ある日の誓い
粉雪の足元の影から、まるで闇そのものが形を成したかのように現れた、一頭の巨大な黒狼。
黄金の双眸が、俺の魂の奥底まで見透かすように、じっとこちらを見据えている。
それはただの獣ではない。
式神だ。
それも、父・景明が従える高位の式神たちに勝るとも劣らない、凄まじい妖気を放つ、別格の存在。
「あ、もう! 勝手に出てきちゃダメって、いつも言ってるでしょ! 影狼!」
粉雪が頬を膨らませて叱りつける。
狼――影狼と呼ばれたその獣は、悪びれる様子もなく、大きなあくびをしてその場に座り込んだ。
そもそも式神とは何なのか。
書庫で読み漁った知識によれば、その起源は二つに大別される。
一つは、術者が自らの妖力を使い、無から形を作り出す『人工式神』。
紙の人形や木の札を依り代とし、一時的に術者の手足となって動く、いわば妖力の自動人形だ。
これは比較的容易に扱えるため、多くの陰陽師が偵察や雑用などに用いる。
そしてもう一つが、影狼のような『契約式神』だ。
彼らは元々、この世界に存在する妖魔であった存在が、陰陽師との【契約】によってその在り方を変えたものだ。
妖魔とは、人の持つ恐怖、憎悪、嫉妬といった負の感情が淀み、形を成した災厄。
その本質は混沌と破壊であり、人とは決して相容れない。
だが、ごく一部の妖魔の中には、長い時を経て強大な力を得るうちに、確固たる自我と知性を獲得する者が現れる。
彼らは、もはや単なる負の感情の集合体ではなく、一個の「個」として確立された存在だ。
そうした特別な個体と、傑出した才能を持つ陰陽師が出会った時、稀に『契約』が成立することがある。
契約とは、単なる主従関係ではない。
互いの魂の一部を交わし、存在を認め合う、神聖な誓いだ。
契約を結んだ妖魔は、その荒ぶる妖気を浄化され、破壊の本能は忠誠心へと昇華される。
彼らは妖魔としての属性を失い、主を守護する式神へと生まれ変わるのだ。
つまり、妖魔と式神は、元は同じ根源を持ちながらも、人と誓いを交わしたか否かによって、その本質が全く異なる存在となる。
妖魔が制御不能の自然災害であるならば、契約式神は人の手に従う戦略兵器と言えた。
そして、この影狼は、その中でも別格中の別格。
一説によれば、その正体は千年以上前に賀茂家の祖である賀茂忠行に討たれ、【契約】によって式神となった『影喰らい』という名の最上級妖魔であったという。
常に気位が高く、主の器量を厳しく見定める。
賀茂家の人間であっても、半端な実力者が契約を試みようものなら、逆に魂を喰われるとさえ言われている、まさに諸刃の剣。
そんな伝説の式神を、この小さな少女が従えている。
粉雪は、俺と違って本物の天才だった。
妖儀において、妖力は『最上級』。
陰陽四法術、その中で【契約】においても、『最上級』の評価を受けた神童。
まだ幼く、その才能の全てを開花させてはいないが、この形態は、おそらく『半顕現』の状態。
物理的な攻撃力を持たない"霊体"としての出現だ。
これならば、術者である粉雪の妖力消費も最小限で済むし、負担も少ない。
こうして影を通じて影狼と意思疎通を図り、霊体化させるだけでも、陰陽師界を揺るがすほどの偉業である。
その事実が、彼女と俺との間にある、残酷なまでの才能の差を浮き彫りにしていた。
正直なところ、俺はこの狼が少し苦手だ。
なぜなら、コイツの視線はいつも俺を値踏みしているようで、どこか冷ややかだからだ。
無能な俺が、稀代の天才である粉雪の夫に相応しいのかどうか、常に見定められている気がする。
「小僧。今の術、もう一度説明してみろ」
影狼が金の瞳を細めて俺を見据える。
俺はごくりと唾を飲み込み、震える声で答えた。
「……反転術式、だよ。いろんなものの因果を、逆転させる。『熱い』ものを『冷たく』させるだけじゃなくて、『苦い』ものを『甘い』ものに変えたり、『眠気』を『覚醒』にしたりもできる。たぶん、例外はない……はず」
影狼は唸り、まるで俺という存在を値踏みするように、じろりと全身を舐め回すように見た。
「……なるほどな。『状態』そのものを反転させる、か。確かに、対象が小さく、単純な事象であれば、僅かな妖力でも発動は可能だろう。だが、そんな稀少な能力が小僧なんぞに宿るとは……まさに宝の持ち腐れだと言う他あるまい」
影狼は一度言葉を切り、値踏みするように黄金の瞳を細めた
「私は、千の年を賀茂の影として生きてきた。古今東西、ありとあらゆる妖術を見てきた自負がある。人間の編み出した浅知恵から、妖魔の振るう根源的な災厄まで、この目に焼き付けてきた。だが、そのような術は、一度として見たことも聞いたこともない」
影狼は、さらに言葉を続ける。
「陰陽師の歴史において、神の領域に最も近づいた男はただ一人。お前の先祖である、安倍晴明だ。だが、その晴明ですら、お前の言う『反転』の術を使ったという事実は聞いたことが無い」
影狼の言葉に、俺は息を呑んだ。
千年生きた伝説の式神が「知らない」と断言する術。
やはり、俺の力は異端なのだ。
「お前に、そのような特異な才能があったとは初耳だぞ。土御門の妖儀では、『最下級』の『無能』だと聞いていたがな。あれは嘘だったのか?」
影狼の言葉は、率直で容赦がない。
だが、そこには侮蔑というよりも、純粋な疑問が含まれているように感じられた。
「嘘っていうか……たぶん、測定不能だったから、無いものとして扱われたんだと思う……」
俺は諦念と共に、正直に答えるしかなかった。
そう。エンジンは未知の可能性を秘めたスーパーカーでも、ガソリンがコップ一杯分しか入っていない。
それが今の俺だ。
「こらっ! 影狼! そんな言い方しちゃダメ!」
粉雪が、ぺし、と影狼の鼻を叩く。
物理的なダメージはないはずだが、影狼は「うぐっ」と大袈裟に呻いて首を引っ込める。
最強の式神も、主人の前では形無しだ。
「……しかし、系統としては『神通力』に近いものかもしれんな。事象そのものに直接干渉する力は、五行術や四法術の範疇を逸脱している。奇跡の御業、とでも言うべきか。理の枠組みを超える、という点では、そこに分類されてもおかしくはない」
影狼の補足は、俺にとっても腑に落ちるものだった。
俺の力は、火や水を生み出すのとは違う。
契約や結界のように、何かを縛るものでもない。
ただ、そこにある『事実』を、その対極にある『事実』へと裏返すだけ。
「……だが、どうにも、それだけではない」
ふと、影狼の声のトーンが変わった。
「以前から、お前には奇妙な違和感があった」
影狼の黄金の瞳が、再び鋭さを取り戻す。
「この世界の人間とは、どこか違う匂いがする。魂の在り様、とでも言おうか。まるで、この世界の理で出来た器に、無理やり別世界の水を注いだような……魂と肉体の、歪な混じり気を感じるのだ……」
――ギクリ。
心臓が、強く収縮した。
それは、あまりにも核心を突きすぎている。
まさか、俺が転生者であることが、この式神にはバレているのか?
別の日本という、陰陽道も妖魔も存在しない、他の世界から来た魂だから。
だから、この世界の住人とは違う匂いがするというのか?
「まさか、貴様……」
影狼が口を開き、確信めいた言葉を紡ごうとした、その時。
「もうっ!! いい加減にしなさい、影狼!!」
粉雪の怒号が、茶室に響き渡った。
彼女は、俺を庇うように影狼を睨みつけた。
その小さな体からは、想像もできないほどの強い妖力が、怒りのように発せられている。
それは、主が式神に対して示す、絶対的な命令の気配だった。
「戻りなさい! 今すぐッ!」
「う、ぐ……わ、分かった、分かったから、そんな大きな声を出すな、粉雪……っ!」
主の必死の形相と、その魂から発せられる純粋な怒りの妖気に、さすがの影狼もたじたじだ。
彼はばつが悪そうに視線を逸らすと、すごすごと粉雪の足元の影へと溶け込み始めた。
その姿は、まるで叱られて自分の小屋に逃げ帰る犬のようだった。
「くぅーん……」
最後に、そんな情けない鳴き声を残して。
「まことに……まことに、申し訳ございませんでした……。影狼が、あのような、無礼千万な物言いを……」
粉雪が、消え入りそうな声で謝ってきた。
先ほどの勢いはどこへやら、彼女はまた、いつもの恥ずかしがり屋の少女に戻って俯いている。
さながら自分の飼い犬が他人に噛みついてしまったかのような、罪悪感でいっぱいという表情だった。
「あの子、いつもはもっと良い子なんですけど……たぶん遥明さまに、興味があって……。だから、その、つい、意地悪なこと……」
「……ううん、大丈夫。ちょっと、びっくりしただけだから」
この土御門遥明という肉体は、この世界の理の中で生を受けた器だ。
だが、その中に注がれた魂は――俺の意識は、陰陽師も妖魔も存在しない、科学が支配する別の日本から来た転生者のもの。
まさか、魂の成り立ちそのものが持つ〝違和感〟を、匂いとして嗅ぎ分ける存在がいるとは。
俺が俯いていると、粉雪がおずおずと口を開いた。
その声は、いつにも増して小さく、震えていた。
「だから……影狼の言ったことなんて、どうか真に受けないでください……。あの子は、遥明様のことを、何も分かっていないんです……」
どうやら彼女は、俺が影狼の言葉――無能や宝の持ち腐れだとかいう言葉に傷ついていると思っているようだ。
俺にとっては異世界人バレの恐怖の方が大きかったのだが、彼女の優しさが胸に染みる。
「大丈夫だよ。慣れてるから、そういう評価には」
俺は力なく笑った。
だが、粉雪は納得しなかったらしい。
「慣れないでください」
「え?」
彼女は膝の上で固く拳を握りしめ、意を決したように顔を上げた。
「私は……知っていますから」
彼女の大きな瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
その瞳に宿っているのは、同情でも憐憫でもない。
もっと熱く、純粋な光だった。
「私は、知ってます……! 遥明さまの、優しくて、強いところ、たくさん、たくさん、知ってます……!」
「こ、こな、ちゃん……?」
「遥明さまは、いつも私が来るのを、楽しみにしてくれているし……。私がうまく話せなくても、怒ったり、呆れたりしないで、ゆっくり待っていてくれます……」
彼女は言葉を選びながら、必死に何かを伝えようとしていた。
「私が、初めてこのお屋敷に伺った日……。緊張で、声も出せず、ずっと震えていました。周りの大人たちは呆れていたのに……遥明様だけは何も言わずに、ただ、私の隣に座って、一緒に畳の目を見ていてくださいました。あの時、どれだけ心が安らいだか、分かりません……」
それはただ、どう接していいか分からず、自分も同じように畳を見つめていただけだ。
だが、彼女はそれを優しさと受け取ってくれていたのか。
「私が、庭で見つけた変わった形の石ころの話をした時も……他の人は誰も聞いてくれないような、つまらない話なのに、遥明様だけは『面白いね』って、楽しそうに聞いてくださいました」
言葉を選びながら、自分の知っている土御門遥明という人間を、俺自身に伝えようとしていた。
「庭で、迷子になった子猫がいた時も……。使用人の方々は誰も気にも留めなかったのに、遥明様は、私の手を引いて、日が暮れるまで一緒に親猫を探してくださいました。結局、見つからなかったけれど……あの時、遥明様は、『きっと、親猫が迎えに来るよ。大丈夫』って、励ましてくれました。あの時のことを、今でも、覚えています」
一つ、また一つと、彼女が語るエピソードは、俺にとっては些細で、取るに足らない出来事ばかりだった。
だが彼女は、その全てを宝物のように心の中にしまい込み、大切にしてくれていたのだ。
彼女は視線を彷徨わせ、テーブルの上に置かれた湯呑みに目を留めた。
「さっきの、お茶だって……! 私が猫舌だから、冷ましてくれたんですよね……? 自分の力を誇示するためでも、誰かを傷つけるためでもなく……ただ、私が美味しいお茶を飲めるように力を使ってくれたんですよね……? そういうことをしてくれる人、遥明さましか、いません……!」
彼女はそこで一度言葉を区切り、潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
「それに……遥明様は、お優しいだけでは、ありません。本当は、誰よりも、お強い方です」
彼女は力強い口調で語り続ける。
「このお屋敷の使用人の人たちが、どんなに冷たい態度をとっても、遥明様は一度だって怒鳴ったり、当たり散らしたりしませんでした。いつも静かに、じっと耐えて、偉いな……って思います」
俺は驚いて、言葉が出なかった。
「私が、もし、遥明様と同じ立場だったら……きっと、耐えられません。人を恨んだり、憎んだり、自分の運命を呪ったりしてしまうと思います。でも、遥明様は、一度も、誰かのせいになさらない」
そして、彼女は自身の胸元をギュッと握りしめ、弱音を吐露するように言った。
「私……賀茂の家に生まれて、周りからは『天才』だとか『神童』だとか持ち上げられて……でも、本当は怖くて仕方がないんです。期待されるのが重くて、失敗したらどうしようって、いつも震えてて……」
そうだ。彼女もまた、俺とは違う形で、『家』という名の檻に囚われているのだ。
天才という名の、重すぎる期待に。
「でも、遥明様の横にいると、不思議と安心できるんです。何も言わずに、ただニコって笑ってくれるだけで……それだけで、心が、ぽかぽかと暖かくなるんです」
彼女はそっと胸に手を当てる。
そこにある温もりを確かめるように。
「週に一度、遥明様にお会いできる、この時間だけが……私にとっての、救いでした。この時間だけは、すべてを忘れられて……ただの、『賀茂粉雪』で、いられる気がしたんです」
その白い頬が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。
真っ白な肌だからこそ、その色の変化は一目瞭然だった。
「だからっ……! だから、妖術がうまく使えなくたって、妖力が少なくたって、私は……! 遥明さまは、遥明さまのままで、すごく、すごく、素敵だと、思います……!」
恥ずかしさで爆発しそうなのに、それでも彼女は言葉を紡ぐのをやめない。
今の想いを伝えないと、一生後悔するとでも言うように。
「だから、誰がなんと言おうと、遥明様は私の……一番大切な、許嫁です!」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛くて、そして、温かい。
「……おばあさまから、聞いたことがあります」
すると彼女は、少し夢見るような、それでいて確信に満ちた声で、 ぽつり、と呟く。
「運命で結ばれた魂同士は、たとえどんなに離れていても、どれほど深い闇の中にいても……お互いを見つけ出して、呼び合うんだそうです。まるで、逆らえない引力みたいに」
魂が呼び合う。
引力。
その言葉は、不思議と俺の耳に残り、胸の奥にストンと落ちた。
「私たちの婚約を決めたのは、お父様たちですけれど……でも、きっと違うんです。神様が、この広い世界で、私が遥明様を見つけられるように引き合わせてくれたんだと思います。これこそが、めぐりあわせなんだって……そう、信じています」
政略結婚という、どこまでも傲慢で大人たちの都合で決められた関係。
「だから、私……遥明様の許嫁になれて、本当によかったって心から思います」
それを、彼女は「神様がくれた幸せ」だと、曇りのない瞳で言ってくれたのだ。
彼女の顔はもう、熟れた林檎のように真っ赤だった。
耳まで朱に染まり、目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。
「だから……その……ふつつかものですが、今後とも、す、末永く、よろしくお願いいたします……っ!」
彼女は深々と頭を下げた。
ぺこり、という擬音が聞こえそうなほどの勢いで。
俺は、呆然としていた。
転生してから数年。
「無能」「面汚し」「落ちこぼれ」。
そんなレッテルを貼られ続けてきた俺の人生を、彼女は今、たった数分間の言葉ですべて塗り替えてくれた。
なんて、いい子なんだろう。
こんな真っ白で、純粋で、優しい子が、俺の許嫁だなんて。
神様も、少しは粋なことをしてくれるじゃないか。
俺は居住まいを正し、彼女に向き直った。
彼女の真摯な想いには、俺もまた、ありのままの心で応えなければならない。
「……ありがとう、こなちゃん」
溢れる感謝を込めて、俺もまた、深く頭を下げた。
そして、決意を固めて顔を上げる。
「俺は、大したことも出来ない半端者だけど……でも、君が言ってくれた言葉に恥じない男になるよ」
彼女の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返し、誓いの言葉を続ける。
「だから、こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします。……必ず、君を守れるような男になるから」
この子のために、俺は強くなろう。
たとえ世界中が俺を無能と罵ろうとも、彼女一人を守れるだけの力が手に入れば、それでいい。
そう心に誓った、ある日の午後のことだった。




