二章二十六項 アルノ
ただ駆けた。
駆けることしか出来なかった。
気持ちが急く。何も走って解決することはないが、気付けば走っていた。
自分が無力であることから逃げたい。向かい合うべき事実から逃避したい。
もう黎明が訪れてきていて、薄っすらと明るく、ギリギリ、先を見通せる。
すぐに息が上がる。
出来るなら、ソイエンの心肺蘇生法を試みるほうがいい。一刻も早く、蘇生しなければ……。
あるいは……もう、諦めるべきか。
ソイエンの首が、すでに動かなくなってきている。
死後硬直が、起き始めていた。筋肉の組織サルコメアを構成するミオシンだとかアクチンというものは、弛緩するにもATPと呼ばれる特定のエネルギーが必要である、とかだったな。
血流が絶えて、ATPが不足すると筋肉が動かなくなる。
もう背負うのはやめて、前に抱くしかないな。
気付けば、森の道のりはついに終わりを迎えていて、森を抜けて小高い日の当たる丘に立っていた。
見下ろすと、森とは全く違う世界が望んでいた。
着いたのか……。やっとだ。ようやく、町に辿り着いた。
朱と紫に染まった空と、緑色の町の境界が、世界を二分しているかのような風景だった。
大きな石灰岩の門の先の市街には、銅板で葺いた緑青の屋根がどこまでも広がっている。すでにあちこちから、炊事かなにかの煙が立ち上っていた。
想像していたよりも、ずっと発展しているな。
さらにその先には、対岸が霞んで見えないほどの、大きな河が広がっている。吹き上げる風の香りは、磯臭かった。
「これがイレベラム大河か」
ソイエンを草地にゆっくりと下ろす。風にゆられた新緑の草が、ソイエンを包んだ。
「……本当に申し訳ないことをした」
苦しませてしまったな。こんな最後とは……。
灰色の肌には、生気は無かった。脈もない。ほつれた髪を、手で撫でて少しだけ纏める。
足も顔も傷だらけだ。痩せこけていて、体には脂肪も筋肉もない。運んでいる時も、体に雲が詰まっているかのように軽かった。
ソイエンの体格では体温が低く、病気への免疫が弱くなっているという可能性はある。そんなことにすら、気が回らなかったな。僕の鈍感さが、彼女を殺した。
あの傭兵達に絡まれなければ、あるいは蘇生する猶予があったかも知れないが、彼らにも死傷者が出ている。責めたところで、もういまさらのことだ。
それに、彼らの言葉で、心のどこかでは事実を受け入れる準備を始めていた。
彼女のたった一つの願い、故郷に返って、親に会いたいってのすら、叶えてあげられなかった。
その想いを考えると、やるせない。
コップに水が注がれるように、胸から頭に憂鬱さと哀しみが満ちてきて、鼻や目から溢れそうになる。
虚しい。
運がない者には、死んでまでも奇跡はない。不幸は、幸運を得るための対価にはならない。
ここまでやって、また空回りだ。
結局、僕は普通の人間のポテンシャルでしかない。筋肉をどれほどつけても、ヒーローにはなれない。
分かっていたつもりで、まったくそんなこと理解してなかったな。どこか、都合良く……上手くいくんじゃないかと自分の運を過信してしまった。
「……自惚れたバカ野郎だ」
結局、不幸を振りまいてるだけじゃないか。未来を見据えて動くなんて能力はないし、ただ場当たり的に物事に挑んでいる。
この身体が持つ宿命は、僕にはあまりにも重すぎる。
なんなんだよ、魔人って。
このまま、町に入るわけにもいかない。
若い女の子の亡骸を持って、魔人が入っていけば確実に混乱が起きる。
もう今は、何も考えられない。一体、僕はどうしたらいいのだろう……。
音がした。
足音だ。マズい……! 隠れる暇もない。
僕とソイエンがいる小さな台地の脇から、草を踏みしめて登ってくる。
「おいおい、居たぞ! お前、こんなところでグダってる場合じゃねえじゃろうが。皆、待ってんじゃから」
「え……? ヘルフェ?」
「あ! アルノさん、いました?」
驚いた。
丘の脇から顔を出したのは、見慣れた二人、小さな獣人と、美しい女性だった。
エトルとヘルフェだ。
「何故ここに……」
「ルイカさんという御婦人が、森を抜けてくるだろうって教えてくれたんです」
「おい、これって……」
二人はソイエンを見て、立ち止まった。
何か言わなければ……。
でも、何も言えない。なんと言っていいか分からず、口が開かなかった。
ただ、情けない。釈明の余地もない。勝手に大勢巻き込んで、大騒ぎして、なんの結果も得られなかった。
「この子は……星に還ってしまったんですね」
「……間に合わなかった」
「でも、そもそもが最初はお前を殺そうとした敵だったんじゃろ?」
「……うん」
ヘルフェはもともとこのシビアな社会の住人だからか、キッチリ割り切っているな。
むしろ甘いとも言えるかも知れない、唯一この僕だけが。
あの広場の人達の死、さっきの傭兵の死、こんなに人の死を見るなんて、前の人生にはまず無かった。
それだけでも本当は現実を飲み込むので、すでにギリギリ。
その上、ソイエンは救える可能性があったし、共感出来る部分もあった。だから、より悲しい。
今ばかりは心が捻れて、身体がずっしりと重い。
「……アルノさん」
エトルは僕のすぐ横までやって来て、目線を合わせるように屈み込んだ。
「やってみますか」
「え?」
「たぶん時間がないので、まず聞きますね。貴方が決断して下さい」
「決断って……?」
「はい。言葉を選ばずに言います。この子が更なる苦しみを受け、そしてまた再び理不尽に命が断たれるかも知れないとしても、この子の強さに託し、機会を与えてみるべきだと考えますか?」
「おい、それってエトル……お前まさか」
エトルは一度立ち上がり、そして、ソイエンのすぐ横に膝をついて、首と膝の下に腕を通した。
「……私は、まだ生き返らせることが出来ると思うんです」
生き返らせる……!?
そんなことが……。
確かに、それが可能なら絶対に頼みたい。しかし……、生き返らせるって、そんな簡単なことなのだろうか。
そうだ。
あの時……ロネリアの時は、エトルは何も手を出さなかったのも引っかかる。
エトルは再び立ち上がり、ソイエンの体を抱えたまま向きを変えて、地表に露出していた岩石に腰を下ろした。
「ば、バカ! 生き返らせるなんて、もうとっくに――……どうするつもりじゃ!」
「この子は魔術師だと聞きました。それなら、体質としてエーテルの親和性が高い。深刻な外傷がなければ、この場で蘇生できる可能性はあると思います」
「違う! それは……だって禁忌じゃろ」
「広場でのあの時、私があのマゼスという魔人に言われたことを、覚えていますか?」
そういえば……何か。
あの時、あまりにも唐突だが、それだけに少し引っかかる、“特殊な魔術師”みたいな呼び方をされていた。
そんな覚えが――。
「――……“屍霊術師”」
ヘルフェが、覚えていた。
そうだ。間違いない。確かに、僕もそう聞いた気がする。
「それは、真実です。……あの魔族の魔術師は私の本質を一瞬で見抜きました。私は過去、重大な……重大な過ちによって、人の生命を冒涜的に扱った罪があります。だからやって良いとは言えませんが、そんな咎人の私だからこそ出来るとも言えるかも知れません」
「と、咎人……? じゃが、そもそも、死んだ者を生き返らせる魔術など……」
エトルは、目をソイエンに向けたまま、慈しみとも哀しみともつかない目だったが、穏やかな表情でもあった。
「私の魔術は、“魔術を植え付ける魔術”」
魔術を植え付ける……? ヘルフェのように、人を操るということなのか?
「なにそれ……ど、どういうことじゃ?」
「私が学んだ魔術を、他の存在に強制的に扱わせる魔術です。アルノさんは、魔術を使えないのではありません。言ってしまえば、私が常に使わせているのです。植え付けというのは、発動さえしてしまえば、私の干渉なしに使い続けるという性質があるという意味です」
「は、はあ~!? なんじゃそれ」
「植え付けは、生き物だけが対象になるわけではありません。すべての物とまでは言えませんが。つまり、魂を失ってしまっても可能です」
僕が魔術を使わされている? 今現在もってことか……?
それは……凄い。凄いな。
僕が学んだ範囲では、人間には誰しも、律導壁という魔術の防御機能があって、他人に魔術では直接干渉出来ない、みたいな制約があったはず。
そもそも、持久力やエーテル濃度の問題で、魔術を維持するのが難しいという前提も無視している。
しかし、ヘルフェやモナのような、他者の律導壁を一時的にねじ伏せられる魔術師が、近年になって多く現れ始めているらしいというのをネオンから聞いた。
ヘルフェやエトルのような善人だけがそうならいいが……。
それが、どれほどの影響力を持つのかは計り知れない。政治をコントロールし、社会を崩壊させるようなことも可能だろう。
誰しもが持ちうる才能ではないから、モナのように、悪意の渦に巻き込まれる。
他者の意志に関係なく他者を変えることが出来る、それは神の力なのだ。
エトルもまた、神の領域に踏み込んだ、超越的な力の持ち主の一人ってことなのかも知れない。
ともかく、エトルの話的には、僕は生きているわけでなく、“エトルの魔術”に寄生してるだけってわけか……。
違和感や驚きはあまりない。まだそれほど実感がないってだけかも知れないが。
地下道でエトルが僕に言おうとしたことと、なんとなく道理が通じているようには思える。
「それは凄えのかも知れねえけどよ。しかし、お前はそれで良いのか?」
「それが良いことだと思えれば、やります。だから、二人だけに告白しました。私には、良いことだと決める勇気がありません」
「エトル……一つ聞かせてくれ。君の言い回し的に、蘇生には相応にリスクがあって、なにか良くないことが起きる可能性もあるってことか?」
「はい。生きる力がない人を延命させた場合、体の機能自体はすでに枯れ果ててしまっていて――……酷い死を迎えます。だから、魔術協会からも厳格に禁止されてます」
エトルは一見、平静を装っていたが、目を伏した。
ようやく、ほんの少し理解出来た。それがこの娘のトラウマか……。
彼女の犠牲心、奉仕の心、緩急のある衝動、それらは癒されることのない罪の意識、自責の念と贖罪なんだ。
確かに、例えエトルの語ったリスクがないとしても、かなり厳格に線引が必要な力だろう。無差別に使えば、大きなトラブルになる。ソイエンの蘇生をヘルフェは反対し、エトルは決断を躊躇することは間違いなく正しい。
しかしそれと同時に、エトルには葛藤があったのだ。
“死人を生き返らせることが出来る”という事実を飲み込んで、何もせず見過ごす必要があるわけだからな。少なくとも、ロネリアにはそうしてた。
なにが転機かは厳密には分からないけど……決意が変わったのだ。
かつてのトラウマを越えて、会ったこともないソイエンを助けてくれるつもりなんだ。
「……頼む」
決めた。
エトルの感情……トラウマ。掟、社会のバランス。倫理観。それは軽視して良いものではない。
それでも、僕には迷う理由がない。消極的な選択によって、後悔したくない。
「生き返らせてくれ」
「は?! ちょっと待て、まだ駄目じゃろ! もうちょっと慎重に考えないと……」
「いや、やってもらう。責任は僕が負う。そもそも僕達は、エトラネミア女王を復活させに行くんだ。迷う必要がない。これは私情かも知れない。しかし、これからへの決意でもある」
どうしたって、公平には出来ない。死にゆくものを全員を助けられるほどの力はない。だからこそ、目の前のことに力を尽くしたい。
「ワシは知らんぞ……」
ヘルフェは嘆息のあと、エトルの側に足を投げ出すように座った。これ以上、反論はないらしい。
「エトル、頼む」
「わかりました」
蘇生が始まった。
エトルはソイエンを膝の上で抱きながら、目を閉じる。その姿は、風に吹かれながら祈るようでもあった。
やがて、ささやかに歌い始めた。
「歌……?」
ヘルフェが、黙っていろと言わんばかりに睨んできた。ヘルフェは僕の蘇生にも関わっているから、見るのが二度目ではあるんだもんな。
ただ、歌声が響く。
エトルのその控えめな性格からは想像しえないくらいに、その歌声は穏やかで、明るく朗らかで、伸びやかだ。
歌詞は無く、ただ母が幼子を眠らせている子守唄のようだった。
二人は朝日を受け、神々しいまでに眩く黄金色に照らされていた。
肌の色は違うけど、髪の色が似ているだけあって、どことなく母子みたいだ。
「起きて……。起きて……」
エトルが囁く。
「あ……!」
凄い!
呼びかけに応じるように、静かに微かに、しかし確かにソイエンは呼吸を始めた。抱かれたソイエンは、僅かに聞き取れるくらい穏やかに寝息をたて始める。
しかし、目は覚さない。
「ヘルフェ……、お願いします」
「まったく、しゃあねえ。大方、どうせそうなると思ってたんじゃ」
ヘルフェは立ち上がって、エトルに抱きかかえられたソイエンの真横に立った。目を瞑り、手を軽く当て、集中する。
これが、蘇生。
なんらだいそれた仕掛けではない。しかし天地が祝福してるかのように眩く、神秘的に見える。
大きな白い水鳥が、空を横切った。風が吹き、周囲の草木がざわめく。
エトルはまた鼻歌を歌っていた。
大きく、溜めた息を吐き出す音がした。
「う……うう……」
本当に来た……!?
少女は眠りから覚めるかのように、唸った。
「な……に……?」
奇跡だ。
信じられないほどの奇跡。
ソイエンは、この丘で復活した。魔術によって、目を覚ました。
確かに、意識がある。
「凄い……、凄いな! 凄いぞ、二人とも!」
「ほにほに。まあ、魂は離れて無かったから、簡単じゃな。なんなら難しいのは、お前で一回やっとるし」
「平気か? 体は? でも良かった! ……良かったな」
「――痛っ。ちょ、ちょっとごめん……! 触らないで。なんか体が――」
ソイエンは本当に生きている。
僕がその手を思わず取ってしまったせいで、刺激してしまった。苦しんでいるが、それも生きている証だ。
エトルがソイエンの胸に耳を当てる。やさしくおでこに掌を置いた。
「とにかく、まだ休息が必要ですね」
「――頭が割れそうに痛い……。ごめん、動けない。あなた……医者の人?」
「ええと……私はエトルって言います」
「ああ。そうなんだ……あなたがエトルか」
ソイエンは痛みに耐えるようなしかめっ面で言った。
エトルは不思議そうな顔をした。もともと僕のことを狙った襲撃者なんだから、エトルやヘルフェの存在も知っていたのだろう。
僕のように人格が変わっているということもなく、間違いなく本人だ。
実際に、死後数時間後に人間が健康体で蘇生されることは、稀にあるということは耳にしたことがある。
体温を上げる魔術だけで、完全に人間が蘇生するとも思えないし……エトルの言う通り、諦めなければ蘇生出来る状態だったのかも知れない。
彼女が提案してくれなかったらと思うと、恐ろしいな。自分を殴りたいぐらいに後悔の念が滲み出てくる。
「そっか……コースの町についたんだ」
「ああ。なんとか……この二人やハイロ、ルイカさんのお陰もあってね」
「そうなんだ。皆さんに面倒かけちゃったね」
いや……。安心したら、どっと疲れが押し寄せてきたな。
ハイロも心配だし、あの傭兵の男達の顛末も気になるし……。ただ手放しで喜んでいいか、分からない。
それでも、ソイエンの生命を繋げたことは最高だ。
「ありがとう。君達のおかげだ。エトル、ヘルフェ」
「ええ。私も、あなたに命を助けられましたから。手助けになれたのなら、良かったです」
「あの、エトルちゃ〜ん、ワシもお前さんの命助けたんじゃけども……」
「うん。そうでしたね。ありがとう、ヘルフェ」
エトルはソイエンを抱いたまま、にこやかにヘルフェへ礼を述べた。
助け合いは今後も必要だ。
ここまで、ギリギリな面もあったが、まだ旅路は始まってすらいないんだものな……。
こんなボロボロで出発点だなんて、想定外だ。まあ完全に自業自得なのだけども。
ソイエンはまだ呼吸が安定していなかった。体は随分と重いらしい。
「こうしていると……まだちょっと……眠りたくなっちゃうな。ねえ、魔人さん――……」
「お前さ〜、泣きべそかきながらお前のこと必死こいて助けようとしてたヤツの名前、知らねえとかある? アルノっていう、ワシが名付けたありがたい名前あるから。このバケモンには」
う……。
泣きべそって言われると、ちょっと恥ずかしいな。ぎりぎり泣いてないはずだけども……。
それに、“魔人さん”って呼び方も、妙に親しみがあって実はそんな嫌いじゃなかったりする。
「うん……そっか。ごめん。眠っている間、お母さんの夢を見たけど、肝心なこと、なに言ってるか分からなかった。貴方がずっと、うるさくて。あんまり眠れなかった」
「え……? そうなのか。夢の中の僕がうるさくて、すみません」
「うん。でも……、そういうことっていうか……。貴方の呼ぶ声、聞こえたよ。アルノ」
ソイエンは手を差し出してきた。
そう言われると、ちょっと照れくさいな。一応、感謝してくれるのかな? 握手ってことか? 握手なんて文化あったんだ。
ゆっくりと、手をとって握る。
ほとんど僕の半分ほどの手しかない、小さく細い手は、ひんやりとしていた。小動物のように、儚い。
生き物としての規格の違いを感じるな。
こんな少女達が、魔人と戦争なんて無理だろう。
これから、この人達を守らねば。
特にソイエンは、真っ先にこの悪夢の螺旋から、抜け出させなければならない。
恋人でも、家族でも、友達でもない。利害関係でもないし、なんなら、僕を殺そうとしてきた女の子だ。
でも、心のどこかに触れた存在でもある。
「うわぁ。お前ら、ハレンチじゃ。なに堂々と人前で――」
「ハレンチ?」
「流石に……魔術師の手を握るって、今時は結構ハレンチですよね……。正直人前ではあんまりやらない方がいいかも」
いや、知らんよ。なに突然。
文化知らないんだもの……。しかも、僕が蘇生された早々、ネオンと逢瀬していたエトルに言われたくないな。
当のソイエンは、また疲れてしまったのか、安らかな顔で眠り始めていた。




