二八 窮地
ガルーダと同じくらい、具体的には十メートルほどの体長らしき烈仁竜を押し退けるように、空中戦艦のごとき巨大な何かがミヤナのもとにゆっくりと近付いてきていた。
従者たちのざわめきを気にして、麒麟がまず真っ先に外に出た。夜空の中、月明かりに照らされてやってくるその姿になぜか既視感を覚えた彼はやがて、ある一つの可能性を見いだした。
「あれは……凄く……大きい……。でも……まさか……ゲラちゃん……ゲラトルヘス……なの……か?』
そのシルエットは麒麟には見覚えがあった。《黒竜》の竜としての姿をそのまま百倍ほどに拡大したと想像すると、ぴったりと一致していたのだ。
元が二メートルほどだから、百倍なら単純に二百メートル。悠長に目測した麒麟はやはりちょうどそのくらいの大きさに変わり果てた、かつての仲間の姿があることを確かめた。
空に浮かぶ鯨。
五柱の中ではおよそ竜らしくない姿かたちにコンプレックスを抱いていたっけ、と麒麟は回想に耽りたくなるのもそこそこに、大魚竜とでも呼べそうなゲラトルヘスに向かって羽ばたいた。
ところで、二百メートルという長さを日常生活からイメージするのは中々に難しい取り組みだ。
我々がいるこの現実世界の陸上競争においては、せいぜい百メートル走までが直線である。ちょうど二百メートルからトラック種目となり、それはよく見るあの半円と線分がなす図形でしか二百メートルをイメージすることが出来ない人が大量に育っていくことを意味している。
「うっわ、思ってたよりデカい。洒落になってないって」
麒麟は光翼をはためかせながら大げさに、そう声に出した。そして同時に、巨大な風の魚になってしまった元同胞には会話が成立するのだろうかと、彼はいつになく真剣に考えていた。
更に、そこで麒麟はある事に気付いた。《黒竜》はただ単に空を飛んで来ているのではなかったのだ。
「コイツ、まさかの少しずつ高度を落としてきてる……ッ!」
麒麟はぽそりと呟いた。
そう。ゲラトルヘスは竜殿に向かいながら、同時に降下しつつあった。
大きさの割にはその速さはかなりのものだ。大きいからそう見えにくいだけ。目を離さずにいると、そのシルエットは地上からでもぐんぐん迫って来ているのは明らかであった。
「《黒竜》ゲラトルヘス。まさかあなたは、この竜殿をその身ひとつで押し潰すつもりだというの?」
麒麟から交信があり、巨大な影が《黒竜》と知ったミヤナは空を見上げながら呪詛を吐くかのように言った。
一国の領土全てを破壊しつくすには足りないとしても、小ぢんまりと細々とした竜殿ひとつを粉々にするだけなら《黒竜》の巨躯には意味があることにミヤナは気付いたのだ。
(だとしても私に出来ることなんて……)
ミヤナの心にはそんな弱気が去来していた。
もちろん交信によって瑞やグ=ゲンを呼び出すことくらいなら今の彼女には造作もないことだった。けれども相手は、《黒竜》はおそらく《長丸壌》――決して小さな土地ではなくオーストラリア大陸ほどはある広大な大陸――の全土に進入不可能な結界を張るほどの強者。
仮に竜を呼び立てたとして彼らごと壊滅してしまっては、それこそ敵の思うツボなのだ。
ウォーウォーと叫ぶ《赤竜》の分裂体たちとは違い、戦艦級の竜は変に沈黙しているようだった。
嵐の前の静けさ。猛り鳴く竜たちがいる以上はそんな慣用句で適切かどうかは定かでなかったけれど、ミヤナの心境に最も近いのはそんな言い方であった。
「おい《巫女》、空を見れば分かる事態を黙りこくって背負い込みやがったな」
「《青竜》……!」
いつしかミヤナの近くに現れていた《青竜》瑞。彼はぶっきらぼうながらも、いつもの調子でミヤナに声を掛けるとそれ以上は何も言わずに空へと、麒麟がいる場所へと向かっていった。
「プク~。おいどんもいるんだもん」
「《緑竜》、あなたまで?」
暗がりからぬうっと姿を見せたのは《緑竜》グ=ゲンだった。
いや、彼だけではない。人の姿こそ取れないものの五柱の不足を補うために異世界からやって来た、竜の中でもとりわけ力のある個体が百体ほど同じように暗がりから現れた。
百鬼夜行。――場違いにもそんなたとえがミヤナの脳裏をよぎった。
竜殿は郊外にポツリと建っていて周囲が広々としているからこそ、百ほどの竜たちはそれぞれに個性的なフォルムを誰にも遠慮することなく主張することが出来た。そしてそれゆえに、百鬼夜行という妖怪軍団の行脚を連想させたのだろう。
「アタイたちの代で《巫女》様に会える時代が来るなんて。ふぉおおい……謎のトゲ、ぷっしゃあああ」
「くくっ。この左腕の疼きをようやく理解に至ったというなら、げに堅実。いざ参らん、闇を打ち倒すこの闇と共に」
「じょじょじょ。じょっじょじょ~じょ~!」
今までドラゴナンドでは活躍出来なかった分、異世界竜――読んで字のごとく異世界から来た竜――たちは有り余る元気をこのように、これでもかとばかりにミヤナにぶつけた。
「そなたたち、……いいえ、皆さん。私なんかのせいでこんな事になってしまって、本当にごめんなさい!」
ミヤナは深々と頭を下げた。
五柱の竜を調停する《巫女》。それは十年前に開拓村で、時の標で見た約束されたはずの未来だった。それを修練が足りないというだけのことでこれほどの状況にしてしまったのだから竜たちに謝罪するのは当然のこと。ミヤナはそう考えて、謝ったのだ。
「プク~。顔を上げて欲しいんだもん。それを言うなら、実はおいどんたちもミヤナ様に謝らないといけないことがあるんだもん」
「謝らないといけないこと……?」
先代の《巫女》、ルルー・ネイの時代。
その千年に近い調停の時代の中で、わずかながら五柱の竜たちは徐々にその力を失いつつあった。それは一つにはルルーが世界に希望を持たなかったためであり、一つには竜たちの絆に積もり積もった、小さいながらも根深い亀裂が生じていたためであった。
「プク~。……。儀式師と真明の儀を受ける子どもが行ける時の標。その正しさはおいどんたちの力が弱まったこの時代では大したことがなかったんだもん」
「そ、そんな……。だったら私は何のために《巫女》を。何のためにウサとの別れを?」
ミヤナは半ば呆れ、半ば混乱しながらグ=ゲンの話に対してそう唸った。
それをぼんやりと眺めていたグ=ゲンは、異世界の竜たちが見守る中でぽつりぽつりと話を始めた。
「プク~。だけどミヤナ様が知っての通り、この世界の人々は《巫女》や《剣豪》といった選ばれた存在を今でもずっと必要としているのも確かなことなんだもん。だからたとえそこに少しのウソがあったとしても、ルルー様の代で《巫女》が終わるということはどうしても避けないとならなかったんだもん。それにミヤナ様はこんなおいどんたちにも優しい、今までで一番、心が純粋な素晴らしい《巫女》様だったんだもん」
轟音が聞こえてきた。きっと空では《黒竜》が隕石のように真っ直ぐに竜殿にいよいよ迫ってきていたのだろう。
ミヤナはその時、麒麟が、《黄竜》が死んだと分かった。理屈ではなくそれは神託とこの世界で呼ばれる、天からの知らせ。彼女には、それが手に取るようにただ「分かった」のだ。
何かが降り注いでいた。
それは烈仁竜、《赤竜》烈仁の最悪の忘れ形見が次々に特攻として地面に追突している様子だということを見届け、ふとミヤナは視線を自らの右腕に向けた。
右腕は彼女のそれではなくなっていた。
金色のウロコに覆われ、手は変形し鉤爪のようだった。
まるで麒麟が腕に宿ったかのように。そして、その光景を彼女はどこかで見たことがあった。
「金色のウロコ。……これってあの時の」
開拓村の山奥で父母、そしてジェイクと見た金色のウロコ。
昏倒の先で迷い混んだ真っ白な空間。
ミヤナはそれを思い出すと同時に気を失った。