一九 十年
真明の儀から十年の歳月が流れ、ミヤナ・セーロスは十六歳となっていた。
「《巫女》セーロス様。《黄竜》様がお待ちです」
「どうしても行かねばなりませんか?」
「ど、どうしてもとは」
「どうしてもとは、どうしてもですよ……」
「こ、これ。《巫女》様ともあろうお方が腑抜けたお言葉などなりませぬ」
十年の修練を積んだミヤナのおかげで、《黄竜》は《始祖竜》のように人の姿を取る力を得て、ドラゴナンドの人々と共に過ごしていた。
もっとも長きに渡りミヤナが仕えてきた《農邦》にいる麒麟にしか及ばない力であるのが現状で、そのことをしきりに彼女は《黄竜》から催促されていた。
「よくぞ参られた、《黄竜》麒麟よ」
「ああ、もうそういうの良いって言ってるじゃないですか~。勘弁してくださいよお」
ミヤナが修練により積んだ精神力は歴代の《巫女》と比べて偏っていた。
高い低いだけでは測れない偏り、――それを特別な才能と考えた《黄竜》は、まだ自らとしか接することが出来ないながらもミヤナに一目を置く態度を見せていた。
もっともこうした詳しい事情を知らない、竜殿の他の勤め人たちなどは「なぜ竜が《巫女》に敬語を?」という印象を持っていた。
増して一般人はなおのことで、「当代の《巫女》は化け物なのか」など酷い感想もちらほらと見受けられた。
「竜殿ではこうした話し方をするのは義務ですらなく常識。いつもそう申しているはずです」
「だって一歩でもここから出たら、ボクなんかよりよっぽどガサツな言い種を……いや、なんでもございません。ええ」
竜殿。《農邦》タクイードの国都レウドムからそう遠くない、とある宮。
そこは代々《巫女》に選ばれた者がいずれ一国の君主たる五柱の竜たちと対等になるべく日夜壮絶な修練を積む場所だ。
「先代と固く約束したこと。そなたがどんなに望めど、慣習を覆すは世界を敵に回すと同義ゆえ」
「いやいやいやいや、やめましょう。完ッ全なる時代錯誤でしょ。なんなら今度、ルルー姉さんにちゃんと言いましょう」
ルルー・ネイ。
ミヤナの一代前、つまり先代の《巫女》だ。そしてミヤナと同じく千年の寿命を与えられていた。見た目は十六歳のミヤナより少し上といった程度であった。
「……何か用か」
「ルルー様。なんでもありません」
「ルルー先生。先生も先生ですからね。本来なら二人の《巫女》が十年もこの世界にいるのは戒律並みに厳しい世界の掟に反しております」
「……心得ている」
「はあ。ならボクは良いんですがね」
次代の《巫女》に世代交代が上手くいっていない。それがルルーの悩みであった。
千年とはあくまでその世代交代が上手くいかなかった結果などを見積もった、多く借り受けた命の長さに過ぎない。よって、十年もあったのにまだ《黄竜》ばかりと接しているミヤナの今の状況は当たり前ではなかったのだ。
「……当代。早く一人立ちする勇気を持て。確かにそなたは才能が足りない部分もある。しかし本当に修練を積んで精進していれば、このようなみっともない事にはなってない」
「至らぬ後継ぎをお許しください」
「まあ、まあ。ボクだけでもいるだけマシですから。そりゃ、一柱としか関われない《巫女》なんて前代未聞です。でも何か理由があるのかもしれないんで、ミヤナ先生にばかりキツく言うのは、ね?」
ミヤナはすっかりこの世界から脱出する気力を失っていた。
社会に適応していこう、自分という個を抑えていこう。そんな思いばかりが彼女の胸中にはあったが、何の因果かそれは元いた世界での望月美弥奈とそう変わらない価値観であった。
「おっと、そろそろ神託の予定があるんでボクはそろそろ」
「……用もなしであったか」
「えー。そんな物騒な感じ、勘弁ですって。あ、でも本当に時間はないんで失礼しますね。また遊びに来ますんで」
霧のようになり、麒麟は竜殿から出て行った。あとにはミヤナとルルーが二人、ぼつりと残される形となった。
「ふう」
「……怠慢か」
「申し訳ありません!」
低身低頭。ミヤナは言ったそばから常識よりも幾らか謙遜が過ぎる自嘲的な謝罪をルルーに吐露した。
実際、《黄竜》による取り成しによって残る四柱の竜たちは現状を黙認していた。そして一方で、残念ながら《巫女》ミヤナのそのさまは世界中の人々に知られてしまってはいた。
けれども、基本的には世界にたった一人しかいないはずの《巫女》が大変な役職であることは誰もが分かっていたこともあり、異常な現在であっても人々もまた目をつむっていた。
「……五柱の頂こそ《黄竜》。なれど、いつまでも彼の者に寄りかかっていては出来ることも出来ない」
「一切承知致しております」
「……言葉こそ良し。ただ、言葉の外にも中にも何も見えないのは私とて不服」
竜殿はタクイードの国土に位置している。
なぜなら《巫女》は五柱の中で最も力のある《黄竜》の加護を強く受けるからだ。
しかし五柱の竜を調停する者という役割を《巫女》が全うせねば世界はいずれバランスを崩してしまうのは確実だった。
事実、世は荒れ始めていた。人々が黙っているのは自分たちに《巫女》の真明が与えられなかったからに過ぎず、不平不満は実際の行動として紛争や反乱を暴発させていた。
また、気象や自然も良くない影響を受けていた。異常気象により農作物や家畜の管理に悩まされるのはミヤナがいる《農邦》でこそ特に顕著な人々の悩みであった。
当然それも《巫女》が役目を逸脱し、一柱の竜ばかりと関わっていたからに他ならなかった。
「……これから、どうするつもりか」
「はい。やはり順当に《青竜》との交信をしていこうかと」
「……もはや、それでは不足。そなたは直接に出向かねばならぬ」
霊感のような力を授かった《巫女》はテレパシーで五柱の竜とそれぞれに会わずとも会話することが出来るはずだった。
しかしミヤナにはその力が完全には備わっていなかったらしかった。《黄竜》とは容易に交信しているが、地理的に近く力も麒麟に次ぐはずの《青竜》瑞でさえほとんど交信は成功しないのが彼女の限界であった。
「《鋳邦》には賊がたむろすると聞きます」
「……今はそうだ。そしてそれは」
「自業自得。私の責任ですが、しかし」
「……行く以外に選択肢はない」
ミヤナは臆病になっていた。
両親とはすっかり会っていない。手紙は毎月必ず今でも来るけれども、もしかしたら全て上手く行かず自分だけが何百年とこの若さのまま生き恥を隠せず過ごしていかねばならないかもと考えてしまい、ここ数年はろくに返事を書いていないのであった。
「私には味方がいません」
「……それも自業自得。修練と思い《鋳邦》へ向かうのだ」
取り付くしまもなく、ルルーはそれだけ言い放つと自室へと戻ってしまった。
このような問答になると、いつもミヤナは麒麟は来るだろうかという考えにすぐ陥っていた。あれほど力のある味方がいなければ何も出来ないという無力感、それが彼女を蝕む心の闇の正体であった。
「支度だけでもしよう」
そう呟き、ミヤナもまた自室に戻っていった。
しかしたとえ自分自身の非であっても、今日明日で旅立つ気力が湧くかはミヤナには分からなかった。
時を経るにつれ孤独が深まってしまった彼女は、元いた世界においても経験しなかったほど自分のことが分からなくなっていたのだ。
何十人といる従者たち一人一人にお詫びと約束をしなければならないだろう、とミヤナは考えていた。
いつ帰れるか知れないという謝罪、そしてそれでも必ず《青竜》との調停をやってのけるという約束。
それをしっかり一言一句、具体的に何度も頭で繰り返しては校正し、意味の通る文章にしていくことから始めていくミヤナなのだった。