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革命前夜  作者: 紫子
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1923年、初夏の事 (3)

しばらく言葉を交わすことなく、二人は風の音を聴きながらひた走った。そうこうしているうちに、始業の刻限が迫っていたのだ。

 蝶を校門まで送り届けるという、一日の重要な役目を果たして、芳子の時間は何気なく過ぎ去っていくはずだった。しかし今日の蝶は、あと一つ角を曲がれば校門が見えるというところまで来た時、後ろから芳子の着物の袖を引き、耳元で囁いた。

「芳子、エスケープだわ」

 突如として思いついたかのように、彼女は悪戯っぽく笑った。

「え?」

「私、今日は学校へは参りません。エスケープします」

 全く状況を呑み込めない芳子は、少々ぎくしゃくしながら、言われるままに進行方向を変えた。街道から完全にはずれ、田園風景を過ぎて、鬱蒼とした森が広がる方へと、蝶は行きたがった。その先は、道が続いているかも分かたぬ、山奥へのなだらかな上り坂になっており、昼間でも光の届かぬほどに思えた。

 芳子は、普段野山を駆けるのを好んでいたが、それも、人里から離れ過ぎぬ辺り……展望の利く小高い丘の上や、誰かが蒔いた種から始まった虞美人の花畑、山道が途切れる場所にある泉までしか足を運んだことがなかった。

 しかし今日に限って、蝶はどこまでも真っ直ぐに馬を走らせるよう命じた。その方が、最も遠くまで行けるような気がしているのか、彼女は逸る心の赴くまま、衝動を抑えようとはしなかった。芳子もまた、時間を経る毎に、蝶の楽しそうな笑い声のおかげで、だんだんと怖いもの知らずのような気がしてきたが、それでも、里の外れの道祖神がすぐそこに迫ったところで、ふと先ほどまでの興が冷め、おずおずと蝶を振り返った。

「蝶、このまま行くとカミマエの森だけど……」

 道祖神の前に留まり、伺いを立てる芳子を、蝶は呆れた様子で見つめ返した。

「芳子、貴女らしくないわ。何を怖がっているの?」

「何をって……」

 人が踏み入れるべきではない領域というのは、何となく肌に感じるものだ。特に日本人は、自然崇拝の歴史が色濃く、八百万の神と呼んで様々なものに宿る多くの神を崇めている。神とは目に見えぬもの、軽々しく人の目で見てはいけないもの。幼少から人生の大半を日本で過ごしたため、本来異なった価値観を持ち合わせた芳子にすら、信仰の形は感覚として刷り込まれていたし、肌がざわつくような、ここより先へは入らぬ方が良いといった直観は、誰に教えられずとも、生まれながらに本能が知っていた。

「――ここから先は私たちの行くところではないわ」

 子供の肝試しのつもりでいるような蝶に、芳子は言葉を選びながら告げた。すぐそこに佇む苔むした岩の石像が、こちらに聞き耳を立てているような気がしてならなかった。意識すればするほど感覚が研ぎ澄まされて、肌がぴりりとするようだった。

「人里はここまでだわ、私、相手が人でないならば、絶対に貴女を守り切ると言えないもの」

「そう」

 蝶は、憑き物が落ちたかのように息をついた。

「少し、滅多にない冒険をしてみたかったのよ」

「冒険?」

「ええ」

 先ほどまでの無邪気さは立ち消え、急に大人びたような顔つきになって、蝶は道祖神の背後に続く木立の奥を見つめていた。

「時々思うの、世界は一つじゃなくてよ。私たちの時の他に、目に見えぬ世界が存在していて、近付いては離れて……重なり合ったり、引かれ合ったりしながら、どこかで知らぬうちに回っているの」

 不思議なことを考えるものだ、と芳子は蝶の語る言葉にやや驚きながらも、彼女を理解しようと努めた。――今日の蝶は、いつもとは何かが違う。そうは感じながらも、彼女の中にどんな変化があったのか、ちっとも覚束なかった。そのことを問うてみようと思った矢先、芳子は蝶に先手を打たれてしまった。

「でも芳子、もし何かがあっても、逃げおおせるなんて考えずに、貴女は私より速く走れば良いだけだわ」

「どういう意味?」

 蝶はそれ以上何も言わず、芳子の方を見やって笑みを浮かべた。そうやってはぐらかすのは、いつもの彼女と何ら変わりがなかった。

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