1.言い忘れ
1.言い忘れ
夏休み明け。相川高校。東京の最西端、田舎町の高校。周りには田畑とあぜ道、それに山しか見えない。そんな田舎にある田舎らしい高校。正面玄関の正面にある校庭がやたらと広い。校舎裏のスペースもそれなりの面積を誇っていて、田舎らしさが見て伺える。
三階建ての色あせた校舎のど真ん中、二階の中央。二年三組の教室に恭介はいた。校庭が見下ろせる窓際の一番後ろの一つ前の席。
そこに恭介はいた。右を見れば小さな女の子がいる。その後ろにはやたらと元気そうな女の子がいる。そして後ろには、
「うーっす」
典明が座る。
「典明初日から遅刻ぎりぎりじゃん!」
典明の隣の席に座る軽いパーマを駆ぬけた長い黒髪を後ろでまとめた元気そうな少女が典明にツッコミを入れるように言う。
近藤蜜柑。運動神経抜群の女の子だ。
「全くだな」
恭介が振り返り、典明の机に寄りかかるように手を置いて、呆れたように言う。
そんな恭介を見た典明は、席に腰を落ち着かせながら、
「そういや、お前ん家大丈夫だったのか?」
その質問に、恭介は眉をヒクつかせる。思い出したくない記憶になりつつあるのか、あー、と気まずそうに言いながら、こめかみを人差し指で掻いている。
「大丈夫じゃないから」
そんな恭介の代わりに答えたのは、恭介の隣の席に座る、小さな女の子。腰までありそうな長いストレートの黒髪と、幼い顔立ちが特徴的な女子校生。言われなければ、制服を着ていても中学生と見間違うかと思う程に幼い表情。
春風桃。恭介の幼馴染だ。家も、隣同士で、昨日は出かけていて現場には居合わせなかったようだが、その火事の事実を恭介の次には知っているような立場の子だ。
「お、そ、そうか……」
桃が振り返りもせずにそう言ったのを聞いて、典明は急に大人しくなり、自身の席に腰を落とした。奏が恭介だけに冷たい様に、桃は典明だけにどうしてか冷たい。かれこれそんな関係も十数年続いているため、周りも慣れてツッコミもしないが。
「え、何。きょーすけん家火事だったの?」
何も知らない蜜柑が身を乗り出して恭介に問う。
困ったように、
「あー、まぁ、そうなんだよ。全焼」
「えー。じゃあ今どこに住んでるの?」
「親父が用意したボロアパートだよ。なんかついでに新居買うんだー! って親父が盛り上がってて、新居が用意できるまでは家族五人でクソ狭い築うん十年のボロアパートで過ごさなきゃならない」
はぁとうなだれる恭介、溜息の後、一度典明を一瞥してから言う。
「俺さ、宿題も全部消し炭になったんだけど、忘れた扱いになるのかね……」
と、それを聞いた典明が目を輝かせた。
「それだ!」
放課後。
桃のフォローによって恭介の宿題の件はまぬがれ、典明が居残りで説教を喰らうことになり、正門まで蜜柑、桃、恭介の三人で降り、帰路が違うからと蜜柑とはここで別れ、桃と恭介の二人で帰路につくことになった。
夏休み前からも、二人で登下校していたのだ。今更新鮮味や抵抗等はない。
二人で帰る田舎道。コンビニの一つもない田舎道。本当にここは地方から憧れられる大都市東京なのかと思う程の田舎道。二人は退屈しながら、適当な会話を交わしながら進んで行く。
恭介の新しい自宅ボロアパートは前の家からそう遠くないため、帰路はほとんど変わりない。
「そこのお二人さん」
暫く歩いていると、前から一人の男が歩いてくるのが見えた。そして、声がかけられたことにも気付いた。
アロハシャツを来て、サングラスにスキンヘッドと、いかにもな男だ。二人は出来れば避けて通りたかったところだが、声をかけられ、目の前にたたれてしまえば、無視のしようがない。
嫌な予感がした。
そもそも、この田舎過ぎる街にはこんな人間はいないはずだ。
声をかけられた時点で、『もしや』と思った。
目の前の男はわざとらしく桃を一瞥した後、恭介にその強面を迫らせながら、
「俺さぁ、郁坂恭介っての探してんだけどさぁ、知らないかなぁ」
こんな顔した奴なんだけど、と恭介の写真まで見せつける始末。
(俺が何したってんだよ)
恭介は出来る限り迫る男と視線を重ね、怖気ていないように見せようと努力しながら、
「さぁ、知りませんねぇ……」
ごまかした。隣で桃が「流石に無理でしょ」と言いたげな顔をしているが、そちらに目をやる余裕はなかった。
桃の身長は一四○程度しかない。一七五以上ある恭介と並べばかなり小さく見える。が、今、余裕のあり方を見ると、桃の方が大きく見えた。
いくら狙われていないからと言っても、桃のこの余裕のあり方は異常だった。が、恭介はそのすぐ隣の異常には気づけない。
「そうかぁ、俺の目が狂ってんのかぁ? 俺が見るに、お前が郁坂恭介に見えるんだがなぁ……」
男の顔が、更に恭介に迫る。
(ッ、このチンピラ……いや、本職の方なのか……。わかんねぇけど。なんで俺のことをぉおおお!?)
当然ながら、恭介には焦りしかなかった。落ち着いていられるはずがなかった。殺されるんじゃないかとまで思っていた。
恭介は普通の高校生だ。喧嘩だってした経験がある。通常で見れば京介は所謂『強い』方だ。が、目の前のその男が『本業』であれば喧嘩なんかの範疇の話ではない。
「……俺に何の用っすか」
覚悟を決めた。考えて考えて、引けないと気づいてやっと恭介は諦めるという選択を選んだ。まだ、理解及んだわけではないが、そうするしか方法がなかった。
本人確認が済んだからなのか、男はゆっくりと――視線は恭介から外さずに――上体を引いた。そしてやっと気付く。
(こいつ、身長大して大きくねぇな)
恭介と視線の位置が変わらない。迫られたことと、勝手なイメージのせいでやたらと大きく見えたが、落ち着いて見て見れば、そんなことはなかった。
そう気づくと、自然と冷静になれた。
後のことはわからないにしろ、今目の前のこいつくらいなら、適当にいなして逃げることも出来るんじゃないか、と思い始めた。
「まぁ、そうだわな。こうやってお前指定して探してんだからそりゃ用くらいあるわな」
そう言った男は、笑んだ。悪魔の様な笑みが、恭介に向けられた。
(あ、無理だ。超怖い)
勝機は、見いだせなかった。
男はやっと桃に視線を写した。そして、手で、虫を払うような仕草をして、
「嬢ちゃんは関係ねぇ。帰ってな」
何故なのか、変な優しさを見せる。だが、
「帰らないよ」
桃は否定する。
男もその返事には驚いたようで、一瞬間抜けな表情をしながら固まったが、勝手にしろ、と呟いて恭介に視線を移した。
「俺が何者だかわからねぇって顔だな。わかんねぇのか」
「わかるわけないでしょ……」
うなだれたかったが、姿勢をただしたままで固まってしまっていた。
「わかんねぇなら教えてやるよ。俺ぁなぁ!」
男の威勢が良くなった。決め所だ、とでも思っているのか。
だが、
「へぶっ、」
男の口から漏れたのは情けない悲鳴だった。目の前にいた恭介も思わず苦笑してしまいそうな程間抜けで、情けない悲鳴。
男の身体が、吹き飛んだ。車にでも突っ込まれたのかと思うような飛び方で、後方に引きずられる様に二メートルは地面に付くことなく飛んだだろう。
男が背中からこのあぜ道に落ちる嫌な音がした。
何が起こった、と恭介は大慌てで辺りを見回す、と、すぐに原因が分かった。隣だ。そもそも、人為的な行為は、この場にいる三人しか起こせるはずがない。
「え、ちょ、も、桃?」
恭介の隣には、いかにも今蹴りましたと言わんばかりに足を高く上げている小さな小さな桃の姿があった。顔が落ち着きすぎていることに、恭介は気づいてやっと、異常を感じ取ることができた。