一章一項 ???
目が覚めた。
どうやら気を失ってしまったらしい……。
ちょっと狭い、アパートの洗面所。
黄ばんだ洗面台の上にある、冷ややかな青白いライトに照らされたまま、僕は倒れていたようだ。
胸に大きな針でも突きつけられたかのような、強い痛みが意識を覆う。
このところずっとこうだ。だけど、意識を失うまでいったのは初めてではある。
苦痛のせいで、どうも意識が明瞭じゃないな……。
とりあえず、落ち着くまで無理せずに居よう。起きようとしても、どうも上手くゆかない。腕だけがなんとか動かせる。
連峰のうねる稜線が連なるかのような上腕二頭筋の隆起。植物のツルが腕に巻き付いたかのような血管の稲妻。
今期のコンテストに向けての取り組みでは、高重量のオールアウトに集中し、爆発的ではない増量とはいえ停滞を打開できた。できる限り身体を大きくし、長期的な計画でコンディションも整えた。
大きさも保ったまま、セパレーションも立体感も悪くない。体重は八十。ディフィニションは過去最高だ。
しかし、どうやらやりすぎたらしい。
体脂肪を落とすことに躍起になって、心臓の負担を考えられてなかった。
どんなに筋肉を鍛えても、中身を鍛えることができるわけではない。
もうベテランと呼べるかもしれないくらいの経験と、さんざ追い詰めてきた体。こうして、結果としては後者のほうが出てしまったらしい。
……でも、まだいけると信じたい。
老いて全盛期なんてわけじゃないが、僕にはこれしかない。
好きだったことは、いつしか執着と区別できなくなった。あるいは、はじめから本当に純粋に好きだったことなんてなかったのかも。
大人になって目に映るものの解像度があがったからこそ、見えずらくなってしまったものも一杯ある。溢れるような熱意は、義務感ともつかないものになった。
そこまで歳をくったわけというわけでもないが……、転ぼうが、倒れようが、もうボディビル以外できないのだとは思う。なんでもできるほど器用でない自らを恨む気持ちはない。満足といえば嘘になるが、概ね充足感はある。
結局は僕自身でさえ、どこまでやれば僕の理想なのか分からない。
オープンクラス挑戦なんて夢のまた夢。
世界には僕の大きさを上回る人間も沢山いる。
人種、遺伝、そして薬物……。
しかし、どういう手段を採って、どれだけ鍛えようとも、いつかは限界にぶち当たることになるってことは変わらないんだ。
生き物としての、可能性の天井に阻まれる。それが、これほどに怖いものとは知らなかった。
思いがけず、自分の限界が浅いものだと知った時。もし引き返せないほど遠い道のりが、間違っていたと思えてしまった時。
もっとやれたかも、そうどこかで思ってしまう自惚れが消えることもなく……。
筋肉でコーティングしている小さな自信が締め付けられるかのように、思いがけず呼吸が荒くなってしまう。
これしかやってないのに二流になる。そんなこともありえて当たり前のはずなのに、果ての見えない砂漠で、孤立しているかのような気持ちになってしまう。
そうか……。
歳を取るって、ふとした瞬間に自分に限度があることを知ってしまうことなのだろう。
いや。それでも良い。
そんなんでも、良いじゃないか。
人にはその人の可能性に即した、その人なりの美しさがあるはずだ。
競技である以上、いろんな欲求を切り分けることは難しい。でも思う、フィジークでもクラシック、ボディビルでも、追究した自分を誇れば良い。
生き方に過ちはない。間違ったとあとから感じたとしても、選ぶその時は自分が信じられた唯一の正解だった。
痛みが落ち着いてきて、なんとか立ち上がれそうだ。
まるで足トレを追い込んだときかのように、ガタガタになりながら、なんとか洗面台にもたれかかる。
どんなにマッチョになっても、産まれたての子鹿のように弱々しいんじゃ形なしだな。
ふと顔を上げると、尊敬しきれているとは言い切れない人間の顔が眼の前にあった。
『お前はホント、ドンクサイな』
それがこの顔によく似た人の口癖だった。
繰り返し言ってた本人はたぶん覚えてない。他の言葉もあったかもしれないが、僕は逆にそれ以外の言葉はあんまり覚えていない。
僕は自分なりに結構やったつもりだ。少なくとも、僕を否定する人間の意見に左右されたわけじゃない。フロントラットスプレッドで胸を張って、そう言いたい。
あと数日後の大会で、競技としてのボディビルを辞める。
名誉も誇りも、命には変えられない。
とりあえず、今日は足の日だからジムに行かないとな。




