恋煩い
読者の方々へ:本作品にはリハビリ要素と徹夜明け要素と、ほんのりとした同性愛要素が含まれています。
津田俊治は図書部副部長である。決して部長ではないのだが、部長であるはずの川本四季が受験に専念するといい、図書室へ顔を出さなくなってしまってからというもの津田が実質的な図書室の主と相成った。
「そもそも俺はあまり本が好きじゃないんだ」
後輩たちとともに新しく入った蔵書へのカバー付け作業をしているさなか、津田は呟いた。
「部の仕事はこなしてきたが、本への愛着という点では他にも適任は居るだろう。部長職は本を愛する人物に与えられるというのが、蔵書にとっても部の運営にとっても良いことだろうに」
津田は自分なりの論理で、自らを選んだ部長の見識を批判した。彼にとってすれば、津田俊治という人間は図書部における部外者であった。副部長として補佐するくらいなら文句は言わないが、部長になれと言わんばかりの「四季部長」の行動は、彼をいらだたせるものであった。
後輩たちは津田の考えをある程度理解していたから、津田が続けて零した言葉を聞けば、笑いを噛みしめるのに苦労させられるのであった。
「あの人は勝手すぎるんだ。図書室を空けたまま俺に相談することもない、少しは顔くらい覗かせればいいのに」
津田は無意識に溜息を吐いていた。この頃感じられる妙な張りあいのなさが一体何に由来するものなのか、彼はまだ理解してはいなかった。
津田が図書部に関与したのは、兎にも角にも川本四季がキッカケだった。四季に出会うまでを帰宅部として過ごしていた彼は中途で図書部に入部したことになる。その出会いは津田が一年生の時、夏休みに入る前日の事だった。
二限まで授業を行い、終業式とホームルームを行い、その日は午前に放課となった。級友たちが帰る中で、津田は世界史の教員から課された夏季休暇中の課題レポートについて質問をしようと思い、職員室へ向かった。学期末の考査を終え、成績も出し終えた職員室は独特の解放感に包まれいて、世界史の教員である榊原も質問に来た教え子へ懇切丁寧に解答を行った。そのため十二時前後に職員室を訪れたはずの津田は、気がつけば二時過ぎに時空間跳躍を果たしていた。
窓を閉ざされ風も通らぬ廊下は酷く暑かった。纏わりつく熱気にうんざりさせられた津田はネクタイとボタンを外して胸元を開けた。先程までいた職員室では冷房が効いていたので、唐突な寒暖の差に身体が不快感を表明するかのように震える。ともあれ、用事は済んだのだ。帰って歌でも詠んで、夏休みを謳歌しよう。
教室においてきた荷物を取りに行くため、津田は三階の教室に向かった。職員室は教室棟とは渡り廊下を挟んだ先、二階に位置している。それだから、彼は一度渡り廊下を渡ってから、そこから階段を上がろうとした。それは単なる気まぐれで、一度階段を上がってから三階の渡り廊下を行っても良かったのだが。こうした偶然が津田と四季とを出会わせたのだった。
津田は階段の前で立ち往生している一人の青年に出会った。青年は細身で津田よりも背が低く、見ている分にはなにか女子の後ろ姿のようにも見えた。ただアイロンを掛けられ折り目のついたスラックスによってだけ、恐らくの性別を理解することができた。
青年は台車の上に積まれた段ボールを見下ろしながら思案に明け暮れていた。津田は、呆れ返るほどの無感動さで傍らを通り過ぎようとしていた。その時津田は青年をほとんど意識していなかった。存在は認識していたが彼が何をしているのか、困っているのだろうか、そういう手合の思考はかなぐり捨てて一心にこれからの遊びについて考える。結局のところ、彼は非常なる個人主義者だった。けれども、流石の彼も声をかけられれば、振り向く程度の良心はあった。
「ねえ君、ちょっといいかな」
鈴のような声だと津田は感じた。軽やかで生き生きとした声は品の良い高さで、津田をして話しくらいは聞いてやろうかと思わせる。振り返った青年は赤橙の校章をネクタイにつけており、津田にとっては二年の先輩にあたることを示していた。
「はあ、なんでしょう」
「もしよければ荷物運びを手伝ってくれないかな、流石にこれだけの量を抱えるのには難儀するんだ」
青年は顎をしゃくって荷物を示してみせた。その肌の白さや唇の艶やかな紅に気を取られながらも視線を委ねれば、蓋も閉じられていない段ボールの数々にはいっぱいまで詰められた本の表紙が見え、それは結構な質量であろうと推測させられた。
「大変ですね」
「うん、大変なんだよ」
「けれども、俺の仕事でもないですし、手伝ったところで特にメリットもないのでお断りさせていただきます」
普段の津田なら、これほどあけすけに物を言うこともなかったし、困っている人がいたら助けるという初等教育での道徳体系は受容しているから断ることもなかっただろう。津田自身意識していたのかどうかわからないが、目の前に立つ青年の浮かべる、柔らかな微笑には微量の毒が含まれているようで、反抗せずにはいられない魅力があった。それに、青年もまたそういう態度を気に入ったようなのだ。
「メリットがないからこそ、君は手伝うべきだよ。有益だからAを行為する、無意味だからBを忌避するなんてのは、散文的で碌でもない。つまり、君が嫌がれば嫌がるだけ、それを行うに足るメリットが生まれるわけだ。二重肯定は否定を生み、二重否定は肯定を生む」
「ええ、ええ、そうなんでしょうね。三重肯定も否定になりましたよ、結局のところ、どうやったって手伝わせたいんでしょうに。いいですよ、どこまで運びますか?」
荷物を取りに行ったはずの津田は、青年に手伝わされ、段ボールを抱えながら一階へ降りていった。台車に荷物を戻した彼らはそのままに、大正以来の伝統を持つ煉瓦造りの図書館へと足を向けた。中高両校舎から離れ、むしろ部活棟により近いこの図書館は、気軽に尋ねるには難しい距離にある。津田もまた、この奇縁によって初めて図書館を訪れることになった。
「二階まで運ばなくちゃならないんだ。この見目麗しく厳かな館は、現代的な軟弱青年共の為を想って建てられたわけでもなく、エレベーターなんて洒落たものは置かれてない。さて、もうひと頑張りしてもらうよ」
津田は少し悩んでいた。これ以上首を突っ込めば、引き返すことは不可能。後は沈んでいくばかりだ。けれども荷物を運び上げ、そのままに蔵書整理を手伝う段になってしまえばもはやどうしようもないことも理解しきっていた。
「他の部員たちは欠席なんですか」
津田はジイドを抱きかかえながら青年に訪ねた。人間の様々な愚行を詩的言語で言い換えたそれらの本に疲れれば、時にはこうした現実の愚行に言及したくもなる。青年は笑って答える。
「欠席? 元からいないんだよ、部員は僕ただ一人、ただ一人の部員が部長になった。一人だけなのに図書部といえるのか、甚だ疑問ではあるのだけれどもね」
結局、津田は最後の一冊を整理し終えるまで、自らの酔狂を遂行してしてしまった。図書室は斜陽のために朱色に照らされて、空間に利用者のいない机を浮かび上がらせている。青年は日々の日常を、こうした場所で過ごしているのだ。津田はそう考えたが、憐憫の情というよりもむしろ羨ましさを感じていた。この青年はこの厳格なる図書館の主として君臨するに相応しい。
「ありがとう。結局最後まで手伝わせてしまったね」
「別に、用事もなかったので」
「本当に助かったよ、やはり僕の見る目は正しかったワケだ。僕の名前は川本四季。君は?」
「津田……、津田俊治です」
翌日からの夏休み期間中、普段なら家に引きこもるはずの津田が制服に着替えるその理由を家族は問い訪ねてきた。図書部に入ったとは答えたものの、どうしてだか、彼の脳裏は図書部という概念ではなく、微笑とともに本を掻き抱く、危うい何かを瞳に宿したあの先輩の顔がちらついて消えなかった。
事実四季は恐るべき暴君であり、碌でもない人格破綻者であり、単なる気弱な一青年であった。津田は第二の部員として、そのまま副部長の座に座り、新部員の獲得や生徒会との折衝で尽力した。そうして、出会いから一年が経った。それでもなお、津田にとって図書館は「四季先輩」の面倒を見る場でありつづけた。
「あの人は俺をここまで引きずり込んでおきながら、更に仕事を押し付けるのか。ならば良し、それならば、せめても、顔を見せて頭の1つや2つ下げて頼めばいいものを。四季部長は勝手な人間だ、君たちもアレのことは反面教師にするように」
津田は仕事の手を止めて、ふざけたふうに告発を行った。もとより笑いをせがむ気はない。苦笑する後輩たちを尻目に、津田はため息一つをこぼして再び仕事に取り掛かった。
ところで、川本四季は部長だった。そして津田俊二という人間は副部長である。その意味は明らかだった。四季は自らの行いを後悔していたが、さりとて他に手が思いつかなかったのも事実であった。
「彼は僕にとっての子路だ。それだけなら良かったのだけれども、子貢でもあったんだ。いやいや、元々承知の上だったのだけれども」
久々に図書室へ顔を覗かせた「元部長」は、だからといって仕事をするというわけでもなく、椅子に腰掛けてお気に入りの本を脇へと積んで侍らせて、臨時のハレムを拵えている。この四季という人物が仕事をする姿を見たものは津田を除いた後輩たちの中ではごく一部、怠惰な部長はいつもこうして本を捲っては会話にならない言の葉を紡いだっきりだった。
「正直に言ってしまおう、僕は社会的な正当性なんてハナから嫌悪しているから……僕は彼のことを一目見た時から気に入っていたんだ。好きでも足りやしないね、愛していた。ふむ、自然と言葉がついて出たが、時制は過去か。愛している、うん、愛しているんだよ、やはり過去ではないね」
無表情で語られる言葉は、決して唐突なものではなく、それに類した言葉はこれまでも語られてきたし、四季の視線がたどり着く先もまた、そのことを例証していた。後輩たちは自ずと理解していたし、またその言葉を拒絶するような者は、もとよりこの荘厳なる大正建築に足を踏み入れたりしなかった。
「けれどまあ、手段を間違えた。僕は自慢じゃないが津田へおんぶに抱っこだった。彼にとって僕は手のかかる先輩に過ぎないのだ。もう少し手はあったはずだよ、幽玄なる知の宝物庫、詩的イマジェリーの帝国議会、図書室というせっかくのシチュエーションが台無しじゃないか。僕は名を捨て実を取った挙句に、身の振り方に悩んでいる、男子諸君らにおいては男を口説く時、女子諸君らにおいては女を口説く時、僕を反面教師にしていただきたい」
鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、四季は津田がいない時を見計らい図書室へと顔を出している。そうしてこの時も後輩たちへと、勉強疲れというよりは恋煩いの気苦労に、戯言を積み重ねていく。後輩たちも慣れたもので、蔵書のリストアップをしながらも、仕事半分で部長の言葉に耳を傾ける。
四季の瞳に映る津田という人間は非常に美しく思われた。特にその視線がいい。傲岸で挑発的なその視線を、初めて彼と対峙した時に向けられた四季は内心たかぶるものがあった。その瞳を屈辱に汚したくもあり、また変わらず蔑まれていたいとも思い、そのためにはまず何よりも彼を手に入れる必要があった。
四季にとって幸運なことは、津田という人間が究極のところで善人であったために一人きりの図書部に参加してくれたということであり、その上で不幸にも、津田はあまりにも仕事熱心だったために、せめて友人であればと願っていた相手はいつのまにか腹心になっていた。四季も今では昼行灯、口を出せば呆れられ、一杯のコーヒーをすすりながら津田の横顔を眺めるだけで満足しなくてはならなくなった。
出会いの日から半年、正月明けの登校日に偶然顔を合わせた津田と四季は連れ立って図書館へと向かった。寒がりな四季はマフラーに口元を埋め、横目がちに津田の横顔を盗み見る。最初は僕が上に立っていたのだ。四季は胸の内で嘆いた。
「そろそろ、新年度だねぇ」
「そうですね」
津田はコートのポケットへ無造作に手を入れて、真っ直ぐ道を見据えている。津田が語るたびに息が白くこぼれ落ちた。
「来年度には中等部でも部員を募集しておきましょう、中等部の利用者を増やすいい機会でもありますし、俺達がいなくなった時にでも、人さえいれば立て直せるでしょうし」
四季はその言葉を聞き流した。四季にとっての一大事は現在的な事柄である、どうして後輩たちのことを考えなければいけないのか。ところが、嫉妬して見せるのも情けない、敗戦の責任は自らにあるのだからその思いは内に秘めておかねばならない。
「それでいいんじゃない? 任せたよ、君」
結局四季はそういってお茶を濁した。津田は黙ったまま頷いた。津田にとって四季はもはや仕事を投げ与えてくる機械である。もはや当然のごとくに、津田は仕事を引き受けた。四季は最近この右腕が従順であることを不満に感じていた。
「……任せたのはいいけど、碌でもない奴らを集めたら承知しないからね」
「四季先輩が好むような後輩がいますかね」
少し困った風に笑う津田を見上げながら四季は、そんな奴は一人しかいないんだと叫びだしてしまいたかった。けれども、この従順で、まるで自らを聞かん気の強い犬畜生の如きと誤解しているのではないかという様子の後輩を、これまたたまらなく愛おしく感じているのも確かだった。
(僕の性には合わないんだよ、こんなぐるぐるとして若い感情は……)
四季の失敗はただ一点、自分の性格を十分よく理解できていなかった点にあった。
中等部や新一年生として図書部に入った者達は、第三者故にその点をよく理解していた。四季は文句なく美人である。高校三年目を迎えてまず間違いなく美少年から美青年という語が似つかわしい男になっていた。移ろうさなかに在るその美貌は、儚げで、触れてしまえば崩れ去ってしまいそうな気さえする。
けれども根本的にこの四季という人間が「本の虫」であることを、後輩たちはよく理解していたのだった。
四季は主ではなかった。というよりももとより主にはなれなかったのだ。本ばかり読んで過ごした彼は典型的な耳年増で、恋を語る言葉は知っているのだが恋を語るときのあの胸のざわめきや、喉元にこみ上げてくるくすぐったさは知らないでいた。
だからこそ、津田の前では連戦連敗になっていた。まるでこの先輩は、多少なりとも勝機があったかのように語っているが、そんなのは嘘だ。この人にそうした甲斐性はない、そう後輩たちは結論づけていた。
そんな後輩たちの思いも知らず、四季は雄弁を振るっていた。
「恐らくこの問題を解決するには、ほんのささいなキッカケがありさえすればいいのだ。ロザリンドが若い娘に想いを寄せられたように、たった一つの出来事が容易く運命を変えることはごくありふれた話なのだから」
恐らく、その考えは間違ってはいない。けれども決着点で四季先輩は間違えているのだろうとも彼ら彼女らは察していた。この勝負、恐らく津田先輩の勝ちだ。
恐らくそう遠くない未来にこの問題は解決する。それも、四季先輩が散々に打ち負かされて、津田先輩が困った風に笑いながらも彼を受け止める形で。しかし、先輩思いの後輩たちはその手助けをしようとは考えない。熟させることで美味になることをよく理解していたからだ。彼ら彼女らは部長副部長の話を聞きながら、この碌でもない恋模様をひたすらに愛していた。
「まったく。四季部長ときたらいつだって勝手なんだ……別に、構わないんだが」
「どうすれば津田を口説き落とせるのかな、もういっそのこと……いやそれはマズイな」
一人は意識的に、もう一人は無意識的に。恋煩いの行方は大正ロマンの密室に隠されている。今日も今日とて斜陽の図書館で、先輩と後輩どもは自分たちなりの青春を味わっていた。