押韻
押韻は日本の詩にはあまり見られないもので、詩をつくる上で必須というわけではありませんが、個人的なこだわりで、私の自作にはこれを使っているものが多いです。
【脚韻】
脚韻は文末の音をそろえるもので、例えば英語の歌だとこういうものがあります。(マザーグース、谷川俊太郎訳)
〝
Bobby Shaftoe's gone to sea,
Silver buckles at his knee;
He'll come back and marry me,
Bonny Bobby Shaftoe.
〞
(ボビー・シャフトー、船出した
銀のバックル膝にとめ
帰ってきたら結婚式よ
すてきなボビー・シャフトー)
ここでは、一、二、三行目の文末で押韻していることが分かります。「イー」の音ですね。
日本の詩では押韻しているものが少ないので、私の自作から引用しますが、例えば「必然」から、
〝
人生全て蜃気楼
眺めだけならいいだろう
しかしひとたび掴むなら
焼けた鉄掴むよう
〞
というものがあります。
これは一、二、四行目で押韻しています(aaba)。この押韻の形式は、私の尊敬するウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」がこの形式なので、当初それに倣って作っていたものです。
この他の四行詩の押韻形式としては、私が調べたところだと①一行目と三行目、二行目と四行目で押韻するもの(abab)、②一行目と二行目、三行目と四行目で押韻するもの(aabb)、③二行目と四行目で押韻するもの(abcb)、がありますが、私は①と③をわずかに作ったことがあるくらいです。
①の例(abab)としては、「三毒」から、
〝
嘆かわしきは世の定め
痛ましいのは世の習い
長らえるとも誰のため
痛みの内ではわからない
〞
があります。
なお、脚韻は最後の一音をそろえるだけでなく、その前の母音までそろえることが望ましいです。
例えば、「通す」(toosu)と「流す」(nagasu)では、最後の「す」(su)はそろっていますが、その前の母音が違っています(「osu」と「asu」)ので、これだと完全な韻にはなっていません。
しかし、「通す」(toosu)と「下ろす」(orosu)や、「流す」(nagasu)と「表す」(arawasu)なら完全に押韻しています。
英語の詩だと押韻にはもっと複雑な規則があるそうですが、ここでは措いておきます。
脚韻はそろえられれば良いですが、私の印象では、日本語は言語の性質上、英語に比べると脚韻をそろえることは難しいように思います。なので、私は主に頭韻を使っています。
【頭韻】
頭韻は文頭の子音をそろえるものです。例えば、「ミッキーマウス」(Mickey Mouse)は子音M(マ行)で頭韻がそろっていますし、「ドナルドダック」(Donald Duck)は子音D(ダ行)で頭韻がそろっています。
頭韻は脚韻に比べると子音だけで済みますし、日本語の性質からしてもそろえやすいものだと思います。
また私の自作から引用しますが、「月」にはこんなものがあります。
〝
満ちては欠ける月に似て
巡ってきたる災いの
禍々しきはその姿
もどかしいのは避け難さ
〞
これは全ての行で、子音M(マ行)で押韻しています。
私は頭韻の場合は全てそろえることが多いですが、脚韻に準じて、上の①の一行目と三行目、二行目と四行目で押韻するもの(abab)、③の二行目と四行目で押韻するもの(abcb)もあります。それ以外の形式は今のところ(意識的には)使っていません。
①の例(abab)としては、「あがつま」から、
〝
吾が夫君やいざこなたへと
下り給いて告げ給え
天に乱るる我が魂の
かなしみ癒すことごとを
〞
があります。
また頭韻の場合は、日本の伝統的な詩でも、意図的にか偶然にかは分かりませんが、いくらかそろっているものがあります。
例えば、今様の最初に引用した梁塵秘抄の、
〝
仏は常にいませども
現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見えたまふ
〞
も、二行目(現ならぬぞあはれなる)以外は子音H(ハ行)でそろっています。
また、同じく梁塵秘抄から、
〝
松の木陰に立ち寄れば
千歳の緑ぞ身に染める
梅が枝挿頭にさしつれば
春の雪こそ降りかかれ
〞
(松の木陰に立ち寄れば、千年のときわの緑が身に染み付く。挿頭に梅の枝をさせば、春の雪に見まがう花が降り注ぐ)
これも、古文の読みなら一行目と三行目で(松と梅)頭韻がそろっています。
また、短歌だと、紀友則の
〝
ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ
〞
(日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着くこともなく散っているのだろう)
も、「しづ心なく」以外は頭韻がそろっています。
他には、一つの行の中で押韻するものを中間韻と言いますが、私はこれは(意識的には)使っていません。