排水孔
ごくごく身近にあるものにも、非日常はひそんでいるのかもしれません。
それは、いつ、いかなる形で姿を現すのか、わたしたちにはきっとわからないでしょうけど、彼らはきっとアナタがくるのを待っているはずです。
僕の暮らしている部屋は鉄筋コンクリート造り築十年、2LDKの端部屋で六階に位置しているという間取りで三万円しかしない。
ビル管理を身内がやっているわけでもなく、無理やり値切ったというわけでもない。
けれども理由は確実に存在している。
簡単に言ってしまえば、この部屋はいわく付きの物件らしい。 以下は入居前、不動産仲介業者の営業マンに聞いた話。
以前に住んでいたのは一人暮しの女性だという。同階の住民に話を聞くと、別段周辺トラブルを起こしていたわけでも怪しい出入りがあったわけでもなく、ごく普通の生活を営んでいたそうだ。
そんな女性がある日、変死を遂げていたという。
発見したのは隣人だった。ほぼ毎日挨拶をしていたはずなのに、数週間前からはたと顔を見なくなってしまったという。
平日はおろか、休日でさえ外を出歩く様子すら見当たらない。
これはさすがにおかしいと思った隣人は管理会社に連絡し、同日、警察を同伴して彼女の家に立ち入った。
最初に感じたのは鼻をつく痛烈な異臭だった。それはまるで、肉を腐らせたようなひどく爛れたものであり、まともに嗅いでいると錯乱してしまいそうなくらいきついものだったらしい。
警察官が室内を調べる。
彼女の姿は浴室で発見された。
排水孔のちょうど前辺りに、正座のような姿勢でいたという。顔面とよべる部分がごっそりとなくなっており、首から下だけの状態だった。何かに食いちぎられたようにズタズタの切断面が死に様のむごたらしさを物語っていた。
警察は殺人事件として捜査を開始することになる。
だが、証拠は一切見つからず、証言らしい証言も一切とれず、あっという間に行き詰まってしまったそうな。現在でも進展らしいものは全く見られない。
唯一えられたのは、「排水孔からカラカラと音が聞こえる」という同僚の言葉のみ。無論、排水孔のフタを開けても何もでてこなかったそうだ。
まさか幽霊のせいにするわけにもいかず、営業マンが困り果てていたいたところに現れたのが困窮極まりない僕だった、というわけ。
最初は五万円くらいのワンルームにする予定だったのだが、気づけばこの部屋の契約書にサインしていた。
だって、家賃が安いし、保証金もいらないって言うし、そもそも僕はその手の怪談話を怖いと思わないタチだ。部屋に血糊がべったりと残っていた、というならば話は違ってくるが、浴室だったため綺麗なもんだった。
この場合は実話だからちょっと趣旨が違う気もするが、万が一他殺だったとしても同じ部屋に何度も忍び込む間抜けな殺人者はそうそういないだろう。
そんなことで僕はこの部屋に住むこととなる。
部屋に暮らしはじめてから半年ほどが経過する。
上の階の足音が時折気になるが、目立った住人トラブルもなく僕は悠々自適の一人暮しを満喫していた。高卒就職一年目の僕には実にありがたい物件だ。
こんなことをいうのは死者への冒涜かもしれないが、前の住人が死んでくれたお陰で僕が暮らせたのだから、ありがとうと言いたいくらいだった。
さて、今日の僕は部屋で友達とお酒を飲んでいた。
その女友達は多分近いうちに恋人っていう呼び名に変わるであろう人で、今日の夜更けになれば何かしら身体を動かすことをするのだろう間柄だった。
ま、女を部屋にあげること自体はじめてだったけど。
話のネタとしてこの部屋の話は実に面白い。
彼女にそれを話すと怖がりつつも喜んでいた様子だった。
「浴槽で死んでいたのよねその人」
「うん。首から上がきれいさっぱり持ち去られてたんだって」
「へえ、怖い話だね」
酔っているのだろう、笑いながら僕の腕をつかむ。
僕は僕で「大丈夫だよ」なんて言いながら彼女の肩を抱き寄せて、言い感じになっている。
「見てみたいな、そこ」
「いいけど、毎日僕が使っているから怖くもなんともないよ」
「いいからいいから」
言うが早いか彼女は立ち上がって浴室のほうに駆けていく。
やれやれ、とため息を吐きつつ彼女のあとを続く。
彼女は浴室で僕を待っていた。
「どの辺りだったの?」
「えっとね」僕は営業マンや隣人に聞いた通りの姿勢をとる。取り外せる小さな床板の下にある排水孔をのぞき込むようにして、正座する。「こんな感じだったそうだよ」
「ってことはその人は排水孔をのぞいていたときに殺されたのかな?」
「そういうことなんじゃないかな?」
探偵を気取るように顎に手をあてながら彼女が僕の隣にやってくる。排水孔をのぞき込むような姿勢をとる。
「死んだ人は、その中からカラカラと音が聞こえるって言ってたそうだよ」
「中は見たの?」
「うん、もちろんだよ。錆びついた配管が見えただけ」
顔を見合わせながら話す。キスまであともう少し、そんな気がした。
「見てもいい?」
「いいけどさ……本当に何もないよ」
僕の言葉など聞いていないようで、彼女は床板を取り外す。
くぼみになった一角が現れ、その中心に排水孔が存在している。網目に穴の空いた金具によってフタをされている。
「これって周りの床、外せるんだね」
「そう。それを外すと配管が見えるの」
くぼんだ床に手をかける。少し水分が残っており冷たかった。
床を外す。
光の届きにくい薄暗い床下に配管が伸びている。表面には赤とも茶色とも乳白色ともいえない錆が付着している。
ただそれだけの、薄汚い光景。
彼女は顔を近づけて床下の様子をくまなく調べるが、やがて諦めたように顔をあげて僕を見る。
「ね。これだけ」
「ほんと。これだけ」
取り外した床をはめこむ。
その上に床板をはめ――ようとしたその瞬間だった。
カラカラ……カラカラ……。
そんな音が聞こえた。石ころのようなものを転がしてぶつけたような音にも、虫の鳴き声にも聞こえた。
僕たちは咄嗟に声を発することができず、耳を澄ませてしまう。
カラカラ……カラカラ……。
音はいくつかの小さなものが幾重にも折り重なっていた。
それは恐らく、さっき僕がはめ込んだはずの床下から聞こえていた。
「何、だろう……」
「開けてみてみようよ」
平然を装う彼女だったが、口元が引きつっていた。
僕もまた、怖かったのは確かだがそれ以上に興味があった。何もとって喰われてしまうわけじゃないんだから、それくらいはいいだろう。
はめかけた床板をもう一度脇に置く。
濡れた床に両手をかける。
カラカラ……カラカラ……。
「開けるよ」
僕はそう宣言し、床を取り外す。
つい数分前目にしたばかりの床下が再び僕たちの前に現れる。
身を乗り出して彼女はその内側を凝視する。
僕はそのすき間から顔を入れる。
カラカラ……カラカラ……。
確かに音は聞こえている。ここから。
しかし暗くてよく見えない。手前の錆びついた配管くらいしか、僕の位置からだとしっかりと確認できるものはない。
そんなことを思いながら配管に視線を移し、僕は言葉を失う。
表面についていた錆だと思っていたものが蠢いていた。それらはごくごく小さなフジツボみたいな形で、泡を立てるように配管の表面へと浮かび上がっていた。中央についた口が震えるみたく動いており、それと同時にわずかばかり移動している。
配管中にびっしりと湧いていた。動きながら一カ所に集まっていた。
カラカラという音は、この生き物がぶつかり合う折に出た音だった。
ぞっとした僕は思わず排水孔から顔を背けてしまった。
「どうしたの?」
恐らく、暗がりになっているため状況が理解できていない彼女が顔を突っこんだまま声をあげる。
僕が「離れろ」と言おうとしたちょうどそのときだった。
その穴から何かがものすごい勢いで伸びてきた。
ブツン、とゴムを切るような音。
カラカラ……カラカラ……。
三十センチほどの細長いそれはさきほどのフジツボのような生き物の集合体だった。硬いからだを寄せ合いながら一つの大きなからだとなり、その中央にはぽっかりと大きな穴のような、口のようなものが空いていた。
そして、その口には彼女のきょとんとした顔が乗せられており、首があるはずの位置からは剥がれた皮膚と神経がぶら下がっていた。
一瞬の後、彼女の頭部はその生き物の穴へと吸い込まれてしまう。
カラカラ、ゴリゴリ、ガリガリ、カラカラ。
いくつかのいびつな音が混ざり合う。
味わうように生き物がゆっくりと床下へと帰還していく。
見えなくなった。
浴室に残されたのは腰を抜かしたままぼう然自失とする僕。
そして、切断された真っ赤な一面から大量の血液を流し続ける顔のない彼女。二度と動くことのない彼女。
彼女の血液は自然と、排水孔へと流れ込む。まるであらかじめそこに注ぎこむよう仕組まれていたかの如く。
あれ、彼女の頭はどこに消えてしまったのだろうか。
カラカラ……カラカラ……ゴキン。
音が聞こえなくなった。
いかがでしたでしょうか?
お風呂にはいっていたとき、何気なく排水孔に流れる水を見ているときに考えついたものです。
しんとしているから、何か物音がしたら結構怖いんですよね、お風呂って。
それでは、感想、批評などありましたらぜひよろしくお願いします。
またお会いしましょう。