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家へ帰った時、母がいなかった。テーブルの上に書き置きがあった。
『夜に仕事があるので、作り置きのご飯を食べて、大人しくしていて、夜だから外へ出たら危ないからね』
テレビをつけなければ、音がほとんどなにも無かった。窓の外の田んぼから、虫の声が時折聞こえるだけだった。テレビをじっと眺めた。電気の白が消えたら真っ暗なんだ、と、ふと不安になる事があった。テレビの人達が羨ましかった。そこには人がいっぱいいて、寂しい思いをする事が無い。時間が長かった。夜になって電気を消すのが嫌だった。布団に入った時、何も聞こえ無くてあまりにも寂しくなったから、起き上がってテレビをつけ直した。
母と過ごせるのは朝ぐらいだから早く起きて、母のいる居間の引き戸を引いた。母はいつも眠そうな顔で、おはよう、とボソッと言った。その瞬間が好きでたまらなかった。それが唯一の、自分が一人の子供である事の証明だった。30分程、母の隣に座った。朝ご飯の支度の前になると、母は気を遣うように「作るからね」と言って立ち上がり、台所の引き戸を引いた。
朝ご飯を食べ終えるのが寂しかった。後は一人で、まだ慣れない道を歩き、慣れない人達の中に身を投じ無ければいけない。その後は、長くて冷たくて透明な夜を過ごさなくてはいけない。
日々が冷たかった。
自分のいる世界からいつの間にか温かい色味が抜けているようだった。まるで、適当に色づけられた心無い絵の中で息をしているようだった。学校では大きな波に流されないように、常に手綱を探し、必死に握りしめた。学校が終わると、沈黙に殺されないように必死に音を作り続け、色が褪せてしまわないように必死に絵の具をこしらえた。テレビをつけ、窓の外を眺め、何度も読み古した少女漫画を懸命に色付け直した。作り置きの晩御飯を懸命に内側で温め直した。
一月経つ頃になっても、学校での独特のストレスは無くならなかった。でも一人の生徒と仲良くなる事が出来た。「ねえ、いえどっち」少女はドキドキしながら田んぼ沿いを指差した。「一緒じゃん、一緒に帰ろっか」うん、と少女は言った。
田中さんは少し自分より背が高くて、平べったい顔をしていた。自分の顔は頬に丸みがあるので、その容姿は自分とはかけ離れていて、そのせいか分からないけど少女は田中さんと一緒にいると妙に落ち着いた。「そっかあ、転校って大変なんだね」その時、少女はようやく自分がこの町に受け入れられたように思えた。今までは、どこか自分が宇宙人みたいな、微妙な、でも心苦しい疎外感を感じていた。地元の方がもっと賑やかだった、と少女は言った。「へえ、残念だね、損だよね」アパートがボロくなって最悪、と明るく少女が言うと田中さんは笑った。「うそお、最悪じゃん、ウチ引っ越した事ないけど、ボロくなるの嫌だね」
お風呂とか狭くて最悪だった。田中さんは嬉しそうに笑った。「じゃあ、また明日ね、一緒に喋ろうね、バイバイ」少女は笑って、少し目が潤んだ。それ以前いつ笑っただろう?思い出せなかった。
翌日から、ようやく学校で楽しいと思えるようになっていった。理科室に行く時、田中さんが「一緒に行こう」と手招きしてくれた。藤堂さんという、色の浅黒い大人しい女子も一緒だった。田中さんが昨日の引っ越しの話を持ち出してくれて、藤堂さんはうつむきながらクスクス笑った。
体育のバスケットボールの授業でシュートを何本か決めて、男子がそろって、凄い、と褒めてくれて皆に認めてもらえた気がした。クラスで一番おしゃべりな岡本くんに、冗談混じりのからかいを受けて、みんな笑ったのが嬉しかった。周りの生徒から名前を呼ばれる事が増えてきた。学校の帰り、田中さんの家へ遊びに行った。田中さんと一緒にパンケーキを作ったのが楽しかった。夕方、帰ろうとした頃、田中さんの母が帰ってきて、彼女は手に袋を持っていて、笑顔が優しそうで、家も綺麗で、寂しくなさそうで、少女は笑ったけど、内側で胸が押し潰された。
一週間後、母は少女にある事を告げた。
前と同様、それを受け入れられなかった。