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その炎は瞬く間に2階建ての住宅を包み込んだ。
住宅街の夜は、普段なら静かに更けていく。だが、その日の夜はまるで違っていた。
立ち上る炎は、自ら意志を持つように壁をなめ、屋根をこがし、瞬く間にすべてを飲み込んだ。
遠くで消防車のならすサイレンがしていた。
「まったく、かったるいったらない。」
部活を、さぼって学校を出た茶髪の女子高生の美紀は、おもわず独り言をもらした。そうすることが、さらに彼女の気分を盛り下げた。デニム地のしろい鞄を、肩から逆側の腰へ下げ、春の杉花粉に眼をうるませながら地下鉄へ降りる階段に足を向けている。ここ数日つづいた晴天のために、杉花粉の量はピークに達しようとしていた。美紀は特に花粉症がひどいほうではなかったが、無計画な植林で、パニックになっている杉の花粉は容赦なくおそいかかるのだった。美紀は、目をこすりながら歩き続けた。
市営の地下鉄駅に降りると、気のせいか、いくぶん眼のかゆみが薄らいだ気になった。
「すみませんがア、チカテツの駅はどこでしょう?」
語尾を上げる東北の方言で、彼女は呼び止められた。
「はあ?地下鉄はここですけど.....」
「はあ、いえねえ、近い鉄道って書くやつです。」
と、そのおばさんは言った。
「ああ、キンテツね、近鉄。あそこに、書いてあるやつでしょ?」
そう言いながら、階段の案内を指さした。
「あ、書いてあった。」
おばさんは、礼も言わないで立ち去った。ため息をついて彼女は歩き出した。茶髪にしているだけで、化粧はほとんどしていない。今時の基準からすれば、地味なほうなのかもしれない。だが、顔だちは人目をひく。今、そのきれいな目は、真っ赤だった。
相変わらず地下鉄は、やかましかった。WALKMANを、かばんから取り出すと耳につける。スイッチを押したがデフ レパードは、演奏を始めなかった。バッテリーが切れていた。美紀は、キレかけていた。やや乱暴にWALKMANを、鞄に放りこむと大きくため息をついた。
地下鉄は時間を考えても割合にすいていた。窓に沿わせて取り付けられたベンチシートに腰を掛けた彼女は、だいぶ眠気を感じていた。昨日寝たのは明け方の4時だった。昨日の深夜映画は、「The fly」だった。しかし美紀は、蠅男にうなされることもなく、ゆっくりとした眠りに落ちて行った。
目を開けるとそこは、終点の名古屋港だった。ため息をついて、美紀は、地下鉄を降りた。いったいいくつの駅を乗り越したのだろう。美紀は、乱暴に息を吐き出した。
「ああ、もう、いや!」
地下鉄を降りて、プラットフォームに立った。オイルと煙草のまじったような匂いが鼻につく。下りの電車はすぐには来なかった。
『ああ、もういいや。このまま上に出てしばらくふらふらしよう。』
美紀は、ヤケクソになって階段を上り始めた。
階段を重い身体を引きずり上げる様にして登ると、乗り越し料金を払って駅を出た。名古屋港はすっかりとプレイスポットの一つになってる。モニュメントのような建物がそびえたち、遊園地が大きな鳥かごのような観覧車を回している。
春の匂が、潮の香と一緒にやってくる。夕暮れがせまっていた。
「死んじゃおうかな。」
ふとつぶやいてみる。美紀は通学鞄を開けるとセイラムライトを取り出して一本点けた。ゆっくりとした風に煙が流れていくと少しは気分が落ち着いた。しばらく歩いて、手ごろなベンチに座り、灰を落とした。通りがかりのおばちゃんが、顔をしかめて歩いていく。美紀は茶髪を風になびかせながら、そんなことには気もとめない様子で空を見上げた。
高校三年生というのは、もうほとんど拷問である。文化部の彼女は、まだ籍をおいているが、運動部の中にはもう早々とやめた奴もいる。受験のシーズンが始まっていた。美紀の成績は、2年間、人並み以上に良かった。だが今の彼女は勉強をするという気力は失せていた。彼女に言わせれば、受験勉強が役にたたないことは、先生達だって知っていることだった。だから、就職するやつらには、もっとまともなことを教えるために、別クラスを用意する。もっとも、今年就職クラスはない。みんな大学へ行きたいらしい。
タバコを一本灰にして、彼女は立ち上がった。
「さあてと、どうしようかな。」
家に帰って、勉強しているふりだけでも、しなくてはならないことは分かっていた。
が、そうする気にはなれそうになかった。
突然、美紀は声を掛けられたような気がして振り返った。
そこには老婆が、じっとこっちを見つめていた。美紀は声にならない悲鳴をあげ、おもわず半歩後ずさった。あまりに、そのあたりの景色に不釣り合いの老婆だった。茶色の薄汚れたような和服を着て、周りの空気さえもが一層暗く感じられるほどの不気味さがあった。
『なに、これ』
ほかに、頭の中に言葉が浮かんでこなかった。そして、動けなかった。
「お前さん、死にたいんじゃろ。」
老婆は、口を動かさずにそう言ったように見えた。
「死にたい、そう言ったじゃろ。」
低く、しゃがれた声だった。
「じゃから、殺してやるわい。」
美紀は、眼をみひらいた。その時、彼女の目には老婆の向こうの景色が見えた。いや、老婆の姿は、その瞬間見えなくなってしまった。美紀は呆然と、老婆のいたはずの空間を眺めていた。
次の日の朝は、美紀は地震で眼が覚めた。時計を見ると4時50分だった。カーテンの向こうは薄明るくなっていた。ピチャピチャと雨のしずくの音がしていた。昨日の夜は、なかなか寝付くことができなかった。夕方に見た老婆の幻覚が、何度も思い出されて何度もキッチンへ行ってホットミルクを作って飲んだ。残念ながら、アルコールの類は置いてなかった。
『あの老婆は、なんだったんだろう。自分の心の創り出した幻影だったのだろうか。それとも、消えたように見えたのは丁度暮れかかった夕闇に、溶けて見えなくなっただけなのか・・・。』
ベッドの中で、彼女は何度も同じ問いを繰り返したが、結局3時頃そのまま眠り落ちた。すると、2時間も寝ていなかったのだろうか。しかし、彼女は眠気を全く感じなかった。
「それで、そのババアなにもんだったの?美紀。」
さやかが尋ねた。地下鉄を降りたところで、さやかに、美紀は会った。
「わかんない。でも、なんかキモチ悪いのよね。だって、消えたんだよ、スーッて。」
改札を抜けると地上に出た。明け方の雨は止んでいたが、相変わらずのはっきりしない天気だった。
「それってさあ、美紀の深層心理ってやつなんじゃないの?」
「おっ?深層心理とくるか?さやかからそんな言葉が出るとは。」
「失礼なやつめ。あたしだって、そのぐらいの言葉は知ってますー。詳しくは知らんけど心理学でしょ、心理学。」
「まあね。心の奥深くで心配してることとかが、幻覚になっちゃうやつでしょ。」
「美紀ちゃん、オカルトカルトだね。」
「キャー。それって生物の岡田とかが言いそうなギャグ。ヤダー。キモチワルー。」
そういうと、美紀はおおげさに逃げてみせた。
「まってよー、美紀。」
さやかが、走って追いかけると、美紀もキャーキャー笑いながら走り出した。
「さわるな、さやか。オヤジがうつるー。」
さやかが、追い付いて美紀の手首を掴んだ。
1時間目は現代文だった。美紀は、別に好きでも嫌いでもなかった。最も、好きな教科などないし、嫌いといっても落ちこぼれるほど出来ない教科もなかった。しかし、現代文は気楽でよかった。どうせ、聞いていてもいなくてもテストには関係ない。受験まであと1年。もっと厳密言えば、1月のセンター試験まで、あと8ヶ月しかないのだが。
「ねえ、手紙。」
後ろの席の男子が美紀の肩越しに紙片を手渡した。さやかからの手紙だった。授業中、クラスの中は沈黙のままおしゃべりがつづくのである。
『美紀へ。松永クンって、和美と付き合ってるらしいよ。このあいだ、栄の地下街をふたりで歩いてるトコなっちゃんが見たんだって。なんか~、メッチャいいかんじだったらしいよ。あ、そうそう、朝のオバケ?、あれさあ、3組の木村っていうオトコのコが、霊感強いらしいよ。あたし、ちょっと知ってるヤツなんだけど紹介してあげようか。』
現代文の授業は暇な分、手紙の行き来が多い。しかし、それ以上に中年の教師の授業は退屈で、美紀は、昨夜の睡眠不足のせいで、だんだんと眠くなってきた。そして、1時間目が終るまで、起きなかった。
放課後、美紀とさやかは中庭の掃除当番だった。
「美紀、美紀。あそこの、木の下でサボってるのが木村くんだよ。」
さやかは、ほうきを弄びながら言った。木村は、ロンゲだった。
「かっこいいじゃない。思ったよりは。」
木村は、美紀の想像よりもずっと明るい表情で、隣のクラスメートと思われる男子高生としゃべっていた。
「呼んであげようか。」
「いいよ、べつに。なんかにとりつかれてるってわけでもないしさあ。」
「いいのかあ、美紀、明日死んでたらどうする?」
さやかは、白い歯を見せて笑いながら言った。