0.夏休みの終わり
0.夏休みの終わり
まだ時刻は一七時前だというのに、田舎過ぎるこの道には二人が漕ぐ自転車の車輪が周る音しか響いていなかった。耳をすませば虫の合唱が聞こえないわけでもないが、風が通る音の方が大きく、意識しなければわからない程だった。
田舎のあぜ道。両脇には緑の絨毯が広がる畑が連なり、その向こうには山が見える。それ以外のモノは全くと言っていいほどに見えないが、もう暫く進めば山中にあるそれなりに大きな神社へと繋がる階段が脇に見えてくる。
「帰って宿題しないとなー」
二人の内の一人。いかにもスポーツ少年だと言わんばかりの短髪に黒い肌の少年がぼけっと呟いた。当然隣を走るもう一人の少年にもその声は届く。
「まだ終わらせないのかよ! 明日から学校だぞ!」
隣の少年とはまた雰囲気の違う少年だった。髪はそれなりに長いが、切るのが面倒だから伸ばしているといった印象を受ける。彼は高校生だが、綺麗にその髪は茶色に染まっている。これは夏休みだから、という馬鹿な考えで染めたのではなく、自毛だから許されているの髪の色だ。運動はあまりしていないのか、スリムではあるが筋肉はあまりないように見える。
郁坂恭介、一七歳。高校二年生。
そして一方は増田典明、恭介の友人である。
二人は夏休み最後の日を遊びで満喫し、今、帰路を走っているところだった。二人の家はこの道をもう暫く行った先にある住宅街にある。同じ住宅街のエリアだが、二人の家は離れているため、道中で分かれることにはなるが。それでも地元が一緒と言える程度の場所にあった。
「まぁなんとかなるって! 大体夏休みに出されるアホみたいに大量な宿題の山はなぁ! こうやって最終日に徹夜してやんのがマナーなんだよ!」
「マナー違反で悪かったな。まぁ俺はぐっすり寝てから学校いくからよ」
「酷い! こうやって日本はマナーやルールを守らない人間が楽して真面目な人間が損をする図を作り上げているんだ!」
「何言ってるんだ、お前は」
そんな会話を適当に交えながら、二人は自宅を目指して進んだ。自転車を漕ぐのも苦ではなかった。二人はまだ若かった。一七歳だ。大人連中が年齢だけで判断してまだまだこれからだね、と言うような年齢である。
暫く自転車を漕ぎ、神社への階段を気にも止めずに通り越し、住宅街へと入る、と、
「なんかお前の家の方、騒がしくねぇか?」
典明が恭介の家がある方を指差し、間抜けな口調で吐いた。典明が指差すその先を辿るように視線をやって、恭介も首を傾げることになる。
「マジだな。なんだろ」
恭介も間抜けに言う。
二人の視線の先は住宅の壁のせいで恭介の家は見えないが、何か『明るい』光景が見える。まだ日は沈んでいないのだが、それでも、恭介の家の方がやたらと明るく見えた。
不思議と不安は感じなかった。その明るさが何を意味しているのかまだ、二人は理解していないからだ。
「お、もうここか。じゃ、恭介、また明日な」
暫くしている内に典明の家に繋がる道にまで到達したらしく、典明は別れを告げて自宅へと向かった。恭介も手を振って明日なと答えた。
こうやって簡単に別れることができたのも、危機感のなさこそだと言える。
また暫く進んでいく内に、『熱く』なってきたことに恭介はやっと気付き始めた。熱を感じるのは夏だから当然だ、ということではなく、実際に、火のついたコンロに手を近づけているような、そんな感覚。
流石の恭介も、嫌な予感を感じた。
暑さからくるそれとは全く違う、嫌な汗が全身から吹き出してくるようだった。手汗も酷く、自転車のハンドルがやたらと握りづらく思えた。
「おいおいおい……、嘘だろ……」
恭介の足に力が入った。自転車を漕ぐ速度が上がった。自宅へと近づくにつれ、何故なのか、炎が凪ぐ光景が見えてきた。まだ先端部分しか見えていないのだが、その真下に自身の自宅があることはいやでも理解出来た。嫌な予感と推測は確信に変わりつつあった。
恭介が一五年過ごした赤い屋根の白い二階建ての、そこそこ大きな家。庭は小さいが、駐車場もあるし、屋根裏もあるそれなりの家だった。父親の稼ぎがそこそこ良く、挙句共働きで、恭介が生まれてまだ間もない頃に建てたモノだ。愛着だってある。自分の部屋もあり、決して、『火事なんかでなくなってもらっては困る』場所だ。
が、見えてきた自宅の前にはこの田舎の住宅街には珍しい人混みが出来ていて、そしてその先、見慣れた、住み慣れたその家が、調理中の中華鍋の様に、炎に煽られているその光景が、見えてきてしまった。
「うっそ、だろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
自転車を急ブレーキで止めた恭介は人混みに紛れない程度の位置で止まった。そして、そうやって間抜けにも叫んだ。が、人混み連中は燃え盛る郁坂家に夢中で恭介には気づかないようだった。
夏だ。この時間でもまだまだ明るい。が、この燃え盛る郁坂家の周りは、更にもう二段階程明るかった。
恭介は自転車を投げ捨てるように自転車から飛び降り、すぐに人混みを掻き分けて先に進み、まずは、と家族を探していた。そうだ。夏休みだ。両親は仕事で火事になったその時いなかったにしろ、弟、妹は家にいたかもしれない。遊びに行っていたかもしれないが、かもしれないに過ぎない。
かき分けた人混みの中に近所の知人がいたが、それよりも、と恭介は必死に見慣れた顔を探した。そうして、反対側にまで来て、やっと、見つけた。
「親父!」
家族全員、四人が丁度恭介が来た道とは反対側にいた。一見して探すことができなかったわけだ。
恭介を見つけた家族達。妹の愛は恭介の顔を見ると、ほっとした様に溜息を吐いた。まだ中学生の彼女だが、やはり姿の見えない兄のことは心配していたようだ。――が、その他が違う。違い過ぎる。
恭介が近寄ると、弟の大介が目を見開き、冷や汗を垂れ流し、自宅を凝視して何かをブツブツと漏らしている姿が見えた。近づけば何を言っているのか分かるが、どうせ集めたフィギュアがどうこうと言っているに違いない、と恭介は大介を無視し、両親の前に立った。
笑んでいた。二人共、自宅が燃えているというのに微笑ましそうに笑んでいた。
「燃えてますねぇ」
「おう。燃えてるな」
両親ともに馬鹿なのか、と恭介は呆れた。
「燃えてるな! じゃねぇだろ! 家燃えてんだぞ、家が!」
恭介は二人とは違い、大慌てだ。この近辺に集まっている人間の中で、一番慌てていただろう。人混み連中も物珍しそうに見ているだけで、慌てはしていない。両親がこの状態だ。心配は必要ないのだろうな、と皆思っているのだろう。声が掛けられる様子もない。近所付き合いも悪くない家族だ。嫌われて避けられているわけでもない。
「まぁ、そう焦るな恭介」
父親、郁坂流は恭介の頭にその大きすぎる掌を乗せて、更に笑った。本当に、どうでも良いと言わんばかりの笑顔と声色で、恭介も焦りを失い始めた。
恭介は流に手を乗せられたまま首を回して燃え盛る自宅を見る。何度見てもやはり轟々と燃え盛っている。目の前で太陽を見ているかのような燃え盛りっぷりだ。屋根が崩れ、柱も露出し、更に崩れ初めて炭と化している。今から火を消しても、無駄なんだな、と思えた。
思ったところで、気付く。
「そうだ、消防車は?」
辺りを見回す。と、まだ消防車が来ていないと気付く。人混みに目をやると、その誰もが電話を持っていないことに気付く。家の燃え具合から推測して、もう、誰かが通報したのだろうと恭介は自ら通報するには至らなかった。
「恭介、家の中に財布忘れたから取ってきてくれないかしら」
恭介の隣に綺麗な女性が立つ。綺麗な茶髪を後ろでまとめた、身長の高いすらっとしたモデルの様な女性だ。顔も異常なまでに整っていて、余りに整いすぎて夜中見れば幽霊か何かと間違えてしまいそうな程。
郁坂奏。恭介の母親である。
恭介の顔に浮かぶ呆れの表情が強くなった。
どうしてか、奏は恭介への風当たりを強くしている。かれこれ一七年彼女の息子をやっている彼は、そんな待遇にも慣れてしまっていたが。
「流石に無理だ。母さん」
そう言った恭介は燃え盛る自宅を見上げ、うなだれる。
「明日からどうすりゃいいんだ……学校始まるんだぞ……」
そんな彼等郁坂家の人間を、人混みの中で、監視していた人間がいたことに、恭介は気付けなかった。




