黒猫と少女
清々しい春の風が朝露とともに新緑の葉を揺らす。弥生も終わりかけであと少しすれば夏だというのに、まだ肌寒く森の奥深くまで出歩く者はたった一人を除き誰も居なかった。
「うーん...なかなか居ないなぁ」
白く滑らかな肌に鳥肌をたたせ、小さな体を震わせながら森の小道をとぼとぼと歩く少女。その少女こそが先の例外である。
その少女の名は雪。齢十七程、長くのびた艶やかな黒い髪がサラサラとそよ風にのって靡いていた。いくつもの花が描かれた薄紅色の着物からすらりと伸びた手は、靡く自身の黒髪を一房指に引っ掛け、困った顔で耳にかけている。その姿は美しく、また、儚くて一枚の絵の様だった。
「ねえアンタ。何探してるの?」
「実は……」
不意に雪の背後から声が聞こえ、その質問に答えながら振り向いくとそこに居たのは一匹の黒い猫。雪は目を見開いて驚愕した。
「えっ……猫が、喋ってる!?」
「え、ほんとに?僕の話した言葉がわかるの?」
夢じゃなかったんだ。黒猫はそう呟くと、人の言葉を喋ってる、自分の声が伝わっているという事に感動し目を輝かせた。
「猫ちゃんは最初から喋れたわけではないの?」
怪奇現象と言うに相応しい状況に思わず雪が問い返す。
「うん!昨日獣神様にお願いしたんだ。人の言葉を話せるようになりたいって」
「そしたら今日話せるようになっていたって事?」
「うん!」
猫は自分の言葉が通じる人間を、雪は目の前で喋る珍妙な黒猫、しばらくの間見つめていた。
「そういえば君はなんて名前なの?」
しばらく無言で見つめ合う時間が続き、耐えられなくなった黒猫が話題を変えるため雪に訊く。
「名前?あ、自己紹介がまだだったね。私は井上雪。猫ちゃんは?」
花が咲いたような笑顔で問い返す雪に黒猫もつられて笑う。
「僕の名はね……あ、そっか。僕は言葉が話せるようになっただけで名前はないんだ」
黒猫の周りの温度が急激に下がり春とは思えないほど周囲の空気は冷たくなった。そして黒猫は悲しそうに目を伏せる。
「...じゃあ言葉を話すから〈言ノ葉〉は?
言ノ葉ってかいて〈ことのは〉って読むの!ぴったりでしょ」
見かねた雪が明るい声で提案する。
「言ノ葉……僕なんかがもらっていいの?」
「当たり前だよ!私、ちょうど猫を探していたの。だから私たちはもう家族だよ!」
あ、そっちさえ良ければだけど……とか細い声で付け足すが黒猫は喜びを噛み締めるように目を細める。
「言ノ葉、井上言ノ葉……うん!僕たちはもう家族だね!よろしく」
そして、雪は言ノ葉を抱え森の中から雪の住む賑わう町から少し離れた小さな村へと帰っていった。