1.青年の名―7
まだ日は傾き始めたばかりで、日中といえる程度の時間帯だった。時計をつけていないために正確な時刻までは判断できなかったが、腹の減り具合から昼過ぎくらいだろうか、と流は思った。
丁度良い、帰った頃には昼ごはんが食べれるだろう、そう思い、二人して郁坂家へと向かう事になった。
帰り着き、玄関の扉を開けると、やはり、茶の間の方から鼻腔を擽るような良い匂いが流れてきた。匂いからカレーだろうか、と察しつつ、ただいまと声を上げてから靴を脱いで玄関を上がり、茶の間へと入った。
入ると、キッチンからカレーを盛った皿を持ってきた奏と遭遇した。奏は流と、美奈を見るなり嬉しそうに微笑み、
「二人共、カレー食べる?」
と、これまた嬉しそうに、言った。
当然、二人はすぐに食卓についた。
「ちょっと、流、美奈ちゃん連れて何してたのさ?」
冗談めかす口調で奏が問うと、流は思わずむせた。そして、咄嗟に否定する。
「変な言い方するなよな。偶然途中で会って、道案内してもらっただけだよ!」
「あはは。わかってるって」
こんなただの会話で、それでも、奏が嬉しそうに、楽しそうにしているその表情、その様子を見て、流は少しだけ、本当に少しだけ気持ちが浮いた様な気がした。
何か言い知れぬ感情があるのは、本人すら、理解していなかった。ただ、単純に、命の恩人である人間が嬉しそうにしているのが、嬉しいのだと今は思っていた。
「奏はいつまで休みだったっけ?」
不意に美奈が問うと、奏では答えは頭に入っていると言わんばかりに、すぐに応えた。
「明後日までだね。学校が楽しみな気持ちと、このまま休みたいって気持ちが半々くらいで少し複雑な気分」
そう言って苦笑する。
ここまで来て、流もそれについて問う。
「奏ちゃんは一六歳だったよな、確か。ってことは高校……?」
奏が何か別な事を言いたそうにしている事はわかっていたが、流はそのまま押し通した。
「高校二年になるところだね、丁度。明後日から二年生」
「なんか早いねぇ。この前まで小学生だった感じ。私も歳とっちゃったわ」
美奈が年上ならではの少しだけ年寄りくさい言葉を吐くと、皆笑った。
そんな話題が出ると、当然、この場に流がいる以上、この話題が飛び出す。
「ところで、俺、何歳なんだろうか」
ぼそり、と呟く様に言った流の言葉に、二人は眉を潜めて、互いを見合った。
「何歳だろう……、私よりは年上だと思うんだけど」
「うーん。見た目だけで正確な判断は出来ないからなぁ……。でも、私と大体同じくらいだと勝手に思ってたけど」
「やっぱりそうなるか」
二人の言葉を聴いて、流も自分で感じていた事を言う。
「まぁ、ご存知の通り、俺って記憶がないじゃん? だから自分の本名も覚えてなければ、歳も、誕生日なんて更にわからなくってさ。だから、この村の皆と会ってみて、単純にこの人は年上、この人は年下ってフィーリングで考えて、自分の歳をなんとなく考えてみたんだけど、……やっぱり、俺は多分美奈さんと同じくらいだと思ってる」
「うんうん、だよね。私も同級生なり同僚なりで居ても違和感ないと思うもん」
何故か誇らしげな美奈。
「美奈さん今何歳だっけ?」
「今一九歳だよ。高校出て働いて一年経ったくらいだね」
「って事は俺はそこら辺か。なんか年齢ないのも不便だからさ、適当に、考えてくれないかな。名前の時みたいに」
そう言って流が奏に視線をやると、奏は不満気に頬を膨らませていた。それを見て、何かまずい事を言ってしまったか、と思う流だったが、すぐにその理由は、直接言われた。
「名前だって真剣に考えましたー! 理由は確かに安直だったかもしれないけど、似合う似合わないとか眠ってたから、顔だけ見て必死に考えたんですー!」
「ご、ごめんごめん……」
言われてすぐに、流はしまったな、と反省をした。名前を適当につける様な子でない事は、一番に理解しているはずなのに、と自分に言い聞かせて、今後はそういう事をしないように、とまで思い直した。
改めて、お願いをしなおす。
「じゃあ、奏ちゃん。俺、何歳かな?」
「じゃあ一八歳で」
言葉に、少しだけ刺がある気がした。が、それに関しては今の流は何も言い返す事はできずに、ただ、頷いた。
(ま、悪くないよな……多分美奈さんと同年代とかだろうし)
奏の笑みに少しだけ怒りが混ざっている事に怯えつつも、流は、
「じゃあ、とりあえず一八歳って事にしとくか」
そう結論付けた。が、美奈が言う。
「じゃあ、折角だし誕生日も決めようよ。じゃないと歳取れないよ?」
「おぉ、そうだな」
「まぁ、でもこの場合、私が流を拾った日か、流が目覚めた日になるよね?」
「じゃあ、拾われた日で。俺の存在が誰かに認識された日って事で、今から一週間前か?」
「六日前だね」
「じゃあ、それで」
思いの外あっさりと決まった誕生日。
ここまで決まった所で、改めて、美奈が問う。
「ここまで流君の事について話したけど、記憶は一切戻らない感じ?」
言われて、改めて思い直して見ても、やはり、流は首を横に振った。
「さっぱりだよ。もう一生郁坂流でも困らないと思ってる。まだ目覚めて一週間も経ってないけどさ」
そう言って流は笑った。自嘲するわけでもなく、苦しみ紛れでもなく、本当に、冗談を言うように笑った。二人から見ても、本当に、記憶を無くしているという状況、状態が彼にとって負担になっていないのだ、と思える程に、自然な笑みだった。
実際に、そうだった。
流の人柄故でもあるのだろうが、流は記憶がない、記憶を思い出せない、というこの状況に、今は、あまり困っていなかった。運良くも神流川村という、郁坂家という居場所を手に入れ、名前に歳までつけてもらい、このまま仕事まで見つければ生活をする事だって可能だし、身分関係をどうにかさえすれば自立だって出来る様な状態なのだ。楽観的、ではなく、単純に、流の考え方からすればこの現状は、特別問題のない状態なのである。
当然、思い出せない、引きずりだす事の出来ない記憶の中に、何か大事な、決して忘れてはならない事があるのでは、と考えてはいる。だが、思い出せない以上は仕方がない、と思っている。
だからこそ、二人にも、周りの人間にも、無駄な心配を、仕方のない事ではあるが、させてしまっていた。
皆、記憶を失った事なんて当然の如くない。ある方が珍しいくらいだ。
誰もが、勝手な推測で不安だろう、とか、怖いんだろう、と思い込んでしまっているが、当人はそうでもないのである。
「なんか流って不思議だね?」
奏がそう言って美奈を見ると、美奈も頷いた。
「うん。なんていうか、記憶をなくしてる事に対して執着がなさすぎて、もともとこの村に居たんじゃないかってくらいなんか馴染んでるよ。良くか悪くかはわからないけどね」
「ははっ、なんだそれ」
そこからは再度、談笑へと戻った。奏の作ったカレーを食べ終わり、村を積極的に見て周る必要もなくなったため、単純に友人と遊ぶ、という意味で茶の間でチャンネル数の少ないテレビを見ながら、三人は夕暮れまで談笑していた。
2
「……ただいま」
呟く様な、声だった。色で例えるならば、紫やら黒の所謂重い色だった。低く、抑揚がなく、感情のこもらない声。そんな声でそう吐いて玄関から家に戻ったのは青年だった。自然に逆だった茶髪に、鋭い顔立ちに厳つい表情。細身ではあるが、やけに筋肉質で、ボクサーの様な印象を見た目から皆に与える男だった。
男は靴を脱いで玄関から家へと上がり、振り返ってから靴を並べ直すと、廊下を静かに歩いて階段を登り、二階にある自室へとすぐにこもった。