリック。」

「うん。以前オルは時間が必要だって言った。でも出来れば治してあげたいと思ってる。」

ラースリは離れた場所から二人の様子を

伺っている。カレイジャの使い魔である彼女は些細な事でも知っておく必要が有るのだろう。

ナースリは難しい顔で言った。

「私にも治療出来るとは思えないけれど…。闇間の淵はオル様が過ごしたのと同じ時間が癒しのために必要な時間だと言われています。」

「じゃあオルは何十年も苦しまないといけないって事だね。」

「そうです。酷ですね。」

ナースリは少し考えてから言った。

「憩寧の浴湯を使う事で気分が晴れるかも知れませんが…。」

「私達使い魔ならともかくオルはカナル・パレスへ何度も来る事は出来ない。頻繁に連れてきて湯に浸からせるのは不可能だ。」

ラースリが口を挟んだ。

「そっか…」

「ひとまず癒しの花弁を持って帰られますか?湯に浸すだけで幾許かは効果があるでしょう。」

ナースリは薄桃色の小袋をひとつリリックに手渡した。中を見てみると憩寧の浴湯に使う花弁が数枚入っている。

「そうする…。ねえ、ナースリ。この花何処に咲いてるの?」

「ティレイル山の頂上辺りに群生地があるそうです。毎日下人が登り降りして運んで来るとか…。」

「へえ。割と仰々しいんだね。」

ナースリが微笑んだ。

「ええ。貴重な物なのです。それに当日摘んだ花でないと効果が薄れてしまうので毎日採取する必要が有るのです。」

「ありがとう。大事に使うよ。またね。」

リリックはラースリに再び頼んでオルの所へ帰る事にした。


オルは紙綴リンク・パッドを捲って次の帰還者の情報を読んでいた。明日にはこの相手と会うことになるだろう。

部屋の隅でうたた寝をする相方の少女をちらりと見た。リリックが椅子に座ったまま口を半開きにして眠っている。とりあえず用事も無いのでそのまま寝かしておく。

オルは最近体調が良くなって来た。毎日の風呂に憩寧の間で使っているという薄桃色の花弁を散らしているからかもしれない。薔薇風呂の様でオルの趣味には合わないが効果はあった。おかげで毎晩よく眠れる様になっている。

「…リリック。風邪を引くぞ。」

そっと小声で起こすがぴくりともせず熟睡している。とりあえず毛布を掛けてやった。


リリックが目を覚ますと毛布が肩に掛かっていた。

「寝ちゃったな…」

ふああ、と欠伸をする。

癒しの花弁の話をナースリに聞いてから、リリックは毎日ティレイル山に登って花を摘んで来るようになった。朝夕の空間移動はラースリに頼んでいる。

「朝に私が迎えに来て、リリックは1日がかりで山頂まで登って下山する。それから夕方また帰る時には時間軸を曲げてオルのいる場所での元の朝の時間に帰る。それで良いのか?」

「うん。よろしく。」

ラースリは冷ややかな目を向けたが特に反対したりはしなかった。

「毎日面倒だと思うけど自分の力ではカナル・パレスまで行けないから。ごめんね、ラースリ。」

リリックが軽い調子で謝るとラースリは仕方ないといった様子で言った。

「本来、私の義務でも無いが…。お前が気が済むまでの間だけだ。良いな?」

「うん。有難うね!」

こうして毎日リリックは山登りをしている。山頂の群生地へたどり着くと花を摘んでからまた一人下山をする。

数十年経てばオルも悪夢から解放される。それよりも早く帰還者の依頼の紙綴リンク・パッドは消化出来るだろう。リリックは転生司から開放される。オルも転移のパートナーとしての立場では無くなる。

だがオルの悪夢は終わらない。

リリックがオルと一緒にいられる時間は限られている。それが終わる時は自分は転生司を辞める時だ。無事に任務を完遂させて自分も解放される。それがリリックの希望だ。

それ迄はリリックに出来る些細な罪滅ぼしとして毎日花を摘んであげよう。リリックはひとつ伸びをして、手元にあった紙綴リンク・パッドを引き寄せて次のページを読み始めた。


オルとリリックは次の帰還者の元へ転移していた。荒地になった雑木林の中に木材を立て掛けた様な掘っ建て小屋があった。そこに当人が居るらしい。

とりあえずオルが入り口らしき板切れを叩いてみる。

「こんにちは。どなたかいらっしゃいますか?」

返事が無いので無礼を承知で開けてみた。大人が一人やっと暮らせる狭い小屋だ。端の方に茶色い塊の様な物が見え、むくりと起き上がった。

オルは無断で侵入した事を詫びると続けて言った。

「ハメル・ロータスさん。話があります。」

薄汚れた男の顔にあるふたつの眼が見開かれた。

「それは俺の過去の名前だ。誰にも話した事は無いはずの。」

何故知っているんだ?と凄まれる。

リリックはオルの後ろにいて男から距離を取っていた。全身薄汚れた布切れを身にまとい、とにかく臭い。

「貴方を元にいた世界に返します。」

「元にいた世界、だと?」

「はい。直ぐとは言いません。最長で7日間この世界に留まる期間があります。もしも早く帰りたいというのなら別ですが。」

男は言った。

「決まっている。こんな所とはさっさとおさらばだ。今すぐ帰る。」

「え?良いの?」

思わずリリックが口を挟むと男は頷いた。

「構わん。こんな訳の分からない世界にいきなり放り込まれて家も知り合いも無い状態から一人で生きていかなきゃならなかったんだ。俺はずっとこんな目に俺を合わせた奴を恨んでいたよ。」

リリックは以前にもこういった無気力な人物が居た事を思い出していた。環境の変化についていけず投げやりになってしまうのだ。

大抵の人達は戸惑いながらも何とか転生先の世界で生きていこうとする。歴史も習慣も違う世界でも人は何とかなるものだ。

だが目の前の男は何もせず怠惰に時間を浪費しただけだ。リリックには目の前の男ハメルを擁護する気持ちなど全く無かった。

斜め前に立つオルの顔を伺う。リリックは過去にこのタイプを前向きな気持ちにさせようと説教した事があった。結果は散々で改心するどころか放って置いてくれと逆に怒り出す始末だった。それからはこういう人間には極力関わらない様にしている。オルが変に構わないと良いけどと思った。

「リリック。準備を。今から帰還させる。」

「わ、分かった。」

リリックは平たくて丸い手鏡を取り出した。紋様に沿って流れ星の様に光の筋が走り、リリックが手の平に力を集中すると光の筋は増し、激しく点滅を繰り返し眩い光が辺り一帯を包み込んだ。

オルとリリック、そしてハメルは薄明かりの空間を漂っていた。天井も地面も無い帰還する前の中間点である繋ぎの渡り場と言われる空間へやって来た。

「ハメルさん、貴方は何時の時間に戻りますか?貴方がかつて生きていた年齢の中のどの瞬間か、という意味ですが…」

オルが何歳の頃に戻っても良い事になっていると説明するとハメルは面白そうに言った。

「へえ、何時でも良いのか。」

「はい。」

ハメルは少し考えた後ではっきりと言った。

「最後にいた瞬間に戻してくれ。」

「最後にいた瞬間ですね…。確認します。」

オルは確認すると言って紙綴を捲ったが、本当は頭の中に入っていた。ハメルの転生前の最後の瞬間は彼が自殺している時だ。

ハメルはオルをじっと見ていた。そしてぽつりと言った。

「構わねえよ。あっちでやり残した事なんて何も無い。」

「でも…今度こそ命を失ってしまいます。」

ハメルはかっとなってオルに怒りを叩き付けた。

「誰が頼んだんだよ?!俺はまだガキだった。そんなガキが決死の覚悟で崖から飛び降りたのに、こんな訳の分からない場所へ連れて来られたのは何処のどいつのせいだ?!あぁ?」

「ハメルさん…」

「終わりにしたかったんだ…何もかも…。」

ハメルは静かに泣き出した。鼻をすすりながら頼むよ…と、情けない声を出す。

「やっと死ねると思ったらこんな場所に来ちまった。誰も知ってる人間がいないし、誰も助けちゃくれねぇ…。気が付けば街から追い出されてこんな山奥で川の水を啜って生きるだけの毎日だ…。」

リリックはオルの後ろで黙って聞いていた。

いい大人が甘えて人生を棒に振って生きている様にしか思えなかった。世の中は甘くない。

辛い事や逃げ出したい事は色々あるだろう。でもせっかくやり直す機会を与えられて転生したのにハメルは立ち直れずにここまで来てしまった様だ。もう生きる気力が無いのだろうか。

しっかりしなよと説教をしそうになった時、黙って聞いていたオルが言った。

「明日、また来ます。その時に帰還しましょう。」

呆然とするハメルを他所にリリックに指示をした。

「リリック。ひとまず小屋へ帰ろう。」

「あ、うん。分かった。」

リリックは呪文を唱えて繋ぎの渡り場を後にしてハメルの小屋へと引き返した。


オルは街まで一旦帰って来た。林檎とパン、そして果実酒を買ってからまたハメルの掘っ建て小屋にとって返す。

リリックはずっと後ろからてくてく付いて来た。そしてオルのしようとしている事を悟ると、ぼそっと呟いた。

「…煙草の方が、好きかもよ?」

オルは急に声を掛けられてリリックに驚いた顔を見せた。そして買い物袋を見て、少し後悔した様な苦い顔をする。

「俺は人に尽くすのは苦手なんだ。気の利いた差し入れは出来ない。」

今日のところはこれで我慢して貰うと言って足を進めた。そのまま掘っ建て小屋へと歩いて行く。

リリックは後ろから黙って付いていった。

2人が掘っ建て小屋に戻ってみると、ハメルはまた隅にうずくまってぼんやりしていた。

「差し入れです。」

オルが買い物袋を手渡すと、のろのろ立ち上がったハメルは受け取った。袋の中を覗くと中から林檎を一つ取り出して、まじまじと見た。

「林檎だな…。久しぶりに見たよ。」

ハメルは今度は顔をくしゃくしゃにしてまた嗚咽を漏らし始めた。次第に声を上げて子供のように泣き続ける。

オルがその背中をぽんぽんと優しく叩いてやった。

ハメルは少し泣き止むとゆっくりと林檎に齧り付いた。しゃくりと歯を立てると、ひとくちめを良く味わってから飲み込む。ふたくちめからはリリックが驚くほどの勢いであっという間に食べ尽くした。

そしてごくごくと喉を鳴らして果実酒を飲んだ。瓶の半分程まで減らすとふうっとひと息付き、涙を手の甲で拭った。

オルは微笑んで声を掛けた。

「また明日。」

そう言って二人は小屋を離れた。


街で宿を取った二人は湯と食事を済ませて部屋で寛いでいた。それ迄無言だったリリックが我慢しきれずオルに聞いた。

「明日…帰しちゃうの?」

オルは顎に手を当てて考えていた。

「どうだろうな…。」

正直言うとオルにも深い考えなど無かった。ただ、あのまま直ぐに元の世界に帰してしまうのは出来なかった。

「ハメルはもう一度人生を生きた方が良いんじゃ無いかな?せっかく若い頃にも戻れるんだし。」

「確かに戻れるが…。それは本人の決める事だからな。」

「そうだね。」

オルはリリックにおやすみを言ってベッドに入った。リリックも隣りのベッドで横になる。

暫くして静かに寝息を立て始めたオルの息遣いが聞こえてくる。今日は悪夢を見ていないらしい。穏やかな呼吸を繰り返している。

そういえばさっきは自然にオルと会話が出来ていた。こうして少しずつ元通りになると嬉しい。リリックはベッドで温まりながら眠りに落ちていった。


オルは次の日も先に街で買い物をしてからハメルの小屋へ訪ねて行った。

「煙草と…、パン。ナッツ。焼き菓子。また林檎?」

「何となくな。」

この調子で差し入れしていくならハメルの好みも聞いた方が良いだろうとリリックは思った。今日は2日目だが、まだ留まる猶予が7日間は延ばせる。身綺麗にしたら宿の酒場で一緒に飲み交わすのも良いだろう。

リリックがそんな事を色々考えていたら小屋まで着いていた。

オルが扉を軽くノックしてから空けた。

起きているかなと思ったらまた部屋の隅でうずくまっていた。眠っているのだろうかと思いそっと近付いた。オルがハメルの肩に触れる。

「ハメル…」

オルの顔が色を無くした。

リリックも異変に気が付く。

ハメルの身体を仰向けに起こすと、既に息絶えていた。

オルは呆然とその場にしゃがみ込み顔を片手で覆った。そして荒々しく溜め息を付く。

リリックは立ち尽くしてハメルの亡骸をぼんやりと見ていた。


「葬ってやらないとな。」

オルがようやくぽつりと言った。リリックも頷いた。

小屋の傍で雑木林が拡がっていたので、そこに埋める事にした。スコップの様な道具は見当たら無かったので、適当な板切れを使って穴を掘る。午前中に来たのに二人がかりで作業しても夕暮れ時になってしまった。

オルがハメルの上半身を抱えるとリリックが足を持とうとした。

だがオルはそれを制して1人で引き摺っていった。上背があるので何とかなった。

ハメルを穴に横たえて土を被せ始めた。すると、リリックが小屋に戻って今朝買ったばかりの煙草やパンを一緒に埋めた。土を被せる頃になってリリックは途端に涙が溢れてきた。見ればオルもぐしゃぐしゃに泣いている。

気付けば二人して声を上げて泣いていた。


疲れ切っていたけれどこのまま小屋に留まる事は出来ない。日が完全に暮れる前に立ち去る事にした。

「多分、自ら命を絶ったのだろうが…。念の為に小屋を見て回ろうか。」

オルがそう言ってもう一度小屋に入った。薄暗い小屋の中で卓上代わりの木箱が隅に置かれている。先程は気付かなかったけれど紙切れが一枚だけ木箱に乗っていた。

【ありがとう】

ハメルの遺書だ。オルとリリックはそれを手に取って宿に向かい歩き始めた。


後日ラースリが使い魔としてオルとリリックの元へやって来た。

オルとリリックはまだハメルの件について気持ちが立ち直っていなかった。そのせいか、次の帰還者に接触するのをずるずると引き延ばしている。同じ宿に数日間留まって居たところ、使い魔がやって来たと言う訳だ。

ラースリは紙束リンク・パッドの中からハメルの用紙をナイフで几帳面に切り取って丁寧に化粧箱へ納めた。恭しさを感じさせる所作だ。

リリックはハメルを現す用紙すら丁重に扱われているのに、小屋で会ったハメルの様子を思い出してやり切れなくなった。彼は誰とも関わりが無く世界から切り離された存在だった。誰からも顧みられる事がなく、誰とも関わろうとしなかった。そして自ら世界と決別した。哀れさが増す。

ラースリが2人に言った。

「帰還対象者が何らかの事故に合い、無事に帰す事が出来なくなるのは稀にある事です。転生司とそのパートナーに落ち度は無く、気にする事は無いとカレイジャ様も申しておりました。」

オルとリリックは素直に頷けなかった。どうしても自分達のやり方が失敗だったという気持ちが拭えない。救えなかった人ひとりの命は重い。

「リリックは以前にも同じ例に遭っているでしょう?」

「あ、そう言えば…」

2番目のパートナーと回っている時だった。丁度リンク・パッドの半分くらい消化して慣れてきたなと思った辺りで接触した帰還者が逃げ出した事があった。慌てて追いかけたら、そのまま高所の屋根からダイブして飛び降りてしまったのだ。彼は助からなかった。リリックが転移させようとする間もなく、あっという間の出来事だった。

その出来事は事故として処理され何時しかリリックも忘れかけていた。ショックだったが今回の様に気持ちを引き摺る事も無かったな、と思い出した。

多分、リリックもオルも、ハメルはもう一度彼の生をやり直してくれるだろうと期待してしまったのだ。

オルはハメルに林檎ひとつ分の小さな優しさを分け与えた。ハメルは受け取ってくれたし、次の日の朝にはきっと元の世界に帰って生き直す気になってくれているだろうと思っていた。甘かったと思う。

「次の任務に早く当る事です。引き摺り過ぎてはいけません。それでは、私はこれで。」

ラースリが立ち去ろうとするのを見てオルが言った。

「送ります。」

その場から転移するはずだったのが部屋の入り口の扉を開けたのでラースリとオルはそこから立ち去って行った。リリックは何だろうと思ったけれど直ぐまた物思いに耽ってしまった。


そこからは特に問題のある帰還者はいなかった。元の世界に戻ると言われて抵抗する者や、歓喜する者、反応は様々だったが皆7日後までには帰って行く。

リリックは今日もオルの目を盗んでティレイル山に登っていた。ざくざくと山道を踏み締めながら山頂の癒しの花が咲く群生地まで黙々と登る。

「こんにちは。」

「こんにちは。毎日頑張るねぇ。」

ナースリの元へ花弁を届ける人足がリリックに声を掛けた。癒しの花弁は翌日になると萎れてしまう。保存が出来ないので毎日山頂まで登る必要があった。

ナースリの所で今の人足が届けた花弁を受け取ってオルに渡す事も出来ただろう。でもリリックは自分の手で摘んだ花を渡したい。

最近はオルも夜うなされる事が減って来た。このまま少しずつでも闇間の淵の記憶を忘れられたら良い。

「後は時間、かな。」

独り言が時々漏れてしまう。慣れてきた山道だけに登山中は色々考え事をする様になった。

少し足を止めて水筒の水を飲んだ。額の汗を拭って山道の先を眺める。半分以上は登っただろうか。

ふと見下ろすと下からも山を登る人影があった。1日で登って降りる事の出来るティレイル山は時々登山者がいるがそう多くは無い。大抵は山頂の癒しの花弁が目当ての者だ。

目線を山道の上方へ向けてリリックはまた登り始めた。


山頂近くで横道に逸れると平地が広がっている。癒しの花弁と呼んでいる、ロナレティウムの群生地だ。薄桃色の花弁が一面の絨毯の様に広がっている。ふわりと優しい桃色が拡がりこの景色にはいつ来ても和まされる。

「いい景色だな」

後ろから聞き慣れた声がした。リリックは頷く。

「オルにも一度は見せたかったんだ。丁度良かった。」

オルはリリックの横に並んで苦笑した。

「何だ。俺が居ても驚かないのか?」

「山道を登ってる時に上から人影が見えたんだ。背格好で分かったよ。」

オルは頭を掻きながら罰が悪そうに言った。

「格好つかないな。」

リリックは笑うと何時も花弁を集めるのに使っている小さめの籠を取り出した。

「いつもこれに一杯入るくらいの花弁を摘んでるんだ。少し待ってて。」

「今日は一緒に集めよう。俺がリリックの風呂の分を摘んでやるよ。」

そう言って群生地にしゃがみ込んで花弁を集め始めた。ゆったりと景色を楽しみながら心地好い匂いに包まれて時間を過ごす。

オルが集め終わるとリリックも同じく摘み終わった。

花弁で一杯になった籠を大切に手持ち袋に入れ、リリックが言った。

「少し休憩しよう。」

「ああ。昼飯を持ってきたから一緒に食べよう。」

オルが少し開けた場所を指差してあそこにしようと言った。


帰りは二人で一緒に下山した。毎回登りよりも早く楽に感じる下りの道だが、今日は比べ物にならないほど足取りが軽い。前を行くオルの背中を見ながらゆっくり降りていく。オルが時々リリックを気遣って後ろを振り向くのは二人の歩幅差を気にしてくれているのだろう。

麓まで降りてからカナル・パレスに向かうとラースリが待っていた。

「ラースリ。連れて来てくれて感謝する。ありがとう。」

オルが先に言葉を掛けるとラースリが頷いた。

「ラースリ。オルには内緒にしてくれると思ったのに。」

「オルに聞かれたから答えた。」

ラースリの返事は素っ気ない。

でも何故かいつもの冷ややかな銀青髪の長髪もそれほど冷たく感じられなかった。目が笑っているからかもしれない。

「次からは俺も一緒にティレイル山に登るよ。その代わり毎日じゃ無くて良い。帰還者を返す度にご褒美の花として取りに来よう。」

それで良いか?とリリックにも聞いた。

「オルが…夜眠れるなら。」

「大丈夫だ。」

「じゃあ、次からは2人で登山だね。」

リリックが笑った。ラースリも小さく頷いた。


オルはまた次の帰還者に会ってからの待機期間を宿で過ごしていた。部屋の反対側ではリリックがこの土地で買い求めてきた品を順番に眺めている。

リリックは転移するとその場所のマーケットや市場を練り歩いて気になる品を買ってくる。大抵はがらくたじみた骨董や役に立たなそうな雑貨だ。

美味しそうな地元の菓子なども買ってくるのでその時はオルも喜んで相伴に預かることにする。その面ではリリックの勘が働く様で大抵の菓子は美味い。

オルはのんびりと紙綴リンク・パッドを捲っていた。片手で持ち余る厚みだと思っていた束だが一枚一枚と消化して、残りは2枚になった。今まで大勢の帰還者を返して来た。思えばよく頑張ったと思う。自分もリリックも。

一番上の茶色くくすんだ一枚を見た。それから思い直して捲り、最後の一枚を見る。

リリックがオルに気付かれない様にちらりとオルの手元を覗いていた。

リリックはオルとそろそろ別れが来るのを意識していた。最後の紙綴の相手を帰還させれば二人とも自由になれる。

「リリック。次はこれをやろうか。」

オルが茶色くくすんだページを指差して言った。

「それは、今までずっと出来なかった案件だね。」

「ああ。もう後が無いからやってみても良いと思う。」

「逃げられてばかりだから…。相手は警戒してるよ、きっと。」

「まぁいつかは会わないといけないからな。」

そうだねと、リリックも覚悟を決めて頷いた。ここで帰還させる事が出来なかった場合リリックは転生司としてまた長い年月をやり直さなければならない。オルには話していない事だった。


薄汚れたリンク・パッドのページを使ってリリックと共にやってた先はまずまず都会的な商業都市だった。ここに目的の相手がいる。オルは今回の帰還者の姿を認めると近付いて声を掛けた。

「お会いするのは初めましてです。レオ・ロジャースさん。」

「その名前を聞くのは…久しぶりです。」

「お話を聞いて下さいますか?」

レオ・ロジャースは青い顔をしてこくりと頷いた。


オルは貴方は帰還しなければいけないと率直に告げた。

「ここまでは前任者に聞いた事があるでしょう。そして貴方は承諾している。元いた世界に帰ると。」

「そうです。何時も話を聞いた直後は帰る気になっています。でも私にとっては7日間という待機期間が長過ぎるのでしょうな。気付けばそのうち帰る気が失せてしまっている。」

「でも、それだけじゃ無い。」

リリックが警戒して言った。

「何か?」

「貴方は巧妙に行方をくらましてしまう。それも毎回です。」

レオは片頬をぴくりと動かした。

「そんなつもりは無いですが…?」

「今度逃げたら私達にも考えが有ります。」

リリックが強硬に言った。

「もしまた逃げ出したりすれば奥様のマリエッタさんに貴方の素性を告げます。そうすれば貴方はもうこの世界に留まる事は出来なくなる。」

レオは少し考えて言った。

「そんな決まり事は無いでしょう?仮にマリエッタが貴方達から私の素性を聞いたとします。彼女は別に私を無理に元の世界へ返そうとはしないでしょう。」

レオは全く動じなかった。リリックと同行しているオルの方が表情には出さない様に心掛けてはいるが内心ひやひやしている。

「どうぞ、妻に話して下さい。私の事を包み隠さず知って貰える良い機会だ。」

では失礼します、と言ってレオは部屋を去って行った。


オルは少し混乱していた。

オルとリリックは今回逗留している宿の部屋に場所を移しレオとの会話を再考していたところだ。

「俺は今までの経緯を見てきた訳じゃ無いが…。どうも毎回一筋縄では行かなかった様だな。」

「うん。」

「あいつは説明を受けて一旦は了承する。だがその後はいつも逃げ出す。それが今まで繰り返されている。」

「オルとは私が転生司として組む24人目だって言った事あったっけ?」

「いや。初耳。」

オルは椅子から落ちそうになる程驚いた。24人とずっとこんな事を繰り返していたのかと慄く。

「オルの前に24人の紙綴リンク・パッドを一緒に消化した転生補のパートナーがいたんだ。」

「初代の時からレオを帰還させるのをずっと失敗している…。」

「レオの用紙がやたら古びていたのは昔からあったからだったのか。」

「うん。毎回帰還させるのを失敗させていたから、次の相方に引き継いでいたせいでボロボロになってしまったんだ。」

でもね…、と、リリックが寂しそうに言った。

「オルと一緒に返す事が出来なかった場合は、私がミッション失敗になる。そうすると、また次の転生補であるパートナーと一緒にやり直しになる。最初から…。」

「じゃあ…レオを帰還させれなかったらリリックは…」

「うん。オルは紙綴リンク・パッドの最後までやればおしまい。だけど私は一からやり直しになる。そうやって転生司を辞める事が出来ずに今まで続けている。」

オルは溜め息を付いた。

「何だよ、それ。カレイジャが決めたのか?相変わらず悪趣味な奴だな。」

「仕方ないよ。リンク・パッドの力も手鏡レイ=ミラの力もカレイジャ様の霊力で創られた物だし。もっと言えば、私達が転生司と転生補として存在する事だってカレイジャ様の意思が働いているんだから。」

「…俺はともかくリリックもそうなのか?」

「そうだよ。ラースリの様な使い魔みたいに私もカレイジャ様に使役されているんだ。使い魔はカレイジャ様が無から生み出した正真正銘の生成体だけど、私は他の時間軸にあった世界から捕縛されてしまったんだけどね。」

「リリックの住んでいた、他の世界?」

「うん。転生司の素力を持つ種族だけど、自分達の力だけでは転生させる事は出来ない。カレイジャ様の作った呪具を利用して自由に帰還者を転生させる事が出来る。だから私が元の世界に帰る時もカレイジャ様の持つ呪具が必要なんだ。」

解る?と、オルに念を押す。

「解ったよ。カレイジャにその呪具とやらを借りられない限り、お前は囚われの人足って訳だな。」

「…何か不本意な言われ方だけど、そうだよ。」

「話を戻すと、俺がレオを無事に帰還させればリリックはカレイジャから解放されるんだな。」

「そう。転生司の任を解いて自由にして貰える。」

「そうか。失敗出来ないな。」

オルの声に真剣味が増した。

「俺の番でレオを帰還させるよ。」

リリックは頷いた。


レオは工房へ戻って帳簿を捲っていた。だが気もそぞろで数字が全く頭に入ってこない。

一旦仕事をするのを諦めて帳簿を閉じた。

あの黒ずくめの少女には見覚えがあった。忘れた頃にやって来ては、レオを説得して元の世界へ返そうとする。その度にレオは彼等を煙に撒いて逃走して来た。今まではそれで何とかなったものだ。

扉がノックされた。貴方、と声が外から掛かる。

「マリエッタ。今日はそろそろ家へ帰るかい?」

妻は同じ工房で働いているが、レオよりも早目に帰宅するのが日課だった。

「ええ…。どうしたの?顔色が悪い様だけど。」

そう見える、かな?とレオは顔を撫でた。

「貴方も早く帰った方が良いのでは?」

そうするよ、と微かに笑ってみせた。

「君は…私が時々家を離れている間、大丈夫だったか?」

マリエッタは夫の顔に視線を向けた。そして微笑んで言った。

「大丈夫だったかと言われると、そう。最初の時は心配で眠れなかったけど。」

「そうか。すまなかったな。」

「でも、何度か繰り返して居なくなるるうちに慣れたみたい。居なくなっても必ず帰って来てくれるとわかったから。」

「実は…また留守にするかも知れない。」

「今度も行先は教えてくれないの?」

「そうだね。決まっていないからな。」

それは嘘だった。何時も同じ場所へ出掛けている。レオは帰還させるという黒ずくめの少女達が現れる度にある隠れ場所へ一旦身を隠していた。マリエッタにはその場所について話した事は無かった。レオ自身にも上手く説明出来ない事でもある。

「期間は?」

「それも…分からない。だが必ず帰って来る。」

「分かりました。工房の事は留守を守るから気にせずに。でも出来れば早目に帰って来て。」

「ありがとう。」

マリエッタはふふっと笑った。

「貴方が私をランベルク家との政略結婚から救い出してくれた。お陰で苦労はしたけれど後悔の無い人生だった。御礼を言うのは私の方。ありがとう、レオ。」

レオは立ち上がり、妻に寄り添って腕の中に抱き留めた。

不意に、もしかすると今回は本当に別れが訪れるのかもしれないと不安になった。何故かは分からない。何度逃げても結局彼等は追い掛けて来る。そろそろ逃げられないのでは無いか。

だがそんな不安を隠してレオは妻に言った。

「早く帰って来るよ。君と生きる事が私にとって何より大切だ。」

マリエッタは夫の腕の中で頷いた。


レオは誰にも見つからない様にひっそりと何時もの隠れ場所に向かった。仕舞いこんでいた道具を取り出し、じっと見た。

「助けて下さい。どうか力をお貸し下さい。」

ひっそりと道具の向こうから返事が聞こえる。

「レオ殿。どうぞ、お越し下さい。道を開きます。」

道具の文様に光の筋が縦横に眩く走ったと思うと、レオは光に包まれて道具の向こう側へと吸い込まれた。


リリックとオルは翌日もう一度レオの工房へ様子を見に出掛けていた。もしまた逃げられてしまったら取り返しがつかない。

工房の店内をぐるりと見廻す。あいにくレオもマリエッタもいなかった。代わりに入口付近にいたスタッフに声を掛けて聞いた。

「こちらの工房主に会いたいのですが…。お忙しい様子なら奥様のマリエッタ殿に取り次いでいただけますか?」

「主人は暫く出掛ける予定ですが…」

スタッフが自信なさげに返事をした。

オルとリリックは思わず顔を見合わせる。逃げられてしまったのか?

「そうでしたか。お戻りはいつ頃でしょう?」

オルが詰め寄って問いただそうとすると、奥から声がした。

「レオは仕入れの旅に出掛けています。お約束でしたか?」

妻マリエッタが凛と姿勢を伸ばして立っていた。オルとリリックは気を取り直して聞く。ここで逃げられてはたまらない。

「昨日、7日後には必ず会うという約束をしました。」

「では主人はきっとその日に間に合うように帰って来ます。」

にこやかに微笑んでいるが、マリエッタはこれ以上会話を続ける気は無いという拒絶の姿勢を見せている。

「それまでお待ち下さいませ。ではまた。」

堂々と語る女主人の胸には宝飾工房らしい豪奢なネックレスが煌めいていた。


「オル、どうする?」

「探してみるか。」

リリックは頷くと手鏡の様な道具を取り出した。オルの持つ紙綴リンク・パッドの古びた一枚にあてて呪文を唱える。

「ラン・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」

「レオ・ロジャース」

名前を唱えたがいつもの様に光を放つ事も無く消えてしまった。

「何故、レオは我々の追跡を掻いくぐって隠れる事が出来るんだろう?通常ならどの世界へでも追って行けるはずなのに…」

「レオは俺達の様に他の世界を移動出来るのか?」

「まさか。そんな能力は無いはずだよ。」

「じゃあ、来た時と同じ様に危機的な状況に会って飛ばされてしまった、とか…。」

「そんな事があれば…マリエッタが平然としているはずがない。」

そっか…と、リリックが溜め息を付いた。

「何にせよ…、レオが行きそうな場所に心当たりが無ければどうしようも無いな。」

「カナル・パレスに行けば何か知っているかも。」

「…カレイジャに会うのか?」

オルは気乗りしなさそうに言った。

「うん。私一人で行ってくるよ。オルは待ってて。」

「いや、俺も行くよ。」

「無理しなくて良いよ?」

いや、大丈夫だよ、と言ってリリックの頭を軽くぽんと叩いた。


ラースリに連れられてカレイジャの御前へやって来た。事情を話して何か心当たりは無いか尋ねる。

「レオ・ロジャース?知らんな。」

カレイジャにも心当たりは無いようだ。

「彼が同じ世界にいればリリックにも追跡出来るだろう。痕跡を辿れないという事は一時的に更なる異世界へ飛んでいる可能性がある。お前達の発想は正しい。」

「私の手鏡レイ=ミラでは何も感じられません。」

そう言ってリリックは自分の道具を取り出した。レオの紙綴に触れても反応が無い。

「見せてみろ。」

カレイジャに言われて手鏡レイ=ミラを渡した。

くるりと裏返すと鏡の様な凹凸の無い面が現れた。

「特に性能にも問題は無いし破損も無い。私がこれを初めて渡してからずっと使い続けている筈だが、劣化した訳では無いようだ。」

リリックはふと今の言葉で何かが引っ掛かった気がした。だがそれが形になる前に会話が先へ進んでいく。

「レオが自分で異世界へ飛ぶ為にはどんな方法が考えられますか?」

オルがカレイジャに聞くと相手はふんと鼻を鳴らして答えた。

「まず無理だ。だが…リリックと同じ力を持つ者が転送先から流転真力・リメンタルを用いて引き寄せれば道が開く。とは言ってもそれだけでは成功率の低い賭けの様なものだが。」

「私と同じ力?」

「転生司の力、もしくは転生司になりうる素質のある者の力、だな。お前の故郷の者どもなら出来るだろうよ。」

「でも、私の力で別世界の者を呼び寄せるなんて…」

リリックははっと気付いた。

「そうだ。お前の力だけでは無理だろう。だが相手が手鏡レイ=ミラを持っている場合なら不可能では無い。」

「カレイジャ様、何か分かりかけた気がします。ありがとうございました。」

「私としては、お前の代わりの転生司を探す手間を省く為にもここで失敗してしまうのも悪く無いと思っているのだが。」

カレイジャが無神経な事を言うのでオルは反射的に怒りが湧いた。だが怒った表情を隠さなければと顔を伏せる。

リリックの転生司の任を解いてあげなければ彼女はいつまでも囚われの身だ。リリックを解放したいと思ってここまで来たのにカレイジャがこんな思惑だった事に強い失望を感じていた。

「オル」

思いがけずカレイジャに名前を呼ばれてオルはバネが弾ける様に顔を上げた。ほんの今考えていた反抗心が表情に現れない様に精一杯の無表情を作る。

「話がある。そのまま残れ。リリックは先に行け。」

「はい。」

リリックは大人しく退出した。

さて…、と、カレイジャはオルを見た。

「お前に言っておきたい事がある。」

「何でしょうか。」

「闇間の淵をお前が数十年と彷徨わなければならなかったのは、何故だ?」

「禁を犯したからだと聞いていますが?」

カレイジャは鷹揚に頷いた。

「そうだ。本来、帰還者に接触したらその者を帰還させるまで転生司とパートナーは無闇に別の場所へ転移してはならない事になっている。それは転生司であるリリックには告げてある。」

「俺は知りませんでしたけどね。」

「ああ。だからあの時の失態は本来ならリリックに償わせなければならなかった。すまないな。」

オルは今更何を言っているのかと思った。

カレイジャは俺にリリックを恨ませようとしているのかもしれない。

確かにあの闇の中でオルは死んだ様になっていた。死んだ方がマシだとも考えていた。だがリリックはその後ずっと償おうとオルを気遣ってくれた。今では感謝している。恨みの気持ちは無い。

「お前の紙綴の最後に書かれている人物…クレア・ハーティ」

オルははっと顔から血の気が引くのを感じた。クレア…。

「気にするな。誤転生を起こした者を帰還させるこのシステムを作ったのは私だ。私の知らない事は無い。」

カレイジャは薄気味悪く肩頬で笑った。

「レオを後回しにしていたら君達は先に最後のリンク・パッドの用紙まで辿り着けた筈だ。そうすれば君は今頃クレアに会っていたよ。完全な順番ミスだね。」

「レオを帰還させれば大丈夫でしょう?何も問題は有りません。」

カレイジャが鼻で笑った。

「そうか。では期待して待つとするよ。そうそう…」

カレイジャはオルの耳元に顔を寄せて囁くように言った。

「レオを帰還させる事が出来ない場合はミッション強制終了だ。そうなってから君が最終的にクレアに会えなくても、リリックを恨んではいけない。」

オルはクレアに会えないかもしれないと初めてその可能性に気付いた。幾人もの帰還者を半ば強制的に帰してきた。時には激しく抵抗した者もいる。

オルは嫌になった時は最後のページまで辿り着くことが出来ればいつかクレアに会えると自分に言い聞かせてきた。やっと手の届く所まで来たのに最後になって会えなくなるとは。

帰還者の順番を変える事は出来ない。一度レオに接触してしまったからには彼を帰還させなければ次のミッションへは進めない。途中で別の帰還者に接触するという禁を犯した場合は再び闇間の淵が待っている。カレイジャの気分次第でオルはまた百年でも千年でも放り込まれてしまうのだろうか。

下がって良い、と言われて我に返った。

カレイジャはオルの苦悩を全て分かった様に微笑んでいた。面白がっているのだろう。

「失礼します。…俺はリリックを恨んだりしません。今までも。」

オルは自分にとって真実だと思う事だけをはっきりと告げて退出した。

カレイジャはつまらなそうな表情をしたが、暫く長椅子に掛けそのまま物思いに耽っていた。


リリックはラースリに合流すると元いた場所では無く違う場所に行ってもらう様に頼んだ。

「え?移動するのか?」

オルは驚いたがリリックは確信に満ちた頷きを返した。

「そこにレオがいるのか?」

「どうかな?いるかどうかは五分五分って所だね。でもそこに行って会ってみたい人がいるから。それに…」

「それに?」

「後5日しか期間が無い。」

オルは真剣な表情で頷いた。

「そうだな。やれる事は何でもやらないと。」

「時間が無いからね。」

「里心がついたか?リリック?」

「確かに行先は故郷だけれど、今回は用事があって行くから。家には帰らないよ。」

「え?そこってリリックの故郷なのか?」

「そうだよ。さ、行こう。」

オルが転移するのとは違って、使い魔による任務中の転移は罰則は無いとラースリが付け加える。リリックは安心して頷いた。

ラースリは二人を伴って目的の地へ転移した。


リリックは故郷に帰るのも久しぶりだ。家に帰れば父も母も居るだろうし、姉弟も変わらず居るだろう。いや、家族が増えているかもしれないな。子供や犬猫も、何なら鶏や山羊だってリリックのいた頃からは増えているかもしれない。

リリックは転生司になった日の事を思い出していた。数十年前の事だ。里長の家にリリックと同じ歳頃の少年少女の数人が呼ばれた。十人もいなかったと思う。

里長は言った。

「今からカレイジャ様の元で働く転生司を決めようと思う。」

皆、それなりに心得ていたので驚きはしなかった。街では前任の転生司の任務完了が近いと噂をしていたし、リリックの家でも次に選ばれるのは誰になるのか話題に上っていたからだ。

リリックは正直言うと転生司に興味が無かった。姉は転生司に憧れていたようだが、意外にも里長から声が掛かったのはリリックだった。その時点で姉はあっさり転生司に興味を失ったのを見てこだわりの無い性格の彼女らしいと思った。内心では転生司などそんなに良いものでも無いだろうと最初からリリックは考えていたのだ。

「これを覗きなさい。順番に。」

里長は手鏡の様な物を一番端にいる少年に渡した。彼は受け取って手鏡を覗き込んだ。

「後で何が見えたか聞くから、それに映った物を記憶しておくように。」

彼等は一定時間覗き込んだところで、里長の指示により次の少年或いは少女に手鏡を渡していった。中には食い入るように見詰める者もいたが里長からそっと次へと渡す様に促された。リリックはその様子を見て何が映っているんだろうと興味をそそられた。

「次、どうぞ。」

リリックの順番になり、隣りの少女に手鏡を渡されて覗き込んでみる。何も映ってなくて正直がっかりした。

覗き込んでいた手鏡の裏面に控えめな模様が浮かび上がっていた。模様に合わせて光の筋が走っている。何だろう、と裏返そうとした時に手鏡が言葉を発したように聴こえた。唱えなさい、リリック…、ラン・レニエ…

「ラン・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」

手鏡の導く声のままにリリックはぼそぼそと復唱した。光の筋がより強く眩い光を放ち出す。

里長が真剣な表情で続けて唱えた。

「イル・ヤリ・カレイジャ」

何と言ったのだろうと思う間にリリックは見知らぬ大広間へ転移させられていた。

広々とした空間の奥に人の気配がある。ゆっくり近寄ると、身分の高そうな堂々とした異国の男を中心に、両脇に双子の様によく似た女性達が立っていた。男がリリックに声を掛けた。

「私の名はカレイジャ。お前の名は?」

低く朗々とした声が広間に響いた。有無を言わさぬ威圧感を放つこの人物に何故かリリックは恐怖を感じた。

それが16歳のリリックがカレイジャに初めて会った瞬間だった。


オルに昔話をすると真剣に聞いてくれた。リリックは二人で故郷の道を歩きながら自分の考えていた予定を話した。

「今から里長の家へ行こうと思ってる。何か知っていると思うんだ。」

「元気で生きてる保証はあるのか?」

「うちの種族は長命だからね。里長はまだお元気だと思うよ。」

「長命?初めて聞いた。だいたい寿命は何歳くらいだ?」

リリックは眉を顰めて言った。

「まあ…平均で300歳くらいかな…」

「リリック。お前幾つ?」

「136歳だよ。」

「そうか…。普通の年齢で考えると40歳を越えてるのか…。驚いたな。」

「見た目の成長は人それぞれだけどね。ただ、私は…」

リリックの瞳に暗い影が宿る。

「転生司になった時に成長が止まってしまったんだ。もう少し大人に成長してからでも良かったのに。」

「…そうか。」

話を戻すと、とリリックが続けた。

「私はレオの件は里長が怪しいと睨んでいる。」

「里長が?どうしてまた?」

「多分、里長の孫がそろそろ転生司に相応しい年齢の筈だ。私の妨害をして失敗させれば自分の孫を転生司にさせずにすむからね。」

「里長の孫って言っても、素質が無ければ手鏡が光らないんだろ?」

うん、とリリックも頷く。

「でも里の中から誰かを選ぶとなった時に転移能力の強い里長の家系から選ばれる可能性は高いと思う。」

「じゃあ孫が選ばれない様に初めから転生司の代替わりさせないつもりなんだな。リリックの任期を長引かせて。」

オルが納得したよ、と呟いた時には目の前に一際大きい屋敷が見えていた。

「行こう。里長の家だ。」


玄関先で里長に会いたい旨を告げると外出中だという。

「転生司様のお役に立てなくて申し訳ありません。帰ったらご自宅に使いをやりましょうか?」

里長の妻だという女性が親切に言ってくれた。だがリリックは滞在中にリリックの自宅に寄るつもりも無いので申し出を辞退する。

「こちらの家で待たせていただいても良いですか?」

無遠慮なリリックに対して、妻は困った様にどうしましょう等と言っている。時間稼ぎをされている様で段々とオルまで焦れてきた。

リリックは奥の部屋を覗いてみた。少女の姿が微かに見え、はっとした。里長の孫かもしれない。

リリックは許しも得ずに奥の部屋に入り込むと少女の前まで来た。里長の妻もオルも慌ててリリックを止めようとする。里長の孫らしき少女は目を見張ってリリックを見た。

「今から独り言を言う。良い?貴女のおじいちゃんは立場上誰にも言えない事だから代わりに私が教えてあげる。」

「え?な、何?」

少女が怖がって部屋の隅に逃れようとした。リリックは一歩ずつ間合いを詰めながらゆっくりと話した。

「転生司を選ぶ集まりでは手鏡を渡される。候補の子供達はそれを覗き込む様に言われるの。そして転移する力の強い者が手鏡を持つと光の筋が指すの。」

「あ、貴女!辞めて!帰って下さい!」

里長の妻は必死で止めようとリリックの後ろから両肩を掴むが、リリックは止まらない。

「良い?光の筋が走っても無視しなさい。手鏡に呪文を唱えろと言われても無視するの!そうすれば貴女は転生司なんかにならずにずっとここで幸せに暮らせ…」

この先をリリックは言えなかった。

隣りの部屋から飛び出して来た人影に体当たりされてしまった。軽く吹き飛んだリリックを庇ってオルが走り寄った。

「リリック!大丈夫か?!」

「痛ぁ…」

リリックが見上げると、里長がそこに仁王立ちしていた。


オルとリリックは改めて部屋に案内された。

「すまなかった。」

里長は頭を下げた。

「先程いたのはお孫さんですか?」

「そうだ。リリック、君がここを離れた時と同じ歳頃だ。」

「私達がここに来たのは、レオ・ロジャースさんの居場所を聞くためです。ご存知ですか?」

里長は黙ってしまった。

部屋の入り口からそうっと孫娘が現れた。

皆の視線がそちらに集まると、リリックが素早く動いた。テーブルの上にあったケーキ用のフォークを手に取ると孫娘の喉元に当て彼女を羽交い締めにした。

「どういうつもりだ!」

里長が血相を変えて詰めよろうとする。オルがすかさず立ちはだかった。

「レオを帰還させます。里長、貴方は何か知っているのですか?」

「私達はならず者ではありません。大人しく教えてくれれば素直にお孫さんを解放しますよ?」

孫娘が涙目で助けを求めた。

里長は暫く硬直していたが、がっくりと膝を床について唸った。

「分かった。レオの居場所を教えよう。孫を離してやってくれ。」

里長は絨毯敷きの床からゆっくり頭をあげると目の前に孫娘がいた。

「お祖父ちゃん…、私、転生司になるのも嫌じゃない。でも、もしお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、お父さんやお母さんが嫌だって言うなら能力の無い振りをして呪文を言わない様にする。ね、心配しないで。」

だから…、と彼女は続けて言った。

「この人達を助けてあげて。転生司の先輩になるかもしれない人達だから。酷い事をしたら駄目だよ。」

里長とその妻は泣き笑いの様な顔をして、孫娘を見ていた。


落ち着いて話を聞けば納得のいく話だった。

「レオは手鏡レイ=ミラの欠片を持って居るのですよ。」

「手鏡レイ=ミラの欠片?」

「それが私を呼んだのです。」

「レオから貴方へ、呼び声が…」

里長は頷いた。

「初めはレオも誰かが返事を返すとは思っていなかったようです。数年前、彼の元に初めて帰還させると迫った2人組がやって来ました。」

「私と初代の転生補の組み合わせだね。帰還するのを無理強いした憶えは無かったけれど…」

「ですが、レオはどうしても帰りたく無かった。今の生活を壊せないと私には言っていました。」

里長は続けて言った。

「その二人連れが帰還させようとした時に、手鏡のような物を落として割ってしまったそうです。散らばった破片を見ておろおろするお二人に、レオは破片を片付けて置くのでお帰り下さいと言って返したと言っていました。」

リリックが目を見開いた。急にその時の事を思い出したのだった。

「そうだ。忘れていた。初日に会った時に手鏡が割れて破片が散らばったので帰還できなくなるかと焦っていたんだ。」

幸いその時はラースリへ紺灰石で呼び掛けたので、カナル・パレスへと転移して事なきを得た。カレイジャには嫌味を言われたが新しい手鏡レイ=ミラを作って貰えたので割れた手鏡の事をリリックはすっかり忘れていた。

「そうです。その破片を一つレオは捨てずに持っていました。彼は以前死にかけて転生した記憶があるせいか、破片から彼自身の転移能力を引き出す事が出来た様です。」

「でも、我々が転移する時にはその先にいる人物の名を呼び代にしています。レオはそれが出来なかったのでは?」

オルが疑問を投げ掛けた。

「私が彼の声を聞きました。彼は何の防御も無く空間の狭間へ放り出されそうになり助けを求めていました。偶然、私が自宅の転移鏡を磨いていたせいで彼の気配を感知出来たのです。」

「それでどうなったの?」

「レオに私の名を呼ばせたのです。手鏡の破片を通して私の名前を呼ぶように指示しました。あの時は本当に偶然が重なって彼を異空間の迷子から救い出す事が出来たのです。」

リリックは背筋を震わせて言った。

「ただの割れた鏡だと思っていたけど、そんな危険があったなんて…」

「結果的にそうなってしまったけれど、お前が特別悪い事をした訳じゃ無いだろ。」

オルはリリックを庇った。

「それでレオは里長の所へ転移出来たの?」

はい、と長は頷いた。

「私は彼に同情しましたが立場上カレイジャ様に従う身です。レオを元の世界へ帰還させない訳にはいきません。彼を説得して7日後には転生司、つまり貴女様に従うようにと約束させてレオを妻の待つ工房へ返そうとしました。」

「上手くいかなかったのか?」

里長は頷いた。

「レオは日にちを偽っていたのです。彼が異空間で彷徨っていた間に実質7日以上過ぎていました。」

里長はきりりと悔しそうに唇を噛んだ。

「そうとは知らずにレオを工房へ転移させて全て解決した気になっていたのです。またレオの鏡の欠片から呼ばれる前は。」

「リリックが二度目のパートナーと接触した時だな?」

オルの指摘にリリックは頷いて言った。

「紙綴リンク・パッドは二度目の相手に引き継がれていたから、それを頼りにまたレオの工房へ転移したんだ。レオの時間では1年くらいは経っていたと思う。」

「彼はまた空間を彷徨い、7日過ぎた頃に私を呼び出すと元の場所に帰るという事を繰り返していたのです。」

「カレイジャ様には報告しなかったんだね。」

「…はい。」

「何故?」

「貴女が失敗をしてしまった事を責められ転生司の任を解かれたら、私の孫が次の転生司にされてしまうかも知れません。」

「なるほど…。」

オルも納得した。

「その後も何度かレオを助けました。今では彼を逃がさない訳にはいかなくなったのです。私も同罪ですから。」

「そうか…。里長、レオは今どこに居るんだ?」

オルが里長の目をしっかり捉えて聞いた。

里長はレオを庇う事は諦めた様だ。しかし辛そうに目を伏せて俯き加減に言った。

「この町の我が家の離れ家に居ります。7日過ぎまで潜伏させるつもりでしたが…。」

リリックが柔らかい声で静かに先を制した。

「案内をお願いします。今回こそレオを帰したい。」

「…解りました。」

里長はそう言ってリリックとオルを伴って離れ家へ行った。


離れ家にはぽつんとレオが1人でいた。卓上に製作途中の宝飾品が載っている。作業をしていたのだろう。手元に集中していた。ピンセットで小さな貴石をつまんで頭を上げずに呟いた。

「少し待ってくれ。」

里長とオル達の3人は黙って待っていた。レオは緻密な作業に取り掛かっている様だ。暫くすると仕上げを終えて顔を上げた。

リリックはレオの手仕事が終わったところで声を掛けた。

「レオ・ロジャースさん」

「見つかってしまった様ですね。」

レオは穏やかに微笑んだ。

「最後の作品も仕上げが終わりました。ここまで追ってこられては仕方が無い。帰りますよ、元の世界へ。」

「まだ今日を含めて5日間猶予があります。奥さまと残りの時間を共に過ごされますか?」

オルの言葉も静かに受け止めてから頷いた。

「ああ。7日間しか無いのに無駄に過ごしてしまったな。妻の元へ今すぐ行きます。」

「では、工房へ…」

オルとリリックは里長に礼を言った。

「いや。君達には迷惑をかけて申し訳無かった。孫に助言をしてくれた事…感謝している。ありがとう。」

リリックが孫娘に呪文を言ってはいけないと教えた事は、祖父の心にも何かしら届いたらしい。実際に孫娘が転生司になるかは分からないが後悔の無い道に進んで欲しいとリリックも思う。

「行こう。」

オルに促されて3人はリリックの故郷を後にした。


レオが無事に帰宅した事は妻マリエッタを喜ばせた。

「本当の事を言うと今回は貴方が帰って来ないのでは無いかと思っていた。何故だか酷く思い詰めていたみたいだったから…。」

はにかみながら言うマリエッタの肩を抱き寄せてレオが言った。

「そんな事はある訳無いさ。私は必ず帰って来るよ。」

「うん、おかえりなさい。」

後5日で別れが来る。

レオは妻に別れを告げる事無く彼女の元を去らなくてはならない。そしてマリエッタはレオと知り合う前の彼女に戻る。

「私と会えて良かったか?」

レオの心の中で言ったはずの言葉がつい口から漏れてしまった。

「聞かなかった事に…」

レオが打ち消す様に取り繕ろうとするとマリエッタは夫を優しく抱擁した。

「貴方は私を救ってくれた。」

マリエッタは夢見る様な囁き声で言った。

「貴方に着いてきて後悔した事は無い。今までずっとね。」

レオは涙を堪えた。嗚咽を漏らすまいとしているのを妻に気付かれないように抱きしめる腕に力を込めた。


5日経ち、レオを帰還させる日がやって来た。

リリックとオルは念の為に毎日レオの身の廻りを様子見していたが逃亡の気配は無かった。

オルは紙綴リンク・パッドを捲り最後のページを読んでいた。既に暗記している内容だ。この任務が始まってから何度もこうして眺めている。

クレア・ハーヴィー

彼女は不慮の事故で命を絶たれた。

暴走して歩道にはみ出した自動車に跳ねられほぼ即死状態だったという。

だが転生後、現在は牧場を経営する両親と暮らしているらしい。兄弟は弟が1人。年齢は19歳。

彼女は帰還したら、また直ぐに事故に巻き込まれてしまうのだろうか。いや、そんな目には合わせられない。

転生後の記憶を持って帰れば良い。そうすれば事故に遭わない様に当日行動出来る。

「オル…」

リリックが控え目に声を掛けた。

「ああ。最後の帰還者のページを見ていたところだ。レオの件が終われば次に会う相手になるな。」

「見せてくれる?」

オルに手を差し出すと紙綴リンク・パッドを受け取った。

「オルにとって大事な人なんでしょう?」

「リリック、知っていたのか?」

「うん。分かるよ。」

オルはリリックの表情を見た。落ち着き払った様子で最後の一枚のページを見ている。

「ちゃんと挨拶しないとね。オルにはお世話になりましたって。」

リリックはオルに紙綴リンク・パッドを返した。

「最後のページに載っている人は転生補が本当に会いたい相手なんだ。」

「俺が本当に会いたい相手?」

そう、とリリックが頷いた。

「カレイジャ様が転生者の帰還作業を始めた時からの決まり事なんだ。一番最後のページで最愛の相手に会えると思えば、それが転生司のパートナーにとっての最大の原動力になるでしょ?」

「確かに、俺はクレアに会えると思って最後のページを心待ちにしていた。途中で投げ出す訳にはいかないと…。」

「そうなんだね」

「彼女を帰してあげたい。そして事故に遭わない人生を選ばせてやりたい。」

「うん。」

協力するよ、とリリックが言った。

「それに…、クレアを無事に返したらリリックも転生司を辞められるんだろう?」

「そう。今まで失敗していたけれど、やっと卒業だよ。」

「大変だったろうな。何年やってたんだ?」

「120年くらい、かな?」

オルはえ?と驚いた。

「そんなに長くやってたのか…」

リリックは大人しく頷いた。その仕草も少女の見た目もとてもそんな長い年月を経てきた人物には思えない。

「長い間、お疲れさんだったな。俺がリリックを自由にしてやるよ。」

任せとけ、と言って右手を差し出した。

リリックがそっと自分の右手を添えると、がしっと相手に捕まれてぶんぶんと上下に激しく振られてしまった。


レオはマリエッタとの別れは済ませて来たと言った。

「では…行きますよ。」

オルとリリックは頷く。

リリックは手鏡レイ=ミラを取り出した。表面の紋様に流れ星の様な光が走り、光の筋が次第に増して激しく明滅を始める。

レオはじっとその様子を見ていた。光がどんどん激しくなるにつれて、眩しそうに眼を顰めていたが両眼から涙が零れ落ちた。リリックは不安になってオルに助けを求める様に見た。動揺するリリックとは反対に、オルは優しさに満ちた穏やかな表情で見守っている。

レオは苦しんでいる。

けれど、きっと乗り越えられるはず。

私が動揺していたら駄目だ。

リリックは手鏡レイ=ミラをぎゅっと強く握りしめると転移させる為に力を注いで念を込めた。


オルとリリックはレオと共に繋ぎの渡り場へ移動し薄明かりの空間で漂っていた。浮遊する感触に身を任せて暫く三人とも無言で浮かんでいる。レオは落ち着いた様だ。何も無いこの空間に包まれていると気持ちも無に近づいていくのかもしれない。

「レオ…、大丈夫?」

リリックが念の為に聞いてみると穏やかな眼差しで頷いた。

「じゃあ順番に進めよう。貴方はここで選択をする事になる。まず一つ、何時に戻りますか?」

オルがレオに問い掛けた。

「元の世界では貴方が赤ん坊として産まれた瞬間から転生して別世界へ移動した瞬間の、どの時期に戻る事も出来ます。貴方がやり直したい年齢を教えて下さればそこへ送ります。」

「やり直したい年齢…いつからだろうか…」

レオは直ぐには決めれなさそうなので、もう1つの質問も投げ掛けた。

「もう一つの選択は今現在の記憶を持って帰るかどうかです。転生先の奥様マリエッタさんの事やここで貴方が運営していた工房の記憶などです。全て記憶を無くして帰っても良いですし記憶を持ったまま帰る事も出来ます。」

レオは何も無い空間を見詰めて考えているようだった。オルとリリックは目配せして待つ事にした。

どれほど経っただろう。

レオが視線をオルとリリックへ向けた。静かな声音で決断を告げる。

「記憶は消して下さい。そして、戻る時間は事故の直前でお願いします。」

オルとリリックは驚いた。それでは向こうの世界に着いた途端に命が尽きてしまう可能性もある。二人で遠回しにそのタイミングは辞めた方が良いと説得したが、レオの気持ちは揺らがなかった。

「もう充分に生きました。」

静かな湖の水面の様な眼を向けてレオが告げた。

自分の人生はマリエッタと過ごした日々だ。もう他の人生は必要ない。

レオは元いた世界での自分を思い出していた。


レオは有名ブランドであるヴェールレンのチーフデザイナーだった。ライバル達を振り落とし多くの弟子を束ね、今の地位を勝ち取るまでにかなり強引な事もやった。美しい表舞台からは見えない部分ではお互いの技術や感性を競うといった綺麗事だけでは生き残れない。時には他人を蹴落とす事すら実力の一部と見なされる殺伐とした世界だ。

レオにはそのどちらも素質があったらしい。先代のチーフデザイナーに認められて後継者に指名され、今の役職になって数年が過ぎていた。

「お疲れの様ですね、レオ?」

アシスタント兼マネージャーのランディがコーヒーを差し出す。それを受け取って一口飲み、溜め息をついた。

「そうだね。次の新作がなかなか決まらないのが辛いよ。」

「現場のデザイナー達も色々案を出していますけれどご不満ですか?」

レオは頷いた。

「どれも似たり寄ったりだ。新しいコレクションのメインに推せるほど魅力あるものが無いな。」

「難しいですね…。レオのスケッチ案を見ても良いですか?」

「構わんよ。これだ。」

今までに描いた幾つかをランディに見せた。レオ自身も納得していない部分がある。

ランディは丁寧に目を通すと軽い調子で言った。

「悪くないですけどね。ただ貴方のチーフ就任10周年に当たる年のコレクションですから失敗は許されませんよ。」

「プレッシャーだな…」

レオはコーヒーを飲み干して帰り支度をした。未だ焦る時期でも無いだろう。明日には良い案が挙がってくるかもしれない。

ランディに後を任せてそのまま社屋を出る事にした。最近は早く帰る事も無かったのでたまには家でゆっくり湯でも入ろう。

駐車場に着いて愛車に乗り込み自身でハンドルを握って運転し家まで辿り着いた。

少し身体が重い様だ。自宅の駐車場に停車して車を降りると目の前がクラっと歪んだ。地面と天井が反転する気配がして、叩き付けられた様な衝撃があった。

レオの意識があるのはそこまでだった。


それから転生した先では宝飾品の職人として一からやり直し工房へ弟子入りした。転生前の知識を活かして新しい意匠のアクセサリーを次々と生み出しこちらの工房でも人気の職人として重宝がられていた。

そこでマリエッタに会い、新しい人生が始まった。転生前はパートナーは居なかった。仕事漬けの日々だった。しかし妻と新しい工房を一から始めたこちらの世界では、レオの人生の全てがマリエッタと共に歩んだ道のりだった。


レオはマリエッタと過ごす最後の夜に昔彼女に贈ったネックレスを手に取って言った。

「もし、君がこのネックレスを気に入らなかったら妻になる事も無かったのかな?」

マリエッタは夫の突然の言葉にぷっと笑って返事をした。

「そうかも。貴方は自信満々だった。私も熱に浮かされたみたいに周りが見えなくなってた。」

「お。私が詐欺まがいに騙して連れ去ったみたいな言い方だね。」

マリエッタはふふっと笑った。

「詐欺というか、魔法に掛かったみたいだった。」

昔を懐かしみながらマリエッタは言った。

「貴方の作る品々も、貴方の語る言葉も、私にとっては魔法のようだった。」

「良い魔法、だったかな?」

「少し悪い魔法も混ざってたのかも。初めは何を考えているのか分からない人だった。」

「そうだな…。姫君を騙して誘拐した悪徳商人、といったところかな。」

「でも誘拐された姫君は末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし。」

軽口に付き合いながら、最近レオの様子がおかしいのにマリエッタは気が付いていた。酷く落ち込んだり昔の思い出を振り返ったりする事が多くなった。古いマントの青年と黒ずくめの少女の2人連れが現れてからだ。彼等は夫に何か言ったのだろうか。嫌な予感がする。

もしかして実家のパリストン家から使いにやって来た者達で私を連れ戻そうとしているのかも…。

マリエッタはそんな筈は無いと分かっていた。家を飛び出してからもう何十年も経っているのだ。ただ理由は分からないけれど何となく落ち込んでみえる夫を慰めようとふと思い付きを口にしてみた。

「あの時みたいにネックレスを着けてくれる?」

レオは驚いた表情を見せたが、直ぐに笑って頷いた。マリエッタの背後に廻ってうなじで留め金を留めた。そのままマリエッタの肩を一瞬きゅっと抱いて、そして直ぐに離れた。

「レオ?」

レオは痛みを堪える様な表情をして言った。

「このネックレス、着けていてくれると嬉しい。」

マリエッタは胸元の細工部分に触れる。

「じゃあずっと…着けて過ごす事にします。」

妻は何故か泣きそうな夫に精一杯微笑みかけた。

これが昨日の夜の事だ。

マリエッタはレオとの別れが翌日待っている事を知らなかった。


リリックは手鏡レイ=ミラを掲げて呪文を唱えた。

「ラス・レニエ・リィンカナル…」

手鏡の紋様が光り、激しい閃光が点滅して段々と眩しく輝き始め、辺り一体が白い光に包まれた。

「元ある命のままに存在の確かな時の枠へ。一つの御魂帰られん。」

光に全身が包まれて自分自身が発光しながらレオはその場から消えて居なくなった。辺りに静けさが戻る。

オルとリリックは無言で薄明かりの空間に漂っていた。

二人とも暫く言葉も無く放心していた。


レオはゆっくり眼を開けた。白い天井が目に入る。どうやら眠っていたらしい。

「レ、レオ!!」

レオは覚醒後直ぐのぼんやりした頭を抱えて記憶を探った。

「…ランディか…。ここは?」

「病院です。レオ、貴方は10日間も眠っていたのですよ。」

10日間…。

「まだ無理をしてはいけません。生死の境を彷徨ったのですからゆっくりしてください。」

そんなに眠っていたのか…。

いや…もっと、長かったような…。

取り戻した意識がまた遠ざかっていく。

「…レオ?また眠ってしまいましたね。」

意識が戻った事を看護師に告げると担当医が駆け付けて来た。レオ自身は直ぐにまた眠ってしまい、部屋にはマネージャーのランディが残されていた。レオの意識が戻った事で、ランディにも安堵の表情が浮かんでいる。

「本当に…一時はどうなる事かと思いました。先生、ありがとうございます。」

ランディは担当医に深々と頭を下げた。

「過労が重なって、運悪く脳梗塞を起こしかけていたところでした。発見が早くて何とか助かりましたが、倒れたまま放置されていたら危なかったでしょう。」

ランディも深く頷いた。

「本当に。あの日偶然新しいデザイン画を見せに自宅まで寄らなければレオが倒れているのを見つけるのがもっと遅かったと思います。運がよかった…。」

ランディは再び寝入った上司の顔を見た。顔色も良くなって落ち着いた様だ。

「取り敢えず危険な状態からは脱しました。今後は本人の回復に期待しましょう。」

「はい。どうぞ先生、よろしくお願いします。」

ランディが挨拶すると医師は微笑んで退室して行った。

レオがこのまま亡くなってしまったらと、毎日気が気では無かった。ランディは心から彼に心酔している一人だ。デザインのカリスマ性もスタッフへの指導力も何より人間的魅力も、レオを欠いては有名ブランドヴェールレンの未来は有り得ないと思っている。

幸い10周年のコレクションは他のスタッフが一致団結して総動員で取り組んだ結果、何とかスケジュール通りに進んでいる。皆、我々のボスが戻って来る事を信じて待っている。

「早く復帰して下さい、レオ…。」

青臭いかもしれないが、スタッフ皆がレオに今まで頼っていた分の恩返しをしたいのだ。尊敬するボスに良くやってくれたと褒めて貰いたい。その為に昼夜を問わずに頑張っている。

「皆が待っていますよ。」

ランディはレオの空いている右手をぐっと握り締めた。


ずっと一番上に被さっていた古びた1ページが無くなって、とうとう分厚い束だった物が最後の一枚を残すのみになった。

「オル、行こう。」

翌朝、リリックはオルに声を掛けた。最後の仕事に取り掛かるのだ。

オルはああ、と返事をしたが思い直して言った。

「いや。今回のレオの件では消耗したし、少し英気を養っておきたい。一度ティレイル山に行こうか?」

リリックはオルをじっと見た。

早くクレアに会いたいだろうに、この後に及んでグズグズするとは情けない。

オルはリリックの視線にたじろいだ様子だが、山へ登る気持ちは変わらないらしい。撤回しようとはしない。

リリックは本音ではオルの側に居るのが苦痛になって来た所だった。

今まで他のパートナー達と過ごして来ても、こんな心持ちになった事など一度も無かった。任務がそろそろ終わると思うと、胸がぎゅっと捕まれた様に苦しい。

「わかった…。行こう。」

きっと癒しの花弁を散らした温かいお湯にゆっくり入れば心も軽くなるだろう。このもやもやした気持ちも晴れればいいと思った。


ラースリに行き帰りを頼むのもこれが最後だろう。改めてリリックからお礼を言うと、ラースリも苦笑した。

「こんなに何度も呼びつけられた相手はお前達達が初めてだ。ナースリからは癒しの御珠も渡したいと伝言を言付かっている。下山したら憩寧の間へ寄ると良い。」

ありがとう、と二人が言うとラースリも頷いてから引き返して行った。

ティレイル山に登るのも最後だと思うと何だか寂しい。リリックは昨日からの気持ちの浮き沈みを抱えたままのろのろと歩みを進めていった。先を行くオルは時々後ろを振り返りながらリリックを気遣ってゆっくりと登っていく。

中腹辺りで傾斜の緩やかな地点に辿り着いた。オルはリリックに合図をして一旦休憩を取る。これも何度か一緒に登っている二人の間での決まり事だ。

「リリック」

「…何?」

「やっぱり気が進まなかったか?」

リリックは俯き加減でゆっくりと首を横に振った。

「そんな事無いよ。」

「それにしては歩みが辛そうだ。今なら間に合うから下山しても良いが?」

「大丈夫。頂上まで登るよ。」

「ん、解った。」

少しぎこちない会話の後で、お互いに話す事が無くなった。

また2人して無言に戻り水などを口に含む。気まずい訳でも無いのに何故かぎくしゃくしている。

オルと一緒にいられるのも後残り少しだ。

気持ち良く登山を楽しんで、すっきりと疲れを癒してから最後の任務に臨む。そして良い形での別れ方をしなければいけない。

思い出作りのつもりでオルが登山に誘ってくれた事にリリックは気付いていた。

それなのにいつまでも落ち込んでいる自分が嫌だった。


残りの頂上迄の道行きもお互い無言で黙々と登り続けた。ティレイル山は霊山らしく年中美しい花々が咲き乱れているので道中の景観も楽しめる山だ。リリックは綺麗だなぁ、とぼんやり道沿いの花々を見ながら額の汗を拭った。

そういえば、始めの頃はオルの壊れた心が軽くなるように頂上にある癒しの花弁を摘もうと一人でこの道を登っていたのだった。あの頃から比べればオルは大分良くなってもう悪夢にうなされる事も無くなった。この先カナル・パレスと関わりの無い立場になれば癒しの花弁を手に入れる事は出来なくなる。オルにとって最後の機会になるだろう。

リリックが物思いに耽ってぼんやり登っていたところだった。前を行くオルが片脚を滑らせてバランスを崩した。

「わあぁぁ!」

リリックの目の前で登山道の崖から滑り落ちて、オルの長身が下生えの樹々に隠れて見えなくなってしまった。

「オル!大丈夫?!」

慌ててリリックが下まで降りようとするが、木や草が生い茂っていて足元がどうなっているか分からない。迂闊に足を踏み入れるのは危険だ。

「痛ててて…。大丈夫だ…。」

少し下の辺りから、オルの声が聞こえた。思ったより下まで落ちた訳では無さそうだ。ひとまずほっとする。

「上がって来れるー?」

「ああ…、何とかな…。」

ちょっと待ってろ、と言ってオルは自力で這い上がって来た。ゆっくりとだが何とか登れたらしい。

「あーあ、足やっちゃった…。」

見ると、右足が腫れている。履物なども脱いで見てみるが既に熱を持って痛そうだ。

「下山する?助けを…呼ぶとか。」

ラースリに繋がる紺灰石は持っている。

呼び掛けて助けを求めればラースリ本人か誰かが来てくれるだろう。ラースリには本来の任務じゃないと文句を言われそうだが仕方が無い。

「いや…。登るよ。頂上まで行こう。」

オルの無謀な言葉にリリックが驚いて反対した。

「え?無理だよ!こんなに腫れてるのに!」

もう一度足に触れてみると、また熱を持ち始めた様だった。リリックが触れているその上からオルも重ねて手を触れる。

「なんか…冷やすもんないか?」

リリックはその辺りに生えているハーブに似た草を幾つか摘んで揉んでみた。手が緑に染まったけれど期待していた様な清涼感は生まれない。どうやら草を間違った様だ。

「昔…お爺が摘んでた草によく似てたんだけどな…」

オルがぷっと笑った。リリックも一緒になって笑う。

「お前は鈍臭いなぁ…でもまぁ、ありがと。気持ちだけ貰っておくよ。」

そう言って、揉まれてくたびれた草を受け取ると布切れで包んで足に結んだ。湿布の様な扱いだが薬効は全く無さそうだ。

「よーし、行くぞ!」

「ええー…、わ、分かったよ…。でも無理しないでね。」

変な陽気さで張り切るオルに引きずられる形で、リリックも頂上を目指して登り始めた。


何とか頂上まで登り切り、癒しの花弁が咲いている場所まで辿り着いた。予定よりも遅かったが、充分に下山が出来る時間は残っている。

「飯でも食おう。」

オルがどかっと座るとリリックも隣りに腰掛けた。背負い袋から簡単な軽食を取り出して食べ始める。お腹は空いていたのでリリックも遠慮なく食べた。胃に物が入ると気分も晴れてくるから不思議だ。

二人とも食べ終えると、オルがさて…と言ってまた背負い袋から何か取り出した。一つの林檎丸ごとだった。ナイフも取り出して器用に真ん中で割るとリリックに半分を差し出す。

「ほら。」

リリックとオルはあの時からずっと林檎を食べていなかった。意識して避けていたはずだった。

「ハメルの供養だ。…無理なら、俺が食う。」

「ううん。…食べるよ。」

林檎の半身を齧るとしゃくっと良い音がした。

甘酸っぱくて美味しい。

オルはリリックが最初の一口を齧るのを優しく見届けると、自分も黙って齧り始めた。

二人でしゃくしゃくと食べ続ける。

無言だった。

二人とも芯だけ残して全部食べた。リリックは忘れかけていたハメルの最期を思い出しながら悼んで食べ終えた。

「林檎を見ると…思い出すかもな。」

「うん。そうだね…。」

転生司になって辛い事もあった。諦めかけた事もあった。

でも今日ティレイル山に登って来た事は忘れないだろう。

そして次はオルとオルの大事な人を見送るための大事な任務だ。失敗出来ない。笑って見送らなくては。

リリックはまた泣きたくなった。

眼前に咲き誇る癒しの花弁の群生を目に焼き付ける。その美しさに心を寄せて誤魔化し、明日からやって来る別れの辛さを閉じ込める。

ふと視線を感じた。

隣りでオルがリリックを静かに見ていた。

「どうかした?」

急に心臓が跳ねる。リリックが眼を逸らせないくらいに真っ直ぐ見詰めている。段々と心臓は早鐘を打つようにうるさくなっていく。

リリックは瞬きをして涙を堪えた。

自分の感情が複雑で分からなくなっていた。

オルと離れたく無い。

クレアさんと会うのが怖い。

オルの視線に捉えられて、明日の事はもう考えたく無くなってきた。

不意にオルの長い指がリリックの頬を包む。

リリックが瞬きをした瞬間に涙が頬に零れた。オルが指でそっと涙を拭う。優しい仕草だった。

そのままオルは手を引いた。

リリックは目を閉じて息を深く吐いた。

落ち着くまで暫く時間をおいてから、目を開けてゆっくりと言った。

「…癒しの花弁を摘まなくちゃ。」

オルも苦笑して頷く。

「そうだな。って、痛てて。」

立ち上がろうとしてバランスを崩した。腫れている足を軸にして立ち上がろうとした様だ。慌ててリリックが支えて転倒を防いだ。

「ごめん。俺の分も摘んでくれない?」

オルが肩をすぼめて頼むのに、仕方ないなぁと笑って答えた。


帰りは癒しの花弁を先程の草の代わりに潰して湿布した。効果はてきめんで腫れも引いて痛みが和らいだ。帰りはゆっくりとしたペースを保って二人で助け合いながら無事に下山した。

ナースリの待つ憩寧の間へ立ち寄ると、湯を沸かして待ってくれていた。二人で入っても余裕の大風呂が用意してある。

オルが先に入って待っていると入浴着を身に付けたリリックがやって来た。円形の大風呂の対角線上に向かい合って湯に入る。

「今日はお疲れ様でした。入浴が終わられたらオル様の足の治療を致しますので、また後程お会い致します。ごゆっくりどうぞ。」

ナースリが声を掛けて立ち去った。

今日の湯は癒しの花弁と癒しの御珠を入れた本格的な湯だった。疲れも癒されるうえ、気分も穏やかになって行く。

「良いお湯だねぇ…」

リリックが花びらを掬いながらお湯を堪能する。オルもあぁ、と喉の奥から寛いだ声を出した。

「着いてきてくれて…ありがとうな。リリック。」

「うん…はぁ……。」

2人でだらだらと湯に入っていた。

オルはいつも黒ずくめの服を来ているリリックが白っぽい服を身に纏っているのを初めて見た。白い服も似合うと思ったがさすがに入浴着を褒めるのはやめた。

幾時間が過ぎて二人があまり遅いのでナースリが呼びに戻って来た。

「あららぁ…」

湯船で見た二人は仲良くお風呂で伸びきって眠ってしまっていた。


翌日、レオの工房からほど近い宿に泊まっていた二人は最後の帰還者に会いに行く事にした。

リリックは手鏡レイ=ミラを手に取って紙綴リンク・パッドの最後の1ページに翳した。オルが持つ紙綴に手鏡の表面で触れる。

「ラン・レニエ・リィンカナル…、我らを導き者。その名を教えよ。」

リリックが呪文を唱えオルが懐かしい人物の名を告げた。

「クレア・ハーヴィー」

紙綴と手鏡の触れた部分から光の亀裂が走り出し、眩い閃光が辺り一帯に満ちる。

オルとリリックは光の奔流と共に異なる空間へと吸い込まれて行った。

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