第1話
辺境伯領のアルヴィナ伯邸。
コーネル王国の片隅で、本国どころか周辺諸国の未来をも左右するかもしれない婚約が結ばれようとしていた。
アレクサンダー=クライツ、そしてニナ=アルヴィナ。
ともにまだ七歳。
年齢が年齢なので少し気が早いのではと思われたが、歳周り・家格・政治的バランスなどあらゆる部分においてこれ以上ない組み合わせであることも皆が認めるところであり。
他から横やりが入る前に……という判断もあって、クライツ家から申し込まれた縁談だった。
当代国王からの『良縁である。これが為されば大変喜ばしく、心強く思う』との言葉も引っ提げて。
容姿的にも二人は大変釣り合いが取れていた。
アレクサンダーは王国始まって以来の美姫と呼ばれ、今なおその美貌を衰えさせることないクライツ侯爵夫人の血を色濃く継ぐ少年。
柔らかで甘い顔は将来と言わず今この年齢であっても世の女性を魅了するほど。
母譲りのアイスブルーの瞳は、コーネル王国において高貴さの象徴。
この年齢ですでに父侯爵から『貴族たるものの心得』を学んでいるため、こうした場では理知的でキリリとした表情も見せる。
それがアクセントとなり、美少年ぶりをより一層際立たせていた。
一方のニナも異国の王族の血が混じるアルヴィナ辺境伯家特有の、目鼻立ちがはっきりした顔立ちをしていた。
家の方針として社交の場に出ていない為、不慣れもあってこの場では緊張の澄まし顔。
やや冷たい印象を与えているだろうが、いざそれが綻べば一気に場を取り込む天性の微笑みを持つことを家人たちは知っていた。
ただ辺境伯ローランド=アルヴィナはこの話を持ち掛けられたとき、一も二もなく断るつもりでいた。
実際、ニナをこの部屋に呼び寄せるまでその意思は固かった。
基本的に辺境領は中央に口出しせずの精神でやってきたのだ。
政治の舞台とは常に一定の距離を置きながら領政を行う日々。
何かと不安定な国境と面していることを除けば、アルヴィナ領は独自の文化と高い民度誇るローランド自慢の地だ。
何よりそれらを担保する、安定した生活得られる恵まれた風土を持つ。
そもそもアルヴィナ家は他家と違い、領地不入権を初めとした数々の特別権限を持っていた。
それがかつてのアルヴィナ王国の編入条件。
アルヴィナにおけるこの縁談のメリットといえば、せいぜい王家と有力貴族クライツ家との太いパイプが持つことが出来るという程度のもの。
もしものときの援軍や不慮の災害にあたっての援助の速さと量を考えれば、『無いよりあった方がいい』という類でしかなかった。
領地のことを考えればそこまで悪い縁談ではないな、と。
(それでも――)
『――ニナを私の分まで長生きさせてください』
いまだローランドの頭には、ニナを産んで間もなく亡くなった妻ラウラの言葉が響いていた。
友好国ハーミルの令嬢でもあったラウラ。
生まれつき身体が弱く、それほど自身に残された時間が長くないことも理解していた。
先妻を流行り病で亡くしており、もう結婚はしないと公言していたローランドに対して、堂々そのことを告白した上で、彼の数度にわたる拒否も無視して屋敷に押しかけるラウラ。
ついに根負けしたローランドと結婚。
そして生きた証を遺す為、なけなしの生命を削って出産。
そんな生き急いだ彼女が最期に告げた望みがそれだった。
『別に幸せにしてあげる必要なんてないわ。どうせ勝手に幸せになるでしょうし。……この私のように、ね?』とも。
最後の力を振り絞り、渾身の笑顔でその言葉を遺した彼女は十九歳というあまりに短過ぎる生を終えた。
ローランドと息子二人は悲しみに暮れながらもラウラの願いをしっかりと受け止め、とにかくニナを健康に育てると決めた。
令嬢としての教育もそこそこに、兄や家人と一緒に野山を駆け回る日々。
そんな風に野性味たっぷりで育てた彼女を、よりによって中央社交界に主戦場を持つクライツ侯爵家に出すというのは誰の目にも無謀と映った。
ローランドはニナをいつまでも安全な手元に置くつもりでいた。
その年齢になっても王都の学舎に通わせず家庭教師で済ませ、時期を見て『コイツしかいない!』と決めた優秀な部下に預けようと。
今回の縁談は夫人から飛び出した話だと聞いていた。
彼女が国王陛下に詰め寄り、例の『言葉』をもぎ取ったのだと。
ローランドは最初の挨拶以降、笑顔のまま無言を貫くネリー侯爵夫人をチラリと盗み見た。
亡き妻と学舎時代に『それなりの繋がり』があった……らしい。
苦笑交じりに彼女との思い出話を聞かせてくれたことを覚えている。
令嬢という生き物に対する幻想を打ち砕くような応酬エピソードの数々ではあったが、不思議とその語り口からは夫人に対する信頼だったり気安さめいたものが読み取れた。
そのことが頭にあったので妻が『ついに……』という頃、知らせることにしたのだ。
(……だが、当の夫人は病床の彼女の手を取りに現れることもなければ、葬儀に顔を出すこともなかった)
目の前のアレクサンダー少年を産んだ直後というのもあっただろう。
ここ辺境伯領は彼女が静養していたクライツ侯爵領と随分距離がある。
周囲の者たちが『高貴な彼女』にもしものことがあればと判断したのかもしれない。
だがローランドは『そもそもそこまで親しくはなかったのだ』と、そう思うことにしてそれ以来夫人のことは忘れることにした。
それなのに、今になって。
思い出したかのようにこの縁談を持ち込んできた。
もちろんクライツ侯爵家にも政治的な恩恵がある。
だから侯爵も夫人の意向に乗ることにしたのだろう。
かつての王族であるアルヴィナ家には、地域特有の複雑な政治事情に端を発する数々の同盟の影響もあいまって、古今東西大小様々な王家の血が流れていた。
ローランドの亡き妻ラウラも、その身にハーミル王家の血を色濃く宿した公爵令嬢。
そんな稀有な血の結晶たるニナが次々代のクライツ侯爵の母となれば?
王妹を母に持つ次期侯爵アレクサンダーは王太子の従弟でもある。
クライツ侯爵家は国内だけでなく地域国家間安定の象徴的な存在として、今までより更に一段高いところに置かれることになるのは目に見えていた。
(――だが、それは所詮後付けの理由でしかない)
ローランドはそれを確信しており、再度夫人に目をやった。
ネリー夫人は遅れて入室したニナを見て、刹那ではあるが完璧な笑顔を崩した。
すぐに換えの仮面を張り付けて見せたが、幼少のみぎりから王国外交の一端を担ってきた彼女らしからぬ失態。
ニナが声を発するたび、身動ぎするたび、夫人の華奢で小さな白い拳が膝の上で固く握りしめられた。
娘はそこまで亡き妻に似ていないとローランドは思っていた。
最高の造形美を誇ったラウラは喩えるならば王宮の庭園に咲き誇る花の美しさ。
ニナは逞しく野に咲く花の可憐さだ。
強いて似ている部分を挙げるとすれば瞳。
亡き妻は身体の弱さと対照的に、実に活力に満ちた瞳をしていた。
好奇心に溢れ、ときにローランドをも圧倒する覇気を持ち、それでいて周囲を魅了する慈愛で輝いていた。
(――そして、その瞳こそが……)
夫人にとって特別だったのだろう。
辺境のこの地に赴いてでも自分の目で確認したかったのだろう。
そしてそれと再会したことで、夫人の心は激しく揺さぶられたのだろう。
生粋の武人であるローランドは、きちんと彼女の心の動きを察することができた。
権謀術数に長けた侯爵――ギュンター=クライツも我の妻のことだから当然それに気付いたことだろう。
(……夫人の激しい『後悔』と『決意』に)
若かった彼女たちに何があったのか詳しくは知らない。
だけど夫人の一瞬だけ見せた顔は、ローランドの心を強く揺り動かした。
王妹ネリーでもなく。
侯爵夫人ネリーでもなく。
ラウラの友人ネリーという、あらゆる仮面を取っ払った先にあった彼女の素顔を見て!
(ニナを夫人に託そう。……きっとラウラもそれを望んでいる!)
武人ローランドは即断した。
こうしてあとは本人たちの意思確認を済ませれば、めでたく婚約成立……と相成った訳だが――。
当事者たるアレクサンダーとニナは目を合わせ、瞬時に同じことを思った。
『……コイツだけには絶対に負けられない』と。
確かに顔はそこそこ好みだと、渋々ながらも認めてやろう。
知性・家柄・価値観など全ての部分において、こうも自分に見合う人間がいたものだと、感動すら覚えたことも百歩……いや千歩譲って認めてやらない訳でもない。
それでも。
……いや、だからこそ!
二人は慎重に言葉を交わし、その反応を注視し、抱いた直感を確信へと変化させていく。
何より、今、自身の胸の奥底で芽生え始めたこの感情。
これに心を委ねてしまったら最後。
人生において負けが決まるという危機感とともに。
この胸に沸き上がった感情を何と呼ぶのか、いまだ幼い二人は知らなかった。
それでも心の中で暴れまくるソレに飲み込まれれば瞬間、とんでもないことになるということだけは本能で理解していた。
だからその想いを僅かたりとも相手に悟られないよう、悲壮感を持って抑えつける。
二人は平静を装い、お互いの保護者が見守る中、笑顔で視線を交わす。
それだけで通じる。
……通じてしまう。
…………通じてしまった。
こんなことは生まれて初めてだった。
なんて似た者同士なのだと二人してうんざりした。
(――この状況を見るに、婚約は避けられそうにないね?)
アレクサンダーは年頃の令嬢だけでなく大人たちをもとろけさせる微笑みを見せた。
(えぇ、残念ながら)
対するニナは少しだけ目を伏せる。
照れているような、初々しい少女の顔で。
(かくなる上は時機を見て婚約破棄……かな?)
首を少し傾げる少年のあまりの愛くるしさに、壁際で控えていた侍女たちが胸を押さえる。
(…………えぇ。そうですわね!)
ニナは頷き、今日イチの笑顔で応じた。
今まで家の者たちにしか見せてこなかった綻ぶ笑顔を、初対面の少年に見せたことに父ローランドは驚きを隠せない。
その余波をモロに喰らったのは、同じく控えていたクライツ侯爵家の屈強な護衛たちだ。
ニナの笑顔に慣れていない彼らは、自分に幼女性愛癖があったのかと激しい自己嫌悪に陥る。
(当然キミの有責で、だよね?)
今度はアレクサンダーが恥ずかし気に目を伏せた。
(なんと! 都会では耳の穴から甘いホイップクリームをこれでもかと詰め込むのが流行っていたのですね!?)
ニナはここにきて隠すこともないだろうと、被ってきたネコを取っ払って本領発揮する。
(甘ったるい顔とそれに負けない甘ったるい見通し! ……なるほどなるほど。ようやく納得致しましたわ。……私、なにぶん田舎者ですので、その甘さで少々……胸に熱いモノが――)
彼女の目が細められた。
聖女もかくやと思われる慈愛溢れる微笑みは、鉄面皮で知られるギュンターをも簡単に動揺させる。
(……あはは、それがキミの本当の姿なんだね?)
(……うふふ、それがどうか致しましたか?)
セカイをも魅了するだろう笑みを浮かべて見つめあう二人。
両者の父たちは顔を見合せて頷き、今日が歴史的一日であるとの気持ちを確かめた。
運命の恋人たちが巡り合った奇跡に立ち会うことになった者たちも、生涯この光景を語り続けたという。
(いざ尋常に――)
(――勝負!)
こうして二人は人生を懸けた戦いに身を投じることとなった。