一 転生
望月 美弥奈は転生した。
転生。――その感覚は死を思わせる苦痛とは異質だ。しかし、だからと言って魂に至るまで自らを構成する全てを光にまで分解され、新たな命の中にそれとなく混入されるさまは既存の比喩では言い表しようのない特異なものだった。
少なくとも、美弥奈にとっては。
しかし悪くない快適さは現状に対する危機意識や理不尽に対する焦燥をどうしても奪ってしまうようだ。であるから新たな命として生を受けることを本能で察知してからというもの、彼女は深く考えるという作業を放棄してしまった。
長い沈黙。
なぜなら我々が暮らすのとほとんど変わらない地球、あるいは太陽系という今までの世界から別世界の胎児となるまで彼女が属するのは天国でもなければ地獄でもなかったからだ。
完全なる黒。
身体を一時的に喪失してしまった以上は、そうであるとすら美弥奈は認識出来なかったのだが実際、彼女だった塵を取り囲んでいたのは全く無であり、ゆえに闇とすら呼べなかった。
――――――
――
「ねえ。ミヤナって言った気がしない?」
優しそうな、しかし優しいだけが取り柄の頼りなさげな声で赤子はうっすらと目を開けた。望月美弥奈だったその女の子に両親がミヤナ・セーロスという名を与えたのは、彼女が生後1ヶ月を迎えて間もなくのことだった。
(ここは、どこ? ワタシ、どうなってしまった?)
美弥奈、いや今やミヤナとなった赤ん坊は赤子とは思えないほどはっきりとそう疑問を抱いた。
「ミヤナ。愛してるわよ」
「俺も愛してる」
「ふぎゃ、ふぎゃああ(ミヤナ・セーロス。ワタシの名前……。これからどうなってしまうの)」
優しそうな声で、後ろに髪を束ねまとめた長髪の女性はミヤナ・セーロスの母ケミー・セーロス。そして俺という一人称の、アゴひげを蓄えた厳めしい男性はトルジュ・セーロス。つまりトルジュはミヤナの父だ。
ところでミヤナは1ヶ月も名前を付けてもらえなかったわけだ。
しかしそれは何もミヤナの母ケミーが不親切だったからでもなければ父トルジュが冷たかったからでもなかった。
(赤い髪……?)
生まれ持ったにしては珍しい両親が持つ目立つ髪色をミヤナは見逃さなかった。
そしてそんな赤髪の両親から、しきたりについて彼女が教えを受けるのはまだ少し先の話になる。
しきたり。
ミヤナが生まれた国である《農邦》タクイードばかりではない。この国やこの国を含む大陸――《四角壌》フォガー、そしてその大陸をも含む全体世界たる《竜界》ドラゴナンドなる領域においてさえ生後1ヶ月ほどまで生き延びた子でなければ名前を与えてはならぬというのが例外なく共通した、それであった。
「ほぎゃあ、ほぎゃああ」
「あばばば。ねえ、ミヤ。ミヤちゃんったらもうお腹ぺこぺこさんなんでしゅか?」
「わはは、ミヤが元気な赤ちゃんで安心だ。女の子なのは残念だがきっとわんぱくでたくましい、じゃじゃ馬に育つぞ」
ミヤナはごく平凡な赤子と何ひとつ変わらなかった。ご飯や便のたびに泣いて保護者を呼ぶしかないのは、肉体的に言語機能が発達していないという生物学的な理由からであった。
しかしまた、ミヤナには転生する前の記憶が存在していた。
こうなる前のミヤナ、つまり現代人の望月美弥奈は今年で28歳を迎えるはずの教師だった。しかし一方で趣味として、また転身を見据えた上で積極的に小説を書いてもいた。
そして奇しくもその中でも最新のとある作品には、彼女が暮らす世界であるドラゴナンドも、暮らす町であるワネの町も何もかも登場していたのだ。
「ぎゃあああ。あぎゃあぎゃあんあ」
「ど、どうしたのミヤちゃん。お乳は上げたし、おしめも変えたし、お腹いっぱいにまんまも食べたばっかりよ。眠いなら寝てて良いのよ? おお、よしよし」
他の赤子よりミヤナはよく泣き叫んだ。
しかしその理由は空腹や便のためばかりではなかった。わけも分からない内に自らが描いた作品が織り成す世界《竜界》に生まれ落ちたという混乱に、赤子ならではの未熟な自律神経が耐えられなかったらしいのだった。
「んばあ、んぎゃっぎゃ」
そしてこのように言葉を話すことが出来ないのはミヤナの悩みだった。泣いてSOSを発するしかないのと同様に、言葉を司る脳機能の発育が不十分なのが原因だ。
とは言っても、一般的な乳児の場合と比べて格段に育ちが遅いという意味ではもちろんない。
単に赤ん坊であるがためにまだ言葉を口にする能力がないという、よくよく考えてみれば当たり前のことなのだ。
(意識があるのに歩けない。なんて不自由な)
ハイハイですら普通の赤ちゃんみたいに、出来るようになるのはかなり先、少なくとも生後8ヶ月ほどにならないことには不可能であるらしかった。
そもそも生後1ヶ月ほどのいわゆる新生児は1日あたり16~20時間ほど寝るとされているがミヤナもやはりそれくらいよく寝た。
よって思考する能力の最大は元の美弥奈と同等であったけれども、睡眠という生活現象によりどうにもとりとめない夢の中で過ごしている、といった感覚こそが彼女の現実を最も端的に表した表現だった。
「ふふ。あなたに似てぱっちりした目をしているわね」
「そうかなあ。むしろキミのすっきり通ったカッコ良い鼻こそこの子は似ているとも」
そんな温かみのあるミヤナの両親の会話は彼女が繰り返し何度も数時間の眠りから覚めるとしばしば行われていた。そのため本能的にミヤナは元いた世界の両親とは別に彼ら《竜界》での両親に対しての親しみや絆を感じ取ることが出来た。
そうこうする内にミヤナが生まれて5ヶ月ほど経過し、彼女は離乳食である粥をすり潰して与えてもらえるようになった。
やはりまだ言葉は話せないが睡眠は半日ほどで済むようになり、ミヤナは転生する以前の思考能力で様々なことを考える時間を作るようになってきた。
(ふう。ようやくママがキッチンに向かった)
誰に邪魔されることもなく様々な思考を成人のそれに相当する精度で行うことが出来たのだ。
具体的には、たとえば彼女が生活する《農邦》における食料事情についてだ。お察しの通り農業に力を入れている国家なだけあり食料自給率は日本では考えられないほど高く、一時期などは九割を超えていたらしい。
そんな中、彼女はどうして転生してしまったのかといったことも考えたことがある。
とは言っても「転生しますからね」と親切に誰かに宣言されたわけでないのだが、望月だった頃に著したドラゴナンドにまつわる物語の中でも別世界から転生した一人の少女が存在していたのだ。
(まるであの子に成り代わったような。考えすぎだろうか?)
存在、とは言ってもあくまで物語内だけの架空の登場人物。それに名前だってミヤナではなかったはずだが、しかしセーロスという姓に彼女は心当たりがあった。
竜界の巫女。
この《竜界》は全部で三つある大陸に全部で五つある国家があり、それぞれの国家を一頭ずつ竜が治めていた。竜、つまり翼を持つ古代神話における炎吐きの怪獣だ。
そして《巫女》の役割を与えられた者は各国の竜たちに恒久なる調停をもたらすのが物語、とりわけその《巫女》を担うはずのセーロス家の少女の物語であるはずだった。
(竜界の巫女にワタシがなると言うの? そんな無茶な……)
仮にミヤナがその少女の代役ならばドラゴナンドの民、竜界人が六歳となる年に執り行う真明の儀と呼ばれる儀式の中で《巫女》の定めと知るだろう。
なぜならそれが彼女が描いた物語のあらましだったからだ。
しかしアウトライン以外には手付かずのこの物語は作り手である望月の転生体であるミヤナにすら先が見えなかった。
「ミヤナ、ミヤちゃん。これ、なんだか分かるかな~?」
「あうあうあ~」
ガラガラといった近代的な玩具などない世界で母が持ち込んだネコジャラシみたいな雑草と戯れるミヤナは半ば気遣いで、半ば乳児の本能でそうしているのだった。