二九 追憶
望月美弥奈は目を覚ました。
目覚まし時計は午前九時。今日は日曜日かとテレビを付けると、「6月○日火曜日のニュース」という小見出しと共にその日のニュースのラインナップが液晶画面に映し出されていた。
「うっげ。遅刻じゃん」
それでも朝食は食べたいから、コンビニでゼリータイプの栄養食品を買っていくとしてまず望月は歯を磨くことにした。
かつて歯磨きを彼女は怠り、勤め先の中学女子から鼻で笑われたことがあったからだ。
(なんで歯磨きなのに鼻なの。日本語として間違ってるでしょ)
28歳の彼女は高校受験はもちろん、大学受験も現役で合格。そして地元から一時間ほどで電車通学可能な、そこそこの偏差値の大学の教育学部をやはり現役で卒業した。
教員免許も在学中におとなしく、しかし必死で空気を読んでいたらいつの間にか取得していた彼女は地元の小学校の教員から始め、異動があり今はその小学校の卒業生がほとんどの中学校に勤めていた。
「おっはよ~。ごめんごめん、今日は普通に寝坊してしまいました。おっ、坂浦さん、例によってと薄ら笑いなんて浮かべてないで。こんな風に行き遅れるのがイヤなら花嫁修業をダメ元で今からコツコツしましょう。なあに、先生は永遠に負け組の味方だゾ☆ はい、じゃあえっと、まず出欠取りま~す」
昔、交際していた男性から大学院に誘われたが断ると共に破局した望月。かれこれ八年ほど恋人のいない人生を歩んでいた。
学歴は文句なしに良いはずなのに、どこで何を間違えたのか、それとも現代だからこんなものなのか、――そんなありがちな焦燥こそあったものの、それ以外は概ね望月の人生は良好で穏やかだった。
「今日は、そうそう、あ~もう期末テスト対策とか始まる時期か。模試とか塾とか、本当、最近の子は忙しいよねえ。ちゅうわけで、今日は息抜きがてら今の時代に必要なことについてちょっとお話しをしたいかなと思います。大切ってほどでもないけど、まあ聞きたいなと思ったらシャーペンを走らせる手を休めて聞いてみて欲しいかな。じゃ始めて行きます」
コツコツコツ、コツ、コ、コツカッ。
チョークであれこれと黒板に書くのもいい加減に慣れてきていた。
「先生。それは別に良いんですけど、数学遅れてるんで自習していいっすか」
「えっ。そうだったか。えっと、そうね。そうしても良いし、その内その辺はプリント教材で補足していきます」
「ははは。手抜き乙」「もう~、モッチ様は」「まあまあ、まあ良かろうもんで」
二者面談、授業参観、体育大会、修学旅行、PTA総会、期末テスト、……。
普段はどれがどの順番で行われるかなんて望月は覚えていなかった。自宅にあるカレンダーにひたすら行事予定を書き込み、食卓には「カレンダー見る!」とメモを貼り、なるべく忘れないように気を付けるしかなかった。
そうしたことを長年の経験でなんとかなると決め打ちする保護者は後を絶たなかったが、そんなことが当たり前に出来ていたら天才だった。
「ね。こんな風に、今はカリキュラムとかエントリーシートとか難しい言葉がゴロゴロ出てくるのが大学です。お兄ちゃん、お姉ちゃんがいるおうちだったら、もしかしたら知ってるかな。それに、お父さんお母さんが大学を卒業していたら先生よりすっかり、よっぽど詳しい人もいるでしょう」
新人だった頃こそ、望月は子どもたちがどんな道徳を持ちどこまでの常識を携えて、どんな輝かしい未来に進むのか目をキラキラさせながら考えるのが嬉しくて楽しくての毎日だった。
「あの、間森さん……いや、なんでもないっす」
「……」
(間森さんからのクレーム、どうせまた来る。でも勝手に始めた水商売なんて……私はなんにも悪くない)
学生時代には勉強の鬼と謳われていた秀才が思っていた大学に行けなかったのを皮切りに急激に落ちぶれて今では水商売。つまりはバーとかナイトクラブとか、そんな職場がその学生の今の勤め先らしかった。
間森という姓のその学生は望月が最初に受け持った学級の生徒だったが、望月自身はまだ新人ゆえ副担任であった。
だからというのもあり、担任ならまだしも副担任だった自らにそんな嫌がらせをするなんて、と連日連夜クレームを入れてくるその家の人々に望月は辟易していた。
「先生は完ぺきな人間じゃありません。だから間違えてる所とか、それってどうよという所って今でも絶対にあると思います。ただ、もし思う所があるなら私に直接か、学年主任に伝えてくださいね。これは脅しとかではなく、社会って報告連絡相談が基本だから当たり前。じゃチャイムも鳴るんで挨拶しま~す。起立」
先ほどの間森家に関する仄めかしは、これで回避したと望月は思いたかった。
世の中は広く、望月より交渉や駆け引きに掛けた人間なんてたくさんいる。それは八年も教員をしていれば自ずと分かってしまう人生の恐怖だったけれども、たとえ逃げたとか負けたとか思われたとしても教壇に立ち続けることこそが親孝行であり、教師になる夢が破れた何人かの友人たちへの誠意であり、学生たちへのメッセージである、――望月はそんな、信念ともうすぐ呼べそうな気持ちの芯を持ち始めていた。
「もう、望月先生。いい加減にしてもらえませんかねえ」
職員室に入って早々、叱咤が飛ぶのは当然だ。
望月は自己判断でタイムカードを押すことなく、電話などで遅刻を申告することもなく堂々と授業に途中から出ていたからだ。
「すみません、本当に至らぬ限りです」
「あっはは。いいっていいって、それくらい。医者にならなかっただけ賢い、賢い。これで外科医だったら患者死んでたけどね」
「いいって、いいって、じゃありませんよ。ったく、いい加減にして欲しいなあ。なんでアンタのクラスの保護者に俺が謝るんだよ」
「まあ教頭、まあ教頭」
「ふふっ」「よっ、口だけ望月」「知らね……」
望月が謝り、他の教諭が白々しく嫌味を言うのはそう珍しいことではなかった。
彼女は最近、なんとなく遅刻癖が染み付いて離れなくなってきていたからだ。
(でもさっきから、何か忘れる気がするなあ。何か大切なことだった気がするんだけど)
すると望月はふと思い出したことがあった。
最近、凝りだした自筆の小説。文学賞そのものにはまだ漕ぎ着けてないものの、一次選考までなら何度か通過していた。
「あっ、『竜国の巫女』……」
それが、『竜国の巫女』が小説のタイトルだった。
最近、巷で売れに売れているファンタジー小説の世界観に憧れて書き始めた、《竜界》ドラゴナンドを舞台にしたオリジナル戦記。なぜ今、思い出したのかは自身にも分からなかったが、それが自身にとって大切なモノという位置付けであることに望月はふっと自嘲気味に笑いをこぼした。
五柱の竜が治める五つの国。
その五竜に調停をもたらす特別な《巫女》。
その特別な役目を占う真明の儀。
その真明の儀で明かされる《剣豪》は《巫女》を守る特別な存在。
(そしてその《剣豪》は、――)
そこから先は、まだ決めていないのだったとまたしても望月は一人で笑った。
次の授業まではまだ数分あり、学生たちはそれぞれやるべきことに集中していたので気付かれなかっただけだ。
「先生、先生ってば」
「ん、誰。気安く私を呼ぶのは」
「先生、先生ってば」
「手を挙げてくれる? 声だけだと分からなくて、ごめんねちょっと手間で」
ふと、隣に誰かがいることに望月は気付いた。そして声の主がその誰かであることに、本当は望月はとっくに気付いていた。その誰かが誰なのかも、――。
「《黄竜》は仮の姿で、本当はあらゆる世界の外側から全てを見つめ、たとえ死んでも何度でも蘇る《黄金竜》。幼稚な設定だからか忘れてたけど、あなたは……」
「そうですよ先生。ボクはあなたが考えた万能の存在。そして、ボクはあなたそのもの」
視界がぱあっと開けた。
教室だった空間が弾けた。
ドラゴナンドの《農邦》、竜殿にいるミヤナ・セーロス。そして現代に実は残っていたもう一人の望月美弥奈。二人は今、向かい合っていた。