第九話 「鼻うがいと田中先輩」
第8話 「鼻うがい」
「それはそうと、あなた。花粉症でしょう?」
また話を変えだした。この人は話題を万華鏡のように変えてくる。集中力が乏しいタイプなんだろうか。
「いえ、違います。」
「そう。このあたりの山には杉が多いから、この時期大変よね。」
「先輩は人の話を聞くという事を覚えるべきだと思うんですよ。」
「鼻水とかがたまって不快だし…。でも、薬を使うと眠くなっちゃうしね。あぁ、私は有難い事に花粉症ではないわ。」
あくまで人の話は聞かない方向性で押し通すようだ。
「…ジャージinスカートのカッペ女。」
すかさず繰り出される先輩のアッパーカット。反射的によける。手はチョキの形。
「怖ぇ!」
「動かないでよ。鼻に刺さらなかったじゃない。」
「もしよけなかったら、僕の鼻と先輩の指との血で血を洗うデスマッチが開催されていましたよ!」
「まぁ、突き指くらいは覚悟してるわ。あなたの鼻の軟骨を粉砕出来るなら…。でも、その代償としてはいささか高すぎるけど…、ね。」
「こっちは割に合いませんよっ!」
「私はグレネードの出し惜しみはしない主義なのよ。たとえザコでも必要と判断すれば惜しまず使用するわよ。」
「僕は出し惜しみするタイプですんで、勘弁してもらえませんか?若くして鼻を潰された人生なんて送りたくないです。」
「じゃぁ、あなたの鼻を摘まんでねじるってのでどう?」
「それって一方的な暴力ですよね!?」
「まさか!あなたなんかの油にまみれた鼻を摘まむという吐き気をもよおす行為を我慢しなければならないのだから、むしろマイナスよ。」
「ひでぇ女。」
「でも、鼻の穴に指を刺すという行為が一方的な努力ではないという理解が得られたことは、プラスといってもいいかもしれないわね。」
「摘まむことを否定したのであって、鼻に指を刺す行為を容認したわけではありません。」
「無視します。そんな訳で花粉症で苦しむアナタのために鼻うがいの方法を伝授しましょう。」
「花粉症の設定、まだ引きずるんですね。」
「設定言うな!あぁっ、ちょっと待って。そのまま、動かないで?」
そう言って僕の動きを手で制して、先輩は両手で僕の顔を挟んでのぞき込む。
「あー、これは花粉症だわ。間違いなく、花粉症だわ。完っ全に、花粉症だわ!大変!助けて、殺される!」
「むしろ僕の生命身体財産が危険にさらされているんですが。」
いささか棒読み的な感じで話ながら、また、物理室の奥に置いてあるキャビネットから、コップと風呂桶を持ち出してきた。
「何でもありますね。そのキャビネット。」
「そうでもないわ。」
そう言って僕の前に風呂桶をおいてから、先輩はコップに水を入れて持ってきた。
「さぁ、どうぞ!」
「なにが!?」
「なにがって花粉症には鼻うがいよ?他に何があるの。」
「色々あると思うけど、この状況で鼻うがいとやらが思いつく奴はそうはいないですよ。そもそもどうやるんですか?」
「ばかねぇ。それを今から教えるのよ。」
水の入ったコップを手に持って、鼻に近づける先輩。
「こうやって、コップを鼻に持って行って…、おもむろに吸う!そして、吸いながら口から吐く!それだけよ?」
「出来るかぁ!」
「おひゃよー。」
僕が叫ぶのとほぼ同時に誰かが入ってきた。
「よひぇ、ひょうははやひねぇ。あへ、おひゃくさん?」
「あっ、ちわっす。」
お下げにした大人しそうな感じの女生徒が入ってきた。口調からして先輩の様なので、一応失礼のない様に立ち上がって一礼をする。
「おはよ。相変わらずヒドいみたいね。」
「もぅ、いひができなくへ。くるしぃったらありゃしはい。なひほうよ。」
彼女は何を言ってるか分からない口調で、物理室の入り口から僕らのいる机までやって来て、慣れた様子でカバンを置く。
「この子は田中純子。見ての通り、重度の花粉症よ。」
「どうも。」
「どふも…。へっと…、なひをしへるんへすふぁ?」
随分、口調が弱々しい感じに変わる。人見知りが激しいタイプの様だ。
「鼻うがいの仕方を教えてるのよ。手本を見せてあげて?」
「いやほ。はずはひいもん。」
「同じ花粉症に苦しんでいるこの子を助けたいと思わないの?」
「へも…。」
「いや、嫌がってるんですから別に良いですよ。」
「ほら、この子もこんなにお願いしているし。」
「いや、してねぇ、ぐぁ。」
机の対面から足を踏まれた。
「どうせ、鼻うがいしないと苦しいままでしょ?」
「へもねぇ…。」
困った表情で僕を見る田中先輩。本人は気付いていない様なのだけど、鼻水が結構垂れている。なんというか、このまま馬鹿な会話をしていたらそれこそ、アゴから下に落ちかねない位の勢いで。
どうしよう?
正直に教えてあげると、田中先輩に恥をかかせる事になりそうだし、黙っていても恥をかかせる。ジャージ女は田中先輩の鼻水については、気にもしていないみたいだ。
仕方がない。ここは一つ。嫌われ役を引き受ける事にしよう。
「田中先輩。鼻、垂れてますよ。うわっ!!」
僕の指摘で一瞬にして顔を赤くしたと思ったら、咳き込んでしまし、思いっきり鼻水が飛んできた。
「うげぇ、顔に飛んできた!」
「あんた、デリカシーってモンがないわね!」
思いっきり、頭をはたかれた。これには言い訳できない。
「ひや、わらしがわるいんらし…。」
「まぁ、純子がそう言うなら良いけど…。苦しい事に変わりはないんでしょ?ちゃっちゃと鼻うがい済ましなさいよ。」
「ほぅ。わはっはわよ。えっと、ちょっほのあひら、ふほうふいへへくれる?」
そりゃ、女子としては見ず知らずの男に鼻から水吸ってるところ何て見られたくないはずだ。
「喜んで。」
すぐに後ろを向く。すると、田中先輩が同じキャビネットから、コップを持ってきた。コップと洗面器は個人持ちなのか…。っていうか、なんで私物を物理室のキャビネットに入れてるんだこの人達?
シャーーーー。
蛇口が開かれる音。うわぁ。本当に鼻から水吸い込む気か。どうやら、担がれていたわけではないようだ。先輩が、適当な事言って鼻から水飲ませて、鼻がツーーンっとする僕を見て笑おうとしていたと思っていた自分を少し反省した。
その瞬間、鼻をかんだ時の音とは明らか違う、吸い込み音と、吐き戻す音が聞こえてきた。見えない分、変な想像力が働いてしまい、おぞましい!
「ふぅ、すっきりした!」
しばらくの間、あのおぞましい音が繰り返されたが、開口一番、さっきまでと打って変わってハッキリとした口調で田中先輩が言った。
田中先輩のさわやかな声の裏で、こちらはと言うと何というか背中に変な汗をかいてしまい、ぐったりしていた。うげぇ。
「あんた、もうこっち向いて良いわよ。何か生気を抜かれたような顔してるわよ?」
「あっ、はい。何か疲れちゃって。もう帰っていいですかね?」
「じゃぁ、折角だから鼻うがいだけして帰りなさいよ。」
「いや、おかしいでしょう。俺は別に…。」
「嫌がる純子に、無理矢理やらせたくせに。」
「そりゃアンタがでしょ?」
「ははは。噂ってね。流し方によって伝わり方は色々なのよ?」
この女、間違いなく悪い方に流す。間違いなく悪いほうに流すに決まっている。
「それは脅しですか?」
「まさか?今の会話のどこにそんな要素が?」
「私としては、変な噂の当事者になるのは…、イヤだな。」
田中先輩が困った顔で言う。困らせてるのは僕ではなく、ジャージ女の筈だ。が、何故か僕が悪いような空気になっている気がする。
「あぁ、くそっ!分かりましたよ!」
結局やり方は見れなかったが、要は鼻から水をすすって出せばいいんだ。ええい、ままよ!
一気に鼻にコップを押しつけてすすった。
ぶあっっっわぁふぁ!!
そして、思いっきり鼻から水をぶちまけた。




