エピローグ
最後です
約二年後
「朽木君、急遽先方が商談を明日にして欲しいって言ってきてさ、この前言っていた資料今日中にまとめてくれない?」
「ええ、そんな急にですか!?」
俺の上司にあたる赤田が両手を合わせて俺に頼み込んでくる。赤田は四十ほどの小太りのおっさんで、いつも表ではにこにこして下手に出てくるが、結構えげつないことを頼んでくることが多い。
今日も本当は三日後に予定されていた商談を突然明日にすると言われて俺は思わず声を上げてしまった。当然三日後の商談に使う資料が今出来ているはずはない。
というか今日はすでに夕方。退社時間も近づいてきており、気の早い者たちは定時の瞬間帰れるように、業務日誌をつけ始めている。
「悪いねえ、それ送ってくれたら僕も家で内容チェックするから。それで明日の朝一で訂正すればいけるから」
まじかよこいつ家でも仕事するのか正気か、と思ったが残念ながら目の前で感情の読めないにこにことした笑みを浮かべている赤田が仕事を家に持ち帰るのは日常茶飯事だった。
あれから二年後、俺は某中小メーカーの営業職に就職した。
本当は作家になるか出版社に就職したかったが、どちらも門が狭すぎた。それどころか普通の企業でも面接で落ち続け、ようやく内定を勝ち取ったのがこの会社だったという訳だ。二十年以上の人生を棒に振った俺は他の大学生にあらゆる面で大きく出遅れていて、就活において大した選択肢は残っていなかった。
小説なんて書かなければ良かったと思うこともあったが、三方と出会えたのは紛れもなくそのおかげだったので、その事実一つだけでお釣りがくるといっても過言ではない。
俺は毎日のように突発的な仕事を命じられては残業させられているが、よその企業に就職した吉田によると「残業代が出るだけまし」ということらしい。実際、赤田のように仕事を持ち帰れば給料は出ない。俺より要領が良さそうに見える吉田だったが就職先は間違えたらしい。人生はよく分からないものだ。
そんな職場で俺は、
「いや、ちょうど今日暇だったんで良かったんです。それに残業代いっぱい稼ぎたかったですし」
と愛想笑いを浮かべる毎日を送っていた。多分社会に出て一番上達した技能が愛想笑いだろう。ちなみにその次は謝罪だ。
そんな俺の言葉を聞いて赤田もほっと息を吐く。もっともこいつは俺が断ることなど想定していなかっただろうが。
「いやあ、助かるよ。でも朽木君彼女いるんだって? 隅におけないねえ」
「え、それ誰から聞いたんですか」
何で俺が特に興味のない職場で上司に媚を売りながら残業ばかりしているかというと、三方との結婚資金を貯めるためである。三回生の時に彼女と付き合い始めた俺は、そのことを活力として今日まで何とか生きて来た。
おそらく三方もああいう性格である以上何かの職にはつくので俺が無理して稼ぐ必要はないのだろうが、単なるプライドに加えて俺には未だに三方の創作能力を奪ったという自責の念があった。
こんなことを言うと嫌がられるので口にはしないが、「責任を取る」という思いがあった。俺たちはあの件に対して、今でもお互いに自分の責任だと思っている。
「いやあ、社内でも評判だよ、朽木君は彼女がいるから働きぶりがいいって」
「そうなんすよ。色々物入りなんで残業も任せてください。あ、すみません、帰り遅くなりそうなんでちょっと休憩もらっていいですか?」
「いいよいいよ」
俺は赤田の前を出るとビルの外に出る。周囲に誰もいないことを確認してはあっと溜め息をつく。そして愛想笑いを消して真顔に戻る。慣れたとはいえ、顔の筋肉がおかしくなりそうだ。
それにしても今日は久しぶりに三方と食事に行く約束をしていたのに、間が悪い。ちょっと前まで出張があったせいで最近全然会えていなかったというのに。予定的に今日は残業は入らないと思っていたんだが、急にこんなことになるとは。それでも先方の言うがままになるしかないのが中小企業の悲しいところである。
仕方なく俺はスマホを取り出して、三方に電話をかける。彼女はまだ授業だった気もするが大丈夫だろうかと思ったが、数コールして電話が繋がった。
「もしもし、悪いな奏。今大丈夫だったか?」
『大丈夫ではないですが、長生さんのために授業抜けてきたんですよ。感謝してください』
「いや、授業中だったら無理しなくても……そしたらラインしたんだが」
『だっていつも忙しいってなかなか連絡くれないじゃないですか』
電話の向こうで三方はむくれる。大学時代は毎日のように会っていたものの、就職で会える頻度が減ったからか、三方はよく甘えるようなことを言うようになった。付き合う前のツンツンした感じからは全く想像がつかない。というか俺は一日に最低一回はラインしてるし、週末もまあまあ会っていたんだが。高校時代は全然連絡をとらないタイプだったのでその変わりっぷりに驚く。
ちなみに下の名前で呼び合うようになったのもつい最近で、まだ慣れない。
「申し訳ないんだが、ちょっと今日残業で遅くなる。本当申し訳ない」
『……まあ、分かってはいましたけどね。普段連絡くれないのにわざわざ電話かけてくるなんて。まあいいですよ、終わったら教えてください』
「いや、多分結構遅くなると思うんだが……」
『いいですよ。私も大学に残って発表の準備とかしているので』
三方の声には絶対に日程を変えないという強い意志を感じた。ちなみに三方が入ったのは理系の学部であり今年から研究室に配属されたという。小説を書いていたのに少し意外、と思ったが三方のあの詳細な資料や論理的な思考回路を思い出すと、理系でも納得できるような気がする。
「分かった。じゃあ出来るだけ早く終わらせるから」
『はいはい』
電話を切ると俺は深呼吸をして大きく伸びをする。正直別の日にするつもりだったんだが、あいつは全くそんなことを考えて居なさそうな様子だった。それなら早く終わらせなければ。
俺は缶コーヒーを買って職場に戻るのだった。
「終わった……」
ようやく完成した資料を赤田にメールで送った時にはすでに二十一時が迫っていた。ずっと座って集中していたせいか、腰は痛いし頭も目も疲れている。しかし三方が待っていてくれていると思うと、元気が回復してくるのを感じる。
「ではお先失礼します」
「お疲れー」
挨拶するとオフィスの隅の方から疲れた声が返ってくる。俺が最後じゃないということに恐怖しつつも、三方に連絡すると足早に職場を離れた。
帰りの電車の中で俺はスマホを開く。ツイッターに清川から『新作のにわか領主も良かった』というメッセージが来ていた。あれから学業も少しだけまじめに取り組み、就活も始めた俺だったが、その傍ら細々と『君推し』を書いて完結させた。
そしてその後少し短めの中編を書き、その後は就職で休止していたが最近また新作を書いた。やはりどんなに忙しくても小説を書いていないとどこか落ち着かない。
『にわか領主』はファンタジー世界で冒険者をしていた少年がある日、自分とそっくりな辺境の領主に呼び出されるところから始まる。
少年が館に向かうとそこはもぬけの空になっており、一言『わしは領主はもう嫌だ。お前はわしの代わりに領主をするのだ』と書かれた手紙が残されていた。仕方なく少年は領主を引き受けるのだが、その領地は問題しかなく、四苦八苦するというあらすじである。
俺の今までの作品に比べると比較的普通のストーリーなのは、俺が普通の人間に近づいたからかもしれない。これまでの作風を捨て去ることになったことに密かに罪悪感のようなものを抱いていたが、清川がおもしろいと言ってくれて安堵した。
これまでの俺の小説には俺が小説に依存しているが結果が出ないという歪な構図から生み出される暗さのようなものがあった、と思う。当時はそれがすばらしいと思っていて、今でも味のようなものだとは思っているので、三方という相手を得て歪みを失った俺が書いた小説はこれまでの読者に受け入れられるかは少し心配だった。
『これまでと雰囲気が変わっていて心配だったからそう言ってくれてうれしい』
返信すると、すぐに返事が返ってくる。
『大丈夫。ガワだけ変わっても本質的なものはそんなに変わってないから』
清川の言葉を見て俺は苦笑する。こいつがそう言ってくれると本当にそうなのだろうという気持ちにはなってくる。
ちなみに、ガワが変わったことや、『モラトリアムの魔女』などで増えた読者のおかげで『にわか領主』はこれまでの作品よりも大分初動のPVやブックマークは多い。もちろんランキングに入るには程遠いが。
そしてそんな清川も俺と同じように、特に趣味とは関係ないところに就職したらしい。相変わらずツイッター界隈では定期的にバトルを繰り広げているようではあるが。
電車を降りた俺は走って三方が待つ居酒屋を目指す。すでに大分遅い時間になってしまっていたが、大学周辺では相変わらず大学生たちがわいわいがやがやと楽しそうに遊び歩いていた。俺も去年まではあっち側にいたのかと思うといつも感慨深くなる。もっとも、俺はあんな風に楽しそうには見えていなかったのだろうが。
俺と三方が待ち合わせていたのは大学時代はよく吉田や清川と飲みにいった居酒屋「くれない」である。
残念ながら俺の在学中は三方が頑なに「二十歳になるまで酒は飲みません」と言うので、一緒に行くことはなかったが、たまに飲みに行くと三方はまるでその分を取り戻すかのように大量に酒を飲むし全然酔わない。
「悪い、遅くなった」
俺が店に駆け込むとすでに三方は料理を頼んで待っていた。俺が手を振ると少し驚いたようにこちらに小さく振り返す。
そう言えば最近は出会った時のような不機嫌そうな表情はあまり見なくなった。ほんの少しだけであるが他の人への当たりも柔らかくなったような気がする。それも年齢を重ねたせいなのか、それとも。
「思いのほか早かったですね。長生さんのことだからもっとかかるのかもしれないと思っていました」
「いや、最近奏に会ってなかったから早く会いたくてな」
「ち、ちょっと何言ってるんですかっ!」
二年以上経つのに未だにいちいち恥ずかしがってくれるのは可愛い。
そう言って三方は俺から視線をそらしてテーブルの上に置いてあったメニューを手に取る。
「さあ、早く飲み物を頼んでください、こっちはもうお腹が空いてるんですっ!」
「分かった分かった」
俺の今の境遇は色んな意味で昔思い描いていたものとは違うし、不満もたくさんある。それでも俺はこの選択を後悔していない。それでもたまにもしあの時俺のどれかの作品が書籍化されて作家になっていたらどうなっていたのだろうと思う時がある。
一時期はそれで一晩寝れなくなったりしたこともあるが、そう思うこともだんだん減って来た。何より今の俺は残りの人生があと二十年あることに感謝し、もっと長ければいいとすら思っている。
これで終わりです。
最後まで読んで下さった方は本当にありがとうございました。主人公のラストはおおざっぱに、
①小説以外で何かを得る(本作)
②小説で成功する
③ただただバッド
という三択でした。
ただ、テーマとして「神に寿命捧げた程度で名作が書けるなら誰も苦労しない」というのがあったので②はやめて、③は単に話の起伏がなくなるのでやめました。
途中で一回何かの賞をとってその後③に行くとかもありかもしれなかったと思います。
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