三五 祈祷(完)
誰かが花を摘んでいた。
「リュウキなの?」
花を摘む誰かは、ミヤナの言葉に応えない。
その誰かはただ、花を摘んでいた。
「私よ、ミヤナ・セーロスよ。忘れてしまったの?」
花を摘む誰かは、ミヤナの言葉に応えない。
その誰かはただ、花を摘んでいた。
「しょうがないじゃない。あなたも私も、頑張ってみたけど死んじゃった。そんなの、しょうがないじゃない」
花を摘む誰かは、ミヤナの言葉に応えない。
その誰かはただ、花を摘んでいた。
「《黄竜》麒麟。こちらを向きなさい。さあ、《巫女》の名において命じましたよ」
花を摘む誰かは、よく見ると花を摘んでいるのではなかった。
花を摘んでよいものか分からないらしく、美しい花を摘みたいと手を伸ばしながらも何も出来ないでいるようだった。
「全くもう。好きになさい」
ミヤナは花畑に寝転がった。
どこまでも花畑なので、少しくらいは花がダメになっても構わないだろうとミヤナは誰にでもなく甘えたのだ。
「ねえ、リュウキ。やっぱり私……」
顔だけを持ち上げて、花を摘む誰かにミヤナはそう声を掛けた。
しかしそれは途中までしか上手く行かなかった。その誰かは気付けばミヤナのすぐそばにまで来て、ようやく摘んだ一輪の花をそっとミヤナに差し出したからだ。
ミヤナが顔を上げるのと同時だったものだから、花びらが彼女の鼻先に当たった。
「くすぐったいよ。でも、ありがと……あれ?」
ミヤナは立ち上がり、辺りをぐるりと見渡した。
もうどこにも誰もいなかった。
ただ、そっと左手に誰かが持たせてくれた一輪の花が畑の花と共に、永久の夕空の下で風に揺られていた。
――
――――――
ストック。
花言葉は「見つめる未来」。
望月 美弥奈が起き抜けに左手に握っていた、花の名前だ。
「酔っぱらってたっけ。なんで花なんて」
そんなことよりと目覚まし時計を見る。
時計はまだ5時だ。いつになく余裕の起床にほっと望月は胸を撫で下ろした。
「ふう。たまには散歩でもするかな」
二階建てアパートの二階にある自室。
そのドアをそっと望月は開けた。なにせまだ5時なので、近所迷惑だと思ったからだ。
「こういう時、先生という仕事は良いわあ。ジャージ、絶対に持つ羽目になるしね」
階段を下り、玄関口の辺りで望月は軽くストレッチを始めた。
気が変わって、ジョギングすることにしたのだ。
「あれ、あの子は……」
「せっ、先生ェ?」
近所迷惑も辞さないほどすっとんきょうに叫んだその女性は、よく見ればかつての教え子の面影を残していた。
もっとも当時の望月は副担任だったが、どちらかと言えばその生徒は副担任であっても望月に懐いていた。
「はあ、全く。最近の若者は何を考えてるの?」
「いつも、本ッ当に、父や母が申し訳ございませぬ」
話し合いのため、望月は早朝で少ない人通りが更に少なそうな小路に彼女を呼び込んだ。
望月は「ません」ではなく「ませぬ」なのが引っ掛かったものの、かけらばかりの誠意でも今は大目に見ることにした。
「一度きりの人生でしょ。そりゃ、先生は先生してられる間も、いつか先生辞めたってずうっとあなたの味方よ。だけど先生、この体ひとつしかない。分かるよね?」
「はっひぃ完ぺこりん把握しているです」
やはり前言撤回して「今どきの若者は破滅に向かっている」としなければならないかもしれない、と望月は彼女への評価を改めた。
「入れ墨なんてもってのほか。ねえ、まさかとは思うけど刑務所に入ったことある?」
「当たり前じゃないですかあ」
「あ、当たり前ですって?」
今度ばかりは望月がすっとんきょうな声で叫ぶ羽目になった。
最近の若者は心も頭もどこかで一周ほど回り、悪事の限りを尽くすのが人間らしいと吹聴しているとは聞いたけれども都市伝説ではないのかもしれないと望月は危機感を強くした。
「ねえ。十年の月日を考えてみて欲しい。もしその間、今のあなたの能力でもやっていける社会からあなたに何度かチャンスが回ってきたとしても、刑務所にいたことが知られたら能力なんて関係なくなっちゃう。その意味は分かってる?」
「ああー、あー、はいはいはい。あー、まあ正解です。はいはい」
「……説明が早口だったってことかな?」
「あ、ぶっちゃけそれはガチコップです」
「ガチコップ」
流行語と若者言葉が入り乱れるこの国の未来はもしかしたら暗い、と望月はとうとう溜め息を吐いた。
「ヤバみきわみつらみ~」
「何なの?」
「ヤバみがキワみで、つらみ」
「いきなり馴れ馴れしいのも含めて、一体どうした?」
明らかに挙動がおかしいが、妙に自信だけは溢れている最近の若者に28歳独身教師は本当はそこまで強く言えないところがあった。
世間体という狭い道徳においては、もう時にはどっちもどっちというほどの厳しさは現代ならではの事実だ。
「じゃ」
「ま、待ちなさいよ!」
なぜか体力だけはしっかりあるらしく、全力で駆けていく。
けばけばしい元生徒はやがて望月の視界から完全に消え去ってしまった。
(何なの……)
望月はやはり自室に戻ることにした。
世間体と考えると、同じくらいの家賃のアパートに引っ越しを検討しようかと思いネットで物件を検索することにしたからだ。
(でも、学校にも報告するからイタ電も今日のパターンも終わる見込みゼロの可能性)
今日は不用意に接触してしまったが、と望月は冷静さを取り戻した。
刃物、あるいはスタンガン。
最近のヤバみな若者たちの標準「装備」だ。
最悪、話しかけただけで逆恨みされ、死ぬことまで予想しなければならない現代社会で生き残れるのは、もう忍者か侍くらいなのではと望月は最近、軽い鬱状態に陥っていた。
「更正させないとな」
やはりそうなのだ、と望月はようやく常識をも取り戻した。
教師たるもの、かつての教え子が道を間違えているのなら犯罪に走る前に食い止める。犯罪に走ってしまったなら、再犯しないだけの人間に鍛え直す。
世間がどこかそうした態度を逃げてしまうのなら、教職員の望月自身が率先していくことから始めていけば良いのかもしれない。少なくとも、望月はそうすべきと考えるに至ったのだ。
「はあ、やっば走るか」
今度は逃げ切られないよう、体力を向上させる。望月が見つけた人生の光だった。
スマホのブラウザを閉じ、部屋を出がてら、彼女はふとライフワークのアイテムに目をくれた。
(《黄金竜》。たとえそれは架空に過ぎなくても)
彼女の小説、『竜国の巫女』。
その中で自ら創作した強い存在に勇気を分けてもらい、再び望月はドアを開けた。
「皆さん、風が気持ちいい朝ですよ」
ひそひそと、しかしどこか誇らしげに囁いた望月は晴れやかな顔で階段を下り、ストレッチを始めた。
小鳥のさえずりこそ、平和の証だ。
どこかのんびりした現代人の思想なのは否めないけれど、だからと言ってそうした小市民が幸せになれない世界ではきっとダメなんだと望月は考えている。
「ふっふっ、はっはっ」
疲れにくい呼吸。二回吸って二回吐く。
それを心がけながら、まだ時間があるからと望月は予定していたコースより大回りすることにした。
ありふれた川沿いの道。
ありふれた商店街。
ありふれた地下道。
そのどれもが、人の手が加えられたモノ。
先人たちの叡知、愚行、成功、失敗、――その全てを内包した光景であった。
「ふっふっ、はっはっ」
なぜか、涙が溢れてきた。
望月にその理由は分からなかったけど、その涙は不快な涙ではなかった。
朝日を浴び文化を浴び、心が浄化されていく。
あるいは妄念かもしれなかったけれども、走りながら望月はあらゆる世界の平和を人知れず祈った。
以上となります。
ご愛読ありがとうございました!