一章二十八項 アルノ
『離せッ!! こんな魔術で貴様も死ぬんだぞ!』
あれだけ死ね死ね言ってたのに、今度は労ってくれるとは。
しかし、確かにそうかもしれない。このままだと死ぬってのは同じ感想らしいな。
この結晶がもたらす、飢餓感。焦燥感。死を直感するほどの苦しみ。
本能が死を悟る境地があるからこそ、飢餓は恐ろしいのかも知れない。
でも、今は逃げない。
苦しみを超えた先に、素晴らしい未来にほんの少し近づくかも知れない。
この苦痛さえも愛せる男になる。それが最高のコンディションをもたらすのだ。
『――最後まで、付き合ってやる。死ぬまで耐えてみせろ。君が優れているというならば』
『何を……! 貴様のような出来損ないにッ!! こんな下らないことが!』
鈍臭くなくても、死は恐ろしいか。
そうだよな。
どれだけ大きいことを言っても、人を見下していても、死んだ経験なんてないだろう。
行けばもう二度とは引き返せない底の見えない深みに、これから沈もうとする恐ろしさ。そこは音も光も行き交うことはない。目の当たりにして、それが不可逆であることがようやく実感となる。
でも、僕だけが知っている。そこの先では、ただこの世界に溶けて眠るだけだ。
『ぐおおおぉぉ!』
マゼスは強く呻いた。
結晶の侵食は、急激に緩やかになる。しかし、まだ身体を這い上がってくる。
脚の感覚はなく、凍ったように動かない。動こうとすると、ギシギシと乾いた木が軋むような音だけが伝わってくる。
生きながらにして、枯れ木となってゆく。体の芯が抜けて石膏にでもなるような感覚。
この時が、永遠の地獄かのように感じる。
逃げることすら許されない。
無理に動けば、脚が壊れてしまう恐れがあって動けない。
「アルノさん!!」
エトルが結晶を踏み越えて、近づいてくる。幸い、術者自身であろう彼女は我々魔人のように侵食を受けないらしい。
それでも、まだ結晶は大きく成長し続けていて、腰ほどの高さにもなっていた。
エトルは足を挫きながら、切り傷を負いながら、距離を埋めようと向かってきた。
なんだ? こちらに来て、一体なにをしようとしているのか。
「来るな!」
「あなたを巻き込むつもりじゃなかった! 勝手に収まるまで、もう止められない」
「大丈夫だ。これでいい。巻き込んだなんて言わなくていい。君の言っていた通り、勝つことが最重要だ」
エトルは僕の言葉を無視して、まだこちらに進んでくる。
実際にこの侵食する結晶が僕らの生命を奪うほどのものか、最後のその時まで分からないが、それならそれでいい。
怖いのは当然……でも、彼女のお陰の勝ちになった。僕の力では望むべくも無かった勝利。
僕とマゼスの死体は残り、再利用が可能となる。ただし、ここにいる魔人以外の魔術師全員が生き残る事が必須の条件だ。
だから、これでいい。
まだ何らかの残された手がエトルにはあるのかは分からないが、そうだとしても近寄ってくるのは、デメリットとしか思えない。
だが、困ったことに僕に彼女を制止するだけのゆとりはない。
『魔術を解け! 屍霊術師!』
爆破を使おうとしたのか、あるいは暴行に訴えかけようとしたのか、マゼスは腕を振り上げる。
寄ってきたエトルの顔を掴んで、地面に叩きつけた。
『よせ!』
『――?! 発動しな――!』
爆破の魔術は不発だった。
『――そうか。分かったぞ! これは“結晶マナ”か!』
マゼスは左手で結晶で覆われかけた自らの腰元を弄って、何か道具を強引に抜き取った。
どうやら細長い筒状のもので、蓋が着いている。マゼスが震える手でなんとか蓋を外す。先端に小さな針が着いていた。
これ、注射器だ……!
コイツ、まさか――
ステロイド使用者か!
いや、違うか。
アナボリックステロイドではないだろう。しかし、奥の手として使うとすれば、そういう系統と見なしていいはず。
魔人の超越的な生命力からみて、身体の機能を高めることが可能な薬品ぐらいはあるのかも知れない。
使用によってマゼスが状況を打開できると考えているという点を踏まえれば、ほぼ間違いなく体を増強せしめる薬物とみて良い。
どうであれ、絶対に使わせるべきじゃない。
アナボリックステロイドはアメリカでもスケジュールⅢの分類にあたる、やや依存性のある薬物! 健康に与える影響も大きい。
「待て!!」
とっさに腕を掴もうとした。
だが、マゼスが自らの首に突き立てるほうが早かった。
反応出来なかった。
予測が遅かった。
この道具が薬品を打つ注射器だと理解するまでの一瞬が、判断を鈍らせた。
しかし、言い訳を考えている場合じゃない。
「やらせんっ!!」
力一杯、腕を殴って、注射器ごと弾き飛ばす。
注射器は、僅かに先端から内容された液体を撒き散らしながら、結晶の間に落ちた。
密着するほどの近さだ。
薬物の注入が完了するまで、待ってやる理由はない。
『まだ抵抗するか……し、しかし! 僅かには回復したぞ。残念だったな――!』
マゼスはまた再び、注射器を取り出した。
おいおい! 一体、何本もってんだ!?
なるほど。この薬物を多数携えておくことで、適宜回復できるよう、持久戦に備えていたというわけか。
確かに、考えてもみればそれが妥当か。
本来なら、この国の軍隊を丸ごと相手にしていても不自然じゃないはずの場所にいる。
マゼスが再び頸部に注射器を刺そうとした。
さっきは一度、少しばかり遅れは取った。
しかし今度こそ、完璧に止める!
この僕の目の前で、みすみすドーピングさせてなるものか!
「させん!!」
マゼスの腕を掴んだ。
でも、力が……抜ける!
いわゆる筋肉の酸性化なんだか、マナの結晶なんだかわからんが、もう腕がヤバい!
歯を食いしばれ! 限界はまだ先のはずだぞ!
意識を変えねば。
ボディビルでは鍛える筋肉を絞ったトレーニングも多いが、単純に重量を上げる目的の場合は様々な部位を使ったほうが良い。
格闘技やスポーツでは、一見、限られた動作だとしても多くの筋肉を連動して使う。
腹斜筋や僧帽筋をも使う意識!
これが今はマゼスとの差になるはずだ!
「うおおぉ!!」
『ぐうぅ……くっ!』
互いに息は切れ切れ、力も体力もたぶんギリギリだ。
『こっ……の!』
力むと、喋る余力もない。
マゼスが後悔の念を抱いてくれたなら、少しでも悔悛の兆しがあったなら、こんなところまでやる必要は無かった。
でもコイツはきっと、何にもならないプライドの証明のためだけに、兄弟喧嘩で互いに掴み合って揉みくちゃになる子供の時のままだ。
そんな子供の自尊心のまま、人を殺める力だけを得てしまった。
僕が止めてやらねば。
「はあ……はあ……」
語らずして互いに力を緩めることを合意したかのように、疲れ果てながらも力比べは膠着した。
なけなしのエネルギーをやりくりする。
呼吸に必死で、唾を飲み込むゆとりさえない。
『……マゼス。君は魔術師として、優秀で特別なんだと思う。だからこそ、弱い。凡庸でいられる強さがなかった』
『こ、ここに来て! ……また詭弁か!』
『皆が己の望む特別になれたなら、社会は成り立たない。普通でいる覚悟があることは、それは社会に尽くす強さだ。君は己を過信し、暴力を振るう相手を間違えた。それは、優れているのではなく、暴走しているだけだ』
『強者こそが……生存者こそが種族を進化させたのだ! 淘汰こそが、この社会を正常な強さに導く。だからこそ、貴様らも勝とうとしているのだろうが!』
『そうかも知れない。だけど、人の尊厳を冒涜することは、生き残ることと同義じゃない』
『人間の尊厳など……知ったことか!』
理解してくれなくていい。
ただ、言うべきだと思っただけだ。
『――わかった! もういい! このエーテルを爆破してやるぞ! 最早……ここにいる全員、吹き飛ばして道連れだ』




