三四 安堵
ミヤナは思い切って、広がりきったらしい闇に向かって手を伸ばした。
「あれ、思ったよりなんともない」
「んっんっん。闇は暴力や呪いのように言われがちでございます。確かにそれは否めない。ですが世の中には本当に心の冷たい連中が存在する。なまじ摂理を学んだために何にも参加しない、本当の意味での欠落者、――」
「……」
ミヤナは開拓村で、かつて《巫女》と知られて間もなく閉じ込められた時のことを思い出した。
村長の屋敷。鉄の扉。村長。フェリム。泣き叫ぶ村の住人たち。
「ミヤナ様、お痛わしい……んっんっん。あなた様の世界にいる今のワタクシには、昔あなた様に起きたその出来事を、まるで自分のことのように交信に似た力で共有することが出来るのです」
「どんなに良い人たちでも、思い返せばああしたことはしてしまう。だけど騎士団長がいてくれたから……」
「いてくれたからでございましょう?」
「!」
ミヤナは《黒竜》に批判されたような気がした。
自らの内にありながら、たまたま生き延びたからと忘れてしまっていたご都合主義。
酷いこと、つらいこと、悲しいことを《巫女》の使命に書き換えて光や希望にしていた。
確かにどこかで《黒竜》の言うことはもっともだとミヤナは考えていたのだ。
「んっんっん。光か闇かなど、そんなに大切にございましょうか。役に立つか立たないか、感謝されるかされないか……生きていくにはむしろ、そうした合理性こそが優先される。まあ、我を失い暴走していたワタクシが声高に言えることではないのですけどね」
「合理性。それだけとは思わないけど……」
「いいえ。人間なんて限りある命だからこそ、どこかで現金な生き物なのです。んっんっん。《巫女》であれ、役に立ちそうになく悪くない未来に案内してくれそうになければ、これからもあの村長屋敷の悲劇は繰り返されますの。これはワタクシがワタクシ自身の経験から得た神託とお受け取りくださいな」
「あなたの、神託」
「んっんっん。はい。ワタクシからの神託です」
ミヤナは望月としての記憶の片隅にある、水滸伝という荒くれ者たちの物語を思い出した。
百八の星と称され何らかの才能に秀でたそのはみ出し者たちは、一同に介することもなく、ある者は生き延びある者は命を落とすのだ。
光と闇なんて、正義と悪なんて。
それは望月美弥奈の記憶にも細々とはしていながらも確実に植え付けられているテーゼ、あるいはアンチテーゼなのだった。
「人は生きていかねばならない。感謝され続けるために打算に走る人もたくさんいる。んっんっん。ミヤナ様、仮にあなた様があと千年近くも《巫女》をすることになったなら、そんな一枚岩では決してない人間たちの社会を平和であり続けて欲しいと願えますか?」
この窮地にも心を幾らか落ち着けたミヤナは、今までよりしっかり答えるためにそこで深呼吸をした。
「私は完ぺきな人間ではありません。望月先生の人生という強みをたまたま得て今日まで生きて来れただけの、まだ生意気な人間でしかないかもしれない。でも時に挫けそうになっても世界を平和にしたい仲間たちが私をいつしか助けてくれるようになって、それから私はようやく本当の意味で《巫女》として生き始めました」
「んっんっん。エクセレント」
「安心してもらいたい。安堵を分け与えて行きたい。平和を少しでも長くもたらしていたい。……そんな私、どこかではエゴな気持ちだらけの私に厳しく生きている人生の先輩たちが時には力を貸し、時には厳しく怒り、時には共に涙してくれました」
「まるで選挙の演説ですこと」
「ちっぽけでも希望があるのは素晴らしいことです。そしてその反対に、絶望を軽々しく与える悪には断固として戦っていく意思を示さねばならない。正義とはそういうモノではありませんか」
「軽々しくてごめんなさいね。……」
そこから延々と続く《巫女》の宣言。
次々に軽く受け流す《黒竜》。
どこまでも拮抗する白と黒。
また漫然と続く《巫女》の熱弁。
そしてパキパキと茶々を入れる《黒竜》。
どこまでも拮抗する光と闇。
すると、気付けばミヤナの表情が今までになく凛々しく引き締まっているのが《黒竜》の目に飛び込んだ。
ミヤナは最終戦争の幕開けを告げることにしたのだ。
「さあ、この今に真の決着を付けさせてください」
「んっんっん。静聴に甘んじたそばからですか。頂けませんねえ」
「私の心は、私の心。そこに付け入る時点で、やはりあなたは単なる悪魔。ゲラトルヘス……観念なさい!」
ミヤナは詠唱を始めた。
その呪文はドラゴナンドのどこにも存在しない。竜が口にするどんな呪文とも一致しない。
つまり存在しない呪文をミヤナは唱えていた。
「何の真似です。んっんっん、まだ少しは楽しませてくれるんでしょうか」
存在しないはずの呪文。
それは一種の念仏だった。
悪霊退散、平和祈願の一念を無心に願って魂を込めたミヤナの呪文は、存在しないという事実を書き換えて新しい、ミヤナだけの呪文に成ろうとしていた。
「新祈即古祈。古祈即新祈。即故無。無故即。故無祈即祈。念法開徳。悪・邪・滅・退・道」
次々に印を結び、最後にパンと両手を叩くとミヤナのその両手からは尽きることのない強き光が容赦なく《黒竜》を貫いた。
「なんだとォオオオオ、く、クソ女がァアアアア」
門前の小僧、習わぬ経を覚える。
ミヤナは小僧でもなければ厳密には僧侶でもなかった。
しかしドラゴナンドではただ一人の《巫女》は、習いもしない経を生きるため、世界に調停という名の光をもたらすために今、屈託なき光の司として創造し、邪なる存在にとどめを刺していた。
「がァアアアア……ん、んっんっん。思ったよりやはり温い温いのですよォオオオオ」
受けた光を邪修練の発想で闇に変換し、そっくりそのまま《黒竜》は放ち返した。
「千祈万祈。森羅万象。天亦天。永々望亦望。人の願うは正義の光。今こそこの泰平の声、全ての安寧となりて暗黒を穿つ。エグゼキューテド・バースト・クロスライトぉーッ」
「出力が千倍以上に上がっただと、ぐ、ぐぬわァアアアア」
希望がある限り、暗黒の記憶は何度でも光で上書きされていく。
それはどこかでは独りよがりな行いなのかもしれなかったけれども、誰もが希望を失った光なき世界が素晴らしいなんて、そんなのは許せない。
ミヤナのそんな思いは《黒竜》ごと、精神世界の闇を光に書き換えていくのだった。
パァッと闇が払われ、そこには、ゲラトルヘスがいた所にはルルー・ネイがいた。
「……感謝」
「ルルー様。ルルー様……!」
ミヤナは思わずルルーに駆け寄ろうとした。
しかしその時、精神世界は大きく揺れ出した。
「……再生。闇の浸食というエラーで一時的に不安定なあなたの心はしばらく再構築の時間が必要みたい」
「ルルー様、私、私……!」
「……幻。ここにいる私はルルー・ネイではない。《黒竜》の記憶にほんの少し残っていただけの、単なる彼女の残り香」
その言葉通り、ルルーに見える者の姿は透明になり始めていた。
後少しでそんな彼女に手が届きそうなミヤナだったが、なんとなく、もう間に合いそうにないという事を分かりかけてもいた。
「……感謝。あなたの光はルルー・ネイの無念を救済した。私はそう信じられる。だから、――」
「ルルー様、……、……!」
ミヤナは意識を失った。
そして彼女が目を覚ました先はドラゴナンドではなかった。かと言って望月の記憶に見た現実世界でもなかった。
(ここは、……そっか。私、死んじゃったのね)
開拓村のおとぎ話で聞いたことがある。
一面、花畑。黄昏の空が広がるそこは彼岸の地。この世とあの世の間にある場所であった。