零章一項 イシエス
0章は主に世界観、設定等の説明になっております。助長だと思ったら一章まで飛ばして下さい。
救世主は死んだ。
特別な人であった。
酒に逃げても、虚しさは消えない。その死を知った日から数日、頭痛を強めただけの物だった。
この憂鬱から逃れる術は無いらしい。感傷に浸っても有益ではない。それは分かっていても、どうしても沼を歩むかのように一挙手一投足ごとに体のだるさに捕らわれる。
沈鬱で、何をする気も起きない。
その損失は私の個人的な想いなど遥かに超える大きなものだった。
“イスラの御許に、魔術師アルマ”
……アルマ。
部屋からでも、聖堂に掲げられた弔文が見て取れる。
王族ではないが、弔旗が掲げられている。
しきりに窓に打ち付けられる大粒のみぞれがそれらの風景をぼやかした。
窓の外を見下ろすと、この街を真っ二つに断ち割るように敷かれた大きな通りが見える。
古来から信者の往来が絶えないイスラ聖堂の大通りは、白い外套を身にまとった人々で一色になっていた。
こんなにも人間はいるのだな。
百年前と比べて人間が三割に減っているなど嘘のようだ。果ての見えない参列者の列で犇めき合っている。
果たしてこの光景がアルマにとって、報いとなるのだろうか。
まことに……本当に悔やまれる。
遠い西の地で、野ざらしのまま動かなくなったアルマの姿が脳裏によぎった。
その最期を知ることが出来ない故に、想像することがやめられない。
こんな葬儀など、何にもなるまい。ここにアルマの体は無いのだから……。
風がガタガタと窓を揺らす。もうすぐ春のはずだが、まだ寒いな。
鈍色の空からは、水っぽい雪が降り注いでいた。
「イシエス様!」
私の名を呼ぶ甲高い声。
遠くから床や壁の石材にビシビシと反響してくる。
やれやれ。
面倒だが、無視するわけにもいかんか。
「悪いが……。静かにしてくれ」
宮廷内で名を叫ぶのは無礼だが、小柄な男は悪びれることも無く歩いてきた。
「ここは遠くていけませんなあ。態々《わざわざ》イーズマー宮から歩かされるなんて……さんざ、歩きましたよ。一応、実験に必要な例の魔術師達が来たそうで」
「……例の魔術師達。ああ」
小柄で身なりの良い中年の男は、息も落ち着かぬまま慌ただしく懐から手紙を抜き取った。そのまま手渡してくる。
押印で形どられた蝋で封された書を開けると、魔術教会文字で男が言ったそのままの内容が書かれていた。
書類に口語を使えない決まりなど、不便でしかないな。
「証印を出す。待っていろ」
「実験棟に出向かれないんで? 呼ぶようにと命じられたのでね。翡翠宮や政務院の反対を押し切って、サンドラ様の肝入で許諾されたのですから。宮廷側の記録に残すことは出来ませぬので、稟議なんてもんありませんよ。あなたも私にまた探し回られるのも困りますでしょう」
「事情を察してくれるとありがたい。わかるだろう。フエルド宮の魔術師達はどうした」
「さあね。誰それがご病気だとかは聞きましたが。わかりませんな。噂好きの御婦人ばかりですから。このところ随分宮廷も物騒になりまして、失踪や不審死も多発してますからなぁ。閉じこもりたくもなるでしょう。しかしまぁ、宮廷魔術師サンドラ様のご命令です。イシエス様のじかの監督が必要であると。あなたの立場ですから、相応のやるべきことがございましょうな。私のような者には、それがすべてでございますとも」
男は面倒くさそうに早口で言った。
「アルマの葬儀よりも優先するべきか?」
「さて。ですから、知りませんな。それは私が決めることでもないし、あなたでもないのでね。はは」
アルマだったら、一言も口に出さずこの男を殴っていただろう。
魔術師の癖にすぐ手の出る女であった。
そういう凶暴な習性とは反して、不世出の魔術師でもある。
魔術、学問、技術開発を発展させるだけならず、戦術を考案し、己も魔族と最前線で戦い、無双の戦功によって兵士の士気を高め、表むきの国防を担ったと言えるほどの人物だ。
その徒弟だった私が、宮廷の使用人にすら、軽口を叩かれる立場になっているとは。
死んでしまった彼女は、言わずもがな、それだけ大きな影響力を持つ存在だったのだろう。まさに市民にとって救世主だった。
性格が派手で、必要以上に衆目を集めてしまう面もあった。アルマのその人間性の明るさが、暗い時世と対象的に見えて、人々の心象が良かったのだろう。
しかし、英傑だとしても実像はただひとりの女性だ。
仮にもう少し生きていれば何らかの革命を起こせたかもしれないが、そうならなかった。
平民の大魔術師などという存在が、名族やエリートである宮廷の専属の魔術師たちに愉快な存在であるはずもない。英傑の結末といえば、これというほど典型的な最後となってしまった。
裏切りによる孤立だ。
くたびれたエリート主義はもはや老いた固陋の体質そのもので、栄養の豊かすぎるモノは消化し血肉とする事が出来ない。
革新的な能者は、もはや異端者でしか無いわけだ。
そういうわけで、こういう権威主義を煮詰めて凝縮したような、自ら進んで人気者の代弁者になるタイプの男を見るだけでも、こちらとしても気分が萎えてしまう。
「言いたくはないですがね、まだ魔族との戦争は終わっておりません。貴方様ほどの立場なら、考えればわかることでしょう。まぁ故人を偲ぶのも結構なことですがねえ」
この男を殴ってやりたい。
憂鬱を押しのけて、怒りが心に湧き立った。
まさかと思うばかりだが、どうやら現時点でも、宮廷の権力者たちは楽観の姿勢を崩していない。
戦争が終わってないとかいう次元の話でなく、魔族という種族によって、まだまだ人間が殺戮されている最中だ。
タイミングを見計らい、和平交渉を行うことによって、停戦合意の末に戦争は終わらせられる、というのが宮廷の考える筋書きだ。
夢物語というつもりはないが、明らかに客観的ではない。なぜなら、二百五十年近くも続いている戦争だ。
つまり、いわゆる主戦派のアルマは目障りだったのだろう。
和平を望むがために、味方をも殺してしまうのだから、ご立派な平和主義だ。
破滅に向かおうとしていても、こういう手合の権高な姿勢は崩れない。それどころか、態度は強固になっていた。
冷静を装ったパニックが、その強情さを深めていた。
貴族達が独自に領土を守り始めてしまっているのも、官吏の態度を強情にさせる理由にあるだろう。
誰しもが、不信感と憎悪をこねくり回して笑顔の仮面を固めている。
「それに、言うなれば今回のことはアルマ様のやり残した最後の仕事です。サンドラ様に押し付けようなどと、ご立派な決断ですが。良いのでしょうか? それを貴方が継ぐのが、むしろアルマ様の本懐なのでは?」
納得せざるをえない。
どうにか、冷静でいなければ……。
応酬する程度の相手じゃない。アルマの反骨精神は、権威主義者には歓迎されるばかりでも無かった。
それに、やる気が無いわけではない。
むしろ絶対にやらねばならない。腹立たしいが、卑屈になっていられないのだ。言われなくてもやるつもりではあった。
ただ少しだけ、半日でも良いから、なにもしない時間が欲しかったが……。
どうしようもない不快感とイラつきを抱えながら、上着を手に取った。