二 一年
ミヤナがドラゴナンドの世界に生まれて一年が経過した。
つまり、一歳の誕生日を迎えたのだ。
「パパ。ママ!」
年相応の簡単な言葉なら、このようにミヤナは発声出来るようになった。
反対におとなが使うような難しい言葉は、口にしようとしてもおもに左大脳半球にあるという言語中枢がまだ言うことを聞かないらしかった。
「ハッピー・バースデー。ミヤ」
「はははっ。一年なんてあっという間だったねえ。これからも俺たちに笑顔を分けてくれよ!」
セーロス家が暮らすワネの町はごく平凡な町だ。住宅街と商業地区が適度に混在し、必要な生活物資は都会にある工場持ちの大業者から仕入れることで賄っている商会がおもだっている。
トルジュとケミーは共同で行商をしている。
満足な経済状況とまでは行かなかったが、それぞれ最初に就いた仕事で「儲かれば適当で良い」という周りの思想に馴染めず、自由を求めて早々に独立したのだ。
「うわあ、やきとり」
「ははっ、これはローストチキンだよ。ミヤナ」
両親の立場など細かい「設定」は小説の中では掘り下げていなかっただけに、ミヤナはそんな会話の中でも自らの半生を自慢げに語る父母の姿に素直に頭が下がるのと同時に「本当にここは自分が考えた世界なのか」というごく真っ当な疑問が湧いてきた。
「おいしい」
「クゥーン」
「おいおい、ベル。行儀がなってないぞ、待て!」
「ワウッ」
ミヤナが鶏肉を焼いてすりつぶしたモノを頬張るそばで尻尾を振り振り息が荒いのは、愛犬のベルだ。見た目には真っ白なコリー種のようだがミヤナには詳しいことまでは分からなかった。
しかし彼女はとりあえず、いつも人懐こいベルのあごを赤ちゃん用のテーブルからそっと手を伸ばして撫でてやった。
すると気持ち良さそうにじっとした後でゆるゆると体をほぐしながら室内をぐるぐる三周ほど回り、ベルはハッハと息を弾ませてぺたりと地面に這ったのだった。
「ベルとも仲良く出来て、本当にミヤナは最高だ!」
「やめて、あなた。そんなもじゃもじゃのヒゲじゃあミヤちゃんかわいそう」
「あやや、あやや」
誕生祝いのパーティーは家族だけでこじんまりとしながらも大いに皆、楽しんだようであるのをミヤナは見届けた。
幸福な人生。――こうなる前の、《竜界》に来る前の中途半端な自分では手に出来なかったその未来を彼女は目の前に、欲しいままにしていた。
「あたし、ミヤナ!」
「うん、そうだよ。お前はミヤナ・セーロス。俺たちの自慢の娘さ」
笑顔もまたいつでも皆で分かち合うことが出来た。一方で悲しいことは不思議とほとんど起きなかった。
そんな満ち足りた生活を実際に一年も送っていたものだから、思っていたよりずっとミヤナは望月美弥奈であったことをしばしば忘れた。
もちろん完全に記憶から抜け落ちるわけではなかったけれど、かつての同級生などもう会わないかもしれない人々の名前や交わした会話などはどうしても少しずつ自らの記憶領域から失われていくのだった。
「わふっ、うおん」
「ワンワン、ワンワン!」
ミヤナはベルとだけにされる時間も上手く過ごすことが出来た。まだ言葉は自由に扱えない代わりに、唯一使える「ワンワン」という犬の鳴きマネだけで心優しいベルとのコミュニケーションは十分だったのだ。
そして時折、おずおずとしながらもミヤナは背中や頭を撫でてやった。するとやはりベルはハッハと息を弾ませながら照れ臭そうに顔をあちこちに向け、同時に尻尾もたまに揺らしているのだった。
時折、両親はミヤナを馬車に乗せて遠くに旅行した。こと旅行に関してはカネに糸目を付けないのが彼らで、ミヤナはそんな時ばかりは望月美弥奈の両親にあたる二人の男女をモチーフにしたことをわずかに後悔した。
「ほら、あれが海。海って言えるかい、ミヤ」
「うにぃ、うに」
「ウニ、ウニだって。でもウニってなんだか海にいそうね、ふふ」
長く家を空けるからベルを留守番させるわけにはいかず、そんな時にはいつも御者の迷惑になるのも承知でトルジュが必死にベルを落ちないよう抱えていた。
それでも犬ゆえに少しばかりおしっこを引っ掛けてしまうのは、正直言ってどうにもならない。
御者は笑って済ませるのがほとんどだったが、たまに怒られても袋などを被せるわけにはいかないのだから仕方ないと夫婦揃って肩を竦めるばかりであった。
ミヤナもまたそうしたかったのだが、そうするにはまだ幼すぎるため可能であっても自粛しているのだった。
「良い眺めね。こんな景色、お父さんにも見せてあげたかったな」
ケミーの父は猟師だった。
腕前は悪くなかったのだが友人が少なく、そのためしばしば取り分をちょろまかされて不遇の人生を送っていた。
そしてそれゆえ旅行などという贅沢は子どもの頃のケミーには許されなかったのだった。
さてそんな歴史はともかく、やがてトルジュと御者との次のようなやり取りが目的地へ到着した合図となった。
「おっ、そろそろかな?」
「ええ、ええ。直に遠い旅の終着点、ポレア山でございます」
世界的に有名な霊峰。
日本で言えば富士山にあたるのがポレアという山だった。
父と母の間にちょこんと座らされる代わりに各々の手が庇ってくれることで、どうにか座席から落ちることなくはるばる三百キロメートルほどの旅、その往路は終わった。
乗り物酔いするたびに慣れろと言わんばかりに吐かせはするが決して引き返しはしないという点では、両親ともにどこか狂っていた。
「さあ、巡礼の旅だよ」
「……」
優しいと思いきや、狂っていた。
それが竜の支配する世界だからなのか、望月美弥奈の両親にもどこかそうした一面があったからなのかミヤナには分からなかった。
ただ彼女からすれば、トルジュの妙に爽やかな声に何も言わない自分がいることは否めないというだけらしかった。
「よいしょ、よいしょ」
「よいしょ、よいしょ」
登山道はあるものの、そこからは徒歩以外に先に行く手立てはない。
だから犬を抱えて幼児を背負って、何を思うか一心不乱に山を歩み続ける妙齢の男女というどこか暗い構図は、あるいは霊峰にはそぐわないのかもしれなかった。
そもそも片道三百キロも馬車を駆らせること自体が普通ではなかった。
もちろん終始同じ馬車ではないし宿泊のたびに運賃を払って下りたのではあったが、その運賃こそバカにならない金額だった。
「借金してでも経験させないと」
「そうね、人生は無限じゃない。たとえ一時は危なくても、十年先の平和を思えば軽い投資」
そう。トルジュとケミーは旅行のために借金をしていた。
いつか娘が立派になりその負債をきれいに返上して、家族揃って大往生出来るという根拠のない自信が二人の心を占めていたのだ。
「行けるところまで行こう。厳しい自然が今日は先生だぞ」
借金という明瞭な背景があることをなんとなくは知っていたからか、ミヤナは見えない恐怖に脅えながらケミーに背負われていた。
「私たちはミヤナの先生になれているかしら。何か急ぎ過ぎて、大切なことだけを忘れていやしないかしら」
ミヤナに潜む恐怖は将来の不安とか両親の不確定な未来とか言った明確なものである。27年は生きてきた元・望月美弥奈だからこそ分かることだ。
つまり裏を返せば、まだ酔っぱらいみたいに夢見心地な正真正銘の無垢な赤子ならどんなに目や心が澄んでいたとしても、人間の抱えるそんなカルマは見抜けなかったことだろう。
「おっぱい」
「もうあなたは乳離れしましたよ、ミヤナ・セーロスさん。あなたはもう一人前の人間にならないといけませんよ」
冗談のつもりでなく、心底から新生児に戻りたくなったミヤナは情けなくも「おっぱい」と口にし、それを穏やかながら厳しい口調で母に諭されたのだった。
そしてミヤナに出来る抵抗などせいぜいそれくらいで、どんなに狂った所があっても今この瞬間に間違いなくトルジュとケミーはミヤナの両親なのだった。