5
地下鉄の乗り場は混雑していた。サラリーマン達が帰るには早い時間帯だったが、高校生の数は多かった。木村と美紀は地下鉄に乗り込んだ。車内は騒音が満たしていた。木村と会話もままならず、美紀は黙って暗い窓を覗き込んでいた。窓には自分の姿が映っていた。髪形が、地下鉄に乗るまでに、春の風に吹き乱されていた。前髪を手で直す。ふと、美紀は自分の真後ろに誰か立っているのを暗い窓越しに見た。小柄な女のようだった。何処か古めかしい。美紀ははっとして、振り返った。そこには誰もいなかった。だが、美紀はそれが、あの老婆だと確信した。美紀は木村のほうを見た。木村は美紀の背後を注視していた。しばらくの間、木村はそうやっていたが、ふっと息を吐いて美紀の方に向き直った。
「もう大丈夫。離れていったよ。」
「ねえ、あれは何なの?見えた?あのババアが。」
木村は、周りを確認するようにもう一度車内を見渡した。
「ああ、見たよ。あれが、この間から美紀の周りをうろついていたんだ。」
「さやかも、あれにやられちゃったのかなあ。」
「おそらく。この前は違う姿だったけど、たぶん同じだと思う。」
「ねえ、どうして分かるの?」
「同じ感じなんだよ、この前、さやかについていたのと。見ためは、その時の人間の感情や気持ちによって見え方が違う。けれど印象、というか、発している邪悪なオーラというか、それが同じなんだよ。」
美紀は、納得したような、出来ないような気持ちのままだった。
地下鉄、名古屋港駅につくと地上に出た。表に出ると、傾きかけた日差しが目に飛び込んできた。時計の針は5時を差していた。美紀は、名古屋港まで来るには来たが、それから何をしていいのか分からなかった。
名古屋港は、公園や水族館が建設され、遊び場のような雰囲気になっている。南極観測船があり、見学もできる。名古屋デザイン博の、会場の一つになった時立てられたタワーもある。そこの展望台からの眺めは良かった。近くには遊園地も、最近作られている。平日だというのに、人は結構多かった。
美紀達は、地下鉄の入り口付近に立ったままだった。美紀は無意識のうちに鞄からセイラムライトを取り出した。一本抜くと口にくわえた。それを、木村は無造作に取り上げた。
「なにするのよ?」
美紀は、反射的に言った。
「タバコは体に悪い。」
木村は常識的な意見を述べた。
「だから何よ。あたしの体でしょう。」
「だめだ。」
美紀は、ふうっと息を吐き出して、タバコを鞄に戻した。木村は取り上げた一本をごみ箱が見当たらないのでポケットにしまった。
「とりあえず、あっちへ行ってみよう。」
木村は、臨海公園の方へ歩き出した。美紀は、一瞬ためらったが、後ろについて歩き出した。
海の見えるベンチの前に来たときだった。不意に木村が足を止めた。
「どうしたっていう・・・。」
言いかけた美紀にも、それが見えた。さやかだった。さやかが歩いていた。海の方へ歩いていく。
「さやか!」
美紀は、大きな声で呼んだ。2、3歩駆け出すと足がもつれて転びそうになった。だが、バランスをとって走り出した。さやかは、振り向きもしないで歩いていく。美紀は息をはずませながら追いかけた。
だが、やっと追いついくと、その女はさやかとは別人だった。似ているような気もするが、近くでみると、見間違えたのが不思議なほど似ていない。
「美紀さん。」
追いついてきた木村が美紀の肩に手をかけた。
「美紀さん、足早いね。」
美紀は、振り返って木村の顔をチラっと見たが、すぐに目を伏せた。手近なベンチに寄っていくと腰を落とした。木村は、近くの自販機の方へ行った。
「美紀さん、何がいい?」
美紀は、答えずに自分の手を見つめていた。木村は、適当に飲み物を2つ選んだ。取り出し口から、それを取り出し、美紀の方へ歩いた。美紀の前に立つと、無言で差し出した。
美紀も無言で受け取った。ホットミルクティーだった。美紀は、それを飲まないで手を暖めるようにもてあそんだ。そして、下を向いたまま言った。
「さやかに見えた。」
木村は、美紀に渡したのと同じミルクティーを飲み、ため息をついた。
「そういうこともあるよ。」
美紀は、下を向いたままだった。
「さやかは、もう死んでる。」
はっとして、美紀は顔をあげた。木村は上の空だった。
「木村クン?」
「さやかは、もうこの世にはいない・・・。」
美紀は、木村をにらみつけた。
「何言ってるのよ!」
美紀は、大きな声で言った。
「勝手に殺さないでよ。1日や2日、帰らなかっただけで。」
木村は悲しげな顔で美紀を見つめた。
「気持ちはわかるよ。でも、オレには分かるんだ。さやかは、もう帰らない。」
「馬鹿!」
美紀は、立ち上がると木村の頬を勢い良く叩いた。それから、鞄をつかんで走り出した。木村は、追いかけなかった。
美紀は、朝方まで寝付けなかった。このところ、ずうっとこの状態が続いていた。昼間は眠いのだが、夜になると眠れない。決して睡魔がやってこないわけではない。だが、寝付けないのだ。漠然とした不安が込み上げてきて、ベッドに横たわっているのがつらいのだ。しかも、昨日は木村に不吉な予言を聞かされた。今時の高校生が1日や2日帰らなかったとして、誰が死んでいるなどと考えるのだろう。
「頭悪いんじゃない。」
だが、木村には何か不思議な力があるように思える。美紀は、寒気が襲ってくるのを感じた。もし、さやかが本当に死んでいるのだとしたら。
「そんな、馬鹿な。」
美紀は、何度もつぶやいた。だが、不安はおさまらなかった。
不安が現実のものになったのは、次の日の朝、新聞を見たときだった。そこには、見慣れたクラスメートの写真が小さく載っていた。さやかの写真だった。
美紀は学校に行かなかった。自分の部屋に閉じ篭り、ずうっと音楽をかけていた。だがその音楽は耳に入って来なかった。今日ばかりは、親も無理に学校に行かせようとはしなかった。ベッドに顔をうずめたまま、美紀は動かなかった。知らないうちに涙があふれてくる。さやかは、名古屋港の近くで、水死体で発見された。新聞には詳しい状況は載っていなかったが、自殺だとされていた。だが、美紀は確信していた。さやかは自殺なんかしない。殺されたんだ。誰かに。でなければ、何かに。そして、その原因の一つは、美紀の見た悪霊のせいなのだ。美紀が、さやかにあの話さえしなければ、さやかは死ぬこともなかったかもしれないのだ。
「美紀ちゃん。」
部屋のドアをノックして、母親が声をかけた。
「私は、仕事に行きますからね。お昼は作っておいたから、温めてたべてね。なるべく早くもどるから、今日は休んでなさい。」
美紀は、返事をしなかった。
「じゃあ、行ってくるから。」
母親は、出ていった。父親は、先に出かけている。美紀は、家に一人きりになった。
美紀は、止まってしまったCDをかけ直した。ベッドに腰掛けて部屋を眺め渡す。机の上には、去年撮った写真が乗っていた。さやかと映したものだった。美紀はそっと立ち上がり、それを手に取った。
「ゴメンね。あたしがあんな話、しなかったら・・・。」
美紀は写真を手にしたまま立っていた。
午後になって、美紀の家の電話が鳴った。美紀は出るつもりがなかった。だが、電話は執拗に鳴り続けた。美紀は、ベルが30回を超えた時、受話器を取った。
「もしもし・・・。」
電話は警察からだった。
「倉橋さやかさんの件でお話しを伺いたいのですが・・・。これから、お伺いしてもよろしいでしょうか。」
「いやです。今日は誰とも話したくありません。」
「いや、そんな訳にはいかないんですが・・・。心中はお察ししますが、ほんの5分でもお願いします。倉橋さんのためですから・・・。」
最初から来るつもりなら、いちいち聞くな、と美紀は思った。美紀は、
「5分だけなら・・・。」
といって、受話器を置いた。その途端、電話が鳴り出した。反射的に美紀は電話に出てしまった。
「はい。」
電話の向こうからは音がしなかった。
「もしもし?」
美紀は、不安に駆られた。
「もしもし?」
電話の向こうからは、全く音がしなかった。通りの雑音や、人の話し声もしない。それどころか、電話特有のサーッという音もしなかった。
「もしもし?」
美紀の声は震えていた。受話器を持ったまま、身動きできなくなった。金縛りだった。受話器の向こうからは相変わらず何も聞こえない。だが、確かに電話の向こうには何かかがいる。
「もし、もし・・・。」
美紀の頬を涙が落ちていった。恐怖の涙だった。
「あ、・・・。」
もはや、声にならなかった。電話を取ってから、5分にはなったろうか。相変わらず無言のままだ。美紀は立ったまま恐怖で震えていた。電話を切りたいのだが、体が動かない。
「お願い・・・。やめて・・・。」
美紀は、涙声で言った。その時だった。玄関のチャイムが鳴った。そして、チャイムと同時にドアを乱暴にノックする音がひびいた。
「美紀!大丈夫か!」
木村の声だった。その時、電話が切れた。プー、プー、という発信音が耳に入ってきた。美紀の金縛りが解けて、美紀はようやく自由に動けるようになった。ぎこちない動きで玄関に向かう。
「美紀!」
木村の声に救われた、と美紀は思った。チェーンロックをはずし、ドアを開ける。木村は美紀を抱きしめた。
「木村クン・・・。」
美紀は、体中の力が抜けて、その場にへたりこんだ。
「美紀、大丈夫か?」
美紀は、かろうじてうなずいた。
「ここは良くない。」
美紀を抱え起こして木村は家を出た。
「バイク、乗れるか?」
美紀は、返事をしなかった。木村はヘルメットを美紀につけてやってから、バイクのエンジンをかけた。美紀は木村にもたれかかるようにしてバイクに乗った。
「とにかく、ここを離れたほうがいい。美紀、しっかりつかまってろよ。」
木村はそういうと、バイクを発進させた。
美紀は、しばらく気を失っていたようだった。気がつくと、見覚えのない部屋に寝かされていた。グレーのシーツカバーのついたベッドだった。
「ううん・・・。」
美紀は、首を起こした。
「気がついた?」
コーヒーを手に木村が部屋に入ってきた。美紀は、木村の差し出したコーヒーを一口すすった。
「大変だったよ。美紀、バイクに乗ったまま気を失うから、片手で押さえながらここまで走らせたんだから。」
美紀は、まだボンヤリとしたままだった。
「大丈夫?」
美紀は、コーヒーの湯気を見つめた。
「ここは・・・。」
「オレの部屋だよ。寝かせられる場所が必要だったから。」
コーヒーの温かみが手に伝わってくる。
「あたし・・・。」
「何が、あったの?」
突然、美紀は思い出した。恐怖がよみがえってくる。コーヒーを持つ手が震えてコーヒーがこぼれた。木村は美紀の手を握ってカップを机に置いた。
「警察の人から電話があって、それで、電話を切った直後にまた電話がなって・・・。それから、電話を取ったら・・・。」
「何か聞いた?誰の声だった?」
「何も。何も言わないの。何も聞こえなかった。でも、分かったの。」
木村は無言で待っていた。優しく美紀の肩を抱いている。
「分かったの。今度は、あたしが殺される番・・・。」
美紀は、木村の胸に顔をうずめた。木村は、美紀を抱きしめた。
「大丈夫だよ。オレが守る。」
美紀は顔をあげた。目が赤かった。木村は、美紀の唇に優しくキスをした。美紀は木村に体をまかせた。木村はゆっくりと美紀をベッドに倒し、それから首筋にキスをした。美紀は抵抗しなかった。それから二人は静かに、けれど激しく求めあった。