7(完結)
美紀はイライラしながら歩いていた。さやかは殺された。誰の仕業か分かっている。あの老婆がやったにちがいない。あの老婆。いったい何者なんだろうか。本当に、ただの悪霊なんだろうか。イライラした。わけがわからないまま、イライラした。
地下鉄のホームには木村が待っていた。美紀はほっとして駆けよった。
「美紀。」
「待っててくれたの?」
木村は空き缶をゴミ箱に投げ捨てると言った。
「ああ。待ってた。遅かったね。」
「うん。」
「何かあったの?」
「うん。」
木村に会うと何故か素直になってしまう。
「帰り道に刑事がいた。」
「刑事?」
「ただの警察官かもしれないけど。私服だったから。」
「それで?」
「さやか、殺されたって言ってた。」
木村は、周りの乗客のことなど気にもせずに美紀を抱き寄せた。
美紀は、ようやく悲しみが湧いてきた。
その日も美紀は木村のアパートに泊まった。家には留守番電話にだけメッセージを残した。家に帰ったときにはひどく怒られるだろうな、と思った。夕食は木村が作った。チャーハンだった。美紀は手伝おうとしたが、木村は「まかせろ。」といってきかなかった。事実、美紀の作ったチャーハンよりおいしかった。それからテレビを見て、お風呂には二人で入った。美紀は少し恥ずかしかったが、いやではなかった。それから、いろんな話をした。学校のことや、進路のことが多かった。だが、さやかの話はしなかった。美紀も木村もその話は避けていた。
12時を過ぎた頃、テレビのニュースでさやかのことをやっていた。二人はそれを黙って見た。そこでは、さやかの死が他殺である可能性を伝えていた。美紀は明日のお昼のワイドショーのことを考えて、吐き気がした。
「美紀。さやか、オレたちが名古屋港にいたころ、死んでるな・・・。」
木村はポツリと言った。
美紀はうなずいた。
「あのとき美紀、途中で帰ったよな。」
「うん。」
「途中でさやかに会ったりしなかった?」
「そんなわけ・・・」
言いかけて美紀は口ごもった。記憶がない。そんな馬鹿な。覚えていない。どうやって地下鉄に乗ったのか、どうやって家までたどり着いたのか。まったく記憶がなかった。
「どうした?」
そんな・・・。確か、木村に何か言われて走り出した。木村には何といわれたのだったか。走り出して・・・、それから何処へ向かったのか。
「美紀・・・。覚えてないのか?」
「木村君・・・。どうして?どうして、あたし思い出せないんだろう・・・。」
木村は美紀を抱きしめた。
「いいんだ、美紀。思い出さなくてもいいんだ。」
「あたし、まさか、さやかを・・・」
「いわなくていい。」
木村は美紀をぎゅうっと抱きしめた。
「明日は学校に行かないほうがいい。このアパートなら誰かが来ても入れない。ここにいるんだ。」
美紀は木村の腕のなかで声を上げて泣いた。
朝、目が冷めると朝食の用意が出来ていた。美紀は木村と一緒にそれを食べた。美紀は木村のパジャマを着ていた。ダブダブだった。
「美紀、寝てればいいからね。必要なものがあればオレが買ってくる。心配しないでここにいればいい。ずうっといていいんだからね。」
木村は優しく言うと部屋を出て行った。美紀は、その言葉通りにした。不思議と平静でいられた。
昼ごろ再び目が冷めた美紀は何気なくテレビをつけてしまった。テレビでは、センセーショナルな音楽をバックにさやかの事件を取り上げていた。美紀は、それを見ても何も感じなかった。リモコンのスイッチを連続して押してチャンネルを変える。何処の番組もワイドショーで、さやかを殺した犯人を探していた。美紀は人事のようにそれを眺めた。なんの感慨も後悔も感情すらもわかなかった。ただ、木村が早く帰って来ればいいのに、と思った。
夕方になって、誰かが部屋のドアをノックしたが、美紀は出なかった。木村なら勝手に鍵を開けて入って来る。しばらくすると、訪問者は帰って行った。美紀にはそれが誰であるのかという興味すら湧かなかった。
6時ごろ、木村はアパートに帰って来た。食材と大きな紙袋を持っていた。
美紀は、木村を見ると笑みを浮かべた。
「これ。服、買ってきた。」
美紀は、渡された紙袋を開いた。中にはブラウスやスカートのほかに下着類も入っていた。ダイエーの値札がついていた。
美紀は、突然笑い出した。
「どうした?なにか変だった?」
「ううん。木村君が下着売り場で、ブラジャー持ってならんでるのを想像しちゃっただけ。」
木村は苦笑した。
「結構恥ずかしかった。でも、恥ずかしそうにしてると、かえって変かなっておもって、いかにも当たり前のようなふりしてさ。」
「木村君もやっぱりそんなことも考えるんだ。」
「そりゃあそうさ。」
美紀は微笑んで、木村にキスをした。
「ありがと。」
「いいさ。美紀のためだもの。」
木村はそういうと夕食の用意を始めた。
次の日も美紀は木村の家から出なかった。昼間はずうっとテレビを見て過ごした。ワイドショーでは国会議員のセクハラが発覚して、さやかの事件はほとんど報道されなかった。夕方になって美紀はそわそわし始めた。木村はなかなか帰って来なかった。美紀は部屋の中を歩き回った。が、思い立って、キッチンで料理をすることにした。いつも木村に食事を作ってもらうのも気がひける。冷蔵庫の中には豚肉や野菜が入っていた。美紀は肉じゃがをつくることにした。鍋を取り出しながら、あまりに家庭的過ぎる料理かな、と思った。
だが、木村は夜の9時を回っても帰って来なかった。美紀は不安に襲われた。木村は何をしているんだろう。途中で刑事につかまって話を聞かれてるのかもしれない。あの吉田とかいう刑事。一見ウスノロなのに、油断がない。それとも、木村は・・・。そこで突然老婆のことを思い出した。まさか。
玄関でノックの音がしたのは10時になろうとしている時だった。美紀は出なかった。だが今日は、あきらめなかった。ノックは執拗に続き、鳴りやまなかった。徐々に音が強くなっていく。明らかに部屋の中に人がいることを知っている。美紀は、おそるおそるドアに近づいた。ノックの主は察しがついていた。あの吉田とかいう刑事だ。ノックは間隔を開けて続いている。だが、美紀は妙な感触を感じていた。普通、ノックをして応答が無ければ、声を出して中の人間を呼ぶものではないだろうか。美紀は背中に悪寒が走った。
ドアの前で体が硬直した。ノックは執拗に続いている。金縛りにあったまま、美紀はドアを見つめた。あの老婆だ。美紀は直観的にそう思った。その時だった。ノックが止んだ。
美紀は、ふっと安心した。良かった。行ってしまったのだ。だが、声は背後からした。
「ここじゃよ。あんたの番だよ。」
低く、くぐもった声だった。美紀は金切声をあげた。そしてそのまま後ろを振り返ることが出来ないまま意識を失った。
木村のアパートの前で、女の叫び声を聞いた吉田はすぐさま管理人から預かった鍵でドアを開いた。吉田は美紀の姿を発見し、携帯電話から119番に電話した。 美紀の顔は真っ青だった。救急車が来るまでに、美紀の脈拍を調べ、呼吸を確認した。心臓は停止していた。すぐさま応急介護を始め、心臓マッサージと人口呼吸を繰り返した。幸いなことにすぐに美紀の呼吸は復活した。だが、意識はもどらなかった。
美紀が目覚めたのは次の日の朝だった。ベッドサイドには母親が付き添っていた。ようやく気がついた美紀を見て美紀の母親は声を上げて泣いた。医者がやってきて血圧や心拍数を確認し、母親に「もう大丈夫です。」と告げた。
美紀は、しばらくは何も考えることが出来なかったが、徐々に記憶が戻ってきた。すべての記憶が戻ってくる。
母親は、美紀の手を握ったまま「よかった、よかった。」と繰り返していたが、美紀には何が良かったのかよく分からなかった。
そして、刑事がやってきて美紀の母親は出ていった。
「高岡美紀さん。またお会いしましたね。」
吉田だった。美紀は感情のこもらぬ目で見上げた。
「ようやく、この事件も調べがつきましたよ。」
美紀はいぶかしげに吉田の顔を眺めた。
「けれど、まだ分からない点がいくつもある。高岡さん、教えてもらえますよね。」
美紀は、目を閉じた。警察につかまることになっても別に構わなかった。刑務所も学校もあまり変わりがあるようには美紀には思えなかった。
「はい。さやかはあたしが殺してしまったんです。」
「なにを言ってるんですか?木村君をかばいたい気持ちは分かりますけどね、無駄ですよそんなことしても。」
「え?」
「え?じゃないでしょうが。木村秋臣が倉橋さやかさんを殺害したことは疑いありません。そんなことに時間を費やす気にはなれない。」
「そんな・・・。じゃあ、あたしは・・・。」
その時、美紀ははっきりと思い出した。あの日、木村に言われた言葉は「さやかは死んでしまった。」だった。それを聞いたあと、美紀はしっかりと地下鉄に乗って家に帰ったのだ。だが、本当にそうなのだろうか。自分の記憶があてにならない。
「木村秋臣は、3年前に両親を火事で亡くしてから、あのアパートに独り暮らしをしている。3年前の火事は放火だった可能性があったが、火元が家の中であると結論づけられたため、捜査はされなかった。だが、後になって木村が両親を恨んでいたことが分かっている。木村は両親を殺害した可能性についても取り調べを受けている。」
美紀は黙って聞いていた。まったく自分とは関係のない話のような気がした。
「今回の倉橋さやか殺害については、凶器が木村のアパートから見つかっている。それから、犯行の前日、倉橋さやかを自宅のアパートに閉じ込めていたことも隣人の証言で明らかになっている。」
驚かなかった。以前から知っていたような気がした。
「どうやら、高岡さん。あなたも木村の術中にはまったようだね。木村は催眠術のようなテクニックを習っていたようだ。どうもそうやって人を手なづけていたようなのだ。」
吉田はそこで話を区切って、手に持ったコーヒーを口に持っていった。
「木村は君達に幽霊の話をしただろう。それがどうやら催眠術の一種のテクニックなんだそうだ。」
美紀は、ぼうっとしていた。
「まあ、ゆっくりと話は聞かせてもらうよ。こんなにも証言がとれない事件はないな、まったく。」
次の日から、美紀は入院したまま精神心理の治療を受けることになった。封印された記憶を呼び戻すために退行催眠を受けるのだ。退行催眠とは、催眠状態で時間をさかのぼり、記憶を少しづつ呼び覚ましていく方法である。UFOに連れ去られた人間の記憶を呼び覚ますのに使われることで有名だが、そうゆう怪しげな使われかただけでなく、現在では多重人格症の治療などに用いられている。時によっては、誤った記憶を作り上げることがあるので細心注意を持って行われなくてはならない。
美紀の治療はそれほど難しくなかった。記憶が閉じ込められていたのはほんの数日間のことだったし、第一暗示が弱かった。洗脳の技術の一種では、人間は信じたいと思うことを信じるのだという。美紀にとって、木村がかけがえのないものだ、という暗示が美紀に木村を疑うことを禁じていた。だが、それに対して封じ込められたさやかの記憶のほうが美紀にとっては強かったのだ。美紀は正気を取り戻すにつれて、さやかのことも思い出した。木村は美紀のさやかの記憶を封じ込めていたのだった。
美紀はすっかり記憶を取り戻した。それから、警察で事情聴取があった。美紀は老婆の幽霊のことまですっかり話した。心理学の先生は、老婆は閉じ込められたさやかの記憶が実体視されたものだといった。美紀は、木村に会う前に老婆の幽霊を見たのだと言い張ったが、それも木村の暗示だと言われた。それから3日後、退院した。美紀が入院してから3週間経っていた。
それから、美紀は高校の生活にもどった。毎日の生活は以前と変わりなかった。ただ、両親が家に帰ってくるのが早くなったことと、週に一度通院することだけが違いといえば違いだった。だが、美紀の心のなかは大きく変わっていた。美紀の自責の念はどうしても吹っ切れなかった。大切な親友を殺した男と、自分は寝てしまったのだ。通院はその心理的治療の意味もあった。
木村は、取り調べ中に自殺を図った。発見が早かったため命は取り止めたが、意識がもどっても意味不明なことを口走り、一向に裁判が始められないのだという。
初夏の、よく晴れた日曜日、美紀はさやかのお墓参りにやってきていた。さやかのお墓は街から離れた山の中に建てられていた。
美紀は一人で、電車を乗り継いでやってきたのだった。これがはじめての、お墓参りだった。事件以来、一人でこんなに遠くまでやってきたのは初めてだった。美紀が精神を安定させる薬を服用するのをやめてから、やっと1ヶ月めのことだった。この日まで、美紀はさやかのお墓参りをすることを禁止されていた。心の中の葛藤が、美紀に自殺願望をもたらさない、とは言い切れなかったからだった。
一連の事件は一応の解決をした。木村は、精神鑑定で不起訴となっていた。だが、長野県の精神病院に入院することになり、そこは、他から隔離された施設であるらしかった。 美紀は、正直なところ、とまどっていた。木村がさやかを殺したことは、間違いないだろう。幽霊なんて、存在するはずがない。もし、そんなものがいるのなら、それは木村のような人間のことを幽霊と呼ぶのだろう。妖怪や怨霊よりも、怖いのは人間の方なのだ。 けれど、美紀には分からなかった。どうしても、木村に会うよりも前に、あの幻の老婆を見たような気がする。
美紀は、さやかのお墓の前までやってきた。真新しい、その墓石の前で、美紀は何も感慨が沸いてこなかった。かつての親友が、その墓石の下で眠っているなんて、想像が出来なかった。美紀には、墓石とさやかが同じものにはどうしても、思えなかったのだ。
美紀は、持ってきた柄杓で墓石に水をかけた。
ふと、美紀は誰かの気配を感じた。以前、会ったことのある人の気配に似ていた。
「さやか?」
美紀は、振り返った。だが、そこには誰もいなかった。
美紀は、ふっと微笑んだ。さやかがいたような気がした。本当にその時、美紀はさやかが美紀のしたことを許してくれているような気がしたのだ。
けれども、墓石に向き直ろうとした美紀は、寒気が走った。その一瞬の時の中に、老婆が姿をあらわした。墓場を包む林の向こうに、老婆が立っていた。その時、老婆は薄気味悪い笑みを浮かべていたように見えた。
たぶん、人生で初めてまともに書いた小説だったと記憶しています。
パソコンのハードディスクの沼の底から救出されたので、投稿してみました。
つたない作品ですが、最後までお付き合いありがとうございました。