一章八項 へルフェ
…………。
首が痛い……。鼻の奥がじんじんと痛んだ。体は動かしてないけど、鋭い痛みが走った。
どうやらワシはまだ無事ではあるらしい。
「リシル……リシル……無事か?」
目を開けるとほのかに明るかった。
オレンジのランプの光が小さく灯っていて、あの青白い魔導灯よりは随分光が弱い。
でも、温かい。
なんかよくわからんが、あの状況からなんとかなってしまったらしい。
なんだかまた眠い……今はただ眠い……。
目を閉じていると、べちゃべちゃと音を立てて生暖かい感触が耳を舐った。
「だ……誰ぇ……。やめて、やめてくれ……」
顔をうずめると、こんどは耳元でフゴフゴと鼻息を吹き付けてくる。
「やめい……! うっとおしい!」
跳ね起きると、魔導犬がいた。
ワシの体格の二、三倍くらいはデカいので威圧感がすごい。
脳天気な顔で、嬉しそうに顔を舐め回してくる。
ワシらを殺しかけた張本犬であるのに、まったくお気楽なものじゃな。
魔術の上書きは完全に解けてしまったが、もう凶暴性が戻ることもないらしい。もともとは、温厚な性格なのじゃろう。操霊術は、人格を変えるとかではなく一時的に理性を遮断して簡単な命令を植え込むという方式であるため、操られた方の意思は一切の介在もない。
だからといって、何事も無かったかのようにすぐ横で寝られても……。という感じもするが、咎めようがないので許すしかない。
見回すと、燭台がのったテーブルが目の前にあって、その周囲に沿うように長い椅子が置かれていた。台を挟んだ向かい側にリシルが寝ていた。すうすうと鼻息をたてていて、普通に眠っている。命に別状はなさそう。
やれやれじゃ……。責任とか色々あるだろうから、ワシの命を守るためにも、コイツの身の安全は重要じゃ。とりあえずお転婆姫を守ることが出来てなんとか一安心。
しかし、意識を失ったのは、不覚じゃった。あれから結局なにが起きたのかわからない。
とりあえず、もう危険はなさそうじゃが、見覚えもない部屋じゃ。
四隅に所狭しと家財が積み重なっている。簡単な家事道具や謎の草が紐で吊り下げられていた。ゴミゴミとしてて生活感があって、薄暗いが温かい。床と天井が継ぎ目のない灰色の石材なので、どうもまだここは地下っぽい。
「ここは……?」
「儂の家だよ」
疑問に答える声がする。
奥から、湯気のたつ鍋をもった老人がのっそり歩いてきた。
「家というほど立派でもないかな。穴ぐらの巣とでも言うか」
「あ、あんたが助けてくれたんか……?」
「まあな」
こらびっくり! こんなトコでも人が住めるもんなんじゃな……。
老人はゆっくりとした動作で、茶碗に湯を注いでワシの目の前に置いた。
「飲みなさい。エーテル中毒を抑える薬湯だ」
「あ、いや~ワ、ワシあんまり知らんものは……」
「問題ない。マイスにもちゃんと効く。この先、発作で倒れても助けてやれんぞ」
うわ~……なんだか飲みたくねえ。
ワシちょっと潔癖症なんだもん。
しかし、そこまで勧められて断るのも気まずい。それに、口の中がカピカピで確かに飲み物はほしいところではある。ちょっと舐めれば、この老人も満足するじゃろう。気を使わせおってまったく……。
エクラナでもワシの潔癖症が顕現して、ババア共にさんざ気を使っていたのに、ここまで来ても老人の勧めてくるものを飲まされるとは……。
汚らしい茶碗に口をつける。
お? うん……。
……悪くはないけども。ま、まあまあじゃん。
存外、爽やかな香りとクセのない口当たりで味は良い。寝起きの淀んだ口内が、すっきりとした。しかも、体から毒気が抜けるような感覚さえある。魔術を使うと体が汚染され、自覚できないまま五感が鈍くなってゆくものじゃが、もうそんな感じもなさそうじゃ。
「……おいこれ、怪しい薬とかじゃないよな? 悪いが、あんたみたいな人がこんな効くもん持ってるなんて怪しいぞ」
「怪しい薬でも治ったならいいじゃないか。ちょっとした工夫と丁寧に作ってるだけで、根本的にはよくある普通の薬だよ」
「作ったぁ? 本当かねえ。そもそもじゃが、なんでワシがエーテル中毒じゃと……?」
「このリシルという娘の説明があったからな。星霊術など、一日に一度でも使うものでない。せいぜい、三日に一度というところだ」
「なんじゃ? あんた……爺さんも魔術師なんか?」
「いいや」
魔術師じゃないのに異人種の魔術に精通している上に薬を処方できるなんて、なんか凄い人っぽいな。
「しがない穴ぐら暮らしの爺さんだよ。昔に勉強したことがたまたま活きているということはあるが」
「でも、なんで地下に? ここで暮らしてるってことじゃよな……? よくワシらを見つけられたな」
「ああ。探していたからな。誰かというわけじゃないが……この頃、この地下迷宮で若い宮廷の魔術師が死んでいることが時々あってな。迷惑というつもりはないが、暮らしてる身からすれば、いい気分のものでもない。だから、できるだけ見回りしてるんだよ」
「そ……そりゃあ本当か?」
「嘘言ったって仕方ない」
おいおい。
人が死んでるって……! 自殺……ってわけじゃないよな。やはりこの魔導犬にやられたのか……。
いや、そうであればいくらなんでも爺さんが勘付いてもっと警戒しているか。
じゃがリシルも時々、遊びでこの地下道を徘徊してると言っていた。つまり、そこまで危険でおどろおどろしい場所であるという認識はなかったはずじゃ。
たしか、もともとは王国所属の魔術師だかにここへ逃げ込むように言われたとか言ってたな……。話に出てきたソイツらもかなり胡散臭い。安全だと分かってない場所を、子供に教えるやつが居るだろうか?
う~む。
そもそもリシルは大きなことに巻き込まれているのではなかろうか。なんとなく、そんな気がする。
いくら考えても人種すら違うワシに事情が分かるはずもないが、モヤモヤが頭の中に立ち上ってきて考えずにはいられない。
何はともあれ、そこで眠っている小娘に聞き出さねばならんじゃろう。
「儂のほうが聞きたいがな。なんであんなところで死にかけてたのか」
「宮廷に呼ばれて……ええと。いろいろあって脱出しようとしたら、追っかけてきたコイツに殺されかけた」
隣の魔導犬を指差すと、差されたほうはしおらしく耳を伏せた。
「なにやら、複雑なわけがありそうだのう……。詮索する気はないがね。しかし、その耳についてる魔導具ぐらいは取ってやっても良いかもしれん。今後、良いことに使われる気がせん」
爺さんは落ち着いていて、動じる様子すら無かった。そこは年の功というやつなのかも知れない。リシルも明らかに貴人っぽい見た目だから、それだけでも只事ではなさそうなのはわかるだろう。ことのあらましぐらいは、聞いたのかも知れない。
「ああ。そこんとこは同意じゃな。……あのさ、一応ききたいんじゃけど、爺さんが見つけた死体ってのは……。コイツに襲われて殺されたって……そういうことか?」
「いいや。違うよ。思い出す限り、そういう風では無かった。ミイラ化したものも多いが、血痕は残っていなかった物が多い。なにかの被害者じゃないとは言い切れんが、なんとも言えん。もともと、この地下坑はケイオンで落ちぶれた人間の最後に行き着く場所でもあるからな。お前さんたちが、血塗れになりながらいたもんだからそっちの方が驚いたよ」
「たしかに」
「お前さん、名はなんと言う?」
「ヘルフェ……あんたは?」
「ミエフだ」
「ミエフ爺さん……、とりあえず助けてくれてあんがとな」
今日、名乗ったのは何度目じゃろう。久しぶりに長い一日じゃった。帰ってババア達に話したら、信じてもらえないじゃろうことばかり。
もうとっととお家に帰りたいが、リシルをおいてゆけば気分的にモヤモヤも残すことになる。とりあえず今は、リシルの傷も深いことだしもう少しだけ休ませてもらおう。
薬湯を啜っていると、扉が軋む音をたてながら、誰かが入ってきた。
「じいちゃん。お野菜貰ってきたよ」
若い女の子だった。赤らんだ鼻筋がツンと通っていて、額が高く、目が琥珀色で肌がエトルのように白い。フウリ族ではなさそうだった。
「おお。おかえり。ありがとうよ」
「爺さんの孫か?」
聞くと、女の子は戸惑いながら黙った。
……? なんじゃ?
「人見知りでな。あと犬を間近で見たことがない。ちょっとシャイだが、仲良くしとくれ。モナという。このヒトはヘルフェさんという名らしい。挨拶しなさい」
モナという女の子は、軽く胸に手をあてる素振りをしてから慌ただしく目をそらした。歳ごろはリシルよりちょっと上くらいかもしれない。ワシも今日だけで、なんだかんだ異人種を観察する目が出来てきたもんじゃ。
「まあ、狭い家じゃが座れよ」
ワシが言うと、モナはぎこちなく笑った。本当にシャイで、愛想が悪いわけじゃないらしい。
「お野菜洗ってくる」
荷物を置いたと思ったら、とっとこ外へ出かけていった。
「こんな地下に野菜や水なんてあるんじゃな~」
「水は上手く取水できる場所を見つけてある。野菜は貰い物」
「このご時世で野菜を貰えるってなかなかじゃな。昨日、ワシ林檎一つで銀貨二枚も取られた」
「まあ、貧乏ぐらしでもちょっとした渡世はこなさんとな。ここケイオンで貴族は大概、魔術師だ。ちゃんと効き目のある薬湯が調合できれば、それは貴族と言えども重宝してくれる。そういう伝手で、ギリギリではあるがなんだかんだで暮らすには困っとらん」
「はえ~」
たしかに説得力がある。この爺さんの薬湯の効き目は、すでにワシの折り紙付きになりつつある。
そこそこ味が美味しいし。
「そんな腕を持っていても、家は地下なんじゃな~」
「意外と悪くないもんだよ。時々、下水くさいけども」
「やだあもう」
二人で笑い合ってると、その声でリシルが目を覚ました。
寝起きはかなり悪いらしく、緩慢に起き上がる。
「あ……ヘルフェ様……目覚めましたのね。よくぞご無事で」
そう言って、口に両手を当てて大あくびをかいた。
コイツ……感動もへったくれもないじゃん……。さすが上流階級なのか、生来の奔放さが溢れ出てしまってるのか、下品とも上品とも言えるな。
裂かれてボロボロになった服を着替えていて、薄汚い褪せた色の服を着ていた。本人は特に気にしてないらしく、こうなってしまえば、ただの女の子じゃな。
体を伸ばした拍子に、腕の傷が痛んだようだった。
「腕は痛むか?」
ミエフ爺さんが問いかけてやると、腕をさすっていた手を静かに膝に戻した。
「ええ。少しだけです。大丈夫ですわ」
「そうか。しかし鎮痛剤は出せるが、改めて医術を使える者に診てもらったほうがいいだろう」
そう言いながら、ミエフ爺さんがワシに小さな壺を手渡してくる。
「ん? なにこれ?」
「蜂蜜に薬草を混ぜた薬だよ。時々、傷に塗ってやりなさい」
「えっすげえ! 蜂蜜!? ちょっと味見していい?」
「いやまあ……別にいいが。あんまり食うんじゃないぞ」
すげえじゃん。蜂蜜なんて、もう何年も見てない。
「……ヘルフェ様は蜂蜜がお好きですの?」
「そりゃあお前……だって蜂蜜じゃぞ? こんなの食えるの滅多にないって!」
おお甘い!!
壺から指ですくって一口舐めると、ほっぺが痛くなって、本当に落ちそうだった。
「ほら、食ってみろリシル!」
「あ、ありがとうございます……、私は結構ですわ」
あれ? リシルは蜂蜜が好きじゃないのか……?
魔導犬がワシの指をペロペロと舐める。
そうだよな? こんな美味いもんなかなか無いんですから。
「ミエフ様……、親切にしてくださって感謝いたします。本当にありがとう。でも、もう私達は行かねばなりません」
「え? なんでよ? もうちょっとのんびりしようぜ」
「ああ……居てもいいし、引き止めもせん。事情があるだろうからな。行くなら安全な出口までは送ろう」
そう言ったミエフ爺さんは深刻そうな面持ちだった。
……??
そうか。リシルは魔導犬に襲われたということは、ワシが教えてこの爺さんも知っているからじゃ。
確実なこととして、悪人の意図が働いているというのは疑いようがない。
魔導犬を対処できたとしても、根本的に悪意の元を絶ったワケではない。
恐らく、リシルは狙われている。
魔導犬は誰かの意志で操られ、リシルを狙い撃ちにしたという疑念が大きい。
そうだとすれば、その黒幕がすぐ諦めるとは考えにくいのもある。
リシルはここに滞在することで、ミエフ爺さんとあのモナを巻き込むことを懸念してるのじゃろう。
というかワシも巻き込まれた側なんじゃが、リシルは何かを考え込んでいるような面持ちで、そこにツッコめそうになかった。
まあ、しかし話は聞いとかんといけないよな。
「リシル。お前、ワシになんか隠し事してるの?」
「えっ……!? えっと」
「君のように若い娘にここまでさせる情勢ではな……。だが、リシルよ。今しか決断出来る暇はないかもしれん。だからこそ、よく考えることだ。儂に言う必要は無い。だが、誠の味方は必要になるとは思えるな」
「ええ……。もちろんわかってます」
リシルは頭が良い。じゃが、歳の割には、という程度でしか無い。
なんたって、まだワシのようなお姉さんじゃない。
「まあ、わかったよ。うだうだ言ってないで、このヘルフェ様にまかしとけよ。結局どうであっても、とどのつまり安全なところまで行けばいいだけじゃろ? ちょっとそこまでなら、ワシがついて行ってやるよ。どうせ、後の用事なんて、お賃金を貰って故郷に帰るだけじゃ。魔術をまともに使えるのもワシだけだし、それしかねえじゃろ」
リシルが目を見開いて、無言のままじっと見つめてきた。どういう表情なのかはわからない。
え……? ワシ、なんか変なこと言った?
「私……じつは……実は追われる理由は分かっていますの。そ、それだけのことをしていて……ごめんなさい。私、分かっていて巻き込んだのですわ」
「え……?」
そこで隣に寝ていた魔導犬が、なにかを感じ取ったかのように立ち上がった。
突然、大きな悲鳴が響く。
すぐ近くで、女の子の声じゃった。
「モナ……!?」
ミエフ爺さんが立ち上がって、扉があるであろう方向に素早く歩んで行く。
「お前たちは、ここにいなさい」
「そんなこと言ったって、あんた魔術も使えないんじゃろ?」
「それはお前さんたちも同じだろう。儂がなんとかする」
そんなこと言ってられない。嫌な予感がする。
机をまたぐように飛び跳ねて、爺さんの後を追う。