【電子書籍混入】完璧な男に捨てられたので、おもしれー男と結婚した
とある侯爵家の長女として生まれたアンナは、それは優秀な女性だった。背筋を伸ばして柔らかな微笑みを浮かべる姿はそれは美しく、目上の人とも堂々と話す姿は令嬢達の憧れの的だった。
そんな彼女が暴漢に襲われかけるなど、誰が想像できたであろうか。
警備隊がすぐ駆けつけたこともあり、アンナに被害は無かった。護衛が少し打撲した程度で済んだのである。
それでもアンナが受けた心の傷は大きく、また社交界では傷物という噂が出回った。誰もがアンナを遠ざけた。
「アンナ、悪いが君と結婚はできない。婚約破棄させてもらう」
彼女はとうとう婚約者からも捨てられたのだった。
「申し訳ございません。私は嫁ぐことのできない親不孝者です」
「なにを言うか!アンナは悪くないではないか!」
「ええ、そうよ。嫁ぐことなんて考えなくていいわ。アンナはずっと此処に居ていいのよ」
両親はそう言ってくれるが、アンナの心は晴れなかった。元来とても真面目なアンナにとって家族に甘えることは、傷物だと噂されることより心苦しい。
「いいえ。嫁ぐ宛のない私など、この家に居てはなりません。どうか修道院に」
ぐっと堪えていたはずの涙が溢れる。そんな痛ましいアンナの姿を見て、父の侯爵は一通の手紙を取り出した。
「実はアンナにこのような手紙が届いているのだ」
ある男と婚姻を結ばないかというお誘いの手紙だった。嫌だったら断っても構わないとも記載されているが、アンナはもう選り好みをする立場にない。少しでも侯爵家の役に立つならばと二つ返事で承諾したのだった。
かつての婚約者は素敵な人だった。甘いマスクの整った顔立ち、見惚れてしまうほど美しい所作、領地経営に積極的な姿勢。自慢の婚約者だっただけにアンナは未練がある。
これから婚姻を結ぶ人を愛せる自信がないほどに。
それでも貴族に生まれたならば、心を殺してでも相手に尽くそう。たとえ遥かに年上であろうと、たとえどんなに醜かろうと。そう胸に刻んで初の顔合わせに挑んだ。
屋敷にいたのは、アンナと同じくらいの年頃の男だった。そこまで醜いわけでもない。
ピンクのドレスを着た体格のいい男だった。
アンナは思わずポカンとして相手を見る。男は縦ロールが輝く金のカツラを被っており、豪奢な扇子で口元を隠していた。ピンクのドレスは明らかにサイズが合っておらず、動く度にミチミチという音がする。主に肩周りや胸周りから。
「お胸が大きくて、ごめんあそばせ!!!」
第一声が酷すぎる。
周りにいた使用人たちの、笑いを殺しきれずに噴き出す音が響く。そのたびにゴホンゴホンと雑な咳払いで誤魔化されるも、笑いの空気は霧散しない。
アンナはまず挨拶をすることにした。
「アンナと申します」
「わたくしはシデンでしてよ!」
「しでぃ…?」
「発音しにくかろうですとも!シルヴィアでよろしくってよ!」
再び使用人たちの盛大な咳払いが響いた。俯くもの、肩を震わせるもの、ぎゅうと手をつねるもの、様々である。
シデンの酷すぎる敬語を聞きながら、アンナもまた笑いが少しこみ上げるのを感じてギュッと頬の筋肉を引き締める。
「どうぞおかけになって!」
「はい、ありがとうございます」
シデンが椅子に座ろうとしたので、アンナも同じく腰を下ろす。そして椅子に座ったシデンは盛大に後ろへとひっくり返った。捲れ上がったスカートから、すね毛だらけの足がチラリとのぞく。とうとう使用人たちの堪えきれない笑い声が響く。
真下にふわふわの絨毯があったのでシデンは大した怪我もなく、そのままムクリと起き上がった。そして傍らでお腹を抱えて笑っている執事の一人に近づくと、その腹に人さし指をどすどすと刺し始めた。
「これは予定にない!おまえだろ?おまえの仕業なんだろ!?」
「ドッキリ大成功です」
「うるせ〜!謀反人がぁ〜!」
使用人たちが我慢をせずに笑うので、次第にアンナも堪えきれなくなる。はしたないと口を開けて笑ったことなどないのに、この時は頬が痛くなるほど笑ってしまった。
シデンはドレスを翻し、改めて椅子に座る。今度はひっくり返らなかった。
「改めまして、俺がシデンです。さっきも言ったけど発音が難しいと思うからシーとでも呼んでね。シルヴィアでもいいよ」
ひらりと手をふるシデン。アンナは貴族らしくないシデンの様子に驚いていた。
「話はおおむね聞いてる。その上で相談したいんだが、暫くは夫婦らしいことは無しにして、ひとまず家族としてやっていきたいかな」
その言葉にアンナは愕然としてしまった。自分は妻として迎えられないのだろうか、やはり傷物として扱われるのだろうかと絶望する。アンナが絶句しているとも知らず、シデンは言葉を続けた。
「怖い目にあったばかりなのに、知らない男と一緒なのは嫌だと思うんだよね。それこそ夫とか急に言われても、困るし恐いと俺は思う。だから、まずは少し時間を置こう!それで怖くないくらいに落ち着いたら、改めて夫婦になる努力をしよう!」
「私は問題ありません!」
シデンは悲しげな顔をした。
「生まれてくる子にも言える?」
「どういう意味、ですか」
「嫌だな怖いなって思いながら産んだ子を愛せる自信ある?貴族の義務として産んだだけだって思ったりしない?仕方なく産んでやったんだって心の何処かで思わない?」
アンナは言葉を発することができなくなった。まさに貴族の義務として子供を産まなければと使命感を抱いていたのを見透かされた気がした。
貴族の結婚に恋愛は必要ない。子供さえできればいい。そんな当然のことなのに咎められた気がした。
「なにも俺を好きにならなくていい、怖くない奴くらいに思えたらいい。それまで時間を置こうって話。なにも今日明日に子供を作らなきゃいけない訳じゃないんだからさ」
アンナは涙が出そうになるのを必死に堪えた。恥ずかしくて不甲斐なくて情けなくて、同時に少しだけ救われたから。
それからアンナの新しい生活が始まった。アンナは家族に沢山手紙を書いた。なにせシデンが毎日面白いので、この気持ちを共有したかったのだ。手紙を送った側から新しく書きたいことが増えるのはズルいと思う。
『シデン様の女装レパートリーはとても豊富で私は驚いてばかりです。先日はキッチンメイドのシャーロットとして台所のお仕事をされていました。シャーロットが下拵えをしたスープが一番美味しかったので、他のメイド達が悔しげな顔をしていたのが印象深いです』
『先日のシデン様はぬいぐるみのような姿をされていました。ミトンのような手では物を上手く掴むことができないそうで、物を両手で持って運ぶ姿が愛くるしく思えました』
『最近になって気付いたのですが、シデン様は私と接するときは女装していることが多いようです。私が怖くないように配慮されているのでしょう。シルヴィア様とお茶を共にすることがすっかり日常になりました』
『本日のシデン様は家庭教師シシーを名乗っておられました。刺繍の造詣が深く、私よりも見事なバラを刺します。女として敗北しました。シシー様より見事なバラを目指して練習しています。つきましては完成品をお父様に贈らせていただく予定です』
そんな日々を送っていたアンナは、本当のシデンを見たことがないことに気がついた。いつも面白い姿をしていたので、男として働くシデンを見たことなかったのだ。
(執務室ではどんな姿をしていらっしゃるかしら?)
ほんの少し気になって、アンナはこっそり執務室を覗きに行った。衛兵に事情を話せば快く協力してくれて、扉を少しだけ開けてくれる。はしたないとは思っていたけれど、アンナは自分を意識していないシデンが知りたくて覗き見することにした。
「この物資が足りてないようだが、何があった?」
「天候不順により商人達が足止めされています。別路へ誘導している最中です」
「それを狙う賊がいる可能性が高い。この辺りに警備を配備してくれ」
「貴族のヒョロヒョロは第一師団にいらないって言っただろ。しごきに耐えられなかったら蹴落とせ」
「蹴落とした後は訓練メニューをこなさせますか?」
「頼む。それすら耐えられない軟弱者だったらマナーと語学を徹底的にやらせろ」
そこに居たのは、同一人物とは思えないほど厳しくて粗暴な男だった。鬼のように恐ろしくも見えるが、鷹のように凛としているようにも見える。アンナはその姿を見て驚いてしまった。
衛兵はこっそりと耳打ちする。
「シデン様のお仕事は警備隊を育てることです。自分にも他人にも厳しい方ですが、国民を誰よりも愛しているんですよ。誰かが犯罪に巻き込まれないよう、常に目を配っているんです。そのせいで領地経営は他の人に投げっぱなしですけどね」
アンナは自分が襲われた日を思い出した。侍女と一緒に馬車の中で震えていたら、すぐ警備隊が駆けつけてくれた。だから護衛も僅かな打撲で済んだのだ。もし彼らが居なかったら、本当に傷物にされていたかもしれないとゾッとする。
シデンは自分の仕事を話題にしない。むしろアンナが辛いことを思い出さないように避けてくれている。本当はずっとアンナを守ってくれていたのだと気付いて、胸が締め付けられるような気持ちになった。
前の婚約者のように顔立ちが整っているわけではない。マナーはほぼ習っていないと粗野な動きが目立つ。他の仕事が忙しいと領地経営は他に丸投げ。それでもアンナにはシデンが素敵に見えた。扉の隙間より見える顔立ちがなによりも凛々しいと思えた。
シデンの横顔に見惚れていると、中から大きな咳払いが聞こえる。
「陛下がお呼びです。五日後には出立なさいませんと」
「わかった。今回は二ヶ月は帰って来られないかなあ」
「そのように長く滞在されるのは初めてですね」
「やることあってさ」
アンナはその言葉に居ても立っても居られず、部屋の中に飛び込んでしまった。
「お待ち下さいませ!」
「なに!?敵襲!?」
「アンナ様ですよ」
慌てるシデンに対し、アンナはずいと迫った。
「今のは、本当ですか!?二ヶ月も家を留守にされると!?」
「お、おん。心配しなくてもお土産は買ってくる、ぜ!」
「そのような心配はしておりません!私は!」
続く言葉が出てこない。アンナは真面目な女性だ、男性ましてや夫となる人に甘えるなどしたこともない。自分の気持ちがろくに整理できていないのに希望を言うことなど不可能だ。
言葉をつまらせたアンナを暫く見ていたシデンは、困ったように笑った。
「二ヶ月なんてすぐだよ。俺が子供の頃に遊んだ刺繍図案集とか一ヶ月溶ける大作あったし、あれを本棚から引っ張りだそうか?」
「子供扱いは止めてくださいまし!私は!私は!」
アンナの目からぽろりと涙が溢れる。今まで酷い噂を流されようと、婚約者から捨てられようと、家族と離れ離れになっても泣いたことなどなかったのに。あまりに情けなかった。
シデンがハンカチでアンナの頬を拭う。
「部屋に戻って、少しゆっくり考えよう。言いにくいことは手紙にするといい」
夜、シデンが寝る支度をしていると扉がノックされた。向こうからは執事の「少々よろしいでしょうか」という声が聞こえてきたので、特に深く考えることなく「どうぞー」と答えた。
中に入ってきたのはアンナだった。
「おおう!?どうした!?」
「ゆっくり考えて、自分と向き合って、結論が出ましたの」
顔を赤くしながらもシデンの目を真っ直ぐと見ているアンナ。ぎゅうと強く服を握り、わずかに震える足を見て、何も察しないほどシデンは鈍くはなかった。
「それは覚悟?」
「いいえ」
貴族としての義務ではなく、一人の女としての素直な気持ちだ。妻のほうから夫のもとを訪ねるなどと思ってはいるけれど、そんな事を言っている場合ではない。五日後にはシデンが王都に行ってしまうのだから。二ヶ月で帰ってくるとはいえ、それに甘えてなあなあにする訳にはいかなかった。
「おいで」
ベッドに座ってぽすりと隣を叩くシデンに従い、アンナは腰かける。
それからシデンとアンナは様々なことを話した。他愛無いことを沢山と。話すことが途切れて沈黙が訪れた時、初めてシデンからアンナに触れた。
「シデンさま」
最初は全く発音できなかった名前も、今ならスラスラと言える。アンナはそれが誇らしかった。
・・・・・・
王都から少し離れた場所にある小屋、そこで男は縛られたまま床に転がされていた。
「シデン様、捕らえておきました」
「あざまーす。陛下にはお手数おかけしましたって言っといて」
どうして自分はこの国の騎士団長に捕らえられている?目の前にいる男は誰だ?疑問ばかり浮かんでくるのに、誰も縛られた男に答えをくれない。声が出せないよう布を噛ませられているせいで、男にできるのは震えることだけだった。
シデンと呼ばれた者がしゃがみこみ、男の顔を覗き込む。
「ちゃおちゃお。アンナの元婚約者さん、お会いするのは初めてだね。俺はアンナの夫であるシデン。よろしくする気はないから覚えなくていいよ」
にこりと笑うシデンに、男はざっと顔を青くする。彼には一つだけ捕まる心当たりがあるからだ。
「ずっと変だなぁって思ってたんだよ。警備隊って実質俺の部下なんだけどさ、報告によれば“御者台にいた護衛が怪我を負った”とある。この報告通りなら、馬車の扉は開けられていないし、中に誰が乗っていたかなんて外部からは解らない状態だったはずなんだ。警備隊はアンナの安否を確認しただろうが、彼らが社交界に噂話を流すことなんて不可能だし。彼らは全員が平民だからね」
縛られた状態でもなんとか逃げようともがく男。そんな男を嘲笑うようにシデンは横たわる体をポンポンと優しく叩いた。
「どうして襲われてすぐに、アンナが傷物になったって噂が流れたと思う?俺はアンナを襲うよう賊に指示した奴がいて、そいつが社交界での噂も流したんだと思うんだ」
男の口を塞ぐ布が取り払われる。シデンがにこりと笑っていた。
「君はどう思う?」
涙と鼻水と涎を流しながら、恐怖で震えたまま男が首を横に振る。男前が台無しだななんてシデンはせせら笑っていた。
「なんとか言えよう」
男の頬をぎゅっと抓るシデン。戯れなどではない、体を宙に浮かせるほどの強さだ。男はその痛さに顔を歪める。この男は生まれてこの方、痛みとほぼ無縁だったのに!
「ちが、ちがう、ぼくじゃ、ない。ぼくは指示なんて、してない!」
「ほんとー?」
「本当だ!」
「ところで話は変わるんだけど、フィオナ嬢って知ってる?」
こてんと首を傾げるシデンに男の顔が歪む。知っているも何も、男の婚約者だ。巨万の富を築いた家の、魅惑的な肢体をもつ娘。甘える姿が可愛らしくて、男を一番に愛していると囁いてくれる女。彼女と結婚するにはアンナとの婚約が邪魔だと常々思っていたのだ。
シデンはにこりと笑う。
「彼が勝手に仕組んだことで自分は何もしていない。だから見逃して。助けてくれるなら一夜を共にしていいから。そう言われちゃった」
男は目の前が真っ暗になるのを感じた。
男の様子を見ながら、シデンはニコニコ笑って何かを取り出す。そしてドンッという音とともにソレを突き立てた。男の鼻スレスレで鈍色に光るのはナイフだった。
「おまえ、自分達が何をしたか解ってんのか?アンナの被害だけじゃない、おまえの浅はかな行動のせいで、貴族女性の殆どが怖くて外に出られなくなってんだ。夜だけじゃない、昼もだ」
先程までの優しげな態度とはまるで違う、鬼のような顔。
刃先が少しずつ倒されて、男の鼻に近づいていく。そのままいけば鼻が削ぎ落とされそうで、男は恐怖で涙を流した。シデンはそんなもの歯牙にもかけないが。
「親は娘を、夫は妻を、兄弟は姉妹を、子は母を、時には友達同士が。誰もが大事な人が無事であるよう祈ってんだ。その原因を作った自覚はあるかっつってんだよ!!!!」
シデンの足が勢いよく降ろされる。男の足の間に落とされたソレは、真下にあった木の床を踏み抜いた。男はその足がほんの少しでもズレていたら自分はどうなっていたか想像し、恐怖に震える。
「ご、ごめんな、さ」
ペッとシデンは唾を吐き捨てた。
「安心しろよ。俺がおまえらに何かをする事はないから」
「あ、え、じゃあ」
「だけど陛下とアンナの両親が許すかな?」
突如として現れた者たちに担ぎ上げられて男はどこかに連れ去られていった。きっと今頃、女も運ばれていることだろう。行き先はどこかの鉱山あたりだろうが、シデンにはもう関係ないことだった。
「さーて、明日はアンナにお土産買って送ろっと」
シデンが部屋でくつろいでいると、アンナからの手紙があった。それにざっと目を通したシデンはその場でビョンと飛び跳ねる。
「おめでた!?」
手紙には“今から名前に困っております。シルヴィアかシャーロットかシシーか”と書かれており、それだけは絶対に止めてと返事しといた。
シデンはうきうきで王都を回り、アンナに似合いそうなドレスを購入して領地に戻った。
お土産がマタニティドレスだったので「いくらなんでも気が早すぎます」と全員から呆れられてしまったシデン。まだ着ないというので刺繍を刺したところ、今度は豪華すぎると怒られてしまった。そういうアンナの横顔は楽しそうだったが。
アンナが身籠って半年ほど。王都の女性達も落ち着きを取り戻し、外に出られるようになったという知らせが届いた。それを見てシデンは満足げに頷く。
「やっぱり、笑って暮らせるのが一番幸せだと思うんだよね」
今日もシデンはアンナを笑わせている。もう二度と怖い思いをしなくていいと教えるように。
“虐げられ令嬢、知識チートな陰キャと結婚する”のシデンと同一人物です。