一章二項 目覚めし者
ううっ……!
なんだろう、これ。
体の中で痛みの糸がピンと突っ張った。
忘れていたこの世の苦痛を思い出したかのように、身体中にいっぺんにまとめて襲いかかってくる。
皮膚が焼けるようであり、腹は鈍器で殴られたかのようだ。頭痛と眼球の痛みで目が開けられない。
これは……何事なんだ?
確か……トレーニングした後だったよな……。
かつて無いほどに効いている。腕や足、あらゆる所が刺すように痛む。これはむしろ、効きすぎている。
体中で深刻に炎症が起きてる。
トレーニングで体を追い込みすぎたのか。
追い込みすぎはリスクもある。
筋肉痛があることは、必ずしも筋肥大に繋がるとも言い切れない。これは賛否がわかれるところで、個人個人の体質によるともいえるのだが、どうも良い感じはしない。
栄養を摂って、とにかく身体を休ませなければ……。
とにかく……今はなにも考えられない。
すぐ近くで大きな声が響いてくる。
「まずい……! 反応が鈍くなってきている。 薬をつかうしかない」
なに? 薬――?
それは不味い、薬はマズい。
確かに、結果が伴わないことに焦りを感じていた。でも、やっぱり僕にも意地がある。
僕は誰かに好きになってもらう以上に、自分自身が好きでありたいのだ。他人がどうこうではなく、自分が決めたことぐらいは守りたいという意味でしかないが……。
ただの意地。なんの結果も生み出さない。それでも、その意地こそが僕を僕にしている。
だから、薬はやらない。
僕は、まだやれるんだ。
か、体に力を入れなければ……少しずつ、少しずつ。手がほんのすこし動く。
そうだ、焦らなくて良い。
一瞬、目の前が開けた。
「うおおぉ!」
全身が灼けるようだ。
こ、これはキツイ!
熱湯が波となって血管じゅうを駆け巡るようだ。全身の力を抜くことが出来ない。意識を保たねば。
さすがにこれほどに苦痛を味わったことはない。
「うああ~~!!」
なんだかとても情けない声を出している気もするが、どうしようもない。
「ひゃあぁああ!!」
明らかに僕でない悲鳴も聞こえるが、なんだろう……。
にわかに上から数滴の水が滴ってくる。
それを追うように一気に雨が降ってきた。一瞬で身体が冷まされ、驚くぐらいに速攻で苦痛も緩やかになる。
思わず諸手を開き、気付けば僕は全身で雨を受け止めていた。
淡くほのかに発光する雨が、身体を打ち付ける。なんだか長くて暗い場所をずっと彷徨っていた。そんな気がする。一夜の暇ぐらいの一瞬であったような気もするが、人生すべてに近い時間だったかもしれない。長い長いトンネルを這いずって出てきた、そんな気持ちだ。
ふと身体が軽くなって、眼前がじゃらじゃらと鈍く輝く。
い、意識を保たねば。
一体何がどうなってるのか……。
ただ打ち付ける雨が騒がしい。
身体は妙に火照っていて、ちょっと暑い。
「うっ――……!」
「おお。本当に出来た……! 凄い。本当に成功したんだ」
朧気だが、やがて視界は明瞭になってゆく。
なんだ……? ここは一体。
薄暗い部屋の中。
見知らぬ四人が、口々になにか呟いて互いに顔を見合わせ、そしてしきりに僕を見ていた。
どうやら僕は、何故かほぼ全身素っ裸である。
皆が見ている。
ポーズを取らなければならない気がする。
そうだ、ゆっくりと立ち上がって……。
「うっ……!」
脚の関節がベキっという音を放つ。
いかんせん今度は脱力しきっていて、上手く身体に力が入らない。あれだけ練習したのだから。
立ち上がって――、そう立ち上がって……、なんでだろう? ポーズってなんだ?
「気分はどうだ? 自分の名前を言えるか?」
ヒゲを蓄えた、風格があって厳格そうな男が言った。
僕に聞いているのか?
「名前……いや、わからない」
答えると、ヒゲの男性の影に佇む、小さな毛むくじゃらの生き物が口を開く。
「襲ってくる様子はないな。じゃが、これってどうなんじゃ? 手応え的には成功したと思うが」
「ああ。良くやってくれた。問題ないだろう」
「本当かよ?」
「根拠はないが……。魔族は人間より少数で、より精鋭主義だ。それだけに魔人は非常にエリートとしての自負が強い。どの魔人も慣習的に名を重視している。必然的に傲慢で気位が高い。生まれ育った生き方というのはそう簡単に変えられるものでもないしな。質問の答え一つでそうとわかるはずだ」
魔人?
僕のことか?
確かに僕の身体はカイ・グリーンやロニー・コールマンを遥かに凌ぐ黒さを持っているし、この人達とはちょっと違うらしい。
……ところで、ロニー・コールマンってどんな人だったっけ?
ヒゲの男は、質問を続けた。
「体調はどうだ?」
「少なくとも二日酔いよりは酷い。どうやら、僕の身体はボロボロだ」
「そうだろうな。なにか思い出せることはあるか?」
「思い出す――。いいや、何も。とにかく、今は身体がダルい」
「イシエス、だがどうなんだ? 無垢なふりした演技で、俺達を殺す機会を伺っているかも知れないぜ」
金髪で身なりのいい男が、ヒゲの男性に尋ねていた。
「それはないだろう」
その二人のやり取りで、銀髪の美しい女性と、毛むくじゃらのちっこい生き物は肩を下げた。警戒されていたらしい。
頭は上手く回らないが、ちょっとずつでも理解したい。
とりあえず金髪の若い男の言葉で、僕が本来は敵対的な存在であるというのはわかった。
実際、手を鎖で繋がれていて、自由は無さそうだ。
つまりは――……どういうことだ?
これは一体なんなのだろう。
「魔人は一所に留めておけるような存在じゃない。人間とは力の差がありすぎて、演技する必要性すらないさ。彼が誰であれ、もし魔人の才能を生かせるなら拘束しても無駄だ」
「おいおい……、滅多なことを言うもんじゃない。そんなことまで言っちまっていいのかよ?」
「良い。魔術を使えなければ生き返らせた意味はないからな。何れにしても教えるつもりだ。……正直、向こう見ずの賭けではあったがな。しかし、これでいいんだ。出来たという結果が重要なのだ」
「どうかねぇ」
金髪の身なりの良い男は、頭を掻いた。
「まあ……暗いこのご時世、珍しく将来に繋がりそうな結果ではあるがね。とりあえず俺は報告してくるよ。サンドラおばさんに顔を出す約束だからね。宮廷の犬の作法と礼儀ってやつは面倒くさいよ」
「私もだな。とりあえず、イスラ聖教やフエルド宮のテラエラ様にも報告せねばならん。すぐ戻る、待っててくれ」
男二人はそれ以上なにも告げず、冷たくて薄暗い部屋を出ていった。
え? なにこれ?
そもそも、ここはどこなんだ?
残された二人が、互いに顔を見合わせる。
「いやあれ誰? あの貴族っぽい男いつの間にか居たし、誰なの? 胡散臭いし怪しいぞ。しかもこれって、ワシらちょっと嘘つかれてたよな?」
「ええと、そうですね。ちょっと、マズいかも」
なんだか僕を横目でチラチラと見つつ二人が怯え始めた。
共に今にもここを走り出して去ってしまいそうな雰囲気を出しているが、それは困る。だるさはあるとは言え、それどころじゃない。僕も事情をもっと知らなければならない。
「あ、あの……」
「ひゃあぁあ!」
「だ、大丈夫だと思う。襲ったりしないから。脱出出来るというのも疑わしいし……」
「……え?」
「本当に僕が拘束を解いて暴れる確率が少しでもあるなら、誰か監視の役目の人を置くなりするんじゃないか? 手枷だけで繋いでおくんじゃなくて、あらかじめもっと頑丈に拘束することもできるだろうし」
僕の言葉を受け、二人はひそひそと互いに耳打ちしていた。やがて銀髪の女性が振り返る。
「あ、あの、私の名前はエトル、見た通り無害で通りすがりの北の国出身の冴えない一般魔術師です。この子はヘルフェ、私達もさっき知り合ったばかりなんです。え~、しゅ、趣味は――」
「お、おい! 魔人に馴れ馴れしくすんなって」
「いいんです、私いつも騙されるので、むしろ難しいことはわからないですし! 下手に隠し事とかしないほうが、せめて苦しまないように殺してもらえるかも……」
「いや、それってワシが巻き添えなんだが!?」
魔術師って言ってたのか?
とりあえず、自己紹介はすべきなのかもしれんな……。
「ご丁寧にどうも。エトル。僕も名乗りたいところだけど、いささか記憶がないもので」
「な、なるほど。それでは仕方ないですね。でもヘルフェ、これって星霊術で当たり前のことなんですか」
「当たり前じゃないけどないこともない。あるといえばある。星霊術は星に巡る記憶を、他者に降ろす魔術じゃ。そもそも記憶を無くしてたら意味がないんだけど、そもそもが難しいだけに事故も多い。ってゆうか魔人の死人にやるなんて例外も例外だし。だとしてもワシに失敗はないし、感じ的に事故っぽくもない。つまりワシはパーフェクト。あるとすれば……、もともとの人格がただ記憶を失ったか、降ろされた人格が生きているうちのもとから記憶を摩耗してた、とかじゃな。重ねて言うが手応え的に問題なかったし。後者である可能性は高いかなぁ~」
魔術とはな……。
魔術っていうと、やっぱり魔法ってことだよな。なんかめちゃくちゃ解説してたけど、内容がぼやっとしていたのでもしかして自分でもよくわかってないのか? どういうことだ?
「ごめん。僕も事情がわかってないから、詳しく聞きたい」
「いや、詳しくも何も、お前さんの今の人格を魔術で引っ付けたってことよ。それ以外のなにもんでもないわい」
「つまりまず確かな事実なのは、僕はもともとこの身体の持ち主では無いというか……、人格的に別の人間であるということ? そんで他の情報はあなた達でも一切わからないと?」
「ですね」
何もわからないし、実感もない。
我が身ながら、不思議なことだ。いや、我が身じゃないのか。
仮住まいの身体ながら、不思議なものだ。
受け入れがたい話だが、とりあえずざっくりでも知っておくというのがいいだろう。能動的に動くことも出来ないし、ひとまず信じる他無い。
というか、信じるとしてもそれはそれで問題だらけだ。
この身体には僕じゃない元々の人格があったということではないのか。正直、それがどういうことかは考えたくないが、それって許されるのだろうか。
僕の同意は事前に取りようもないけど、倫理的には結構ヤバそうではある。そう考えてしまう僕がおかしいのだろうか?
「僕の身体のもともとの持ち主の心は……どうなってるの?」
「いやまぁ、元が死人じゃからの。魂を失えば、つまりはそれまでよ。水の満ちた盃に水を注げば溢れるが、空っぽなら注がれるだけ。魂もそういうもんなんかもな」
うまい例えかもしれないが、どうも論理的には聞こえない。
個人的にそんな超科学的な話は信じ難いものではある。
「本当に少しも記憶がないんです? ご自身の名前とか」
うーむ。
そういえばさっきふと浮かんだ名前があったような。ただ、今は思い出せない。
この人達の口ぶりからすると、つまり僕のこの身体の持ち主はもともと敵対的な立ち位置の存在であったが、死亡している。
そこで魔術という手段を用いて、今僕の魂とも言える人格をこの身体にひっつけているという所だろうか。
混乱せずに、情報を整理してゆきたい。
どうやらさっき言われていた魔人というのが、重大なキーワードらしい。
そして彼女たちの態度からなんとなく察するに、特定のだれかの人格を呼び覚ますという目的ではなかったということだろう。
そうだとすれば、僕が傍目からみれば必ずしも善人とは限らないというわけだな。
彼女たちが、不安から僕を探りたくなるのは仕方ない。
だけど、それはむしろ僕が知りたい。僕自身、丘の上でフー・アム・アイって叫びたくなるぐらいだ。
自分が頼れるナイスガイであることを証明してあげたいが、さりとて無害である証左はない。
なんらかの記憶の片鱗があることはなんとなくわかるから、もともとの生き様があったことは察せられるけど、まだ犯罪者だった可能性もあるわけだもんな。
過去の記憶そのものは、空白だ。とはいっても、どうやら知識はゼロではない。意識しにくいだけで、まったくの無でもないのも自覚がある。
仄かな記憶も一杯あるはずだ。さっきとっさに誰かの名前が浮かんだ気もするし、少しずつ記憶を呼び戻すことはできるかもしれない。
「お母さんの顔も、尊敬してる人の顔も思い出せないんですね……」
エトルという名の女性はちょっぴり悲しそうに言った。
そうだな……。
お母さんか……。尊敬している人の顔。言葉の連なりからして、このエトルはお母さんを尊敬しているのだろう。普通の女の子なら、そういうものかも。
僕にもそんな存在が居た気がする。僕の道標となったただ一つの光が。
断片でも口に出してみて、勢いで思い出すというパターンもあるかもしれない。
「ア、アルノ――アルノル、アルノルル、う~ん」
なにやら出そうだが、確定できない。
そもそも、裏付けや関連付け出来る知識もハッキリしてない。口にした名前が合ってるかさえ分からないな。
どうやらそこまでのようだ。
頭に圧迫感があって、乳酸がたまって酸化が進むときみたいな感覚を覚える。
血糖が少ないのか、身体全体も重い。まだ難しいことを考えられる状態じゃないのかもしれない。
「そういう感じの名前なんです?」
「いやぁ喉元まででかかったけど、やっぱり何もわからないな……。自分じゃなくて、僕の尊敬している人ではあったような」
「ふーん。じゃあそんなんでいいんじゃね? とりあえず、おまえの名前。アルノ」
ヘルフェが僕を指し、ぞんざいに言った。
「いや、それはちょっと……だめじゃないですか?」
「だめもクソもないわい。自分の名前すら思い出せないやつが、捻り出した尊敬する者の名前じゃろう。呼ばれ続けるうちに、いずれそこから想起されて、本当の記憶が思い起こされるやもしれんぞ。まったく関連のない名前よりはな」
「確かに、言われてみれば! ヘルフェさんにしては理に適ってる気がします!」
「エトル、お前……若干ワシを馬鹿にしてないか? 会って二時間くらいじゃぞ」
「すみません。感覚派天才であるヘルフェさんは、実はスーパー論理派だったんですね!ってことです」
「ま、まあね」
僕の名前はアルノに決まってしまったらしい。個人的にはなんら抵抗感はないが、しっくりくるという感じも今のところない。
だがしかし、頼まずとも名前を決めてくれるなんて、二人と仲良くになれそうという面では嬉しいな。
どんなに孤独を愛しても、孤独は寄り添ってくれることはない。
結局どんなに取り繕うと、人に愛される以上の幸福はないってことは何となく知ってる。
“今度”は、もっと人を愛せるようになりたいな。
話しをしているうちに、高い場所にある細い隙間から光が差し込んできた。
城壁から矢を放つアロースリットのように細い窓であるため、外はまったく見えない。穴の縁に白いものがくっついているので、それが雪だとすれば、今は冬ということかもしれない。
よくよく天井を見ると、そこにも窓がとり付けてあって、陽の光を取り込めるようになっているが、雪が積もっていた。
それで昼間でも薄暗いらしい。
寒さはそこまで身に堪えてはいないが、ひんやりと空気は冷えていて、身体から立ち上がった熱が、空翠のように光に照らされている。
僕がなぜここで生かされ、囚われているか、まだわからない。
この二人に聞いても、たぶん推理止まり。彼女達を信用するしないは別として、証拠とかもないし確証には変えられないだろう。
やはり、身体がある程度癒えたら脱出するのを視野に入れたほうがいいのだろうか。
逃げるか……。
そんなの途方もないくらい大袈裟なことのように思える。だけど、選択肢として考えておくことも必要かもしれない。
しかし、僕には決断するだけの知識や経験もフィジカルもない。
「とりあえず、聞きたいことはたくさんあるけど、ここお手洗いないよな……。そこのドアはどこに出られるの?」
「どこって……? 廊下に決まってんじゃろ」
「施錠もされてないのかい?」
「施錠されてるって……ワシは食い物と金を貰って、もう帰るつもりだけど」
そういってヘルフェがとことこと歩いていって、頭の上のドアノブに手をかけた。
「あ、あれ……? う、うそ?」
ヘルフェがガチャガチャとノブを鳴らした後、ピタリと止まった。
「出れねえぇ」
「本当ですか? そんなこと……あら。魔術で施錠されてますこれ」
エトルがおしとやかに困惑した。
扉はどこの家の玄関にもあるような防火扉のように多少丈夫な作りで、少なくとも小柄な二人には力ずくには開けられないだろう。ドアノブも金色の金属でできていて、そのシンプルさがついでに頑丈そうな雰囲気まで醸し出していた。
「なんでワシらまで?!」
「二人はなんのためにここに居たの?」
「いや、お前復活させたのワシらだから!! 感謝せえ、ボケ。あのヒゲに呼ばれてわざわざケイオンくんだりまで来たんじゃい!」
なるほど、二人の純粋さからは僕も想像出来なかったが、それが本当だとすれば彼女達は特別な能力を持っているのかもしれない。
あのヒゲの人からすれば、この二人にこそ利用価値を見出しているのではなかろうか。
魔人の蘇生が簡単ならば、やった当人達があんな風に成功を驚くはずもないもんな。
「お手洗いにいこうと思ってたんですがどうしましょう。やばいです~」
「こんな魔人の出来損ないと一緒に監禁するなんてマジかよ、あのデカヒゲ! あんだけ人にお願いしといてこの扱いかい」
凄い取り乱すじゃん……。
二人の慌て方も興味深いが、そもそも魔人とはなんなのだろう。
いい存在とはとても思えないが、物事の整理と理解を進めるにはとりあえず聞かねばならないだろう。
「まあ、しょうがない……。あの人もすぐに戻ってくるって言ってたし、なんとかなるよ。一緒に監禁されついでに聞きたいんだけど、魔人ってどんな存在なの?」
エトルとヘルフェは、こちらを向いてぴたりと静まった。
その眼差しは、親愛や博愛の情でないことは確かだ。一瞬で空気感を変える沈黙が、その重大さを演出するかのようだった。
「そ、それは――……」
「一番重要なことすら忘れちまったのかの~。いいか、よく聞け。魔人は暴虐非道の人殺し、殺戮者じゃ。おぬしら魔族はあらゆる人の敵と言っていい。ワシの両親も兄弟も全て殺された。そんな感じじゃな」
なるほどな……。
ヘルフェが正直に答えてくれた。
若干偉そうな物言いだったが、重い重い言葉ではある。たぶん嘘ではないだろう。エトルがその言葉の前後で言い淀んだことが、その裏付けという考え方もできる。
それに、大凡そんな所じゃないかとは予想していた。僕が目を覚ました時の、この二人の怯えようも頷けるというものだ。
魔族は、魔人という僕のような人を族類でまとめた呼び方。つまり人種であるということはなんとなくわかってる。ここにいる三人とも、三者三様。見た目も随分違う。この毛むくじゃらのヘルフェのような人と、エトル達のような人間と、派閥に分かれて戦争でもしているのだろうか。
その経緯をなにも知らない僕自身に罪悪感はない。でも聞かされた内容はショッキングだ。
ここを出るということも安易には出来ないらしい。
なんと言ったって、僕自身のリスクだけに留まらないだろう。エトルとヘルフェがもし本当に僕という存在を生み出したのなら、僕の行動次第で彼女達の責任や悪評に繋がりかねない。
考えすぎとも思えるが、僕が殺人者の外見を持っているなら、少しぐらい慎重でもいいだろう。
手枷で繋がれているということは、この部屋を出てもそこは僕が許された世界じゃないという意味で、“人間”の世界だってことなんだ。
僕が夢想するほど、望むほどには、世界は都合よくできてるわけではない。記憶がなくても、それだけは身に染みて覚えている。いや、染みている身は紛失してしまったので、心に沁みているのほうが正しいかもしれない。
手枷というものが親身に寄り添いながら教えてくれる。ここ以外、どこにも自分のあるべき居場所とか寄る辺がないってことを。
不安じゃないとは言えない。
だけど、ネガティブでいてもしょうがない。
部屋からも出られないし、とりあえずここは、筋トレをするしかない。
「えっ? なに? どうしたの」
バックプッシュアップを始めた僕を見て、なぜか二人は困惑していた。
とりあえず、しばらくはボディウェイトを使ったコンパウンド種目だけでも色々やれればいい。低負荷だが、回数をこなしてボリュームを稼いで、ある程度までは筋肉を大きくできるだろう。
記憶はないが、培った筋トレのフォームが残っている。
しかし……身体が変われば、今まで築いたノウハウも通用しなくなるかも知れない。筋肉に関する論理は、結構時期や人によってコロコロ変わったりする。熟練者に向かうにつれ、自分の体質にあったルーティンをまず決めることが重要でもある。
上腕三頭筋が針を刺されるかのような痛みがある。筋肉には休息が必要だ。どうやら、まだ今はやるべきじゃないらしい。
でも、動けば不安は不思議と和らいだ。
「なにをしているんですか?」
「自重だね。フリーウェイト用の道具があればいいけど、ま、贅沢も言ってられないし、追々だな……」
「こいつ……気がおかしいのか? 言っている言葉がわからん」
僕の体格はおそらく二メートルを越えているかも知れないくらいだ。
立ち上がれば、ヘルフェをボールのように蹴り飛ばせるぐらいの体格差だろう。そんな恵まれた体躯だが、あまりにデカいと筋肉をつけても相対的に小さく見えてしまう問題もあるらしい。
しかも今まで少なくともトレーニングをサボっていたことは明白だ。十レップの腕立て伏せですらもキツイ。
「ああ~~~~!!」
我ながら情けない声を上げて、地面に転がってしまった。有酸素でもないが、肩が痛くなるほど呼吸が荒くなる。肋骨が浮き出て、リブフレアがわかりやすい。インドア派だったのだろう。
無理をして、身体を摩耗してしまってもつまらない。とりあえず、少なくとも二、三日は身体の回復をまって、そこから計画的に筋トレを再開したほうがいいのかもしれない。
「ごめん。どうやら、僕には未だ休息が必要みたい」
「そうですよね。ついさっきまで死んでたわけですし。とりあえず、ご飯食べますか?」
「めし!? なんかあんの?」
エトルが外套の内側から擦り切れそうなボロボロの巾着を出し、そこにヘルフェが小動物みたいにすり寄った。
「貧乏名物――NO発酵のがちがちの堅パン、略してガチパンです!」
「ガチパンか~……」
あからさまにヘルフェが失望した。
そりゃあそうだ。
炭水化物の塊だけでは、筋肉にいいとは言えない。大概は炭水化物も多少のタンパク質を含んでいるが、小麦系のアミノ酸は消化に悪く筋肉にもなりにくいという欠点がある。それがいわゆるグルテンとかいうやつだ。
それに平均的な体格の人でも毎日五十グラムぐらいはとるべきだ。あれでは十グラムぐらいがいいところかもな。
しかしながら、食べないよりはずっといい。筋肉にはもちろん炭水化物も必要だ。
骨格筋などのエネルギー源もまた、炭水化物をもとにするグリコーゲンだ。
「ヘルフェ。誤解されがちだけど、鶏肉を食って筋トレしてもなかなか大きな筋肉は育たない。大きくなるには、まず脂肪糖質のようなエネルギーの余剰分が必要なんだ。インスリンがグリコーゲンの合成を促すからね。高みを目指すならば、食事量も高重量も限界を開拓する必要があるんだ」
「え? お前なに言ってるの……?」
「うん……つまり炭水化物は身体を大きくするときは必要不可欠。しかも糖質そのものは、シンプルに消化に良い。筋トレをして適切にカロリーを取れば、筋肉が分解されるのを防ぐことさえ出来るってわけさ」
「薄々思っていたが、なんだか、へんてこな人格がでちゃったみたいじゃの……もう一回引き直そうか」
「ひとをガチャみたいに言わないでほしいところだけど……」
「まぁ、いいや。もうおまえワシに関係ないし。今後会うこともなかろう。いいわい。本当はやりたくないが、ワシの力でここを脱出するしね」
「え!? 脱出できるんですか?」
「ちょっと面倒いがの~」
ヘルフェが、壁に立てかけてあった杖を手に取った。
丁字っぽいシンプルな木製の杖で、小学生がその辺の野山で拾う棒切れとも言えなくもない。昔流行ってた携帯ストラップみたいな、あるいは組紐とか真田紐みたいなアクセサリーが何個もジャラジャラとついていて、おしゃれだけどそこはかとなくギャルの感性だ。
「金属に魔術をかけるのは結構ムズい……逆にいえば、使える魔術が原始的で単純なものに限られておる。素材が分かればより術式の系統を絞れるってことでもあるのじゃ」
「なるほどですね」
「そりゃたぶん黄銅、真鍮だね。銅と亜鉛の合金」
結構特徴的な金属で、しかもよく流通してるので見分けしやすい。硬いが加工しやすい上に安い。ポピュラーな金属だ。
「一瞬でわかりましたね」
「わ、ワシにもそんくらい分かってたし! これから言おうとしてたんだから、いちいち言わなくてよかったし。求められてもない知識のひけらかし嫌われるけどね! クソでしゃばりさんめ!」
そう言ってヘルフェは杖を掲げた。
ギャルのジャラジャラが顔にかかってちょっぴり邪魔そうだな。
「来い! 我が“隷戎“!」
ヘルフェが杖で床を叩くとコンというような高い音が響いた。
「あれ……? 集え我が“隷戎“!!」
もう一度、同じことを繰り返す。
床を叩くだけならそこまで面倒くさそうでもないが、本人にしかわからない難しさがあるのかもしれない。
「なにも起きませんね」
「い~や、そんなことありません~! 馬鹿。ちょっとぐらいまっとれ」
ヘルフェがドアノブを掴んでから、そのまま一分ぐらい待って、異変が確かに訪れた。
扉がわかりやすく、ガチャっと音を立てる。どうやら解錠されたらしい。
僕が初めて目にする魔術としては、あまりにも地味でこれが凄いのかどうかわかりにくい。でも、鍵開けといえば魔術師か盗賊の初期スキルかもしれない。
「開きました?! 凄い! やっぱりヘルフェは天才なんですね!」
「ま~ね~ぇ」
女の子同士はよく褒めあうとどこかで聞いたが、それは本当らしい。ヘルフェが女の子だという確証はないが、たぶん間違いないだろう。
「見たか! 金属は術式を組み込みにくいので、それを逆手に取る。強力なエーテルの伝導で一時的に無効化できるのじゃ。本来なら金属の抵抗で阻まれるが、人間なら誰しも多少のマナを持ってるので、反対側に人を置けばエーテル同士が引き合う特性で貫通させることができるのよ」
「ええ!? なんですそれ」
「つまりワシなら簡単に開くっちゅうことじゃ」
そう言いながら、ヘルフェは自慢げな顔でこっちを見ながら扉を開けた。
扉の外には、中年くらいの小柄なおじさんがとんでもなく胡散臭い笑顔をしながら直立している。手をドアノブの高さに上げたまま硬直してるからか、どこかで見たような人形っぽさがすごい。
なるほど、魔術とはこういうことか、となんとなくわかった。
「ワシは魔術を極め、自得の果てに自分より知能の劣るやつをある程度操作できるまでになったのよ! オホホホホ」
「それは凄いです!! マジ凄いです!」
エトルの尊敬を受けたヘルフェが傲りがすぎるあまり仰け反った。
「よし、エトル。じゃあ脱出しよ」
友達というよりかお母さんに甘えるように、ヘルフェは手を差し伸べた。
「あ……ごめんなさい、ヘルフェ。私はここに残ります」
「え……?」
「生き返ったばかりの彼を置いて、ここを去ることが出来ません。体調は良くないみたいですし、まだ少しだけ手助けが必要みたいです」
「で、でも、もう次は出られなくなるかも」
「そうかもしれませんが、彼が生き返ったことに私の責任があります。大丈夫です。カリア様も話が通じる人だと思いますし、なんとかなります。あなたは誰よりも素晴らしい役目を果たしましたし、誰も文句を言ったりできません。ありがとうヘルフェ」
「コイツは魔人じゃぞ! どうだっていいじゃん」
エトルはやさしく困った顔をした。強さをも持つ優しい人なのだろう。
“魔人を復活させた悪魔”の問題もある。二人の魔術がどのような役割であるかはわからない。少なくともあらぬ責任を生み出される前に離れてしまったほうがいいが、つまりはエトルは責任を負うという意思であろう。
ただ僕がむしろ、すこぶる気まずい。
とりあえず、一旦は一人になって考えることも悪くないだろうと思う。
根掘り葉掘り聞きまくるには、まだ早い。まずは自分のメンタルと筋肉を整えなければならない。まだこの境遇を理解できるほど、情報を整理しきれていないし。
「いや、僕のことはお構いなく。ほら、ええとあの、あれさ、僕自身、己の真なる力に目覚めて暴走するかもしれないし、危険じゃないとは言い切れないから。いつ僕が魔人としてのフォースでダークサイドに堕ちるか、自分でもわかりかねるので。二人で出ていったほうがいい。それにお手洗いに行きたかったんでしょう」
体もだるいし、生き返ったばかりだというのに涅槃になった。だらけた日曜のおじさんのような姿勢だ。寝っ転がりながらあたまを腕でもたげて言うと行儀の悪さもひとしおだが、二人の仲に水を差さないようにするには、これくらいの体のほうがいいかもしれない。
「いいし、いいもん。別に。もういい。一緒に行ってほしいとかじゃないし。もうエクラナに帰る。気遣ってあげただけじゃし」
エトルの答えを待たずして、ヘルフェは怒り出して歩いて出ていってしまった。
すれ違いざま、何故か胡散臭い笑顔のままの小柄なおじさんに思いきり金的パンチを浴びせかける。小柄なおじさんは一瞬、顔を曇らせたが、すぐにもとの表情にもどってヘルフェのあとを付いていった。
「怒らせてしまいました……」
ガチパンを手に持ったまま困ったように言ったエトルは、滑稽さと尋常ならざる哀愁を漂わせていた。
「とりあえず、お手洗いついでにご機嫌をとってきてみては? そんな堅く考えなくてもいいでしょう。ここを出たからと言って、何かが変わるわけでもないし、人間同士に壁があるわけじゃない。ちょっとくらいゆとりがあったっていいよ。扉は開いてるから……本当にゆとりがあったら、またここへ来てくれたらありがたい」
「確かに! まさにその通りですねアルノさん! ちょっと行ってきます! なにか欲しい物とか、お土産要ります?」
お土産といわれても、外がどういう場所かも知れないので思いつくこともない。お土産か。
「鶏の胸肉」
特に考えなしに、ポロッと口をついて出るように言ってしまった。食べたいわけじゃないが、というよりむしろ好きでもないが、食べなければいけないという気がした。なんでかはわからない。
それが結論だったわけじゃないが、エトルは大真面目に受け取って「わかりました!」と勢いよく飛び出していってしまった。
「あ……あと濃いお茶」
さっき、人間同士に壁があるわけじゃないといったが、そもそもヘルフェも僕も人間じゃなかったんだった。特にエトルは疑問を抱かなかったらしい。僕は無条件に、自然に自分のことを人間だと思ったが、それで合っているのだろうか。




