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一章四項 アルノ


 タシギが負傷していた。

 左足の大腿あたりを切り裂かれてしまったのかも知れない。腰を折り、傷であろう箇所に手を押し付けている。

 抑えた手の隙間から血が滲み出るのが、この暗がりの中でも見てわかる。出血量は少なくない。

 どうやら彼女は防御の魔法が使えないらしい。


「……くそっ! これなんなんだよ! ふざけんな!」


 震えながら、詰まりそうな声で憎悪を向けてくる。

 もう吠えるだけだ。魔法使いともあって、フィジカルバトルになったら、僕に太刀打ちできまい。


「面白いこと考えるね。こんなグダグダになると知っていたなら、あなたを生かしておく判断をとるべきだったかも……でも所詮は無駄なあがきだよ」

「果たして無駄かな? 逃げる決断は急いだほうがいい。君等は女の子のようだし……」

「それがなに?」

「今こうしている内にも、どんどん身体から温もりがなくなっているはずだ! ……つまり、今! 熱が奪われている! とても寒くなってきているはずだよな」


 どうせならここで一発、カッコよく決め台詞を言おうとおもったが、まったく思いつかなかった。


 とにかく、変化が必要だった。

 状況を変えるには、天窓を破壊して雨を降らせるしかなかった。

 防御魔法があるにせよ、魔法というものが持続が難しいという特性上、雨までは防げない。


「そんなのどうってことない。寒いぐらいがなんなの?」

「いいや、舐めてはいけない。山なんかでは滑落に匹敵する死因になる。低体温症ってやつだ。この寒さなら、たぶん十分じゅっぷんぐらいで意識を失う」


 ここまで来たら、運否天賦。

 運に委ねるしかない。

 天窓を割るのは、僕自身も追い込む行動だが、しかし少なくとも一方的に追い込まれる状況でもない。

 誰かが助けてくれること前提だから、あとはもう祈るばかりだ。


 十分という制限時間には、根拠はないが……この寒さと風からいって、実際のところ二十分ほどがタイムリミットかもな。


 低体温症は進行すれば動けなくなる前に、意識障害が起きる。意識があってもどんどん判断力は落ちる。つまり、自覚のないままに気絶してしまうこともあるかもしれない。

 それ自体は仮に良いとしても、さっきの人払いをしているという発言が問題だ。この二人の協力者がいたりして他者の介入を妨害しているかもしれない。その場合、この場で意識を失われたら、全員助からない状況にもなりうる。

 冷静に考えれば、諦めてなんとか逃げるしか選択肢はないはずだ。


「人間はね、ただでさえとても寒さに弱い生き物だ。寒い地域に住む毛並みがある生き物は、二層の毛並み(ダブルコート)で水を遮断できる場合が多い」

「うるせえ、ウンチク野郎! ふざけるな。やってることが下らねえよ、お前!」

「下らなくても良い。君たちが頭を冷やしてさえくれれば」


 雨に打たれる状況を生み出したことで、水を介して感電してしまう電気は使えないだろう。電撃を封じたのはかなりのアドバンテージだ。


 勝ち負けはどうでもいい。

 ただただ、今は誰か来てほしい。天窓をぶち壊したのも、音で気づいてもらえるかもしれないという理由もひとつにはある。しかし、思いのほか雨の音が強くて期待できるかわからない。


 暖気がそらに開放され、身体を風圧で抑えつけられるような強い風が吹き込んできた。身を刺すような冷たい風が吹き込む。

 思いきり体温が奪われる。

 一年で最も風が強くなるのは、冬の終わりから春にかけてだ。体感温度はかなり低くなるだろう。


 こりゃあ、さすがの僕もヤバいかもしれないな。寒たくて、寒たくて震える。そんな歌詞があった気がする。我慢できるのも時間の問題だ。


「こんなこと……! あなただって、同じ条件のはずだ。もう騙されない」

「いいや、違うね。僕には必殺技が残ってる。これだ!」


 やるぞ!

 見よ! 目に焼き付けろ!

 これが効果的なフォームのスクワットだ!


「ほ〜ら、すぐに温まってくるぞ!」

「…………」


 大腿四頭筋を筆頭に大腿全般を鍛えられるスクワットは、トレーニングの中でも定番となっている。


 脚を肩幅より少し大きめに開き、脚と膝はやや外向き、できるだけ上体を真っ直ぐに保ちながら、踵に重さを落とすようにゆっくり膝を折って、立ってを繰り返す。

 勢いをつけすぎると関節に負担をかけるので注意が必要だ。

 最高の脚を持つ男トムプラッツも、足首や股関節の柔軟性を使うスクワットの重要性を説いている。


 意外とまだ、動けるな。

 身体は軽く、負傷してるわりに足腰は問題ない。


 彼女たちが同じことをやれば、リスクがある。心臓や脳に冷たい血液が循環して危険があるかもしれないし、推奨は出来ない。

 血液の循環で足を温めるペンギンか、僕ぐらいしか出来ない高等テクだ。


「ここで君たちが逃げれば、僕とそのロネリアって子は助からないかも知れない……。逃げても、結果的には君たちの目論見通りじゃないか。扉をこじ開けるぐらいは、しておいたほうがいいかもよ」

「嘘だ。嘘つき。あなたの口車にはもう乗せられないよ。騙されない」

「じゃあ根競べだ。でも、低体温症は身体が小さいほどリスクが大きい。待っていても、先に気絶するのは君の方だ」


 生き物は体の体積が大きいほど保温力が高い。大きくなるほど、表面積の比率が小さくなってゆくからだとか。

 表面積は二乗の増え方であるのにたいして、体積は三乗となるらしい。

 だからこそ子供は筋肉量の割に代謝が大きいのもあるだろう。体積が小さいため、熱が逃げやすく発熱が必要だからだ。


 鍋よりも湯呑みのほうが、お湯が冷めやすいと考えれば、確かに納得ではある。

 つまり、小柄な女の子は急速に体温を奪われやすいはずだ。

 ちなみにボディビルダーは、あまりに脂肪がないために、めちゃくちゃ寒さに弱い。


「どうだい? 我慢比べなら受けて立つが、まだやるかい?」


 僕は正しいフォームのスクワットをしながら言った。


「も、わかった……! もういい」


 タシギが折れた。

 意外と早かったが、無理もない。


 ちょっとずつ雨で濡れる程度かと思いきや、雨は滝のように強くなっていて、目を開けるのさえやっとだ。

 すでにみんな身体がずぶ濡れで、女の子たちの吐息はもう白く曇らない。明らかに深部体温が低下中だ。

 雨が刺すように冷たい。

 ガリガリと命をこそげ取られるかのように感じているだろう。

 実際、すでにタシギも身を抱くようにしながら震えている。唇が紫がかっていて、すでに低体温症になり始めている。


「ねえ、もう良いよな? もう割に合わねえ。どうせこいつらも助かりっこない」

「は? 駄目に決まってんじゃん。駄目だよ」

「もう寒いよ……! もう諦めよう?」


 タシギが懇願するように言う。


「うん……。それは出来ないね。サンドラ様のところには星霊術を少しだけ使えるメドラがいる。私たち以外に生存者を出せば、私は確実に死罪になる」

「そうかも知れないけど!」

「じゃあ……」

「私は関係ない」


 タシギはあのゴツい扉に飛びつくように、走った。

 ドアノブを引くが、回りさえしない。


「ねえ! どうしよ! 寒い……寒いよぉ!」

「黙って。あーあ。もう駄目そう……台無しだ」


 フクロウは操った少女を使って、タシギを引きずり倒すように床に叩きつけた。 

 床に溜まった雨水で、水しぶきが上がる。


 こんな簡単に仲間割れするのは……流石に予想外だな。僕が招いた事態ではあるが……、とても気まずい!

 逆に僕が申し訳なくなるくらいだ。

 最初の仲よさげな雰囲気が幻だったのか、今が悪夢なのか。


「いや……そこまでしなくても。君等、友達なんでしょ?」

「ううん。別に違うよ……? 友達じゃないよ。この娘、頭悪いけど私より家柄がいいから、使えるかなって思ってただけ」


 う~わ……!

 なにもわざわざそんなこと言わんでも。


「いや、だけどさ、もう誰かを傷つけることに理由がないんだよ。こうもずぶ濡れじゃもう電撃は流せない。もうとりあえず逃げるしかないんじゃ? どうこう言っても、君にはもう打つ手もないはずだ」

「打つ手がない? そんなわけない。ここは腐敗だらけで肥溜めよりも腐ってる街だけど、されど魔術府ケイオンだからね。人間の歴史と文明、叡智えいちそのものだよ。さっき目覚めたばかりのあなたの想像だけで網羅できるほど、魔術の世界は狭くはない」


 そういって、フクロウはゆっくり左手親指の指輪を外した。

 半透明で濁りがまだらに入った石のような美しい指輪で、紋様が雲母マイカのように波をうっている。さながら、プランBといったところだろうか。


 ロネリアを操り、タシギの襟を掴んでぐいと持ち上げる。

 操られたロネリアは動いてはいるが、意識は混濁しているのかぐったりとしていて目も開いていない。

 それでも、動作は頑強そのもので、人を無理やり立たせることが出来る力を持っていた。

 我ながら、よくさっきの短剣での自傷行為を防げたもんだと自分自身に感心しそうだ。

 いや……?! まてよ……! この人を操る魔術、フォースドレップをやるとき、バーベルスクワットやベンチプレスの補助として使えるかも知れない――……いやいや、いかん。今は関係ないこと考えている場合じゃないか。


「ねえ、レーマちゃん」

「おまっ!! 私の……!」

「あなたの名前も()()された。一人で逃げようだなんて、酷いよ~。でも魔人さんに感謝してあげなきゃね。だって、あなたが取るに足らないちっぽけな人間だって、わかっちゃったもん。裏切る人間は、自覚がないから何度も繰り返す。そうとわかれば簡単だ」


 そう言って、フクロウがレーマと呼ばれたタシギのフードをゆっくりと下ろす。尖った大きなガラス片を持っていて、喉に突きつけた。

 レーマという名の少女は、別に取り立てて特徴のある顔立ちというわけでもない。長い茶髪に、きれいに分けた前髪、歳ごろの可愛らしい女の子だろう。

 そして、フクロウも自ら顔を露わにして、雨を受けながら見つめ合った。


「な、何やってんだ! ふざけんなよ……! こんなの許されないぞソイエン!」

「レーマちゃん、自分の都合ばっかり。責任はいつも逃げるんだから……。結局、みんな私が手を下したのに、最後の一人ですらもまともに殺すことが出来ないなんて」

「え……?」

「安心して、ここで生き残るのは私だけだからね。私には私だけの計画があるの。それを邪魔されたくない。仕方ない。私だってこんなことしたくなかったけどね」


 そういってフクロウと呼ばれていたソイエンは、レーマという名の少女に抱きついた。


「お前……! 私を、私を殺すつもりなの……?」


 ソイエンはニコッと笑って答えなかった。

 うわ。

 めっちゃ二人の世界だ。

 ここに僕というおっさんがいる以外は少女ばかりなので、凄い場違い感。

 僕も美少女だったなら耽美的とさえ言える、魔性をも帯びた光景だが、たぶん僕の中身は筋トレ好きなだけのオッサンである。

 こりゃ、気まずいわ……。


「や、やめときなよ。僕も君等のことを口外しない。このまま出ていってくれさえすればね」

「口外しようがしまいが、あなたが記憶を読まれたら、それでお終いなんだよね。私達は、もうサンドラ様のところの魔術師を三人ぐらいは殺してしまってるんだ。後には退けないってわけだよ。今回、成功できていればなあ。こんな掃き溜めから、逃げられたかも」

「逃げればいい。僕は誰かを裁けるような立派な人間じゃない。それが自分にとって素晴らしいなら、いつでも、どこへでも逃げていいさ」


 どしゃぶりの中で、雨に打たれたままソイエンという名の少女はゆっくりため息をついた。


「あなた達が、人間を虐殺してる中で? どこへ行けばいいの? あーあ……もう。どうしてこうなったんだろ。私は故郷では一番だった。たぶん村の誇りだったし、お母さんの自慢の娘だった。でも、もう故郷でも私はたった一人。みんな、あなた達に殺されてしまったんだよ」

「……それは不幸だ。とても口では言い表せないほどのね。でも、だからってこんなことに手を染めなくても……やり方ってもんがあるさ」

「私はもうしがみつくしかない。やるしか無いんだ……! 汚くても醜くても、あがくしかない。私はたった一人の生き残りなんだよ。私には出来たはずだった。宮廷のやつらを跪かせることができる人間であるべきだった。おかしいよね。成績が一番の私が十二年間も端女扱いだなんて。それで用済みになったら、前線送り? 冗談きついよ」


 なるほど、辛い毎日に耐えかねてたところに、使い捨ての命として扱われて、派閥争いの駒へと身を投じたわけだ。

 操られた少女に胸倉をつかまれて、抑え込まれたままのレーマが虚ろな顔のまま冷ややかに笑った。


「……そりゃ自分を買いかぶりすぎだよ。ソイエン。あんたも……結局凡人だって。アルマを見たでしょ。生まれ持った格があるんだなって普通思うけどな」

「あなたに品評されたくない。サンドラ様だって、アルマの半分も実力はないんだ」


 雨がわずかに大人しくなる。気温は変わらないだろうが、ずっと静かになった。


「君の気持ちよくわかるよ。僕なりにね。誰しも理想はダイヤモンドのように輝いている。人生は完璧ほうせきだったはずなのに。だけど現実として、ダイヤモンドは簡単に砕け散ってしまう。意外なほど脆いんだ。宝石は希少性や実用性に価値があるとは言い切れない。価値があると誰かが決めたから、価値がある。それと同じかもしれない。実力や優秀さってのは、あんまり成り上がりに影響ないって説がある」


「……そんなわけない。だって、宮廷魔術師は実力者のなかから選ばれるんだよ」


「実際問題さっき言ってた偉い人も、アルマって人より実力が下なんだろ? もし実力が絶対的な基準だったら、いつも組織は最適化されるはず。社会に本当に必要なつらい仕事をこなせる人ほど対価は大きくなるはずだし、選ばれし王様の政治はいつも最高なはずさ。人間って自分達が口でいうより、ずっとあやふやに生きてる」


 運も実力のうちというが、それはたぶん逆で、運が良い人間の中から実力者が選ばれるのだろうと僕は考えている。お金持ちや名族は全体から見れば圧倒的少数派であるのに、歴史に名を残すのはボンボンが多い。

 いちいち他人のポリシーを否定するべきでもないのかも知れないが、わざわざ他人を貶めなくても、九十パーセントの人間にとって、人生はとてつもなくどっちつかずだ。


「じゃあ、どうすればいいのよ」


「黄金となれ鉄となれ、さ! 熱され打たれても強く柔軟でしなやかな鉄、あるいは決して錆びつくことのない黄金の魂にね!」

「アホくさ……」

「君が素晴らしい研鑽をしたのは事実だろう。君の想いと意思の強さが分かったよ。でも、鋼も熱しすぎれば脆くなる。過剰な行動で得るものは、よからぬ反動があるかもよ」

「……お説教ありがとう。でも、信じない。もう後戻りは出来ないし……残念だけどここまで来たらどうしようもない」

「後戻りは出来ないから、道を変えるだけさ。一つ確かなことは、この先で自分より劣る者を攻撃する道には、最後には周りに誰も残ってないってことだ」

「そうはならない。……だって馬鹿は馬鹿だもん。頭の悪い人は正しく制御しなくちゃ。犬や馬のような家畜でも、正しく扱えば立派な道具だからね。それだけのことなんだよ」


 ソイエンという名の少女の意思は、僕の言葉では覆りそうになかった。

 レーマという少女に歩み寄る。


「私は地獄に堕ちるかもしれない。でも、地獄に堕ちるまでは生きなきゃいけないんだ。いいよね? ほら、レーマちゃん……口を開けて」


 拘束されたレーマのほうも答えられなくなっていた。息が荒く、悪夢を見ているかのように唸る。

 意識の混濁が急速に進んでいるらしい。

 出血があることによって、想像以上に寒さに堪えていたのだろう。

 

 ソイエンという名の少女は、おそらくさっき取り外したまだら模様の指輪を飲み込ませるつもりだ。

 操られた少女がレーマという名の少女の首を掴み、無理やり顔を上げさせる。

 強引に飲み込ませようというのか、斑の指輪を上に掲げた。


 僕はまだ言いたいことがある。

 文明とは魔法の歴史なんかではなく、炭水化物カーボなのだ。人は悪しきことも良きことも炭水化物を作ることから進化させた。麦やお米の農耕が生み出される前は、人間はかなり少数であったと聞いたことがある。炭水化物の共同的生産は、人類を爆発的に増やした最大最高の理由だ。

 つまり、文明とは沢山の人で炭水化物を作るものなのだ。


 今こそ、あれを使う時……!!

 僕の奥の手は残されていた。

 エトルの最終兵器“ガチパン”を持ち、胸に腕を引き付けるように振りかぶる。

 軽く、平たく、適度に硬い。歪んだ円盤状で、熱が通りやすいようにするためか真ん中が凹んでいた。

 食べ物を粗末にしたくないが、衝撃だけを与えるのにこれほど適したものはない。一度、投擲の経験を経たし、そもそも狙う場所がそう遠くない。狙いはさっきよりも正確だ。


「恩人のパンを喰らえ」


 真っ直ぐ正面に放つように投げた。

 パンが空気と雨を切って飛ぶ。 


 この近さなら、身構えていなければもう反応もできないだろう。

 掲げられたまだら模様の指輪を、勢いよく弾き飛ばす。

 小さく金属の弾かれるような高音を鳴らして、指輪はそこかしこを跳躍した。

 四、五回石材の床に弾んで、引きつけられるように僕の目の前に転がってくる。

 拾い上げようと屈むと、僅かに異変が感じ取れた。


「おっ?」


 さながら水の中の氷がビシッと鳴くような、硬いものがきしむ音を放つ。

 瞬くような短い閃光を放った。


 あ、そうか! ようやくわかった。

 これってばく―――……





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