第一〇話 「鼻うがいと追い詰められる僕」
盛大に鼻から水をぶちまけつつ、咳き込んでいるとある事に気が付いた。
先輩達の立ち位置は僕が噴き出しても、その水が絶対にかぶらない位置…、それでいて離れすぎてもいないそんな絶妙な距離と位置…。
つまり、ぼくは担がれたと言う事か。
しかし、田中先輩とジャージ女が、この悪戯を申し合わせる時間はなかったはずだ…。これは単なる偶然と考えるべきなのだろうか。
「いや、見事にぶちまけたわね」
ジャージ女が机を叩きながら爆笑している。
「ちょっと、ヒドいよ。すぐにぞうきん持ってくるね」
「あっ、すひません。自分がやります」
さすがにこれの始末を先輩にして貰うのは問題があるし、気が引ける。
「じゃぁ、ぞうきん持ってくるからお願いね」
あっ、田中先輩って、なんか優しい。
こういう優しい女性って本当にいるんだなぁと思う。中学校の時は、男としかつるまなかったし、母さんは厳しかったし、何時もいらいらしてた。目の前にいる先輩であるところのジャージ女は、この調子だ。
恥ずかしい話かもしれないが、老若含めて覚えている限り初めて女性に優しくされた。
うわぁ、これは嬉しい!
そんな女性が、鼻から水をすするという奇行を受け入れている事は見なかった事にしよう。
うん。忘れた。
「はい。バケツと雑巾」
「あっ、すいません。後はやります」
「でも、なかなかのチャレンジャーよね。君」
「へっ?」
「真水で鼻うがいするなんて」
ぞうきんが入ったバケツを僕に手渡しながら、田中先輩はくすくすと笑った。
「えっ?どういう事ですか?」
「そりゃぁ、アンタ」
また吹き出しながら、ジャージ女が割って入る。
「塩混ぜて生理食塩水作らないと、鼻がつーんってして苦しいに決まってるじゃない?」
「何ですかそれ!?」
やはり、担がれていた!
「ちょっと怒らないでよ。無知を恥じる事はないわよ?無知のままでいようとするその姿勢が恥なのよ」
「はぁ!?」
さすがにイラッときて怒鳴るも、どこ吹く風。サラッとかわされた。
「確か、僕は鼻うがいとやらについて教えを請おうとしていたのではなかったのでしたっけ?」
「そうだっけ?なんか、打算で妥協して、嫌々実行したように見えたけど?」
「確かに…。言われてみれば、その通りですけど…」
当たってるだけに、ぐうの音も出ない。
自分のことは棚に上げておいて、感情に走るには自分の教養と臆病さが邪魔をした。
つまり、ここで感情にまかせた行動を取った場合、今度こそ本当に変な噂を流されてしまう。状況的に、田中先輩も状況を曲解させる証人として加わる事は想像に難くない。
こういう時、男というのは本当に無力だ。
「少しは考える頭があるみたいね?じゃぁ、この後どうすればいいか分かるわね?」
にたりと悪い感じの笑みを浮かべ、勝ち誇るジャージ女。
「…。あぁ、すいません。それについてはよく分かりません」
何だろう?
「あれ?意外な返答」
「ちょっと、あんまりいじめちゃ可哀想よ」
助け船とばかりに、田中先輩が割って入ってくれる。あぁ、やっぱり田中先輩はやさしい。いい人だ。鼻から水すするけど。
「えっと…。あっ、そう言えば名前聞いてなかったね?私は田中純子。田中は普通に田中。純粋な子と書いてすみこ」
「私は鈴木好江」
「ははは。聞いてねぇし」
「なにを!馬鹿のくせに生意気だ!」
無視する。
とは言え、一応は先輩だし、ジャージ女とかだと失礼だから鈴木先輩と呼ぶ事で統一しよう。無駄な波風と敵を作らないのが処世術という物だ。
「えっと、僕は佐藤高志。佐藤は普通に佐藤。高い志と書いて高志、です」
「すごい、こんなに名前負けしてる…」
「はいっ、そこ。煽らない」
田中先輩。やっぱりいい人だ、最高!
「あぁ…。ごめん。ちょっと名前の漢字が出てこないや。どんな字だっけ?」
「えっ。全部小学校で習う字ですよ?」
「うーーん。ごめん。やっぱり出てこない。ちょうど、紙があるし書いてくれる?」
田中先輩。いい人だけど、漢字知らなすぎ。やはり、鼻から水をすするという奇行がが問題なのかもしれない。
「もちろん。よろこんで」
鈴木先輩なら断ったところだけど、他ならぬ田中先輩の頼みだ。快く引き受けよう。
「じゃぁ。ちょっと待ってて。紙持ってくる」
そう言うと田中先輩は、地学室奥のキャビネットから白紙とペンを持ってきた。何でも出てくるな、あのキャビネット。
「あっ、どうせ書いてくれるならついでにコースとクラスも書いておいてよ。恥ずかしながら、私。人の名前とか覚えるの苦手で…」
確かに、こんな簡単な漢字も出てこないんだから、人の名前とか覚えるの苦手そう。
「えっと、分かりました。特進コース1年2組、佐藤高志っと」
「あぁ、この字ね。思い出した。書いてもらえるとさすがに分かるね」
「ど忘れすることってありますもんね」
鈴木先輩が絡んでこないから、なんか和やかな雰囲気になる。いいなぁ。この感じ。ちょっと、楽しい。
「ふんっ。いい感じの雰囲気のところ悪いけど、なんで真水を鼻から吸うと苦しいか分かる?」
空気を読まない鈴木先輩が割って入る。
「鼻から水をいれるからでしょ?」
「うん、ばか。あぁ…、バカ。もぅ、あなたって、ホント馬鹿」
「なんで最後だけ漢字?っていうか、関西人に馬鹿は罵倒以外には伝わりませんよ?」
「だって、罵倒してるんだもの。へぇ、怒らないのね?」
「なんて言うか、慣れました」
「じゃぁ、バカ改め、佐藤。再考し改め、馬鹿。さっきの話の続きだけど、この後アンタが取る行動の模範解答を答えなさい」
「しつこい女は嫌われますよ?」
「突然、物理室で鼻から水をすすってぶちまけるという凶行に走った話が校内を駆け回るわね?割とすごい勢いで」
「何て倒置法?というか、そんな噂誰が信じるんですか?」
「純子?私嘘は言ってないわよね?」
「えっと、まぁ。その内容なら嘘はついてないかな…?どういう状況でそうなったかは分からないけど、そこは間違ってはいないし…」
確かに!
まずい。逃げ場なしだ。この手の手合いは1の真実に8や9の虚実を加えて、面白おかしく話を盛る。しかも、相手方にいるだけで説得力が増しそうな証人がいる。
「…、あの。すいません」
「あれ、なにかななにかな?どっかから、謎の声が…」
何というか、何かがボキボキと折れる音が心の中で聞こえる。
「すいません!わかりません!教えて下さい!」
うわぁ、泣きそう。
「ふむん。よろしい」
ふふん。と鼻を鳴らして鈴木先輩がどや顔する。
「くそぅ、ジャージ女め…」
「えっ、何か言った!」
「いえ。何でもありません」
「あっ、ジャージ女って言ってたよ」
「ひでぇ!?」
「あれ?言っちゃまずかった?」
最低だ。田中先輩は、味方と思っているとひどい目に遭うタイプの人だった。
「まぁ、先輩とは言え。ここまで突っ込まれたら、悔しいのは理解できるわ」
「あれ?以外と優しい」
「まぁ、それを踏まえてあえて聞くわ。ねぇ?今どんな気分?ねぇ?今どんな気分!?」
「うれしそうに…!」
「いやぁ。爽快爽快」
ケラケラと鈴木先輩が笑う。
マンガだと拳を握ってプルプルと震えているシーンだろうが、さすがにそんな演劇かかった事はしない。でも、悔しい。
そう言えば、今気付いたが田中先輩が助け船を入れてくれない。こういう時に助け船を入れてくれるタイプだと思っていたのだが…。
そう思って田中先輩を見ると、何だか小さい子供が遊んでるところを見てホッコリしているという感じの笑顔でこっちを見ていた。
やばい。ここの空間にはドSしかいない。
「つまりね。なぜ真水を鼻から吸うと苦しくて、どうすれば鼻うがいをすみっちみたいに上手く出来るか教えて下さいと、私に、この私に!お願いするのが正解ね」
別にそんな正解に従う義務はないはずだ。
「おやおや、別にそんな正解に従う義務はないはずだって顔をしているわね?」
参った。見透かされてる。っていうか、そんなに顔に出てるか?
「まぁ、生まれて15年ほど生きていた中でね、色々ヒドい奴にも会いましたし、悪い奴にも会いました…」
「えっ、何で唐突に自分語り?」
「無視します」
僕は大げさにため息を吐く。
「でもまぁ、初めてですよ、さすがに。ここまで、コイツ死なねぇかなぁって思ったのは」
「じゃぁ、私は初体験の相手という事になるわね」
「……顔を赤くしながら言わんで下さい」
「いや、してないし!」
不意を突かれたのか、本当に顔が赤くなる先輩。
「あれっ、よっちゃん。以外とおぼっこいのね?」
「嬉しくない情報を得たな」
「アンタは黙って、やる事をやりなさいなっ!」
「ドウスレバハナウガイヲチャントスレバイイノカオシエテクダサイィ」
「ふんっ。普段なら棒読みは許さないけど、今日は特別に許してあげる」
出来ればこれで最後にして欲しいと、心から思う。
「要するに浸透圧よ」
「浸透圧?」
「あーーー、ごめん。そんな高級な言葉知らないか」
「いや、さすがに小学校で習いましたけど」
「嘘つき発見。中学校で習うものよ」
「いや、僕。一応、小中高一貫の私立出身なので、小学校卒業前に中学校のカリキュラムは終えてますし、中学校卒業する時はセンターまでのカリキュラムは終わってます」
「じゃぁ、高校で何すんのよ?」
「センターに向けて、今までの復習」
「なんで、そんなエリートコース様がこんな田舎にいるのよ?」
「色々ありまして」
「あぁ、言わなくていいわ。落ちこぼれて進学できなかったのねぇ。かわいそ」
「いや、上の中ってところでしたよ?」
「だから、なんでそんなエリートコース様がこんな田舎にいるのよ?」
「だから!色々あったんですよ!」
「ちょっと、よっちゃん…。やめなさいよ…」
「あっ。あぁ、うん。ごめん。いじめか…。なんか、その…。ごめん」
二人して何か気まずそうな感じになる。
「違いますよ!純粋に家庭の事情です」
「まぁ、そりゃそうよね。こんな風に瞬時に突っ込みまくるいじめっられ子なんて存在してないわよね」
「いえ、すみっち。やり過ぎて孤立したと言う可能性も捨てられないわよ?」
「いじめられっ子でもなければ、ぼっちでもありませんよ。まぁ、こっちに知り合いがいないので、確かに現在はぼっちですけど」
「あっ、ごめん。ほんと、なんか。ごめん…」
二人して同時に同じ台詞を、申し訳なさそうに言う。
「ハモらないで下さい」
「じゃぁ。馬鹿改め、ぼっち。浸透圧について説明してみなさい」
「ぼっちじゃねぇし!いや、今はぼっちだけど…」
「そうね。ほら、私達と知り合ったし。うん。ぼっちじゃないよ」
「田中先輩。それは、フォローにはならないと思いますよ?」
「あっ。ごめん…」
「一々、重く受け止めないで!」
こいつら。絶対、わざとやってる。
「例えば同量の高濃度の液体と、低濃度の液体を混ぜ合わすと両者が混ぜ合わさり、両者が釣り合っている状態。つまり平衡状態になろうとします」
「ほうほう」
「右手を高濃度の液体。左手を高濃度の液体とします」
さっき名前を書いた紙を持って両手で挟む。丁度合掌した手の間で紙を挟む感じ。
「こんな風に両者の間に、半透膜があるとすると低濃度の液体の方が溶液中の溶媒の密度が低いので、高濃度の液体の方に移動します。逆に液体中の溶媒は高い方から低い方に移動します。この移動は平衡状態になるまで続く…、って感じの説明でいいですか?」
「割と、優秀ね。むかつく」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「受け答えに成長が見受けられるわね。よっちゃん。そのうち、いじられるのはよっちゃんの方になりそうよ?」
「こちらから、御免被りますね」
「ははは。こやつめぇ」
演技かかかった口調で鈴木先輩が、ちょび髭をさするジェスチャー付きで答える。
「戦国武将か、あんたは」
「歴女ではない!」
「何宣言ですか?」
「まぁ、とにかく。鼻の中は粘膜なのは分かるわよね。これが半透膜。鼻水って塩味よね」
「同意しかねる」
「私も、女子として同意したくないな」
同意したら、鼻水の味を知っているのは飲んだとか言われる。絶対言われる。
「涙や汗が塩味なのに、同じ体液が塩味じゃないわけないじゃない」
「あっ、そういう風に煙を巻けばいいんだ」
「何のこと?つまり、さっきのアナタの説明と一緒。鼻の粘膜を浸透膜として高濃度の液体。この場合、体液というか鼻水ね。これと、鼻に侵入してきた真水同士で平衡状態になろうとするわ」
「つまり、その平衡状態になろうとする現象で鼻が痛くなるという事ですか」
「その通り。だから、鼻に入れる液体を体液と同じ塩分濃度にしてやれば、鼻は痛くならないわ」
「なるほど。納得しました。それじゃ」
「まぁ、ちょっと。ゆっくりしていってよ?」
立とうとする前に、田中先輩に肩をつかまれる。
「あら、こんなところに食塩が」
妙にリズミカルな棒読みで、鈴木先輩が食塩の袋を机の引き出しから取りだす。
「分銅、秤もあったわね」
流れるような動作で、さらに秤一式を出してきた。
「なんで秤があるんですか?」
「そりゃ、物理室なんだから。秤ぐらいあるでしょうよ?」
「ないって言った!」
「知りませんな。言いがかりはよして頂きたい」
「言った!絶対言った!」
「何時何分何十秒。地球が何回回った時に言ったのよ?」
「小学生か、アンタは!」
「あっ、生理食塩水できたわよ?」
「さすがすみっち。仕事が速い」
「いつの間に…」
そう言い終わる前に、食塩水入りのビーカーが置かれてしまった。
やっぱりこういう展開になるのか。
「はい。佐藤君のいいとこ見てみたい!」
「はい。見てみたいー!」
先輩二人で、手まで叩きだした。
<つづく>




