契約ライン
「お~い! 起きろ~!」
誰かに呼ばれている。ゆさゆさと身体も揺すられている。
「急げ~! 昼になる前に食べてくれ~! じゃないと『朝食』じゃなくなる!」
声の主はやけに切羽つまった様子だ。
「あわわ。髪の毛が消え始めてる!」
そしてちょっと楽しそうだ。
「キミ今ちょっと笑っただろ! 早く起きろ! ホントに消えてるんだから!」
でも眠い。そういえば俺って低血圧だったなんて思い出す。
「くそ、こうなったら強硬手段だ! 魔法で叩き起こしてやる!」
なんか嫌な予感を覚えつつも睡魔に勝てず、再び微睡みの中へ没入する寸前、
「風土竜!」
魔王の凛とした声が鼓膜を打った。
瞬間、身体がふわっと軽くなり「あれ、なんか気持ちいいぞ」なんて錯覚したところで。
耳元で風音がうなり、強烈な力に背中を押された。そして俺の体は天井に向かって――
「っつ! げむっ! ぱはぁ!」
飛んで激突。そして落下した。
「……俺が悪かった」
俺は魔王に頭を下げていた。天井にぶつけられて、こっちが謝っている。不思議だ。
あの後、床に叩きつけられてへばっている俺の口にパンが無理やりねじ込まれた。
なんだこの拷問はと思いながらチカチカする視界で魔王を見ると、魔王は「消失が止まった! 朝食が間に合った!」なんて叫びながら小躍りしていた。
しかし、魔王の後ろにかかっている時計の針はすでに正午を回っていた。完全に昼だ。
どうやら魔王の消失は昼前に始まったらしいが、俺が口にパンを押し込まれたのは十二時過ぎ。それで消失が止まったというのだからよくわからない。契約不履行の基準はかなり曖昧ということになる。
ある意味では僥倖だが、これはこれでどの程度まで許容範囲なのかを知っておかなければ不測の事態に対処できない。
ていうか無理やり食べさせてオーケーなら、寝ている俺の口にパンねじ込めばいいわけで、何も俺を天井と床の間でドリブルさせて起こす必要はなかったんじゃないかと思う。
「本当にすまなかった」
でも、俺はそれらの不満は口に出さずぐっと堪える。
契約不履行について詳細な確認を怠って眠りこけていたのは俺だし(先に寝たのは魔王だが)午前中いっぱい爆睡していたことを、契約ペナルティを甘く見ていたからだと言われれば否定できない。
「……許してくれるか?」
俺は下げていた頭をわずかに上げて、テーブルの向い側に座っている魔王に申し訳なさそうに視線を送る。俺に謝られた魔王は、少しバツが悪そうに肩を揺らしていた。
「わ、私も少しやりすぎた……と、思う。反省してる」
おずおずと魔王が答え、こちらの顔色を窺う。俺は表情を崩して言った。
「じゃ、これで仲直りだ」
「う、うん!」
魔王の顔がぱっと明るくなった。そして右手を差し出してくる。
仲直りの握手――照れくさいなと思いつつ、その小ぶりな手のひらを握り返す。視線が合うと、魔王も照れくさそうにはにかんだ。
こうしてめでたく和解成立と思わせておいて俺は魔王の手を思い切り引っ張った。
「へぶっ!」
体勢を崩した魔王が勢い余ってテーブルに顔面を打ちつけ、浜に打ち上げられた魚のような格好で静止する。
俺は握っていた魔王の手をぺいっと放り捨てると、テーブル上にへばりついている魔王に告げた。
「てめえは友達を起こすとき、天井へぶつけていいとでも思ってんのか? 起き抜けに天井と熱烈なモーニングキスかました男なんて世界広しといえど俺だけだぞこの野郎!」
ぐぬぬ、とテーブルの上で身を起こした魔王が、赤くなった鼻を押さえながら叫ぶ。
「キ、キミが起きなかったんだから仕方ないだろ!」
「仕方なくねえよもっとマシな方法があるだろが! 魔法だか何だか知らんが、下手したら屋根突き抜けてそのまま天に召されるとこだったんだぞ!」
俺が額をぶつける勢いでぐいと詰め寄ると、魔王は一瞬たじろいだものの、すぐさま歯を剥いて反論してきた。
「私だって髪の毛が消えてたんだぞ!? それに私はキミのため思ってだな!」
「ああん? 俺のためぇ? てめえは何か? 俺が天板に発情してるように見えたってのか? 恋のキューピッド気取りか? ああん!?」
「そんなわけあるか! だいたい誰が好き好んで自分の家の天井壊すんだよ! てゆーか天井壊れてんのにキミは無傷っておかしくないか!?」
「そこはむしろ友達に怪我なくて安心するとこだろうが! それどころか天井のクモの巣まで体張って取ってきたお友達様になんか言うことあるだろこの野郎!」
「うわそうだった! ばっちぃこっちくんな!」
「そー言われると是が非でも近づいてやりたくなるなぁ!」
狭い部屋の中を、テーブルを中心にぐるぐると追いかけ回す。
「こっちくんなバカァ! さっきまでの殊勝な態度は何だったんだよぉ!」
「あれはお前に罪悪感持たせるための演技にきまってんだろ!」
「さ、最低だなキミは!」
罵り合いながらテーブル周りをひたすらいたちごっこ。
「ふ、ふははっ! こっ、こうして、逃げている、限り、絶対に、捕まらないぞ!」
そうして五分ほど俺から逃げ回り、ぜいぜいと息を切らしながら魔王が言った。
今はテーブルを挟んで互いに様子見の硬直状態。
魔王がテーブル越しに俺を見て、ものすっごい得意顔になる。
「いや、バカだろお前」
俺はぐっとテーブルを押した。狭い部屋だから、テーブルを少しずらすだけで反対側のスペースがあっという間になくなる。
「うわわわわ!」
魔王があわててテーブルを押し返すが、女子供の非力では男の俺と勝負にならない。じりじりと追い詰められ、とうとう魔王の背中が部屋の壁にくっついた。そこをテーブルの上に身を乗り出して捕まえる。
「ひ、卑怯だぞ!」
テーブルと壁に挟まれて身動きの取れない魔王が、恨めしそうに俺を見る。
「こんなんガキだってわかるだろ。そのくせさっきは余裕ぶりやがって」
「キ、キミも最初は思いつかなかったくせに!」
「いいやお前を疲れさせようと思ってやらなかっただけだ」
「やっぱ最低だなキミは!」
「しかし、あれだな」
「な、なんだよ」
身動きとれない魔王をじっと見つめる。魔王の瞳がわずかに揺れた。
「――なんで捕まえようと思ったんだっけ?」
「あ、や、それは……」
魔王があたふたと俺から目を逸らす。それでもやっぱり何か気になるのか、ちらちらと視線が戻るその先は――俺の顔。そのちょっと上。頭髪のあたり。
「ん?」
右手で自分の髪の毛に触れる。わずかに粘着質のあるものが指に絡んだ。
クモの糸だった。
魔王を見る。青ざめて引きつった笑いを浮かべていた。俺は爽やかな笑顔を浮かべた。
そして俺は右手を魔王に差し出した。
「ぎゃああぁぁあっ!? やめろこの人でなしいいいいぃっ!」
魔王が涙ながらに糾弾する。ぱっと見が幼女のこいつをいじめるのってなんか背徳的というか意外に興奮するものがあるな、なんて思ったところで。
俺の手が消えた。
「うおおおおおおっ!?」
「うわあああああっ!?」
二人してしばらく絶叫した。