一章七項 ヘルフェ
チカドウに下りて時間が少し経つと、後ろでガタガタと振動と音が響いてきた。なるほど、開ける魔術と閉める魔術がちゃんとセットになってるらしい。大概、魔術の効果が切れれば、開いた大穴は開きっぱなしになってしまう。子供が使うには、かなり高度な魔術じゃな。
手を引っ張られたので躊躇う暇さえなかったが、穴も閉まって、すぐに光が無くなる。
道は真っ暗で、たちまち方角がわからなくなった。視界はゼロで、自分たちが放つ音以外にはなにも聞こえない。衣擦れと、息を吸う音と、足音だけが聞こえる。
え? こんなに視界がないもんなのか?
こ、怖い。
そういえば、あんまりこういう真っ暗なところを歩いたことがない。さながらおもちゃの人形を引きずるかのようにリシルはワシの手を掴んで、無理やり進路に向かって歩き始めていた。背負ったリュックと杖が壁に当たってがちがちと音を立てる。
「ね、ねえ! ちょ、ちょっと」
声がすぐ左右の壁で反射する。ワシのサイズで振り返ることもやっとぐらいの広さしか無い。
あまりにも元気な足取りで前に進むので、恐ろしくなってしまった。
こわい……。
いや、断じてワシが臆病な訳では無い。光が少しもなく、ただ一つのものの輪郭さえわからない閉所を歩けるやつのほうがおかしいのだ。
「あ、いて! ちょっと待って、躓いちゃった! コケちゃうから!」
「恐れないで。しばらくは壁に手をつけて壁沿いに伝えば、順当に進めるはずですわ。止まってたら、ここにいるのがバレて捕まってしまいます。 ほら、いっちに、いっちに」
「ちょっ、ま――! だって……!! なにも、なにも見えないんじゃもん」
「確かに私も最初ばかりは、恐ろしくて恐ろしくてしょうがなかったですけれども」
「こんなこと、止めるぞ普通……どうして」
リシルは一瞬、立ち止まった。気配だけでワシに向かって振り返るのがわかる。
「私の事情なのですけども……私も不安だったのです。あなたが偶然迷い込んだのが、もしかすれば天からのご啓示なのかもと」
「はあ? ケージ……?」
「私、十二歳になってから、しばらく体調がよろしくないですの。お腹がムカムカする日が続いたり……声が出なくなったり。虚脱感で旋盤加工が出来なくなってしまった日もございますわ」
「そ……そりゃあ。でもそれなら、ベッドで暖かくして寝ていたほうがいいんじゃね? こんなことしてるから……お母さんとかお父さんも心配するじゃん」
「お気遣いありがとうございます。でも、母も父ももういませんわ」
「あ、ごめん。そうだったか。でも、それだけはワシと同じじゃな」
「そうなのですか」
それだけ言って、リシルは少し沈黙した。
でもまあ、ワシは少なくとも悲しいとかではない。両親の顔も知らないし、思い出とかもない。この娘もそうなのだろうか。
両親に対するワシの気持ちがあるとすれば、ただ漠然とした憧れ。いる人間が羨ましいとか妬ましいでもない。ただ、もうちょっと得することがあったかもしれないなら、得してみたいという気持ちがある。それが憧れだ。
「もしかして、体調が悪いことの原因に心当たりがあるのか……?」
「ええ、少しだけは」
「でも、こうして逃げるほどってことじゃろう。なんとなくでお前の脱走劇に巻き込まれたら、ワシも釈然とせんぞ」
「そうですわよね。……絶対と言えるほどでもございません。あくまでたぶんなのですけれど。ルイカという親しい御婦人がいるのですが……。私が記憶できるよりずっと前から一緒に寝てくださったりお話をしてくださったり、追いかけっこしてくださったり」
「さっきいってたやつな……友達ってやつ?」
「言いようによってはそうかもしれません。旋盤加工は私よりも下手っぴですが、頑張りやの良い人ですわ。でも――」
「でも?」
「たまたま、私のお茶に不思議な粉のようなものを混ぜているルイカを見てしまって。体調が悪くなりはじめてすぐのことでしたから……」
「ど、毒か……!?」
「わかりません。でも、宮廷もしばらく落ち着きがないのもありますし、どうにもじっとしていられなくなっていたのです。王国所属の魔術師たちに相談してみたところ、ここを脱出する方法を教えてくださりましたの」
マジか……?!
こんなガキンチョに毒を盛るなんてありうるのか。この暗いチカドウの雰囲気も相まって、ざわざわとした寒気を感じてしまう。でも、あの化粧臭い原住民どもに、ワシもどうしてもいけ好かない印象は懐いている。早晩、ワシでも同じ立場なら逃げ出しただろう。
「行く宛はあるのか?」
「ええ。なんとなしには。でも……行きたくないと思って」
「そりゃあまあ、難儀じゃのう」
「でもまあ、お気になさらず……あれもそれも、もう九十年も前の話ですわ」
んっ……?
「その時は随分、悩みましたけれども。今となっては、この地下道が随分と心地よく感じますの。生きた年月の七倍くらい住んでいますのよ。それに、ヘルフェ様……貴方様のような友達が時々やってきて、ずっと側にいてくれますから」
「えっ? ……え?!」
静寂がからだにまとわりつく。
湿気か脂気か、体毛がじっとりとしてきて重く感じる。
ワシの口もと毛に、じわじわと刺激が伝わってきた。
「ヘルフェさま゛ぁぁーーー!!」
「ぎゃあぁあぁぁぁ!!」
とてつもなく強くどっしりと重いものが、身体を覆った。
ば、化け物!
ヤバい!! ヤバいヤバい!! 殺されるっ! この迷宮に永遠にとらわれる系の寓話のヤツだ!!
「にぎゃぁあああ! 私の骨を拾ってくださる~!?」
「ひゃあぁああ!!」
「う、そ!」
リシルが耳元でつぶやく。
こ、このくそ餓鬼!! ぶち殺すぞ!!
ほんともう!
「まあ、本音を言うと私も怖いですし、前が見えないのは同じですから、いい加減魔導灯を使いましょうか」
リシルは懐から、ほのかに光る花の蕾のような形の導具をとりだした。
パチッとスイッチを入れると、眩しく輝き出す。
「なんでもっと早く出さねえの!」
「理由はいくつかありますわ。魔導灯はアルマが気まぐれで作ったものだそうで、改良しなかったためか結構壊れやすいですし、周辺のエーテルの消耗が必要以上に大きいというのが一つ。それと、宮廷には訓練された魔導犬がいて、大きな魔術の変動を感知して追いかけてきてしまいますわ。そして最後の理由ですが……、ヘルフェ様の怖がり方が大袈裟で可愛くてつい面白くなってしまったという理由ですわ」
こやつ悪魔じゃ。スーパーお転婆というか、じゃじゃ馬? 暴れ馬かもしれぬ。
邪悪な感じはせんが、付き合っていたらワシが心労で寿命を縮めてしまうわい。
ただ、魔導灯とやらはかなり明るく、さっきとは打って変わって見通しが良くなった。
お転婆娘のリシルだが、うっかり頼りがいを感じてしまう。あくまで、すごいのはこの魔導灯じゃが。
「ヘルフェ様は、一体なぜあそこでお隠れになられていたのです?」
「……そりゃあお前」
どこからなにを言うべきか、ちょっとわからない。
魔人を復活させたあと、勝手に部屋を抜け出して追いかけられてた、などと馬鹿正直に言うのもかなりマズそうなことぐらいはわかる。
勘違いしてはいかんじゃろう。少なくとも、リシルは味方ではない。ただ今は利用してやってるだけだ。心を許してそういうことを話してしまえば、簡単に裏切られてしまうかもじゃ。
「ヒゲのおっさんに捕まって、食われかけたのよ。あぁ~ホントやばかったわい」
「あ、もしかして、イシエスのことですの?」
「ん? まあそうかもな~……名前なんて聞いてないから知らんが。なんか思い当たる節でもあるんか?」
「どうでしょう? イシエスは人を食べるような方ではありませんわ。ただ、宮廷のおばさま方はおヒゲがお好きではないので、他に生やしている方がいないですから……最近は領主の方々も、来られないですし、宮廷を自由に出入りできる殿方でおヒゲをお生やしの方はイシエスぐらいですの」
「あいつって、いいヤツなんか?」
「ええ。おっしゃっているのが彼ならば、そのように思いますわ。個人的に正直アルマは表の感情を上手く表現出来る方なので、むしろ真の心根が見えにくいところがございますが、彼は鉄面皮なのに喜怒哀楽が不思議と伝わって来ますの」
「ふ~ん……」
ぶっちゃけ、そのアルマだかイシウスだかが、誰のことかさっぱりしらんし、あんま興味もない。
なんといっても、このワシがわざわざ名前を聞いてやったのにあのヒゲ、意味がないとか言って拒否しやがった。
「そんななら、そいつらに逃がしてもらえばよかったんじゃね? わざわざ、お前みたいなガキ一人でこんな危ねえ道通らんでもさあ」
「それが出来たらいいのですけれど……。 彼等は王国の魔術師なので、あまり自由なことをしてしまうと彼等の立場が危なくなってしまいますの」
「王国……? ここもそうなんじゃねえの?」
「そうですわ」
「??」
「もともと、ウストルという王都があるのです。ケイオンは魔術教会の発足地という歴史がありますの。本来、ウストル国の内部の都市であるケイオンでしたが、いつの間にか大きさが逆転して、形式上、独立はしてませんが王女の統治するケイオンのほうが何かと権力が強いということになってしまったのですわ。力はケイオン、形式としてはウストルのほうが上なので、色々とややこしいわけです」
「確かに、意味がよくわからん……」
その後、しばらく話しながら歩く。
ふと、ぴたぴたと上の壁面から水が滴ってきた。
「どうやら、雨が振り始めているかもしれませんわね……」
「いまどのあたりなんじゃ?」
「宮廷の大門ぐらいのところかも知れませんわ」
リシルに導かれるまま歩いていると、下り坂があって、大量の水が流れ込んでいた。通路がすでに冠水していて、吹き出す水の勢いが怖い。お互いの声が聞こえなくなるほど、水の流れ込む音が激しい。魔導灯だか言う灯火の光でも、奥まではぜんぜん見えない。真っ黒な闇に、真っ黒な水がどんどんと吸い込まれていた。
こんな狭い場所なのに、なぜか自然の大きさみたいなものの片鱗を味わう気持ちではある。この水はいったいどこまで流れてゆくのだろうと、つい考えてしまう。
「これは……困りましたわ。すこし引き返していかなければなりません」
振り向いたリシルが、そう言ったときだった。
遠くで、音がする。
……音というより、鳴き声? これは犬の鳴き声じゃ。二回ほど聞こえて、たぶん間違いない。
リシルにも聞こえたようで、表情が一変して強張った。いままで、お転婆の顔しか無かった癖に、そんな恐怖を浮かべるとは。
馬鹿な娘め、ワシも釣られて不安になっちゃうじゃろうが……。
「いけません……すぐに引き換えして道を変えなければ!」
「あいて!」
大慌てでリシルは、ワシの手を引っ張った。
そう言えばさっき、なんか魔導犬がどうとか言ってたな。
「さっき言ってたやつか?」
「ええ!! 急ぎましょう! 追いつかれてしまう前に!」
そんなもんワシの魔術があればどうとでもなるわい。
こいつ、ワシを少々舐めておったし、むしろこれは見直させるチャンスじゃろう。
ワシの偉大な魔術で、どんとこの場の危機を乗り切って、こいつに感謝させてやる。
短い間隔の息遣いが背後から聞こえてきた。
構造が複雑な道なので、一直線ではここまでこれないじゃろう。
それを考えると、尋常じゃなく速い。
ここに入る前は雪だったのに、雨で地下が水浸しになってしまうくらいの時間は歩いたのじゃ。
リシルを見直させる……つもりではあるのじゃが、恐ろしくて、振り返ることさえ出来ない。とにかく、今はリシルのマッピングとやらを信用するしか無い。
「はぁ……! はぁ! まって! でも、そいつってお前を見つけに来ただけじゃろう? お前なら、一瞬ぐらいなんとか大人しくさせることぐらい出来るんじゃろ?!」
「なんとも言えませんわ!! 魔導犬は宮廷以外の人間は攻撃するように躾されているので!!」
そりゃやべえって!!
それって結局ターゲット、ワシやないかい!
でも、しかし! たぶん問題ない。ワシの魔術なら完璧に対応可能じゃ。
突然、リシルが立ち止まる。
「ここは……!?」
そう言う声が、大きな水の音でかき消された。
前を見ると、奥が全く見えない大きな大きな縦穴の掘削坑みたいな場所だった。狭い坑道が途切れて、暗黒の大空洞が現れる。
光で照らしても、天井や壁でさえなにもない空間がポッカリと眼前に広がっていて、滝のような水の落ちる音だけが反響で鳴りひびいている。
ここに落ちれば、どうなるか見当もつかない。水の流れが押し出した風に、お口の周りの毛を撫でられて、身体がぶるりと震えた。
見ているだけで、恐ろしい場所じゃ。
そして、そこに後ろからゆらりと影が迫ってくる。
軽快なひたひたという音が、なにかがすぐそこにいるのを示していた。
「良いじゃろう……やってやろうじゃん。任せろリシル! ワシの実力をとくと拝めい……!」
闇の中から飛び出すように現れた魔導犬は、大きな犬だった。
犬は犬だが、もはやただの猛獣で、ワシよりもデカい。
がなり立てるように吠える。噛みつくように顎をガチガチと開閉させながら、ずんずん近付いて威嚇してくる。
……何コイツ! 顔怖すぎィ!!
ただ、その獰猛な……頭の悪そうな顔もそこまでだ! ここまで近ければ問題ない!
「服従せよ隷戎!!」
ワシの全力、受けてみさらせ――……!
……おあ?
あ、あれ?!
どうして……?
魔導犬は鼻筋をシワ一杯にして、牙をむき出しにしている。敵意は消えていない。
後ろ足で俊敏に飛びかかってくる。
どすんと衝撃が来て、地面に思い切り組み伏せられた。
リシル!
ガキのくせにワシを守ろうというのか、抱きつくように覆いかぶさってきた。
「大丈夫ですわ……!! 私には噛みつかないはずです! こうしていれば」
いや……でも違う!
なんか違う……!
咄嗟に、リシルの後ろ首をトネリコの杖で庇う。
フガフガというような荒い吐息が聞こえる。
大きな大きな力が、杖に伝わってきて、リシルの髪留めがバツンとほどけた。力比べでは全く刃が立たない。
一体、なにがどうなって……!?
なぜか、ワシの魔術が通じない。なぜだ!?
魔導犬、つまりは魔術……。
そうか、多分、すでに魔術が掛けられている状態なんじゃ。ワシと似た系統の魔術で制御されている。操霊術は星霊術のなかでも、比較的シンプルじゃから、フウリ族にできるとしてもおかしくもないかも……!
一瞬だけ見えた。魔導犬の耳にキラキラと光る装飾品が取り付けてあった。
まさか、魔導犬側に受信機となる魔導具を取り付けて、魔術を強化し効果を維持しやすくしている……? 魔術の多くは距離の制限を大きく受けるはずじゃが、魔導具は例外的に、発生源や中継器として機能し、距離の弱点が補えることもある。
操られた犬が坑道の中を突っ走ってしまえば、使役する魔術師から距離は離れる。そうなってしまえば、本来、効果は自然に弱まってゆくはず。
魂にはたしか律導壁なるもんがあって、魔術の影響を自分の身体が勝手にはねのける性質があるはずじゃ。恐らく、それを抑え込むためにも、魔導具が必要なのじゃろうが……。
……そうだとしても、ワシの魔術で上書きできないのはなぜじゃ?
「もういい!! リシル! 離れろ!」
「駄目!」
「お前まで食われちまう」
「貴方にもそんなことさせません!! 私の友達ですもの!」
魔導犬は、リシルの背中の服を引っ張り、一息に引き裂いた。
それでも動かないと見たか、脚に食らいつく。
「ああ!!」
力の差は歴然で、いともたやすくワシとリシルは引き剥がされた。
「う……嘘だろう」
魔導犬はワシにまったく関心を示さず、リシルの腕に噛みついた。
ブンブンと首を振って、その力で腕を引きちぎろうとでもいうのか、リシルの身体が惨たらしいぐらいに打ち付けられる。
ふと魔導灯が目に入った。
……そうか!!
魔導灯を手に入れ、集中し、思い切りエーテルを注ぎ込んだ。
バチンと音を立てながら、大きく発光する。
魔導犬が怯んだ。
魔導灯の消費するエーテルによって、ワシの魔術が弱まっていたのじゃろう。
これなら! 今こそ!
今ならワシの星霊――……杖!?
杖がない! どこじゃ……!?
魔導犬は一瞬怯んだが、すぐにリシルへの攻撃を再開した。
咄嗟に首と顔を庇ったリシルの腕になおも噛みつく。
なんでじゃ……!?
リシルからワシが離れたら、ワシの方を狙うのではなかったのか……!
「ヘルフェ様! に、にげっ……!」
そんなのどうやって!? 魔導灯を失ったことで、もう明かりがない。ほのかには発光してるが、光が徐々に消えつつある。
ワシが……! ワシがどうにかしなきゃ!
でも杖がない!
ふと、なぜか魔人のあいつやエトルの顔が浮かんでしまう。
魔人は杖や詠唱のような、補助を基本的に使わないとか……。魔術の五つの基礎、創気、練魔、溜魔、導魔、発動という手順を意識せずに、流れるように出来てしまうらしい。詠唱は前二つ、触媒は後ろ二つを補助することが知られている。全部得意でない者は、つまりどちらも使う。
すなわちワシもあまり、これらが得意でない。
だけど、やるしかない……!
補助があったとはいえ、いままで幾度となく行ってきたことじゃ……!
むかし、エクラナの無詠唱無触媒で魔術を使えるババアに聞いたことがある。
もし、触媒を失った時の対処法。
そう……! それは他ならぬ暴力!!
ワシのこの手が唸って光る! ババア仕込みの物理魔術じゃあ!
「言うこと聞かんかあ! クソ犬!!」
バチッと音を立てて平手打ちが当たった。
思いのほか、いい感じに当たる。
予想外にクリーンヒットしたおかげか、魔導犬は超反応でワシに牙を向けてきた。
「控えろッ!!」
止まれ!
魔導犬はビタッと動きを止めたかと思うと、そのまま静止した。
シワだらけの鼻筋がすっときれいになって、牙を隠した清まし顔になる。
なんとかなった……!
どうやら操霊術は効いたようじゃ。だけど、嫌な感じがした。
芯が腐った玉ねぎに触れたようじゃ。誰かの魔術に上書きすることは初めてだったので、そういう理由なのかはわからない。なんとも言えぬ、不快な感触が伝わってくる。
「落ちな!」
大穴へ飛び出すように命令した。
放置するわけにもいかないので、今後敵対できないようにするしかない。今回はたまたま、リシルが囮になった形で魔術を上書きできたが、そう何度も同じことをできるわけじゃない。
「お待ち下さい!! ヘルフェ様!」
リシルが大声をあげる。
「な……なんでじゃ?!」
リシルは大怪我を負っていて、腕からどんどん血が出てきていた。
息も荒く、苦痛に顔を歪める。
「この子に罪はありませんわ……。命令されただけですもの」
「そ、そうかもしれんけど」
リシルが座ったまま身体を片腕で引きずった。一瞬躊躇うような素振りをしたが、さっきまで自分に噛みついていた魔導犬に寄り添う。
魔導犬は打って変わって、リシルをいたわるように舐め回し始めた。リシルの顔よりも、魔導犬の顎のほうがずっとデカい。頭を丸かじりもできたじゃろう……よく噛みつかれて生きていたものじゃな。
「大丈夫……大丈夫ですわ。ヘルフェ様のおかげで助かりました。あなた様が居なければ、命がなかったかもしれません。ありがとうございます」
「お前……腕の怪我なんとかしないと」
「ええ」
魔導犬は悲しみを表すように鳴いた。
自分のしたことがわかるらしい。
ワシが完全に制御しなくとも、凶暴さは確かに消え失せている。リシルの静止で無駄な殺生をすることは無かった。こやつイタズラ好きのお転婆でありながら、ま、まあまあ冷静なやつじゃ……。
荷物の中から布切れを出して、強く圧迫して縛るようにリシルの腕を止血する。痛みで大きく顔を歪めていた。
さすがに傷は大きく、素人目でも痕になるじゃろう思う。もしかしたら、骨も損傷してしまったかもしれない。
「しかし、なんでこやつお前を……」
「ごめんなさい。ヘルフェ様。今はちょっと考えたくありませんわ」
そう言って俯いて沈黙する。
「ふえ、ふえぇぇぇ……」
変な声を出しながら、リシルがポロポロと涙を落とし始める。
「馬鹿! な、泣くんじゃないよ!」
いや無茶言ってるかも。自分よりデカい犬にボロボロにされて、泣くなというほうが無理じゃ。いやいや……疲れた。こいつ、制御不能のお転婆で、たまに賢いが、泣き虫じゃ。
でも、そりゃそうかも。
ワシのような大人と違って、ガキンチョで明らかな温室育ち。しかも、ただの女の子。
「な……! 大丈夫じゃから。もう脱出しよう?」
リシルは真っ赤な顔で涙を拭いながら、ワシに飛びついてきた。
「お前……! しっかりせえ! ワ、ワシも泣きそうになっちゃうじゃろうが! う、うぇぇ」
うわ! はっず! 恥ずかしい!
ワシもう十九歳だから人生も折り返しぐらいなのに、ガキに泣きつかれて自分も釣られて泣いちゃった! なぜかわからんが、ワシの馬鹿! 馬鹿が! 泣くでない!
魔導犬がデカい鼻を突きつけながら、ペロペロとしてくる。
コイツ、イイやつじゃん……。もしくは、単純に塩分不足。
「うっ!!」
体にずきんと痛みが走った。
右手が意思に反して強張って、大きく震える。
あ……まずったかも。これはヤバイやつだ。
「あが! あばばばばば」
「ヘルフェ様ッ!? どうなされましたの」
馬鹿! お前ワシの服に鼻水めちゃついとるじゃん!
でもそれどころじゃない! こりゃいかん……!
いかんが……どんどん体の制御が効かなくなってゆく。
どうしよ……どうしよう―――……。




