九 神託
トルジュというよりは、むしろジェイクの印象が悪化してしまっていたにもかかわらず彼はトルジュの怪我の原因を黙っていた。
その胸中は推して知る術などなく、トルジュが何度か彼の家に話をしに向かったのだが「会いたくない」の一点ばりであった。
「どうしてジェイクは、そんなふうなのかしら?」
「さあ、な。ま、時間が解決してくれる何かにも期待するとしよう」
そのように話し合う父母をミヤナはただ見つめていた。こういったややこしい話になると、子どもであるミヤナの心とおとなである望月の精神が衝突してしまい、普通の子ども以上に思考がまとまらなくなってしまっていた。
しかしそこで、しばらくミヤナはウサとの稽古をすっぽかしていたことを思い出した。
父はまだ働けはしないまでも元気を取り戻したことだしと、ひとまずは剣術に集中して自らも元気を出していこうと誓うミヤナなのだった。
「ウサちゃん。こんにちは!」
「あら珍しい。ミヤナちゃんからウチに来るなんて」
ウサの母スケースがミヤナを迎えた。
ミヤナたちの家と同じように、縁側は無防備で雨が酷く降る日でもなければ誰でも訪ねることが出来るようになっていた。
「ミヤナ。けっとうできるの?」
「そうだよ。ウサ、行ける?」
「もっちろん!」
申し訳程度にしつける言葉を言うスケースではあったが、娘に友だちが出来ただけでもすっかり嬉しい様子だった。
ミヤナたち二人はいつもの広場に向かっていった。広場はミヤナが来る方角からはウサの住む家を越えた先にあった。
そのため、いつも別れ際に先に家に帰るのは決まってウサであったのだが、それはつまりウサがわざわざ歩いてでもミヤナを迎えに来ていたということでもあった。
「よし、かまえるよ」
「おう。ミヤナ・セーロス、勝負に預かる!」
「ウサ・カラトッド、まいる!」
剣の稽古はそれなりに様になってきたが、普段の練習量から違っているのだろう。
「はっ」
「うわ。ミヤナ、やる~」
ウサの隙を少しは見つけられるのは、やはり子どもゆえに分かりやすい隙があるとミヤナが見つけたからだ。
たとえば木刀の振り終わりが何十回に一回は必ず隙だらけになることを彼女はウサから見抜いていた。
しかし、である。
「せい~、やあ。はっ、たあ、とうとうさあ!」
望月は学生時代に何度か剣道の試合を見たことがある。しかしうろ覚えながら、元いた世界のそれとは何かが違うとミヤナは感じていた。
もちろん、防具などないゆえの寸止め試合である点は明らかな違いだからミヤナでも分かっていた。
「ふう、……はっ」
疲れを知られないように密かに息を殺しつつ様子を伺うまでするようになったのは、ウサの影響だ。
ウサは日頃から並々ならぬ研鑽によって、息がちょっと上がる程度なら甘えだと知っていた。よってぜえぜえ言っていると逆にどんどん打ち込んでくる所があったのだ。
「やあやあやあ、しぇい!」
先ほどから気になっていた謎が少しだけ分かったようにミヤナは思えた。
そして実際に剣道と違う点はウサ考案の稽古に存在した。それはまず、残心を設けないことだった。
剣道の試合ならば通常、せいぜい三度ほどの打突を続けざまに入れたら自身の体を相手胴体の向こう側まで進め、相手に向き直り構えるという一連の流れをしないと有効な攻めにそもそもなりにくい。
これはそれなりに剣道をしているなどしていないと知らない地味ながらも慣習であり、ミヤナはそこまでは知らなかった。
けれどもやけにウサがずっと視界にいる、とは感じていた。なんとなく無意識にではあれど剣道の不文律をミヤナは望月として、見て学んでいたのだ。
(となると……。そうだ!)
すかさず腕に一撃、額に一撃入れて、有効でなくてもミヤナは体を進めた。そして振り返り、相手が用意するわずかな隙を突いてまたしても額に一撃。
残心。次に相手がどう出ようと負けない心身が一致した構えには確かに意味がある。そのことをミヤナは素人ながらも示したのだ。
「うわ、やるじゃない」
「……まあね」
ミヤナは得意気に鼻をふんと鳴らしてみせようとしたが失敗し、くしゃみになってしまった。
「かぜひいたの?」
「噂をされたの」
「えっ」
「な、なんでもないよ」
たまにこんな、いかにも少女らしい会話になるのが面映ゆいミヤナだった。だがウサはそうした点には無頓着で、だからこそミヤナは却ってそれがウサの愛嬌となっており気に入っていた。
一方、素人なりのミヤナの残心を一度見たウサの学習能力は凄まじかった。つまり彼女へのミヤナなりの残心は二度も通じなかったのだ。
「やあやあ、とうー。えい、そこだ!」
ウサは瞬時に考えた自分なりの残心をも動きに取り入れてきたので、ミヤナの攻め手はもはやほとんどないのだった。
「よーし、きょうはここまでだよ」
「うん。またその内にね!」
ウサと別れミヤナは一人、帰路に着いた。
それぞれの住居はそう離れた所にない。そのため五分とかからずにミヤナはいつも帰宅することが出来たのだ。
しかしその日は違っていた。
目の前にたまたまいた、多少は見知った顔の近所に住む老人に金色の光が舞い降りてきたのだ。
「ミヤナ・セーロス。お待ちなさい」
「はっ、あなた様はやはり……《黄竜》様?」
「いかにも。時にミヤナよ、あなたは二つの魂を持っていますね」
麒麟が降臨した老人に問われ、ミヤナは答えに困った。竜は、望月美弥奈を一つの魂とするなら、ミヤナ・セーロスはそれとはまた別の魂かと聞いているのかもしれなかった。
しかしミヤナ自身、自らのその現状について何もかもが分かっているわけではなかった。第一、仮に目の前に《黄竜》がいるのだとしても、望月の存在を伝えるのが正しいことなのかミヤナには確証が持てなかった。
「分かりません」
「分からぬ、とは?」
「《黄竜》様が何をおっしゃるのか、それが分かりません」
「……ならば結構」
結局、魂について竜はそれ以上、話題に取り上げることはなかった。
しかし本当に伝えたいことは、そもそも別にあったらしく改めてミヤナに次のように語りかけた。
「ミヤナ・セーロス。あなたは真明の儀に出なくても構いません」
「そ、それは……なぜでしょうか」
「あなたはあなた自身をまだ分かっていない。あなたに託す役割が大であれ小であれ、あなたはまだそれを全うするに値しません」
「そんな」
それきり、光は消えた。
老人は老人の人格に返ったらしく、「なんじゃ、もう」と気を失っていたらしい自らに舌打ちしながら歩き始めていた。
ミヤナが受けたのは神託と言うべき竜のお告げに違いなかった。
けれども竜は彼女という人間をやはりイレギュラーとして見たのか、この世界に受け入れがたい存在と捉えたのではないか。
ひとまずミヤナ自身はそのように解釈することで、何をすべきか考えようとした。真明の儀はまだ迎えていないため、なすべきことがあるのならば時間はまだ残されているはずだった。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえりなさい。もう、今日も汗だくね」
ミヤナはしかし汗だくのまま、まず夕食を皆で囲んだ。最初こそ潔癖なケミーに言われて入浴を優先していたけれども、最近はそうした細かすぎることは気にしないというのがセーロス家のモットーとなりつつあった。
夜風が心地よい。
ミヤナはそんな快適な気分で箸を進めた。正確には西洋に近い世界のため箸ではなくナイフやフォークだったけれども、時には手で食事するなど開拓村に来てから一家の生活にはどこか野生味が増し加えられていた。
すっかり忘れそうになる《黄竜》の言葉だけは頭の片隅に置きながらも、すぐにどうこうするという答えが出せなかったミヤナ。今はただ、ウサとの稽古に集中するばかりであった。