四 家族
開拓村の、とある茅葺き屋根の家。
その家のへりに置かれた揺りかごで、まだ一歳と三ヶ月のミヤナは日向ぼっこがてら昼寝をしていた。
そしてたった今、眠りから覚めたところだった。
まず、ミヤナは一人で歩けるかを試してみた。揺りかごからは落ちると怪我が怖く、そこは母に頼み床に下ろしてもらった。
そこから、まずはハイハイをしてみた。かなり慣れたものだ。成人の精神で手足への神経伝達の具合を知覚しながらというのは奇妙な気持ちになるらしいものの、ミヤナはとりあえず這い進むことに関してはもう熟練だった。
「ミヤちゃん。ほらほら、あんよはじょうず。あんよはじょうず」
ケミーもミヤナがしたいことを察したのか、立ち上がり歩くことを赤ちゃん言葉で応援している。
それをくすぐったく思いながらも意を決したミヤナは母に向かって、まずは大袈裟に頷いてみせた。それを見て、というより細かな仕草にいちいち照れ笑いするのはこの母の常だ。
「あんにょ。あんにょだじょ!」
まだ舌足らずで「あんよ」を「あんにょ」と言ってしまうミヤナだが、ゆっくりと足を腹に近付るように折り畳み、そこからふらふらと時間は掛けながらも立ち上がった。
「あんにょだ」
よちよちと歩く自らを内なる成人の美弥奈はどこか第三者と思いたい気恥ずかしさがありながら、それでも一歩でも多く歩こうと一心不乱だ。
「よおしよし。ミヤナ、ここまでおいで。あんよはじょうず」
優しい手拍子。我が子から敢えて少し離れながらも両手を広げたりまた手拍子したりするケミーは子育てを満喫しているようだ。
その期待に答えるようにミヤナは「あんにょ」とか「ママ」とか叫びながら、少しずつ歩み寄っていった。
「あんよ、あんよ。あんよはじょうず……おっ。偉いねえ。お利口さん、お利口さん。じょうずにあんよが出来ました~」
「きゃーっ」
親子だけに許された無邪気さで互いに愛情を深め合う時間。それは何も二人だけの絆を深めるものではなかったようだ。
「あんれまあ。とっても頭が良くて可愛らしいお子さんに恵まれて、羨ましいのお。おお、どうかワシにも抱っこさせてくれんか」
「ふふ。出来るだけ優しくしてあげてくださいね」
近所の老婆だ。
最初こそ他人より冷たい素振りだったが、それは他所から来た若者たちがどんな人となりか心配で不安だったからそうしていたに過ぎなかったのだ。
「うん、うん。よ~ちよち。可愛い可愛い、誰よりも優しい女の子にな~れ。くっははは」
「あにゃあ。あに、あに」
ふにふにと謎の言葉を話すミヤナに、しつけのつもりでケミーはこう促した。
「ミヤナ。こんにちはって挨拶をなさい」
「まだ無理かろうに。一歳だかじゃろ?」
老婆に賛同するかのようにミヤナは「あんぎゃああ」と老婆の腕から母に向かって唸ってみせたが、それは甘えのつもりでわざとだった。
「ほほ、元気なのが何より。このまま育てば賢くて優しい娘に育つじゃろうて」
「う、うふふ。そうだと良いのですけどね」
朗らかに接してくれるようになった住人たちが増えてきて、それに却って慣れていないケミーは緊張しながらそのように受け答えするのだった。
「くぅーん」
「おお、ポチくんか。よしよし、川で取れた魚で良いかの?」
ベルという名前は犬にしては珍しい。更に年配が多いこともあり、あまり名前を覚えてもらえないベルはポチとかタロとか好きな名前で呼ばれることがよくあった。
白身の川魚を炭火でよく焼いたものを老婆に与えられ、ベルはがつがつと食べた。
ミヤナより早く生まれたベルは、今年で二歳になる。つまり既に成犬だった。
「わうーーーーーーーーぅ」
「こ、こら。嬉しいからってご近所に迷惑よ」
急いでベルをたしなめたのはケミーだ。遠吠えだけは好かないと老婆にも睨まれたが、ベルは尻尾をはためかせ、何も気にしないようだった。
ところで日本では生類憐れみの令をもってしても広まらなかったドッグフードのような動物用食品は、開拓村にはなかった。
よって町での生活よりは食に関して不自由なベルだったが、まだ幼いミヤナと違い既に成犬なのでもうそんなに手間が掛からず、それがセーロス家が生活していく上での心配事を図らずも少なくしているのだった。
「ただいま。お前たち」
「あなた。お帰りなさい!」
挨拶回りから帰ってきたトルジュをケミーは熱く抱き締めた。そして受け止めたトルジュはそのまま自らを軸にしてくるくると時計回りに回ってみせた。
ウエスト・サイド・ストーリー。
あるいはサウンド・オブ・ミュージック。
あくまでもそんなミュージカルのような陽気さを放ちながら彼ら家族は生活していた。
「さあ、ご飯の支度をしなくっちゃ」
「手伝おうか?」
「いいえ。ミヤナを見ててちょうだいな」
「ああ、そういやそうだったな。俺の夜の仕事」
「やめなさい。人さまが聞いたら誤解する」
「へい、へいっと」
こんな調子の会話はいつものことだ。
あくまで陽気に、あくまで前向きに。まるでそんな信念こそが生きる糧に絶対になるという法則を見つけたかのように彼らは何事にも挫けることを知らなかった。
そして、それは愛娘ミヤナや愛犬ベルのおかげだった。かけがえのない家族こそが彼らの最大の宝。もちろんいつでも気丈なジェイクや、そんなジェイクがくれた木彫り王国の人形たちもトルジュたちに大きな勇気や元気を与えてくれていた。
「ミヤ、これ食べる!」
「うん。ニンジンスープ、上手にむしゃむしゃ出来るかな?」
ミヤナはケミーに断ってからスープに手を付け出した。ミヤナの今日の献立は80グラムほどのパンがゆと、ニンジンや大根が少しずつ入ったスープだ。
パン、ニンジン、そして大根。我々が暮らす現実世界とこのように同様の食材もあれば、マンドラゴラのように非現実でしかお目にかからない食材もあった。
そしてそれらは我々が生きる世界と同様のそれらであることをミヤナは自ら食事することで確認した。
脳そのものはまだまだ幼稚なため上手に咀嚼出来ないでむせてしまうこともあった。しかしそのたびにトルジュやケミーが少々オーバーなほどに背中をさすったり、意味なく頭を撫で回したりしたのだった。
「ようし、今日も残さず食べたな。それじゃ、ごちそうさまでした!」
「ちょうさま、でった!」
ごちそうさまが言えないは演技でなく、幼さのためミヤナには発音することが出来ないのだった。
ミヤナには、ある種のもどかしさがあった。
望月美弥奈の精神があることを彼女は言葉がまだ文として話せないことも手伝って誰にも話せていなかったのだ。
(このまま、仮にこの世界で私がミヤナ・セーロスとして竜界の巫女になるとする。だけど、もしそうならば元のこの私がいた世界はどうなっていく?)
小説の世界にいるイレギュラー。
本来ならセーロス家で生まれるはずのないミヤナという少女は、果たしてこのままドラゴナンドで巫女になる未来を歩めるかさえ不確定と感じていた。
すなわちイレギュラーであるミヤナがいる時点で厳密に言えばもう、ドラゴナンドは小説の世界のドラゴナンドそのものではない可能性があるのだった。
もし小説の世界が書き換わってしまっているとしたら、ややもするとミヤナが望月として生きていた現実世界に何か未知の影響を与えてしまうのではないかという不安さえ彼女にはあった。
しかし一方で現実と小説が連関しているのかなどということは、小説の書き手であったミヤナにすら分からなかった。
増して円環の理とでも名付けるべきであろうそんな因果の巡りは、どんな行く末にセーロス家やミヤナが向かうのかなど誰にも示してはくれなかったのだ。
(今日はもう寝よう。明日から何もかも見つけていこう)
ミヤナはそっと両目を閉じた。幼い身体は安らかな夢世界に微睡んでいくのだった。