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革命前夜  作者: 紫子
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1923年、初夏の事 (5)

 芳子の前方を、北条と山家の馬が軽々飛ばして行く。深い木立を抜けると既に雲は去っており、草原が青々と広がっていた。後を追う芳子の馬は、軽くなった背に逸る歓びを抑え切れぬという様子でどんどん前に出ようとしたが、芳子は手綱を引いて抗った。蝶を乗せる役目を奪われて腹が立っていた。

 野っ原から再び森に入ると、木々の隙間を縫うごく細い道は、馬が一頭ようやく進める幅だった。傾斜がないので、三騎はそのまま分け入った。それほど進まないうちに、目の前が急に眩しく白んだ。

 泉があった。水は恐ろしい程に澄んでいる。何処より絶えず湧き出て、淀みとどまるところを知らぬ。余りにも透明で空の色さえ映さず、光という光を全て含み、水面が淵からなみなみと溢れて見える。そこに点々と葉を浮かべ、茎を伸ばして立ち上がった川骨の花は、無の世界で最初に生まれた色のように、はっとする鮮やかな黄色だった。

 馬は、そこを取り囲む桂の幹に手綱を結んでおいた。北条は恭しく蝶の手を取り、先を歩いて行く。蝶は、菱がちらほら白い花を咲かせるのを踏み付けにしないよう、袴の裾を持ち上げて、足袋との間に足首を覗かせていた。湿った土塊が跳ね、白い素肌に幾つも汚れを付けた。

「美しいわね」

 水際まで至り、蝶は胸を反らせて大きく息を吸った。天に向けて腕を伸ばすと袖が肩まで落ちた。何気ない行動でも、そこに常と異なる者たちが同行していると思うと、気が気ではなかった。

 蝶は、こんな芳子の心中を知るべくもない。

「こんな場所があるなんて知らなかったわ」

「当然でしょう、軍の演習場が近い。貴女のような可憐なお嬢さんには縁遠い、荒々しいところですよ」

 北条は無防備な少女を見遣った。

「でも、私はいつも芳子と馬に乗っています。馬の汗だって拭ってやることもあります。兵隊さんと同じですわ」

「それならば、俺の早駆けにも目を回さず、掴まっていられますか?」

「あら、芳子の馬はとても速くてよ」

 蝶は歩み寄った芳子の方にちらと笑みを向けた。その隙に、懐から出したハンケチーフを水に浸し、蝶の足首を拭ってやる。

「ありがとう」

 優雅に、しかしくすぐったそうに、彼女は内股になる。最後に下駄に付着した泥を払ってやり、芳子は立ち上がった。

「まるで主従だな」

 山家は口を開いたかと思うと、嘲るように言った。

「友です」

 芳子はややあって答えた。

「私が世話焼きなだけです」

「そんなの拭いてやるのは、馬か主人だけだ」

 しかし、依然として山家は否定的だった。

「俺ならば、跪いて北条の靴を磨こうとすら思わない。だから不思議だ。それも、貴女のような者が」

 彼らはとっくに、知っていたのだった。隠し立てするつもりは一切なかったが、指摘されるとどうも居心地が悪かった。

 芳子は、自分が誇り高い質だと思っている。何者にも膝を折りたくない。こんな可愛げのない子だから、養父に些細なことで叱責されてばかりいるのだろうが。妹の廉子を見ていると、素直でいじらしく、誰にでも可愛がられるわけがよく分かる。それを羨む一方で、同じにはできないという思いが、胸の底にずっとある。だから芳子は、優しい姉とは言い難い。

 そんなだから当然、蝶に対して卑屈なまでに従順な自分自身には、つくづく不思議だと思う。

 芳子が答えずにいるのを、山家は、尋ねておきながらも特に気にする風ではなかった。

 芳子は無言で泉を眺めた。それほど広い場所ではないので、嫌でも、まるで恋人のような二人が視界に入ってきた。

 不意に、北条が手近にある川骨の花に手を伸ばした。

「欲しくないわ」

 蝶は朗らかに言った。

「手折ってしまっては、全く意味がないの。どれか一つを手にしたとて、この美しさを手に入れたことには到底ならないのよ」

 芳子は、自ずと頬に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。

「私、水辺が好きですわ。この世のあらゆるものが巡っているのが、一目で分かるようで。空があり、土があって水があって、岩や草花も。何一つ、歩みを止めずに、時に従って粛々と生きているわ。争うことも知らない、私もこうありたいの」

 嗚呼、だからだと思った。蝶のこういうところを、絶対に真似できないと思うのだ。彼女は弥勒菩薩の化身なのだと言われても、疑いより先にやはり、と受け入れてしまえるだろう。奔放であることすら好ましく思えるのは、それが人智を超えたものの性だと流せてしまうからだ。

 芳子は山家をちらと見遣った。相手はそれに気が付いたが、こちらの言いたいことはまるで察せないようだった。

 北条は素直に水面から手を引くと、蝶の言葉に感服したかのように言った。

「まことに、貴女は花のようなお嬢さんですよ。貴女はずっとこのままで、清らかに暮らして行くでしょう」

「清らかに?」

 何やら含みのある問いかけに聞こえた。しかし、彼女はそれ以上のことを口にしなかった。だから芳子は、すぐに疑りを打ち捨てた。蝶は、この泉の精なのだ。絶えず未来永劫、新しく清らかのままだ。彼女はそれを望んでいるのだから。

「ええ、そのように」

 そう答えた北条の声を、もはや芳子は気にしなかった。

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