骸
――目を覚ますと同時にえもいわれぬ気色の悪さに襲われた。
全身が生温い汗にまみれていた。
「…気分が悪い。」
喉元まで登って来ている。あぁ、瞼が重過ぎる。
「…ぅ。」
微かに鼻に空気が通る。瞼の隙間から見える世界は今度は打って変わって灰色だった――。
****
「…んぅー。」
やっぱり眠ってしまっていました。先程までは眠気など全く感じていなかったのに…
「んん!?」
ああ、やけに寝心地がいいと思いました。桐生さんが膝を貸して下さっていたのですね…。少し、びっくりしました。そして、少し、嬉しいです…
しかし、それよりも桐生さんの様子がおかしいことに気付きました。寝ている間は気になりませんでしたが、小刻みに震えています。そしてシャツが汗びっしょりで色が変わってしまっています。荷台には冷凍機能についで冷房機能も備わっていると、ヒロさんは仰っていました。私は快適に感じられる気温に保たれていますが、桐生さんは暑かったのでしょうか?いえ、震えていることからももしかすると風邪なのでは。
「お母様。」
しょっちゅう風邪を引きお母様に看病をしてもらっていました。しかし当の私は看病をしたことがありません。
「ごめんなさい…」
お母様がいれば、何だってできる。だからこそ私は何も出来ない。出来損ない。そのせいで、お母様の陰で折檻されることもありました。自業自得です。しかし、桐生さんや、道鐘お兄さんにはそんな事をされるとは思っていません。だからこそ、何の価値も無かった私を大切にしてくれるお二人には少しでも恩返しがしたいです。それなのにどうして…
「何も出来ないの。」
私は嗚咽を上げて泣くしかありませんでした。
「…楓?いや、春、遥だよな。」
桐生さんがいつの間にか目を開けていました。その目は真っ黒でした。まさに光の届かない暗闇のようでした。そして桐生さんの目尻にも水たまり。
「ふぇ?」
私は突然抱きしめられました。あの時と同じで潮風にまざる柑橘のような優しい匂いが広がってきました。
「すまん、情けないところを見せた。もう大丈夫だ。」
ほんの少し震えていながらも、桐生さんは答えて下さいました。
****
――気絶した後に何とか目を覚ますと、眼前の少女が咽び泣いていた。これには先程の夢よりもさらに肝を冷やした。
「すまん、情けないところを見せた。もう大丈夫だ。」
ぐずぐずに崩れた彼女の泣き顔がすぐそばにあったので、少し狼狽えたが彼女を余計に心配させてはならないと、手遅れではあるが気丈に振る舞ってみせた。…胃の中を全てぶちまけて楽になりたいのが本意ではあるが、今少し頭を冷やしつつ我慢するしかない。
「…ずるい。」
「うぇ?」
彼女はそう言いながらも私の肩に腕を回した。それもかなり力強く。
「ずるいってのは…。」
「…でも、そこが好き。」
ますます分からん。春遥に好かれる要素が一連の動作にあったか。私が思うには、否、である。楓を思い出した。いや、思い出さざるを得なかった。あの子はいつでも私に抱き着いてきた。暑かろうが寒かろうが構わずぴったりとくっついてきた。父や母、祖父にもそういう素振りを見せていたと思うが、何故かよく私にくっついて離れようとしなので私は、何とかして逃れようとしていたが俄然離れるそぶりはなかったのでいつも、あの子が飽きるのを待っていた。だからこそ、なのか私にもいつしか刷り込まれていったのだろうか。悲哀を通り越し、絶望の色が見えた春遥の目を見て何とかしてその暗闇から救い上げようと考え、とったのがあの蛮行である。今もそこまで変わらないが。
「…私には妹がいたんだ。」
彼女の体に回す手の力を抜き、向き合い直してから言った。
「…いた。」
彼女は突然の私の独白をしっかりと聞いてくれている。
「そうだ。ちょうど二十年になるか。土豫地震っていう出来事は知ってるか。もしかすると、学校習ったかもしれない。」
「…とよじしん。そのせいで四国、九州の大半が津波と地震に見舞われた、って教わりました。」
「…まぁ、そうだな。大体そんな認識だろうな。その当時、春遥はもちろん、道鐘も恐らくは、生まれていないだろうが、私は小学生だった。」
何故彼女にこんな話をしているか分からないが、私はなおも続けた。
「私のすんでいた、母の実家つまりは祖父、じいちゃんの家なんだが、丘の上に立っていて。津波の影響も受けず、地盤がしっかりしていたのであまり揺れもなかった。」
彼女は私から目をそらさず、話を聞いてくれている。
「その日、学校は休みだったんだ。理由は覚えていない。先週の土曜に運動会があったか、みたいな理由の休みだった。」
ふと、自分が何を言いたいのか分からなくなった。しかし、何かに取りつかれたように口は滑り続ける。
「職場の石油工場に向かう父に連れられ妹はそのついでに幼稚園に行った。海の見える綺麗な園舎だった。私もそこを卒園したからな。幼心ながら、その印象が強かった。」
それ以上言うのか。言う必要はないはずだが。少し渋ったがそれでも言葉は止まらなかった。
「…午前十時三十一分。その後、津波が来るのは想像が出来ていたはずだ。しかし、園児たちが解放されることはなかった。」
春遥は生唾を飲んでいた。彼女に私のような嫌な思いはさせたくない。しかし、口が止まってくれない。
「父は、車を使った。使うべきでは無かったんだ。同じ考えの愚か者どものせいで道はごった返し。それでも何とか楓を、妹を拾い、家か避難所へ逃げ帰るつもりだったはずだ。」
それ以上はいけない。もういい。彼女に聞かせる話ではない。というよりも、誰にも聞かせる話ではない。私が墓に持っていくべきことだ。
「…波が、あまりにも強すぎた。予測をはるかに超え、海に向かって開けた私たちの美しい街丸ごとをごっそりえぐっていった。」
そこでようやく止まった。しかし、これでは伝えるべきではないことの答えは、ほぼお出ししてしまったようなものだ。春遥は黙っていた。次の私の「答え」を待っているのか、それとも言葉を失っているのか。
「…すまん、話過ぎた。」
「…妹さんはどんな子なんですか。」
彼女は「だった。」とは言わなかった。
「人懐っこい子だ。本当に小さなころは誰に対しても笑顔を向けていた。何時いかなる時も嬉しそうで、悲しそうな姿を見せることはなかった。…そのせいか、春遥にあの子の姿を重ねてしまっていた。すまなかった。」
「いえ、それはその、大丈夫なんですけど。」
何か少し言いづらそうにしている。何だろうと思い、次の言葉を待った。
「そのころの妹さんって何歳だったんでしょうか。」
「何歳?私とは二歳差であの子は遅生まれだったから四、五歳だったな。」
「…私も、それくらいの年に見えるってことです、か。」
歯切れが悪いが、彼女はこう言った。その発言の意図が私にはよく分からなかった。
「いや、春遥が幼いとは思っとらんよ。ただ、ほんの少しあの子と似ているところがあると思っただけで…。」
「やっぱり、子供っぽいんじゃないんですかっ!むぅ~。絶対…。」
最後は聞き取れなかった。その後彼女は勢いよく私の膝に頭を打ち付けうつ伏せの状態になった。
「いっつぅー。」
思ったより硬かったようで小さく悲鳴を上げた。
「ふっ。」
何がしたいか分からんがとにかく愛おしかった。
少しして寝息が聞こえ始めた。まだ寝るか。これが若人なんだと改めて実感した。私には眠気はなかった。というより眠れそうもなかった。
「…ガレージとやらにトイレはあるのだろうか。」
とにかく私はすべて吐き出すことのみを考えていた。