マルシェより。
待ち合わせ場所であるその駅前へと向かうと、すでにそこにはコウくんの姿があった。
私も時間に余裕を持って、十五分は前に着くように来たはずなのに、いつから待っていたんだろう?
彼は行き交う人に紛れながら、しきりに腕時計を見たり、スマホを見たりと、落ち着きなくそわそわしている。
なんか、飼い主とはぐれてしまった仔犬みたいで可愛い。
初めこそ微笑ましく眺めていたけれど、だんだん可哀想になってきて、私は慌てて彼のところまで駆け足で近寄った。
「コウくん!」
呼びかけた声がきちんと届いたらしく、こちらを向いた彼の顔が、ぱっと笑顔になった。
「架帆さーん!」
コウくんが私に向かって手をぶんぶん振るから、周りの視線が自然とこちらへ集まってしまった。
ちょっと隣に並びづらい。
だけどそれよりまず、遅刻の謝罪として手のひらを合わせた。
「遅れてごめんね?」
「全然遅れてませんよ?まだ十分前です」
私は五分もコウくんを遠くから眺めていたらしい。もう一度ごめんねと言いたくなった。
「コウくんはいつから待ってたの?」
「えっ、えーと……二、三十分前、かな?」
答えの歯切れが悪い。本当はもっと待たせていたのかもしれない。
「寒くなかった?」
春先とはいえ、朝はまだ肌寒さが残っている。
コウくんの手を取り握ると、私のよりもだいぶ指先が冷たかった。
手袋をするほどでもないし、カイロを持つには暑すぎる。今は難しい時期だから、困るよね……。
「だ、大丈夫です!――あ、でも……やっぱり大丈夫じゃないんで、このまま……手を繋いでいていいですか?」
断るはずないのに、コウくんは上目遣いでおずおず尋ねてくる。
込み上げてくる気恥ずかしさをどうにか抑えて頷くと、コウくんは嬉しそうに私の左手の指にかれの右手の指を絡めた。
あ、恋人繋ぎ……。
これはちょっと、どきどきするかもしれない。
「俺……今、すごい幸せです」
反対の手で口元を隠し、喜びを噛みしめるように呟いたその言葉に頬が火照る。
なんで私なんだろうと思うけれど……それでも。私も今、幸せだった。
「あ、バッグ持ちますよ。行きましょうか?」
「うん」
にっこりしたコウくんにトートバッグを預けて、私も笑顔を返して歩き出した。
あの日コウくんに、就職祝いはなにがいいか直接訊いてみると、彼ははにかみながら「デートがしたい」と言った。
可愛いなぁと思いながら、たまには回る側で楽しんでもらいたくて、マルシェデートを提案すると、彼は笑顔で頷いてくれた。
やっぱり彼といると、安心して素の自分がさらけ出せる。コウくんは私の好きなものをばかにしたりしないから。
ただ、場所柄、車ではなく電車で行くと言ったときだけ、心底残念そうに肩を落としていた。
どうやら彼の車の助手席に私を乗せたかったということらしい。
私の方が年上だという意識が強いせいか、コウくんの運転する車に乗るという発想自体がそもそも頭になかった。
だけどそれを素直に口にすると、さらにしゅんとしてしまいそうだったから、そのことについては心の奥底に沈めて沈黙している。
「ずっと手を繋いでいれるから、電車もいいですね〜」
電車を降りて手作り市会場となっている広場へと歩きながら、コウくんは握った手を見つめてしみじみと呟いた。
彼はこうして触れ合っているのが好きみたい。
人懐っこい性格だからかな?
「今日、晴れてよかったね」
「そうですね!また今日もたくさん買うつもりですか?」
「どうだろう?この間たくさん買ったばかりだからなぁ」
気に入ったものがあれば、間違いなく買ってしまうけれど。
これが唯一の趣味だから、なるべく帰り際に後悔や未練の残らない買い物をしようと常に心がけてはいる。一点ものだと、二度と同じものに出会えないかもしれないからだ。
だけど今日はコウくんが出品していないから、ひとところで大量購入ということはなさそう……かな?
この間と言ったからか、コウくんは私のしている紫陽花のバレッタへと、優しい目を向けた。
「やっぱりそれ、架帆さんによく似合ってます」
「変じゃない?」
「全然変じゃないですよ?似合いすぎて、怖いくらいです」
怖い……。それは、褒められていると思っていいのかな?
バレッタに触れていると、コウくんがためらいがちに切り出した。
「……そういえば、架帆さん。あれからあの人たちに、なにかひどいことされたりしてませんか?」
彼の気にするあの人たちとは、私の元カレと後輩の彼女のことだろう。
コウくんに訊かれるまで、彼らのことなんてすっかりと忘れていたくらい、不思議となに事もなく平穏に過ごしている。
てっきりなにかしらの処分を受けるかと身構えながら出勤したのに、拍子抜けしたほどだった。
ただ彼女には完全に嫌われたらしく、なにも言っては来ないものの、隙あらば睨まれているような視線だけは感じている。
だけどそれも、あと少しの辛抱。
「うん、大丈夫。私、春から異動になったから」
「え!?」
コウくんが目を見張った。勘違いをしていそうだから、すぐに首を振って否定しておく。
「違う違う。閑職に送られるとかじゃなくて、ずっと希望を出していたところに空きが出て、そこに配属されるだけ」
彼らとも離れられることで、春から心機一転、一からがんばろうと前向きになれた。
「よかったですね!架帆さんのがんばりが正当に評価された結果ですよ」
「ありがとう。そうだったら、嬉しいな」
「架帆さんはもっと自分に自信を持ってもいいと思います!腰かけ気分の常務の姪なんかとは違うんだから!」
そっかぁ、彼女は常務の姪だったんだ。知らなかった。
「でも……あれ?どうしてコウくんが、常務の姪とか知ってるの?」
「え!?そ、それは……この間、あの人たちがそんなことを話してたような、してないような……?」
記憶が曖昧なのか、コウくんはしどろもどろで視線をさまよわせている。
あの人たちはコウくんのアクセサリーを蔑みながら、そんなつまらない話をしていたのか。本当に迷惑な客だ。
彼もなにも言って来ないけれど、なにか言いたそうにはしている。こちらから話しかけることはない。仕事の用件以外は、決して。
そこまで考えてから、私は思考をやめた。
彼らのことはもう忘れよう。今日は、コウくんの就職祝いなんだから。
「あ、そうだ。コウくんはどこ就職するの?ごめんね、訊いてなかったよね?」
「それは無事入社できてからのお楽しみです」
彼は唇に人差し指を当てて、いたずらを思いついたように笑む。
そこまで言うなら、詮索せず楽しみに待っていようかな?
「あ!架帆さん、着きましたよ〜!」
コウくんがくいくいと繋いだ手を引く。
マルシェの入り口が見えてきた。
やっぱりそのマルシェごとに趣が違う。
入り口でパンフレットを配っているのは、制服姿の学生たちだった。
近隣の高校生が作った料理や雑貨があるみたい。これは興味あるなぁ。
「どうぞっ!」
溌剌とした笑顔で手渡されたパンフレットをそれぞれ受け取って中へと進んだ。
「部活とかですかね?制服とか、懐かしいな〜」
「コウくんも十分若いよ。高校生なんて、ついこの間みたいなものでしょう?」
「……俺、そんなに若く見えますか?」
コウくんの声のトーン沈んだ。しょんぼりという効果音がつきそうなくらい肩を落としてしまった。
私は若く見える方がうらやましい気がしていたけれど、男の人はそうでないのかもしれない。
どうしよう。考えなしだった。
「それは、えぇと……今は私服だから、かな?カジュアルでよく似合っているけれど、コウくんはスタイルもいいし、きっとスーツを着たらまた違った印象になると思うよ」
背が低いわけでもないし、顔も雰囲気も爽やかな好青年だから、スーツを着たら……就活生くらいには見える。
これ以上は、フォローが難しい。
「スーツ、似合うと思いますか?」
「うん。――あ、ちょっといい?」
断りを入れて、コウくんに持ってもらっていたトートバッグから、綺麗にラッピングされた長方形の箱を取り出す。
もっとあとに渡すつもりだったけれど、話の流れから今の方がいいと思った。
「コウくん。これ、私からの就職祝い」
「え!でも……」
私は、ためらうコウくんの手へとそれを乗せた。
「私が勝手に形のあるものをあげたかっただけだから。無難だけど、ネクタイしか思いつかなくて……。それでよければ、受け取ってくれると嬉しいな」
コウくんはそれをしばらく眺めてから、きゅっと大事そうに胸に抱いた。
「ありがとうございますっ……!気に入りました!毎日使います!」
中身を見てないのに、コウくんは感激したのか目をうるませた。
店員さんと相談して買ったから大丈夫だとは思うけれど、柄とか色とか、確認しなくていいんだろうか?
「ああっ、でも、使いすぎてすぐ悪くなったら困る……。でも使いたいし……!」
コウくんが変な葛藤に揺れている。
「使われないのは寂しいから、使ってくれると嬉しい」
「じゃあ毎日使い倒します!」
毎日は……どうかな。それしか持っていないのかと誤解されそう。
「あのぉ……、彼女からもらったって、自慢してもいいですか?」
コウくんの上目遣いに弱い私に、だめとは言えなかった。
それより私ってもう、正式に彼女……なのかな?
ペアリングは受け取るつもりでいるし、付き合う前提でデートしているから、やっぱり彼女?
私とコウくんとの間に共通の知り合いはいないから、アラサー女が若い男の子に入れあげて貢いでいるとか思われる心配は、今のところないだろうけれど……。
「架帆さん?」
「ううん。本当に私が彼女で、いいんだよね?」
「架帆さんがいいんです!」
真摯な瞳できっぱりと断言され、頬にじんわりと熱が集まってきた。
人の目じゃなく、目の前のコウくんを信じればいいんだ。
焦らずじっくり、穏やかに。
そうやって付き合っていけたらと思う。
「……それ、かさばるからバッグに入れておくね。また帰りに渡すから」
「あぁっ……」
ずっと持っていたそうに抱きしめていたその箱を、私はひょいっと取り上げてトートバッグへと戻した。
「手、繋ごうか?」
ネクタイを出したときに離してしまっていた手を差し出すと、切なげにトートバッグを見つめていた表情が一気にぱっと輝いた。
「はい!」
元通り手を繋ぎ直し、自然と手作りのアクセサリーを売っているあたりへと足を進めた。
なにも話し合わなくても通じ合えるのは、それがコウくんだからだ。
学生さんたちの販売する小物やアクセサリーを一通り見て回ってから、さらに奥へと流れに沿って歩いて行く。
「あそこなんか架帆さんの好みじゃないですか?」
コウくんがあるパラソルを指を差した。
真っ先に目についたのは、コルクボードに刺さったてんとう虫のピンズ。
昆虫モチーフということは――。
私の予想通りの女性がテーブルの向うに座っていて、こちらに気づくとひらひらと手を振り立ち上がった。
「架帆ちゃんだ〜。いらっしゃい」
「ナナさん、お久しぶりですね〜」
やっぱり顔なじみのアクセサリー作家さんのナナさんだった。
久しぶりの再会に喜んでいると、コウくんがナナさんに会釈しながらそっと尋ねてきた。
「お知り合い、ですか?」
そっかぁ、コウくんはいつもあの神社のマルシェしか参加しないから、あんまり他の出品者さんを知らないんだ。
あちこちのマルシェや手作り市を回っていると、お気に入りのアクセサリー作家さんとは何度も顔を合わせることになる。彼女は交流している内に自然と親しくなった中の一人だった。
コウくんもこの間まではその内の一人だったけれど、今は年下の可愛い――恋人。
お互いを紹介し合うと、コウくんは戸惑った表情を一瞬見せた。だけどアクセサリーを作るという共通の趣味をきっかけに、会話も弾んでいきほっとした。
「年下の彼氏か〜。イケメンだし、うらやましいなぁ」
「えぇっ!?全然イケメンじゃないですよー!」
コウくんが照れているのか顔を赤くし、必死に手と首を振って否定する。
「可愛いねぇ、君。架帆ちゃんと、とぉーってもよく似合ってるよ!」
「本当ですか!?」
「うんうん。だから架帆ちゃんに似合いそうなこれとか、買ってかない?喜ばれるよ〜?」
ナナさんが小さなてんとう虫のペンダントを手に、コウくんへとさりげなさを装い見せつける。それはシルバーアクセサリーだからか、なかなかなお値段だった。たぶんこの中で、一番高い。
すっかり商売上手なナナさんに乗せられたコウくんが、素直に財布を出してカモられかけていた。
「待ってコウくん。欲しいものは自分で買うから」
「いいえ。贈らせてください!」
この調子だと人のいい彼はあちこちでカモにされてしまう。――なので。
「贈りものなら、コウくんが作ったものがいいよ」
ぱっと顔をほころばせたコウくんは、なんとか財布をしまってくれた。
「俺も、その方が嬉しいです」
はにかむコウくんに、ナナさんがつまらなさそうな顔をしてペンダントを元の場所へと置いた。
「ちぇっ」
「コウくんをカモにしないでくださいよ」
「あーあ。いけると思ったのになー」
残念と呟くナナさんに苦笑して、私は自分の財布を取り出した。
「だけどこっちのてんとう虫は買おうかな」
最初に目についたてんとう虫のピンズを、デザイン違いで三つを選んで指し示した。
これは部屋に飾ったら春らしくなりそう。
「あ、本当?お買い上げありがとうございます〜」
商品を受け取ると、売れてご機嫌なナナさんが、思い出したというように手のひらを打った。
「そうだ。今日ジェイさんも出品してるから、顔見せてきたら?」
「えっ、ジェイさんが?」
私は教えてくれたナナさんにお礼を言って、その場所へと一直線に歩き出した。
「あの……ジェイさんって?」
「飴細工みたいなカラフルなガラスのアクセサリーを専門にしている人だよ。本当にたまにしか出品しないけれど、どれも綺麗で、あれは見るだけでも価値がある」
説明しているとちょうど、その鮮やかでキラキラと輝くガラスの光が見えてきた。
これは実際に目で見てもらった方が早い。
数人お客さんがいたから、私たちは縁から控えめに顔を覗かせた。
すると静かに座って佇んでいたジェイさんが、ふと目線を上げた。作るものとは対照的に大柄の彼は、私を見て少し考えてから、無事に記憶を掘り起こしたのか優しく微笑んだ。
「君は、うーんと……そう、架帆ちゃんだ」
「覚えていてくれたんですか?」
「うん。可愛い子はね」
そう言ってウインクするジェイさん。彼がリップサービスとは珍しい。
素直に驚いていると、コウくんがそばにぴたりとくっついてきた。その目はじっとジェイさんを見据えている。
「コウくん?」
呼びかけるとはっとして、なんでもないと首を振った。
「き、綺麗ですねー……」
棒読みな気がするけれど、事実なので、そうだねと頷いておいた。
「どれが可愛いかな?」
「これとか、どうですか?」
コウくんがぎこちなく手にしたのは、月と星をモチーフにしたペンダント。宇宙を描いたようなその色づかいと、丸みを帯びた愛らしい形に目を奪われた。
「可愛い〜」
コウくんの選んだそれは、間違いなく私の好みだった。
これは絶対買いだなぁ。
コウくんが見つけてくれたのも惹かれた要因かもしれない。
あとは色違いのストラップをいくつか購入することにした。これまでの話を親身になって聞いてくれた、同僚や友達へのお土産用に。
あとはこの淡いブルーのかんざしも可愛いけれど、さすがに買いすぎかな?
ストラップでも安いとは言えない値段だから、一度手にしたそれをそっと元へと戻した。
それを黙って眺めていたジェイさんが、おもむろに問いかけてきた。
「そっちの彼は、架帆ちゃんの……弟かな?」
「なっ、か、彼氏です!」
ジェイさんは間違いにまったく動じることなく、「そうなんだ?」と目を細めて話を続ける。
「ああ、年下の彼氏だったんだ?ごめんな。うちの商品、安くなくて」
学生さんにはきついよな、とジェイさんは苦笑する。
それにコウくんがむっとして、私が手にしていた商品すべてをさらっていった。それにさっき返却したかんざしを乗せて、ジェイさんへと突き出してから、私と向き合った。
「架帆さん」
「なに?」
「ここは俺が払います」
またカモられている。
私がかんざしを戻したから、ジェイさんがコウくんを煽ったんだろう。
ジェイさんは悪意のない微笑みの下で、にやにやしてるんだろうなぁ。
「コウくんの気持ちは嬉しいけれど、これは友達へのお土産だから自分で買いたいの」
勢いのしぼんだコウくんの隙をついて、私は素早くお金を払った。
「あぁっ!」
「はい、まいどあり」
あ。結局かんざしも買ってしまった……。
痛い出費でも、その価値はある品だから、いいよね?
「また来てね。架帆ちゃんと、彼氏くん」
ジェイさんにまた、とお辞儀をして、コウくんがこれ以上カモられないようにその場から引き離した。
親しみゆえのものだとしても、このままだと私のせいで彼の財布を空にしてしまう。
ふと見上げたコウくんが浮かない顔をしていたので、人ごみを避けて静かな木陰の遊歩道で足を止めた。
「コウくん?」
「いえ、なんか……。自分だけだと思って、うぬぼれていたんだな、と。架帆さんにとって、たくさんいる内の一人だったんだなって、俺……」
自嘲する彼の視線が地面へと落とされる。
前も浮気はほどほどにって言っていたのに、彼の気持ちも考えず、自分本位で突っ走っていた。
楽しむどころか、他のアクセサリー作家さんたちに変な刺激を受けすぎて、落ち込ませてしまったらしい。
ごめんね、というのは違う気がして、
「コウくん」
「……はい」
「私はコウくんの作るアクセサリーが、一番好き」
「え……」
「本当は、順位をつけるのはあんまり好きじゃないんだけど、コウくんのは特別。だって私の欠かせない、生活の一部だから」
これで伝わるだろうか?
そう思ったのは一秒ほどで、私は気づくと彼の腕の中にいた。
「俺の知らない架帆さんを他の人が知ってて、俺……嫉妬しました」
これまで誰かに嫉妬されたことなんてないから、なんて返せばいいのかわからなかった。
だから彼の背中を撫でることくらいしかしてあげれなかった。それでも、気持ちは届いたらしい。
「これからマルシェに行くときは、絶対に誘ってください」
「うん。一緒に行こう」
「それでなるべく早めに、架帆さんの知り合い全員に顔を覚えてもらわないと……。――あ、今のは独り言ですから忘れてください!架帆さんがフリーじゃないことをアピールして、悪い虫がつかないように目を光らせようとか、そんな器の小さいこと考えてませんから!」
心の声がすべてもれている。
焦りのせいか、抱きつきの戒めがきつくなって、背中をとんとん叩いて訴え、どうにか解放してもらった。
身体を離すと、コウくんは恥ずかしそうに手で顔を隠した。
「……余裕、ないんです。若いから、とか、……弟とかって言われると、どうしても」
ああ、コウくんも、私と一緒なのか。
私もどこかで、彼よりも年上だからという考えが抜けきれていない。
「私も、コウくんには同世代くらいの若い子の方がいいんじゃないかとか、思ったりする」
「俺は、架帆さんじゃないとだめです!」
「私も、コウくんじゃないとだめ。だから私たち、一緒だね」
君が心配する必要はないよと伝えたくて、にこりとすると、突然視界が翳って暗くなった。
コウくんとの距離がなくなる。
ほんの一瞬のできごとだった。
唇が触れて、重なる。羽がかすめたかのように、そっと、やわらかく。
コウくんとの初めてのキス。優しくて、ちょっと気恥ずかしい。
私がつけていたピンクベージュの口紅が、かすかに彼の唇へと移った。目が合わせれず、それを黙って見つめていたからか、彼は私の視線をたどり指先で唇を拭った。
その普段の彼とは結びつかない、どこか艶っぽいその仕草に、思わずどきりとした。
「……だめですよ、架帆さん。あんまり喜ばせないでください。長い片思いをこじらせて叶えた男は、怖いんですよ?」
前かがみになったコウくんが、上目遣いでそう囁き、離れていった。
うるさくなった胸の音から気を逸らして彼を窺うと、さっきまで雰囲気は嘘のように、今度は無邪気ににこにことしていた。
「架帆さん。左手を見てみてください」
「え?」
言われた通りに目を向けると、左手の薬指に見覚えのない指輪がはめられている。
じゃーん、と自分の左手を見せるコウくんにも、同じホワイトゴールドの指輪がはめられていた。
シンプルで華奢なデザインで、私の方には小さな透明の石が並んでつけられているハーフエタニティリング。
私好みで可愛いけれど……この石、スワロフスキーでもキュービックジルコニアでも……ない。
まさか……ね?
「驚きましたか?」
「これって……約束してたペアリング?」
「はい!……受け取って、くれますか?」
コウくんは少しだけ緊張した面持ちで尋ねてきた。
もうすでに受け取っているのに。苦笑しながら私は「はい」と頷くと、コウくんが破顔した。
だけど予想よりも本格的な指輪に内心驚きが勝り、なかなか気の利いた言葉が出てこない。
それに材料費にいくらかけたんだろうと、また彼のお財布事情を心配してしまった。
それなのに、どうしよう。すごく嬉しい……。
「架帆さんが仕事中でもつけていられるようなものを目指しました。だから、ずっとつけててくださいね」
確かにうちは営業職以外なら、結婚指輪アクセサリー類にも寛大な会社だった。ペアリングをつけている社内恋愛中のカップルを見かけたりもする。
とはいえ仕事中の私は、そういうタイプではない。
だから薬指に指輪をしていたら、婚約でもしたのかと噂されてしまいそう。
「チェーンで首から下げておこうかな」
「だ、だめですよっ!ちゃんと薬指を埋めておかないと、他の指輪たちが隙あらばそこに収まろうとつけ狙ってるんですから!」
そんなことはないと思いつつも、コウくんの比喩がおかしくて、くすくす笑ってしまった。
「私が狙われてるはずないよ。今の時期はみんな、新入社員の女の子を気にすると思う」
「その新入社員にだって、男はたくさんいるんです。その中には草食にみせかけた危険な肉食獣だっているんですよ?架帆さんには気をつけてもらわないと」
「それは大丈夫だよ」
コウくんは心配性だなぁ。うちの会社の場合、右も左もわからない新入社員は仕事を覚えるのでいっぱいいっぱいで、恋愛なんてしている暇なんてないと思う。
「コウくんだって仕事中はしないでしょう?新入社員だし、上の人に怒られるよね、きっと。だからおそろいでチェーンを買おう?」
おそろいという部分に、コウくんの心が揺らいだように見えた。
「……それなら、きちんと指輪が外に見える長さのものにしてくださいね?」
うん。それくらいなら、妥協してもいいかな。
ペアリングをしていても、私とおそろいの相手が誰かまでは、誰にもわからないだろうから。
「じゃあ、戻ってチェーンを探そうか?」
「はい!」
コウくんが自然と私の左手を取る。どちらともなく顔を見合わせて微笑む。
こうしてゆるやかに時間を重ねて、歩調を合わせて、いつか隣にいることが当たり前になれる日が来たら、こっそりチェーンを外してしまおうかな。
そしてコウくんのくれたこの指輪を、堂々と左手の薬指に――……。
その日を楽しみにしながら、私は繋いだ手をそっと握り返した。
お読みいただきありがとうございます!
そして期待はずれだったらごめんなさい。
ちなみに架帆の異動ですが、コウくんが言う通り正当に評価されてのことです。常務の姪がなにも言って来ない件につきましては、裏がありそうですね。